毒素感傷文

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小さな空間について

1ヶ月前に出産をした。

 

 

最近、行政のサービスを利用して産後ケア施設にショートステイをした。1泊2日を3回の予定で、ひとまず初回が終わったところだ。

 

私には、世に言う不仲などというほどではないとはいえ、実の親との間に多少の緊張関係がある。この親に産後の不安定な生活を預けることに不安があったので、元から里帰りや積極的な育児の支援は断っていた。親からしてみれば100%善意で、単に私が過去の諸々から受け入れられないことが多いだけなのだが。

また、分娩も多少負担の大きいものだったうえ、持病の悪化の懸念なども急激に襲いかかったため急いで自治体の保健師の方に連絡して準備していただいた形である。担当の方には頭が上がらない。

 

この話はそんな中で辿り着いた場所での日記だ。

 

 

小さな部屋、小さなひと

その施設はとある建物の4階にあった。

 

朝から支度をして、まだ一度も使って外に出たことのない抱っこ紐を1人で着けた。あまり授乳する時間も取れず、中途半端にお腹が空いて不機嫌な子どもをそこに詰め込んでタクシーに乗った。

幸い運転手は気の利く人で、チャイルドシートに乗せるのも手伝ってくれたし、生憎の雨の中移動する私たちに建物から車までの間傘を差してくれた。まあ当たり前といえば当たり前のサービスかも知れないが、とにかく有り難かった。

 

当該場所に辿り着いて1階で出迎えられ、4階で靴を脱いでその施設での宿泊がはじまった。

 

扉をくぐるなり、子どもはひとまず預けることになった。預けるといっても目の前のコットに下ろすだけだ。「沐浴してもいいですか?」と声をかけられ、「お願いします」と即答した。コットには私のほかに2人の子どもが寝かされており、1人は新生児、もう1人は少し月齢が進んでいると思われる乳児だった。

 

身軽になった間に、まず休養室を案内された。寝室だ。6つのブースが壁で仕切られており、足元はお互いに見えるものの空間としてはそこそこ十分に区切られていた。3畳にも満たないくらいの小さなスペースに、ベッドと床頭台、椅子が置かれている。

私はここが個室でないことを心配していた。入院でも個室を強く希望するほど物音や人の気配に過敏だからだ。が、これはほとんど杞憂で、そのあと始まる数時間おきの授乳の合間に眠るのは非常に簡単だった。

 

そしてほぼ身ひとつで来てよい理由は、そもそも置く場所もないことにあったのかもしれない。もちろんここでの生活に必要ないからでもあるのだが。

寝室で楽な衣類への着替えを促され、少し待ったのちに施設利用にあたっての説明やいくつかの問診を受けた。子どもの様子や現在の体調、家族の関係、家庭環境、心配なことなど。

 

この場所にくる目的は人により様々で、母乳栄養の訓練のため、新生児との生活に慣れるため、休養のためなど様々だ。私の場合は一応休養ということになっていた。

 

一通りの面談が終わる頃には昼時になっていた。沐浴も終わり、子どもはコットで大人しくしていた。お腹も空いているだろうに、慣れないところで目をぱちくりしながら様子を伺っていたのかもしれない。しかし何も考えていないようにも思う。沐浴してもらって気分がよかっただけだろう。午後からは、翌日の退所までほぼ間断なくぐずぐずと泣き通した。そしてその子守りも、各時間帯の助産師にお任せすることになっていた。

 

昼食を用意してもらう前に施設で初回の授乳をした。幸いにして我が子はとても哺乳が上手で、いつでもどこでも授乳できる。私の母乳も非常に調子がよく、見ていただく助産師の方にも「こんなにうまく出る人は珍しい」と言われるほどだったから、このときも子が満足するまで20分ほど吸わせた。そして前後の体重測定で母乳量を測ったあとはコットに寝かせて、オムツ交換までしてもらった。家ではほとんど自分やパートナーがしているようなことをすべてお任せするのは気が引けたが、そのために来ているので、とりあえず全部任せることにした。

 

昼食は簡素ながらきちんと陶器の器に盛られて出してもらう。多分、その日に来る人数を宅食サービスなどに連絡しておいて、人数分パッケージされたそれぞれのおかずを器に盛り付けているのだろう。小さなスタッフスペースの奥には台所が据え付けられていた。

それから、白米がたくさん盛られている。これは病院食などでも常だが、自宅では一食ごとに冷凍パックしている米がさほど多くない。それから5割程度をもち麦米にしているから、久しぶりにたくさん白米を食べるのは新鮮だった。こうやってエネルギーを補給してそれをそのまんま子どもに分け与えているのだったな、と思わせる。

 

それくらい、この空間には何もなかった。スタッフスペース、4席ほどある授乳と食事の席。2畳ほどのキッズスペース、奥には休養室への扉。ここにくるのは食事か授乳のときだけ。あとは休養室で眠る。私は不規則なタイミングで授乳していたので、子どもが起きて泣き出すか、ぐずっていてほどほどの時間になると休養室に呼びにきてくれる。席に腰掛けて、授乳をして、また預けて、そして眠る。時間がきたら食事をする。

それの繰り返しだった。

 

穏やかな、テレビさえない、僅かな話し声と子どもの泣き声とメリーの音楽しか聞こえない場所だった。授乳の時間はぼんやりと過ごした。隣の産婦さんが苦心して授乳している様子を感じながら、時々見にきてくれる助産師の方に育児やその他について思い付いた質問をしたりしつつ時が流れる。

夜には控えめな照明のもと、宿泊をするのは私ともうひとりの産婦さんのみで、互い違いになったり一緒になったりしながらそれぞれ座って静かに授乳をして過ごす。終わるとコットに子どもを戻して(そしてその瞬間からもうぐずりだす)、休養室に帰る。そして眠る。

 

何も考えなかった。我が子と自分だけがいて、自分は母親で、他の何者にもなれないが他のなんの役割も背負わなくてよく、しかもその母親の役割ですらこの空間において絶対的に求められるのは授乳だけで、あとは眠って食事をするだけのおとなしい静かな生活。あまりにも何も求められず、何も必要のない空間。

自分の職業のこと、将来のこと、数ヶ月先の予定のこと、実家や義実家のこと、はてはパートナーといる今の家庭のことまで(瞬間的には)忘れてもよく、考えずともよかった。考える余力を奪われたといってもよい。この施設は、医療機関への受診の必要性があるとき以外は原則として外出が禁止されていたからだ。

 

無自覚なまま一時的にすべてを剥ぎ取られ、不安や無力感に襲われるのかと思ったが、案外そうでもなかった。

強いて言えば、「このままこうしているわけにはいかないから、帰ったらきちんとすべてを背負い直さなくてはならない」という実感があった。何もかも役割を剥ぎ取られても、何も失わなかった。何も失ったように感じないことがあまりにも意外だった。だからこうして日記を書いている。

この内容についてさえ、実際に施設にいる間は考えもしなかったのだ。

 

 

 

長くも短くもないそのままの時間(…が物理的に規定されているだけでありなんの体感をも意味しないことについては時間論の議論にその場を譲る)を過ごし、また家に帰る。同じタクシーの運転手と、往路の話の続きをしながら。

私たちは自宅に着く。まだパートナーは帰っていない。ぐずる我が子にとりあえず授乳をする。この頃には、またなんの自覚もなく自然に、すべてのものを背負い直している。

 

私は将来のことを考える人で、母親であるばかりか家庭の人間で、私には実家や義実家があり、職業について考えており、やり残した研究の続きがあり、一昨日終えたオンラインの講座のディスカッションがまだ記憶に新しい。

すべてが自分にとって大切で、欠くことのできないものであり、しかし1日半ほどほとんど完全に脱ぎ捨てたものだ。

2分だけ。いやもっと短かった、30秒くらい、急に家出をしたくなった。この空想の家出の中で、我が子は連れて行こうが行くまいがどちらでもよかった。どうせ実行されないのでそこまで詳しく設定する必要がなかった。

ごく短い、しかし多分2度と感じることのないであろう衝動は多分「すべてを脱ぎ捨てる」感覚に慣れていなかったことによる反動だ。その瞬間にはそれが理解できていなかったので怖くなった。私は何かを捨ててしまえる人間なのではないかと思った。

 

それは、入院中の体調の悪さと退院の早さに比してなかなか始まらない母児同室に対して急に不安になったときと同じように。しかしその時に比べてほんのごく僅かな時間だけ。

 

これがその小さく穏やかな空間の唯一の副作用だった。