毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破6周目(61-70)

1.看護実践の倫理(サラ・T・フライ)

看護実践の倫理―倫理的意思決定のためのガイド

看護実践の倫理―倫理的意思決定のためのガイド

 

ピーター・シンガー『実践の倫理』を探すと大体一緒に出てくるのがこれです。

第一版が出てから多くの人に読まれてきた看護倫理の教科書のような本です。事例が豊富。

 

 

 

2.病院倫理委員会と倫理コンサルテーション(ミカ・ヘスター)

病院倫理委員会と倫理コンサルテーション

病院倫理委員会と倫理コンサルテーション

 

こちらも倫理実践の教科書ですが、米国を中心に勃興した臨床倫理コンサルテーションに特に詳しい本です。ちなみに米国だと医学系研究倫理についてはベルモント・レポート方式がとられることが多いようです。要するに中央管理です。質を担保し、被験者の権利を守れなかった暗い歴史を参照して作られたもののようです(黒人に対する梅毒研究などが過去の事例として相当します)。

本書は病院倫理委員会を築くにあたって制度をどうすべきか、メンバーをどうすべきか、等々詳しく述べられています。ケースごとの倫理的なディスカッションから地域の課題まで述べられており、手元に欲しいです(突然の願望)。

 

3.ケアの社会倫理学―医療・看護・介護・教育をつなぐ(川本剛史)

ケアの専門性というよりは、ケアそのもののもつ倫理的特性という感じで、倫理理論というよりは社会学的な要素が強いです。寄稿でできていて各章の著者のバックグラウンドも様々なので、それが良さでもあり悪さでもあるかもと思いました(特に哲学系をバックグラウンドにした章は若干何を言っているのかわからない)。この本を入り口にして医療倫理・臨床倫理やケアの倫理(のさらに根源的・理論的なもの)に進むことはできると思われるので、。生命倫理とか医療(臨床)倫理とかいわれてもピンとこないとか、理論が苦手(とっつきにくい?)と感じる人にはよいかもしれません。しかしこの本を読みたいと言われたら、別の本をご紹介する気がします...(ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』とか丹木博一『いのちの生成とケアリング: ケアのケアを考える』とか)

 

4.臨床看護のディレンマ Ⅰ(マーティン・ベンジャミン, ジョイ・カーティス)

 医療経済について読みたかったのですが4章にちょろっと書いてあっただけでした... これに関しても他の本で代用はききそう。手に取りやすいボリュームなので、医療倫理や資源配分の倫理に興味があって事例をベースにした方がとっつきやすいという医療従事者にはお勧めできるかもしれません。もしくは、倫理方面から医療の問題にアプローチしたいときにどんな事例があるのかを知るときに。若干事例が古いですが、国際的な倫理に関しては恐らく今も通用するケースがあるかと思われます。国際保健に関してはこれまでに具体的に触れている文献があまりなかったので、本書は貴重かもしれません。

 

5.精神現象学(G.W.F.ヘーゲル

精神現象学

精神現象学

 

完全に明確な内容を備えたものだけが、同時に、顕教的であり、概念的であり、学習されて万人の所有物となることができる。学問が理解可能な形をとった時、万人向きの、だれでも同じようにあゆめる学問への道ができたといえるので、理解したうえでさらに理性的な知へ至ろうとするのが、学問に足を踏みいれた意識の当然の要求となる。(まえがき)

精神現象学、存在はずっと知っていて随分昔から読みたいと思っていたのですがこれもハードルが非常に高く、手に取ることができずにおりました。

実はヘーゲルとは随分長い仲でして(?)、看護学校時代の卒業研究に用いた看護理論が弁証法に基づいており、敵対的矛盾の解決ないし非敵対矛盾の調和を目指すというものだったのですね。

そして自分は何も知らなかったのですが弁証法について詳しく説明なされるのは『大論理学』のほうなんですね.............?(タイトル見れば考えつくだろうとか言ってはいけない)。『精神現象学』も「現象学」と名前が入っているのでフッサール現象学などと何やら関係があるのかなと思いましたが決してそうではなく、「精神」という現象に関する学であると。むしろこちらのほうが現象という言葉は素朴に用いられており理解しやすいですね。

 

難解であることで知られる本書でもあり、読んでみたいといいつつ読みあぐねた部分ばかりで引用の転記ばかりになってしまうことをお許しください。

なお、精神現象学ガチ勢からは加藤尚武氏による入門書と当該箇所を照らし合わせながら読むのがいいよと教えていただきました。いずれにしても図書館での貸借となると思われるので、いつかチャレンジしたいです(いつになるんだ?)

...意識にとっては、すぎさった時代のゆたかな生活が記憶に残っている。だから、新しく登場した携帯には、内容の展開と分化が欠けているように感じられるし、明確な輪郭をもってたがいを区別し、ゆるぎない関係のうちに全体を秩序立てる形式の展開となると、なおいっそうかけているように感じられる。この展開なくしては、学問が広く理解されることはなく、少数の個人に秘伝された財産という以上には出られないように思える。「秘伝された財産」だというのは、学問がさしあたり内面的な概念のうちにしか存在しないからであり、「少数の個人に」というのは、その登場が広がりをもたなければ、学問は個人のものとなってしまうからである。完全に明確な内容を備えたものだけが、同時に、顕教的であり、概念的であり、学習されて万人の所有物となることができる。学問が理解可能な形をとったとき、万人むきの、だれでも同じようにあゆめる学問への道ができたといえるので、理解した上でさらに理性的な知へ至ろうとするのが、学問に足を踏みいれた意識の当然の要求となる。理解とは思考の働きであり、純粋な自我の活動なのだから。理解されたものとは、よくわかっているもののことであり、学問的知と非学問的意識とが共有するもののことであって、それを手がかりに非学問的意識はまっすぐ学問の世界へと入っていけるのである。

(中略)

だから、学問は自己意識の世界と学問を統一しなければならず、もっと的確にいえば、自己意識の世界が学問に包摂されることを示さねばならない。それ以前の、現実性を欠く学問は、潜在的な内容や、内にこもったままの目的しかもたず、活動する精神ではなく鈍重な精神にすぎない。潜在的な学問は外に出てきて顕在的にならねばならないが、その過程は学問と自己意識が統一される過程にほかならないのである。

こうした学問ないし知の生成過程を述べるのが「精神現象学」である。——まえがき

...とはいえ、一個人の心のおきてが他の個人の掟とぶつかりあうなかで、共同体秩序は万人の心の掟であることが示されてもいる。個人の掟をしりぞけて共同体の掟が守られるのは、共同体の掟が、無意識の、空虚な、生命のかよわぬ必然性ではなく、その土台として共同体精神がしっかりと存在するからであって、そこに生きる個人は現実に共同体精神を体得し、明確に意識してもいるのである。人びとは、共同体秩序が内面の掟に合わないと文句をいい、共同体秩序に心の思いをぶつけたとしても、実際は、共同体秩序こそ自分たちの本領だとして心からそれに執着し、この秩序を奪われたり、みずから秩序の外に出ていったりすると、生活の支えの一切を失ってしまうのだ。まさしくその点に公共秩序の現実性と力がひそむのだから、公共秩序なるものは、万人によって生命をあたえられた自己同一の安定した存在であり、個人はその秩序を形にあらわしたものである。——ところが、この秩序がまた錯乱状態にあるのだ。

共同体秩序が万人の心の掟であり、すべての個人が直接この共同体の一員であるという点からすると、秩序の現実性をなすのは、自立して存在する個人の現実性、ないし、心の現実性でしかない。となると、自分の心の掟を打ちたてようとする意識は、自分の掟と矛盾するような、これまた個としての掟を心にいだく他人とぶつかって、その抵抗を受けることになるが、抵抗する他人は他人で、自分の掟を打ちたて、一般に認めさせようと考えている。したがって、現存の共同体は万人の万人に対する抵抗と闘争の場にほかならず、各人は自分の志を広く実現しようとはするものの、いつも同じ抵抗に出会って、他人との抗争のうちでともども破滅に追いやられ、志を遂げることはない。公共の秩序と見えるものは、実は全社会的な反目の状態であって、各人はできるものはなんでもひっさらない、他の個人に正義を行使するかによそおって、自分の正義を確立しようとするが、他人との抗争のなかでどの正義も消えていくのだ。それが「世のならい」と呼ばれるもので、一見おだやかに時が推移していくかに見えるものの、共同体精神は各人の思いこみのうちにしかなく、実態は、個々人の志が実現したかと思うとこわされていくという、その場かぎりの力のたわむれである。——B.理性的な自己意識の自己実現/b.心の掟とうぬぼれの狂気

こうして、意識は思考と存在との直接の統一——抽象的な神と事故との直接の統一——を、さしあたり抽象的に言明し、最初の光の紙をもう少し純化して、延長と存在の統一として(延長というほうが光というよりも純粋思考の単一性に近づくことになるから)言明し、かくて、思考のうちに曙光の紙を再び呼びさますことになるが、そうなると同時に、精神はこの抽象的で自己を欠いた実体的統一にたいしてこの存在を主張することになる。が、精神はそこにとどまらず、教養において個を外化し、もって個を現実に投げいれ、あらゆる存在のうちに個を浸透させて、実用性の思想に到達するのであって、絶対の自由のなかで現実買いが自分の意志だととらえたとき、自分の内奥にある思考を明るみに出して、世界の本質は自我=自我にあると言明するのである。(Ⅷ.絶対知)

 

さまざまな内容は、一つ一つがばらばらにあるのではなく、たがいに関係するなかで明確な輪郭をあたえられ、たえず自分自身を克服するような否定の運動を続ける。だから、必然性や差異も、自由な存在と同様、自己の運動としてあらわれる。そして、存在がそのまま思考であるようなこの事故の形式のもとで、内容は概念となる。かくて、概念を獲得した精神は、概念という生きたエーテルのなかで存在の運動を展開するので、それがすなわち「学問」である。(Ⅷ.絶対知)

内容に関してはあとから足し書きするかもしれませんが、未だに消化不良なのでこのまま置いておきます。

章が後ろに進めば進むほど難しくなってしまい、宗教の章とか目が滑って滑って、日本語を読み終わっても内容はまったく読み終わっていないような状態でした。と、訳者の苦労もものすごく伝わってくるあとがきがあったので引用しておきます。

あとがき

さて、訳しおえたばかりでなにかをいうとなると、やはり、翻訳の苦労話からはじめねばなるまい。

悪戦苦闘は重々承知の上だったが、実際にペンを握って日本語にする作業にとりかかってみると、その大変さは予想をうわまわった。『精神現象学』のドイツ語原文は、ただ読みすすむというだけでも、難文、悪文、拙文、不文、その他、なんとでも悪口をいいたくなるような代物だが、いざ翻訳しようとそれに立ち向かっても、おいそれと日本語になってはくれない。...こちらに元気がなければ仕事にむかう気にはなれなかったし、元気があっても、仕事に精を出しすぎると、きまって体の節々が痛んでくるようであった。

 

 

6.話し手の意味の心理性と公共性: コミュニケーションの哲学へ(三木那由多)

随分以前に、著者の方が柏端達也氏『コミュニケーションの哲学入門』についての書評を書かれていたことから本書を知りました(本書が出版されたのはこの書評よりも後のことですが)。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/226626/1/cap_9_33.pdf

それまでコミュニケーションについては認知科学方面からのポピュラーサイエンス+αくらいのアプローチしか知らず、言語系はどっちかというとまだ統語規則とか意味(この場合は「意図」か)のことくらいの知識しかなかったと思うんですが『コミュニケーションの哲学入門』とこの書評は意図の共有(共同利用可能性とか言うべきか?)についてもっと知りたいと思わせてくれました。

本書を実際に読むようになるまではだいぶ時間がかかったのですが、それまでにコミュニケーションに関する言語学のとっつきやすい本を何冊か読んでおりました。本書の内容に近いものとしては、人間の実際のコミュニケーションにおけるポライトネスがどのように運用されているか、というものでした(『インターカルチュラルコミュニケーションの理論と実践』『スナックの言語学』あたり)。本書における意味の「公共性」は、特にこのポライトネス/インポライトネスに影響すると思われます。

グライスについてはほぼ「会話の公理」くらいしか覚えていないうえに他に出てくる論者(シファーとかハーマンとか)知らないのでその辺の理解はまったく至らないままで、今後なにかに出会うたびに本書と照らし合わせてみる必要がありそうです。

関連書を下記に示します(以前の書評で書いたことがありますが)。

インターカルチュラルコミュニケーションの理論と実践

インターカルチュラルコミュニケーションの理論と実践

  • 発売日: 2016/03/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
スナックの言語学: 距離感の調節

スナックの言語学: 距離感の調節

 

 

7.おいしい昆虫記(佐伯 真二郎)

おいしい昆虫記 (Natsume-sha Science)

おいしい昆虫記 (Natsume-sha Science)

  • 作者:佐伯 真二郎
  • 発売日: 2020/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

出版がわかった時からずっと楽しみにしていました。数年間フォローしているTwitterアカウントの方が書かれた本です。めっちゃ虫食べます。虫を食べるに至った経緯(というか昆虫食を広めたいと渇望するに至った経緯)から、現在のご活動であるラオスでの農村部の栄養改善プロジェクトまでが書かれています。なぜそんなことになったのか不思議でならなかったのですが(それゆえに買ったのですが)なるほどと思いました。昆虫学が貢献できることは昆虫そのものに関する学術的内容とその成果に関するものだけでないと。

昆虫、植物、なんにでもいえることかもしれませんが人為的な影響(慣習的な地場産業とか国策とか)を無理に取り除いたり強権的に押し付けるのは先進国の傲りであって協調路線が必要だしその土地その国その人たちに見合ったやり方があるよというのが強調されています。国際協力って難しいんだな、とかいう小並感しかでてきませんでした(すみません)。あとこれは余談なんですが、「セミアイス」って見た目もヤバいしこれなかなか食べられんやろ…とTwitter画像では思っていたんですがカリッと揚げるとナッツのような香ばしさがあるのだとか。いけるかもしれん(?)

 

8.調査されるという迷惑(宮本 常一, 安渓 遊地)

これもまた随分前に読もうと思って、冊数制限のため泣く泣く本棚に戻した経緯があった本です...やっと読めました。社会調査というか人類学・民俗学的なところの研究倫理の本でした。ボリュームとしては薄いのですが、内容は非常に厚いです。

都市社会学系で、パークの「ズボンの尻を汚せ」という言葉があるけれども、尻を汚すだけではいかんということですね(そりゃまあ自明ですが)。

自分が最近読んだ医療の研究倫理系のものだと、被災地での調査が特にこれに近いものがありました。心身だけでなく経済的にも社会的にもダメージを負った直後に、直接自分のため(または家族やコミュニティのため)にならない質問に答えなければならないのがどれほどの労力を伴うものか。しかしこれも互恵関係があるとそれはそれで難しいもので、今度は「よくしてくれるからお返しをしなければ」という無理が発生したりするんですよね(医療の場での話です)。この本の中ではどちらかというと、盗品・盗作や研究成果の非還元などの問題が取り上げられていました。

「種をまくことは誰にでもできる。大変なのは草取りと収穫。そして一番難しいのは、耕されて荒れた土をもとに戻すこと。」

これは、著者である安渓氏が調査で関わったある人が漏らした言葉であるそうです。

 

9.精神障害者をどう裁くか(岩波 明) 

精神障害者をどう裁くか (光文社新書)

精神障害者をどう裁くか (光文社新書)

 

司法精神医学が日本ではあまり行き渡っていないよということで諸々の構造と問題点を指摘した本。新書なので軽い読み物程度の気持ちで手にとれますが、興味深い話題です。まず精神疾患のある者の犯罪率が健常人と較べて多いのか否か。総数でみると精神疾患があるから多いということにはならないのだけど、重罪(殺人など)となると総数の10-15%を占めており、多いと言わざるをえない。

けれどもここにからくりがあって、軽犯罪者であっても提訴し有罪判決を得るために正常な判断力をもっているとされてしまうケースがあるとのこと。この話は本の中でも後で出てくるんですが、「責任能力」などについての歴史的理解が日本のみならず諸国でどうであったか(どうにも情状酌量としての意味での免罪がずいぶん昔からあったらしい)などの話は初耳でした。精神疾患の分類基準や大まかな経過や日本の医療制度の変遷(とその暗い過去)については医療従事者であれば大体どこかで少しは触れてきた話題かなと思うのですが、医療従事者でなければそこも楽しめる(?)と思います。

「厳罰化ではなく適切な治療を」というハームリダクションについてはコンラッド『逸脱と医療化』でより詳しいですが、法の判断と医学の判断の違いに関しては話題かあがっていなかったと思うので薄いわりに目新しい内容が多かったです。

 

10.専門知は、もういらないのか――無知礼賛と民主主義(トム・ニコルズ)

どこかで見かけたときに読みたいなと思っていたのですが、人が引用しているのを見てさらに読みたくなった本です(実際に手に取るまでに2年くらい要した気がする)。著者自身はロシア政治の専門家であり、内容としても政策に影響する背景となるような反知性主義についての記述がなされます。専門分野の解説ではなく、専門分野をもつ人々に対して何が起こっているかを説明するものですので、専門分野が直接話に出てくることはありません。

私も医療従事者として諸々思うところがある(反ワクチンやインチキ免疫療法とか)のですが、本書はダニング=クルーガー効果を中心として、実際に高等教育機関や市中で何が起こっているかを解説してくれます。特に高等教育機関については日本にもかなり当てはまるところがあろうと思います(教育の商品化、感情の過剰な礼賛等々)。また、前述の心理的効果により、自分が素人として僅かに見知ったことがその道の専門家と互角に渡り合える知識であると思い込むこと(政治などの社会的なものはさらに顕著)で、さらに自分の意見が尊重されるべきと感情に訴えるという現象は国内でもしばしば見受けられますね。

 

後半からは公共哲学に近い(というかこないだまで『公共哲学』そのもの授業受けていた...)内容で、民主主義の没落とテクノクラシーの台頭(後者が前者を引き起こしたのではなく前者が後者を加速させた)については、今だからこそ読みたい話です(これいつでも言いそう)。

著者は、市民による専門知への攻撃に対して新聞記事を書いた際、さまざまな分野の専門家から「自分たちも同じ目に遭っている」という報告を受け筆をとったとのことでした。なので、内容はトップダウンの政治に関わるものというより市民の科学リテラシーとその低下(の表れ)に重きが置かれています。トップダウン方式の政治支配に抵抗するわりにボトムアップできるような知識の下地がないので、ただただ健全な民主主義が崩壊していくという。あと、専門家内部での知識の検討に関する章は研究不正や検証についても触れられていて、『心理学の七つの大罪』にちょっと近かったかもしれません。良い本でした。100冊の中の10冊のお勧めにいれられると思います。