毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破7週目(11-20)

1.職業としての学問(マックス・ヴェーバー

自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売る手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広くみられる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落すのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値を増大とともにその名を高める結果となるであろう。ーマックス・ヴェーバー『職業としての学問』

なんともまあ耳の痛い言葉です。

こういう調子で学問をする人間の姿勢について内省と批判が続きます。それというのも、この本が上梓された時代には特に社会学政治学といった分野の学者が最早学究のための活動というより政治運動に参加していたから、というものでした。

己の仕事をきちんとせよという話ですが、この「学者が政治活動をするか否か」って何度も繰り返されている話で、例えばP.ブルデューの『介入』(1960年代からのブルデューの政治活動について)とか、昨今の社会学者たちの活動をみていても「する人もいて、しない人もいる」という状況がずっと続いているように思えます。どちらが学者としてあるべき姿なのか正直未だによくわかりません。

 

 

 

2.3. エセー3, 4(モンテーニュ

もしもわれわれが、ときどき、われわれ自身を考察することに意を用いるならば、そして他人のあらさがしをしたり、われわれと関係のない事物を知ったりすることに費やす時間を、われわれ自身を探ることに用いるならば、われわれの組織全体が、いかに弱く不完全な部分から出来上がっているかを、容易に思い知ることであろう。われわれが、いかなるものの中にも落ち着いた満足を見いだすことができず、欲望と想像によってさえ、自分に必要なものを選択できないというのは、不完全であることの何よりの証拠ではないか。そのよい証拠が、人間の最高善を見いだすために、哲学者の間に、常に激しい論争がくり返されてきたことである。しかもそれは今日まで続き、また、永久につづいても、解決も一致も見出されそうにない。

 

私の作品は私に笑いかけるどころではない。手に取って見直すたびに私自身がうんざりする。読み返すと書いたのが恥かしくなる。"なぜなら、これを書いた私が見てさえ、抹殺すべきものがたくさん目につくから。"

 

欲しいものが手に入らぬうちは、そのものが最上に見える。だが、一度これを獲得すれば、また別のものが欲しくなる。こうして欲望は変わることがない。

 

われわれは、何を認識し享受しようと、それに満足した気になれずに、未来のもの、未知のものを追いかける。現にあるものがわれわれを満足させないからである。だが、私の考えでは、現にあるものがわれわれを満足させる力をもたないからではなくて、われわれの把握の仕方が病的で狂っているからである。

 

なぜなら、彼は、生活になくてはならぬものが、ほとんどすべて、人類に与えられており、そして、人々が富と名誉と名声にあふれて勢力をもち、よい子供をもったとの評判も人並みすぐれているのに、それでも家の中には憂いが少なくなく、心は絶えざる悩みに苦しめられているのを見たとき、心の容器こそが、すべての悪の原因であり、容器に欠陥があるがために、外から入って来るものが、すべてその中で腐るのだ、と思った。

 

われわれの欲望は不決断で、不定で、何一つ正しくとらえることも享受することもできない。人間はこれを、それらの事物が悪いせいだと関g萎えて、自分が知りもしなければ理解もしないほかの事物で腹を満たす。そして、そこに自分の欲望と希望を傾け、それを尊重する。カエサルも同じようにこう言っている。《われわれは、誰にも共通の生れつきの欠陥によって、見たことのないものや隠れたものや未知のものを、いっそう堅く信用し、いっそう強く恐れる》と。ーー第五十三章 カエサルの一句について

 

私はいくらか本を読む人間ではあるが、けっして覚えている人間ではない。

だからいかなる確実さも保証しない。ただ現在、物事についてどれほどの知識をもっているかを示すだけである。どうか材料に期待せず、それにどんな形を与えるかに期待していただきたい。

もしも私の論旨が支離滅裂であるならば、そして、推論が空虚で間違っているのに、自分でも気がつかず、あるいはそれを指摘されても気がつくことができないとすれば、それは私の責任である。なぜなら、過失はときとしてわれわれの目を逃れることがあるが、判断の病気は他人から過失を指摘されても、それを認めることができない点にあるからである。知識と真理は、判断がなくともわれわれの中に宿ることができるし、判断もまた、知識と真理がなくともそこに宿ることができる。いや、無知の自覚こそは判断のもっとも美しい、もっとも確かな証左の一つであると思う。私には運命以外に、私の持ち駒の部署をきめる参謀がない。夢想が思い浮かぶままに、積み重ねるだけである。だからそれらはひしめき合っていることもあれば、一列に並んでいることもある。私は、たとえどんなに乱れた歩みでも、自然な平常の歩みを見てもらいたい。私は自分をありのままに歩ませる。それに、これらの事柄は、ぜひとも知らねばならぬ事柄でもないし、でたらめに軽率に扱うことを許されない事柄でもない。ーー第十章 書物について

引用だらけになってしまいました。モンテーニュ先生めちゃ好きです。特に引用の中の「この黒歴史抹消したい」みたいなの。すごく現代人の感覚に近いものがありますよね……

 

 

 

4.よくわかる経営管理高橋伸夫

この本あったら大学の講義一通り作れそうだなと思うくらいよくできていました。放送大で受けた『マーケティング』の授業内容に組織論とか会計的知識を足したような感じです。

この本1冊でも十分勉強になりますが、参考図書から派生して他の学習に繋げやすいと思います。

 

 

5.生の短さについて(ルキウス・アンナエウス・セネカ

髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない。たとえば或る人が港を出るやいなや激しい嵐に襲われて、あちらこちらへと押し流され、四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。ー『生の短さについて』

 

心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化するであろう。それと同じように心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、少しでも解放されて休養すると、再び活力を取り戻すであろう。心が休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感である。ー『心の平静について』

『生の短さについて』はまあまあ耳が痛いというか、「そんな風に生きておいて充実した生が全うできると思うなよ?」みたいな厳しさがあります。個人的には一緒におさめられた『心の平静について』が好きです。

 

 

6.倫理学の道具箱(ジュリアン・バッジーニ ピーター・フォスル)

姉妹本の『哲学の道具箱』のあとに読みました。倫理の方法論とかメジャーな議論が網羅されているので、「倫理やりたい、でもどこから何やれば?」みたいな人には良いのかもしれません。倫理を「やりたいというほどではない」人には少々キツいかも。

なぜキツいかといいますと、各章・節・項それぞれ分野が多岐に渡るうえにぽんぽんと専門の用語が(それも結構突っ込んだ議論と共に)出てくるからです。完全なる初心者だと心が折れて終わりそう(メタ倫理まわりとか)。それだったら『倫理学案内』か『入門・倫理学』がお勧めなんじゃないかという気もします。が、この2冊が比較的堅い語調で進むのに対して本書はライトな文体や用例が出てくるので、かえってとっつきやすいかもしれません。

さらに、細かい議論が結構新しいところまで載っているというのはとてもよくて、狭く深く特定のテーマや方法論について掘り下げるときには確実にこの本はいいと思います。それぞれの関連項目の案内もついているし、そもそも通読用にできているわけではない面もあるので、辞書的使用であれば手元に1冊置いてよい本です。

 

 

 

7.芸術・無意識・脳ー精神の深淵へ: 世紀末ウィーンから現代まで(エリック・カンデル)

孫引きになってしまいすみません。

私たちが驚愕的な衝撃を感じたいと欲した時、頼りにするものの1つが芸術だ。そんな欲求をもつのは、たまには健康的な衝撃を受けるのもいいことだと直観的に思うからだ。そうしなければ、私たちは決まり切った考えに簡単にがんじがらめになってしまい、生きていくうえで直面するさまざまな新しい課題への対応が困難になってしまう。つまり、芸術の生物学的機能は、想定外の事態への寛容性を増すために、精神的な訓練やリハーサルをすることなのだ。ーエルンスト・ゴンブリッチ

 

芸術に醜いものはない。もしあるとしたら、それは特徴のないものである。つまり、外に対しても内に対しても、真実を語らないものである。ーオーギュスト・ロダン

 

あの『カンデル神経科学』の監修、エリック・カンデルによる神経美学の本。1800年代後半-1900年代前半オーストリアの美術と精神・神経科学と心理学の発展の関連性についてまとめた大著で、その内容の分厚さ(もちろん物理的にも鈍器の如く分厚い)とは裏腹に非常に挑戦的な本でした。美術史におけるウィーン学派というものはグスタフ・クリムトに代表されるモダニズムが特徴にあるようです。写真機の開発が19世紀に進んだのもあり、「目で見たそのまま」よりも「何が強い印象・情動をかき立てるのか」に着目した画風の芸術家が取り上げられています。

500ページ超、5部からなる大著ですが、美術史各段階の心理学的意義と芸術にまつわる精神医学・心理学史の変遷にそれぞれ100ページ1部ずつ大幅に割かれているので、始原からウィーン学派の時代(つまり19世紀初頭くらいまで)の流れを知ることができます。

 

本書にまつわる前提知識として自分が持っていたのは、取り上げられたウィーン学派の画家の中ではグスタフ・クリムトエゴン・シーレのほんの数点の有名な絵のみです。特に後者についてはたまたま以前に映画を1本観ていただけでした。映画はこちらです。

28歳で亡くなった画家の伝記ドラマ!映画『エゴン・シーレ 死と乙女』予告編 - YouTube

時代背景を知らなかったので当時の政治や社会とシーレの関係を知るに留まったのですが、私自身はこの映画を観ることでシーレの作品そのものが好きになったわけでは全然なく、「めちゃくちゃ情緒不安定な人だな(失礼)」くらいの感想を抱きました。

 

が、カンデルの見立ては実に面白く、絵画の技法(たとえばモデルと自分を一緒に描くか否かとかその意味とか他の作家との類似点・相違点などなど)の特徴の解説のみならず、「なぜ見る者を不安にさせるのか」のような心理的な面に切り込んでいきます。神経科学の若干(以上)の知識が必要な内容ですね。

他の本で読んだ事前の知識だとアントニオ・ダマシオやヴィラヤヌル・ラマチャンドランの著作がありましたが、自己知覚や意識下・無意識下の認知システムと視覚特性の関連を使ってクリムトやシーレの絵画の特徴を説明してくれます。もちろん同時代・前後の時代の作者との比較も出てきます。

 

同書はカンデル氏のルーツを含めた集大成のような著作でもあって、あとがきでは、神経科学の研究に従事するか精神分析の臨床家でいるかという選択を経た著者の興味をまとめあげたものであると触れられていました。誰にお薦めできるのかと言われると悩みますが、「人はなぜ◯◯を好むのか」みたいな話を心理学(「脳科学」でもなんでもいいですが)の観点から知りたい人にはお薦めできると思います。あと単に絵画に「興味がある」人。好きかどうかというより、「なぜ好きになれないのか」にも興味をもつ人。

 

 

 

8.暴力と不平等の人類史ー戦争・革命・崩壊・疫病(ウォルター・シャイデル)

邦題が似ている『暴力の人類史』(スティーブン・ピンカー著)という本を以前読んだので、なんとなく気になっていました。本書は『暴力の人類史』のような社会心理学方面からの考察ではなく経済面からの考察で、経済的不平等に影響する因子は何かという話です。

内容としてはジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』ですとか、同『文明崩壊』に近い視点で考察が進みます。各時代・地域の不平等がどの程度のものであったか、暴力(戦争や内戦など)・疫病により格差がどのように変動したかなど検討しますが、各要素の影響はやはり一律ではないようです。個人的に意外だったというかあまりよく知らなかったのは、国家総動員で戦争した場合に富裕層はかなりのダメージを負うということで、市民が大ダメージを受ける以上格差は広まると思いきや上位0.01%〜10%くらいまでの所得も恐ろしい勢いで(8割とか)持っていかれるということでした。

データの比較が困難な部分もありますし複数の要因が交絡するため必ずしも再現されるわけではないとしつつ、参考になる部分はあるのではないかなと思います。しかし「疫病」による不平等の解消は、現代におけるCOVID-19ではなさそうです(天然痘とかペスト並でないと影響しないっぽい)。

 

 

 

9.ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか(金森修

みんな大好き哲学のエッセンスシリーズ(みんな?)です。ベルクソンは、ドゥルーズを読んでもメルロ=ポンティを読んでも出てくるのに今まで解説本を読んだことなかったので新鮮でした。なおベルクソン本人の訳書だと『意識に直接与えられたものについての試論』(時間と自由)と『物質と記憶』、『笑い』、『創造的進化』まで読んでいたように思います。特に主要な論題である『意識に〜』の時間論(純粋持続; 時間って空間的に測定されてるけど知覚される時間とは違うよね、みたいなやつ)はよく受け入れた記憶があります。そして『物質と記憶』はなんもわからんなと思った覚えが。この本(金森氏の本)では『物質と記憶』をメインに扱っていて、副題の「過去の奴隷なのだろうか」に答える形になっています。

 

以前に受けた放送大の学部の授業の現代フランス哲学では確かベルクソンはほとんど触れられていなかったのですが、本書の中では「ベルクソンの哲学を安易な"生の哲学"に括ったり、"実証主義と袂を分かった"などというな」というような言及がなされていてちょっと面白かったです。当時の科学の潮流が「科学ですべてを説明可能である」としたことに対する疑問や対立を解明するための補助線としての科学哲学として捉えると意義があるのではないでしょうか。

 

 

 

10.アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか?(高橋久一郎

同じく「シリーズ・哲学のエッセンス」から。

アクレシア(意志の弱い人、自制心のない人)についての説明を通して認識→行為の説明をし、徳倫理の説明をしていくんですが、アリストテレスに関してはそこかしこで『ニコマコス倫理学』が引用・解釈されることでしか知らなかったがために最早哲学のエッセンスシリーズをもってしても何もわかりませんでした…。

政治や科学に関するものはともかく、行為論や認識論(の手前の表象の解釈も)についてアリストテレスが何を言っているのかまったく知らなかったためとりつく島がなかったのですが、本書の中では「なんだ、そんなことかとなって当たり前のことが書かれている」と触れられていたのであまり難しく考えずに元の書籍にあたってみてもよいのかなと思いました。

それはそれとして『ニコマコス倫理学』は読まねばならない。

 

 

 

おわりに

この10冊もまた時間がかかり、数えてみると4ヶ月かけて10冊だったようです……。

この間、非常勤を続けながらも修論を書いたり学会発表したりとそれなりに院生らしい生活を送っていたなあと思います。

今後は少し時間ができるものの、出産と育児でどれくらい忙しくなるのやらという状態です。仕事がない分、かえって本への逃避が捗るのかも知れませんが……

 

心の積読は相変わらずたんと溜まっているので、ちょっとずつ消化できたらよいなと思っています。ではごきげんよう