毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

何かがズレている育児日記

それ自体をタイトルにする意味ある?(もう少しまともなタイトル書けよ)

 

 

産後の話(仕事など)

産後7ヶ月くらいから以前の仕事(非常勤なので週2日しかない)をやろうとしていたら、なんと3ヶ月の時点で声がかかった。

大学の補助業務なので肉体的な負荷は(看護職一般に較べれば)少ない方で、お陰で産休といわれる期間まで働けていたのだけど、産後も行くことになったのは嬉しかった。不安も大きかったが、トライして良かったと思う。

 

保育園

伴侶の職場の託児所を利用した。そうでなければ認可外とかになるのだろう。私の実家や義実家はそう近くにはない(遠くにもないが)のと、職場がそれなりの遠方であるためそもそも7時過ぎには出勤するというのに保育園以外を頼るのは現実的ではない。

 

生後3ヶ月で試し保育から週1で全日保育をはじめた。感染症や疲れ(によるSIDSなど)が不安で仕方なかったものの、それまで家で育児するだけだった生活に較べるとメンタル面にもその他の社会生活としてもかなり良かった。

園での散歩やイベントなどで生活の様子が伝わるのは非常に面白い。普段は家の様子をすべて自分が把握しているので、早くも親の知らない一面を獲得してくれるのは面白いものだ。子どもというのは産まれた瞬間に他者になるので、是非とも他者として人生を謳歌してほしい(?)

 

私の仕事については、場合により一部リモートなどができれば今後フルタイムになるかもしれないが、まだ皮算用である。

 

今までの育児以外の進捗

ほとんどない。というかできない。

資格勉強→診療情報管理士のweb講座を少し進めた。

研究関連→論文すら読めない(読んでないだけと言われればそう)。修論の手直し投稿とか別の研究とか。さる事情から、時間をかけても良さそうと判断したのでだらだらやる気でいる。

月1の研究会に顔を出すくらいが精一杯。

読書→あまり身にならない趣味程度なら読める。

 

産後の話② 身体面

他の人の話など聞くにつけ思うのは、自分は結構大変な部類の出産をしたということだ。

初産で約3800g、児頭37cm、出血量1000ml以上(Hbは7まで落ちた)。会陰裂傷Ⅲ度。

まあこういうケースはレアというほどのレアではないのだろうけど、せめてもう1日でもいいから入院させて欲しかった。一般的な帝王切開の経過が5泊6日入院なので。確かに帰れなくはないが、それは手厚い家族(実家、自分の家庭両方)によるケアと子どもの適切なハンドリングがあってのものであって、満身創痍のまま不眠不休の育児をほとんどひとりで(ないし伴侶への教育的関わりを目的としたふたりで)行うことを意味しない。産後2ヶ月ほどは自分がとんでもない不調であることを認識することもできないほど不調だった。

痛みと寝不足がなければ今はいい思い出(?)と言えなくもないが、当時一番自分の役に立ってくれたのは夫でも実母でもなくTwitterである。持つべきものはTwitter(悲しいことだが)。イー□ン・マスクに魂を売り渡している暇はないのである。

 

 

役割獲得について

母親業にはかなり慣れたと思う。というか役割獲得そのものには大して苦労していない。

そもそもが人のケアをする仕事だし、夜間の勤務をしてきたし、言葉の通じない・こちらの指示通りに動かない人間の相手をするのは慣れている。

どちらかといえば慣れていないのは同居人を父親にするための業務だったのではないかなと思う。いやそれも、素人を看護師にするための業務に従事していることを思えば大差はないのではないか……と思うけれど、明確なカリキュラムや目標のある大学教育と家庭生活はまったくの別物である。そりゃそうだ。というか、そもそも共同でやる業務をかたや指示側かたや指示受け側になるのも妙なものである。そうしたくてしているわけではなくて、そうしなければ業務が進まないためにそうなったのだが。なお現在はこのねじれは解消されつつある。

 

 

 

育児をするメリット

閑話休題、本題に入る。

 

メリットデメリットで育児を考量するのは誤りであるという指摘を受けるかもしれないが、育児は仕事のようなもので、転職をするメリットデメリットを考えない人間はあまりいないだろう。育児に参画する(=転職する)ときも同じようなもので、デメリットは目につきやすいしSNSで喧伝されるがメリットは言語化するのが難しい。

 

なお、子どもの笑顔がかわいいとかそういうありがちなものは勘案しないものとする。

あとは、次世代の再生産とかいうマクロ視点のものも除外する。あくまで主観のもの、そして身の回りの虫の目視点について考えたい。

 

制約を楽しむ

街を自由に歩くことはできなくなった。いきなりデメリットの話をするなと言ってはいけない

 

ベビーカーを押しているから、物理的制約がある。赤子がいつ泣くかわからないということから社会的な環境の制約もあるし、何より夜中に出歩くことなどできないので時間的制約もある。

が、好きなことが何一つできないかと言われるとそういうわけでもない。

 

そもそも、何かしら生き物を連れて歩くのは楽しいものである(語弊がある)。

犬や猫と比較するのは犬猫に失礼な話かも知れないが、自分と違う目でものを見ているなにかとコミュニケーションを取りながら散歩をするのは悪くないシチュエーションだと思う。言語的なコミュニケーションは難しいし、非言語であっても通じているかどうかはかなり怪しいが、そこもある種あまり重要ではないかもしれない。

 

子連れで歩くと都市計画の巧拙がよくわかる。何を対象とし何を排斥し何を包摂するのに成功または失敗しているのかがわかる。特に何をするでもなく滞留するのに適した空間が少ないことに気づくし、そうした空間があるときには何に恵まれているのかもわかる。

善悪の評価はするつもりはないが、都市のデザインは自分の体感として誰でも感想をもつことができる。(6-7年くらい前にこのような話をしたことがあるのをふと思い出した)。属性によって持つ感想がこうも瞬く間に一変するのは、大きな病いや障害を得たときか、育児の開始が代表的だと思う。

 

属性を楽しむ

これももしかすると私の特殊技能(?)なのかもしれないが、母親という役を急に被せられた感じで、周りは「大変な思いをしているお母さん」という扱いをしてくれるのでなにかと(例えば自分のアイデンティティなどと)まじめに向き合わなくて良くなる。

 

普通は逆のことで悩むのだろうが、私はシンプルなことが好きなので、看護職になって周囲から被せられた勝手なイメージと内実のズレに苦しみながらもどこか遊んでいた節がある。仕事をしているだけで社会には居場所があり立派なものとして(少なくとも仕事をしていないよりはかなり簡単に)社会的な所属の欲求を満たすことができる。育児もこれと同様で、逃れることのできない仕事であるのと同時に、逃れることのできない仕事に従事している(≒エッセンシャルワーカーのような)と見做してもらえる。看護師は立派な(その昔は3Kという評価だったが稼得が手堅いことに変わりはない)仕事だとか、母親は立派な仕事だとか、まあそういうものだ。ただ生きて悩むよりも適度に手を忙しくしておく方が脳の健康に良い(と思う)。

別に育児も仕事も楽ではないが、とはいえ何もしなかったとしてもそれ自体が苦痛なのである。何に時間を費やすべきか悩んだら、育児はかなり有意義なので、そこに身を投ずる覚悟があるならば悪くない選択だと思う。

 

自分は何者なのかとか、社会にどう関わるべきかとか、そういうふわふわしたことに悩まなくて良くなる。そこで悩まなくて良いということは、悩むための力を別のところに割くことができる。「何も悩まなくて良い」わけではないところがミソだ。

これに関しては結婚のときにも同じことを思った。結婚すると、もう恋愛のことで悩まなくて良いのである。世の中には純粋に恋愛的なものへの欲求から不倫をする人もいるが、進んで再度悩みたいなどというのは私からしてみれば不思議なものである。

 

 

人の目を楽しむ

これは性格の悪い話かも知れないが、社会的に少し弱い属性を得ると、その対象に向ける態度や実際の援助が適切かどうかがはっきりとわかる。こんな目で道すがら人を見る機会はあまりない。

 

今のところ私は育児中に大して嫌な思いをしたことがないのもこれに影響しているかもしれないが、直接危害を加えられない限りは多少の意地悪があってもおかしくはないと思っている。子連れだろうがそうでなかろうが世の中には意地悪な人間がいるものだからだ。

反対に、善意をもつ人間も通常はあまり見ることができなくとも、こちらが明らかに弱い属性だとはっきり見てとることができるようになる。自然と、ひと言二言とやりとりが生まれる。どのような見た目の人がどんなアクションないしリアクションをしてくるか常に目配せをしていると、育児中というのはそんな目で短時間に人の注意を評価できるだけの反応を道ゆく人から引き出せるものなのかと感心する。

もちろん腹が立つこともあれば感謝することもある(ありがたいことに今のところ圧倒的に後者の方が多い)。

 

 

メリットは数字にも文字にもならない

デメリットは数字にも文字にもなるのである。生涯所得の減少、キャリアの遅延、マクロでいえば男女格差、育児支援の所得制限などなど。

文字にすれば、育児をする人間への社会の冷たい眼差しや怨嗟の声、伴侶への愚痴、行き場のない育児の苦痛の表明とそれに対するバッシング。

 

メリットは大してない。大きなメリットはないが、メリットにもデメリットにもなりうるのが変化そのもので、その変化は育児ほどポジティブなエネルギーを持ったものは他にないような気がする。結婚などもそれに該当するだろうか。

 

私は産前、育児とはもっと苦行の連続であると思っていた。否定はしないし、仕事に比べて目に見えた評価もないし直接の成果物もないので(目の前の人間が自分の仕事の成果物とはあまり言いたくない)、苦行でなくはないのかもしれない。

つまり私は苦行を進んで行う修行僧のような楽しみを得てしまっている可能性があるが、そもそも修行僧は苦行を楽しみのために行っているわけではないので、つまりこれはメリットを享受しているということになる。少なくともデメリットではない。

 

 

 

多分人はこのことをあまり「育児のメリット」とは呼ばないのだと思う。むしろデメリットの類いに属すると言う人の方が多いような気がする。

が、私にとってはこういう思考のネタをわざわざ捻り出さなくても自動で提供してくれるコンテンツが育児なのであり、常に時間を奪ってくるアマプラのようなものなのである。アマプラ契約したことないけど。

 

 

 

特に脈絡はないし本筋などというものは存在しない(育児日記なので当然といえばそう)のでこれで筆を置く。育児と仕事のバランスなど、もう少しまともに書けることが増えたら書くかもしれない。書かないかもしれない。