毒素感傷文

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母親になって後悔、してますか?

母親になって後悔、「していたとして」、「している」と言えるでしょうか?

 

本書、訳書が出版された時点で私は既に母親でした(出版が公表された時点で母親になることが確定していました)。ゆえにこのタイトルだけで強く惹かれましたし、その惹かれ方はどちらかというと反発に近いものでした。だからこそ、(本書の中の母親たちを否定するのではなく)自分自身に置き換えたうえで反論したいのであれば、必ず読む必要があると思っておりました。

 

折しもご恵贈でいただくこととなり読む運びとなりましたので、たくさん思いを込めつつ読んだこの本の概略と感想、そして今の自分の親としての簡素なまとめを綴りたいと思います。

 

本書の前提

この本、まずタイトルの時点で忌避感をもつ人がいらっしゃるのではないかと感じました(私がそうだっただけで、他の方は好意的に受け止められたかもしれませんが)。少なくとも本書を上梓した著者本人も、この概念を扱うには非常な反発に遭わなければならなかったと述べています。

よって話の前に、本書の大前提を示しておきます。

  1. 母親になって後悔しているということは、「具体的なひとりの子どもを持ったことに対して」のもの(子どもの生を否定するもの)ではない
  2. 「お前なんか産むんじゃなかった」という暴力的態度ではなく、むしろ慈愛や一般的に求められる「母親」業を卒なくこなしたうえでの思いである
  3. 「子どもを持たない」ことへの後悔とはまた別ものである
  4. 社会の抑圧が大きな影響をもっているとはいえ、それを取り除いたとしても緩和しきれない後悔がありうる

 

短い言葉にするのであればこのようなものでしょうか。

私は読みながら、これらの概念についての「父親への反転可能性」を常に考えていました。状況は異なれ同じ思いをもつ父親(または父親になる可能性のある人)はやはりいるだろうという考えがあったのです。しかし、それに関して、「社会に対してそれを言えるかどうか」には随分大きな差があるように個人的には思えます。

「父親に向いていない、子を持つべきではなかったかもしれない」。そういう風に父親が表明するのと、同じことを母親が表明するので、世間の風当たりが違うように思えたのです。もちろん同等なのかもしれませんが、そもそも父親役割というものは母親役割ほどには「人生すべてを」捧げよ、という類のものではない割合が高いように思われます。これも根拠のない、ただの主観に過ぎませんが。

もっとも、稼得の獲得を主とした役割に据えられて家庭の役割から「疎外される」という問題を抱える父親という存在を見逃してはなりませんが、こちらは本題から外れますので今回は割愛します。

 

本書の概要

本書は著者の博論含めた研究成果のまとめのようなものです。まずは世界の母親たちが置かれた状況(著者はイスラエルの方とのことでイスラエルの社会背景がよくわかります)、続いて芋づる式で求めたインフォーマントとの半構造化面接の結果と続きます。

 

社会背景

イスラエルはかなり強く多産を要求される社会であるそうで、子どもを持たない選択を表明している女性は「いずれ後悔する」、「一人前ではない」などといった「脅し文句」に日常的に曝されるとのことです。日本でも、弱まったとはいえこの傾向はあるように思われます。

また、「産まない」という選択は常に理由の説明を迫られる(そんな話をするほど親しくない間柄のひとから、否定的な態度で)のに対して、「産む」という選択は議論の俎上にも上がらないというのもほぼ世界中で共通の事項のように思われます。

 

インタビューから得られるもの

「子どものことは愛している」という前提

まず、子どもを産まなければ良かったということと母親になったことへの後悔は別ものであるという説明が丁寧になされます。前者は子どもの人生や人格を否定するものであり、それを恐れる母親はインフォーマントのうち多数を占めるようでした。そして、「子どもを産まなければ良かった、ではない」ということを言わなければ母親への後悔を口にしたり考えに及ぶこともできないという実情も垣間見えます。

子どもを産むことを要求される社会において、「母親への後悔」はそれほどまでに口を噤むことを要求される思いなのです。

 

母親役割の特殊性

「ママ、ママ」と呼ばれることにぞっとする。人生が終わるまで「誰かの母親」であることから逃れられない。場合により祖母になれば、祖母の役割を要求される。本当は祖母の役割を果たしたくないけれど、「孫を歓迎する祖母」の態度まで作ることになる。

いわば「自分を騙す」必要性とでもいいますか、ケアの役割を自然と要求されるというのは確かにあるなと自分でも感じます。それが得意不得意であるかに関わらず、過剰なまでに降ってきます。

 

もっと他にまとめておくべきことがあるような気もしますがあまりネタバレしても仕方ないので、ここからはある問題と絡めて自分の話をしていこうかと思います。

 

「産まない」という能動的選択の尊重、「産む」という能動的選択の意義

ちょうど私がこの本を読んでいた頃、印象的なツイートを見つけました。

りーらんど on Twitter: "4つの部門に分けて、私が子どもを産みたく理由を挙げました。中身が入り混じってて分かりにくいけど、26年間生きてきて感じていることです。 簡単にまとめると、 「私のお金も時間も体力も、ぜーんぶ夫婦で使いたい♡」です!笑 てか私の収入では、どんなに子ども欲しかったとしても絶対産まない。 https://t.co/W1j32FxCCk" / Twitter

本文の書き方はあまりに端的で、厭世的で、捨象されたものが多いように思います。よろしければ画像とツリーまで参照いただけましたら幸いです。

私は子どもをもった身として、この方は我儘や道徳的悪を背負っていることはなく、至極冷静で、賢明な方だと感じました。産まない選択というものは常に説明を求められるがゆえに、合理的で隙がないと感じます。反対に産む理由は、「可愛いから」とか「老後を支えて欲しいから」といった利己的かつ感情的理由に依る(本人がというより他人に推奨する際にそのように言われることがある)ことがあります。

 

さて元のツイートに戻りますが、では私はなぜ母親になったのか、どこまで悩んでいるか(悩んでいないか)考えてみようと思いました。

 

実は私は、「なぜ結婚するのか」「なぜ子どもをもつのか」ということについて、何人かの方から訊かれたことがあります。否定的な文脈ではなかったので言いやすかったというのはありますが、私のようなケースは珍しいと思います。以下の項目は元ツイートの項目に基づいて書いてみましたが、内容がかぶる(ゆえに答えもかぶる)ものが多いので省略しつつ書いてみます。

 

生活面

  • 収入が自分の分でいっぱい

→たまたまですが、自分は該当しません(しないから産んだ)。自分自身の生活に大して望むものがないというのも関係していると思います。見通しが甘いのかもしれませんが、この点はぶっちゃけ伴侶に頼り切り(そして非常に綿密な試算がある)ので問題にするのが難しかったです。

  • 人の世話なんてできない

→これもたまたまですが、私は人の世話をすることを仕事にしているので、あまりそれ自体が苦ではありません。強いて言えば、外で働けば給料になるものが家庭ではそうもいかないのは残念に思います。

  • 哺乳瓶の消毒、ミルクなど面倒

→たまたまですが以下略、完母で過ごしたのでこの苦労があまりありませんでした。あと仮にミルクでも伴侶は代わっていないと思うので大差がない。消毒は最近の研究結果としては不要のようです。ほとんどやっていません(食洗機頼み)。

  • 教育費医療費など

→教育費に関しては「どこまでを基準とするか」によると思います。幼稚園からインターナショナル、小学校から私立、果ては私立の医学部へ!などの選択なのか、特に問題なければ公立や国立になるかなどで幅の広い概念ですね。個人的な経験から、あまり制限が強いようなら子を持つことは(増やすことは)とどまるような気がしますが。

  • 泣き声が不安

→単純なストレスや寝不足の原因にはなりますが、泣いているということは生きているということなので序盤のSIDSなどへの恐怖に比べるとマシかもしれません。解決になりませんでした。

  • 妊娠授乳期のタブー

→酒好きなのに酒が飲めないのは確かに辛かったです。これもたまたまですがコロナで会食禁だったのもありあまり苦にはなりませんでした。生ものも確かに食べられませんでしたが、生卵食べないと死んでしまうわけでもなかったので、まあ産んだら食べるか〜くらいのものでした。現代日本においては制限はそこまで厳しくありません。

  • その他の制限

→美容に強い興味がないのもあり、大して気になりませんでした。ここも人によりますね。最近は妊婦でもそれなりに良い服はありますが、私は結局買い集めるのが面倒だったのでクソダサい服で過ごしてしまいました。産褥はそもそも歩ける体調ではなかったので必要ありませんでしたしね。

  • 体力、若さ、美しさなどの経年劣化以上の損失を避けたい

→むしろ「何もしなくても失われる」ことを思うと、子どもを得たうえで人の形は保っているのだからめっけもんでは?くらいの気持ちです。特に努力もせず体型が戻ったのもありますが。あと損失を嘆くような美貌がない。

  • コンプレックスを継がせたらかわいそう

→これに関しては現状全然私に似ていなくて安心していますが、それはそれでやはり美容面でコンプレックスを持たせそうではあります。ただしコンプレックスを持つかどうかって身近な親の態度もかなり影響すると思っているので、鋭意気をつけて参ります。

  • 障害の可能性に対するくじ引き感

→最初からくじを引かないという対策は確かにまっとうだけれど、後天的に疾患をもつ可能性については現在生きている人もなんら変わらないものなので新しく産まれるからといってそこまでこだわる必要性を感じない。完全に「健康」な人間は基本的に存在しない。

  • 子の条件、双胎かなど選べない

→選ぶようなものではないので構わない。ただ私の場合は特殊な条件で、双胎のリスクが上がる可能性があるゆえそれを選択しないというリスク管理は可能。

  • 子の自己肯定感、グレたときのこと

→子どもは自分の複製でもなく所有物でもないのである程度まで親は責任を負うが徐々に権限を委譲することが可能。グレること自体もある意味本人の権利なので。

  • 他人なら縁切れるのに実子は無理

→親子でも切ろうと思えば切れる。むしろ実家を離れる理由になったりする(そのために子をもうけるのは不健全だけど)。

  • 将来の介護や世話のあてにしたくない

→してほしくない。人の死に際はよく知っているので子どもには子どもの人生を全うしていただく。金が欲しければ給料払って来てもらうことはできるけど(子が望めば)。

  • 仕事、住所、パートナーなど

→そもそも年をとると仕事とか身動きしにくくなる(履歴書的な意味で)。パートナー変えるのも面倒くさい。仕事の制限は現状かなり強くあるからなんとも言えない。ただ、仕事バリバリ思い通りにやるのが現状より幸福だとも言えないのでそのために今を選ばないことはないと思う。

  • 抱っこやおんぶ

別にしなくてもベビーカーでウロウロしている。抱っこマンでないのもあるけど…

  • 荷物が多い

多くはなる。なるけどベビーカーが最早運搬車。

  • 公園や行事の付き添いで炎天下

→脱水には注意したい。日焼けはするけど、焼けなかったから嬉しいことも特にない。子どもを理由に美容をサボれるのはかなり気楽。ハハッ

 

アイデンティティ

→自分のことがかなりどうでも良いので子どもが自分をこの世に係留している。これで自殺では死なない/むしろ病気や事故で死んでも自分の生命に満足できるかもしれない。

  • 虐待してしまうかも

→そのために伴侶や社会福祉があるので、可能性に気づけるなら対応もまた可能であると思う。

  • 「あのことだけはしてほしくなかった」

→自分の原家族に対してもあるし、今の家族でも子ども産む前からある。産んだら確かに増えたけど、独身でもDINKsでも許せないことは結局生きている限りついて回る気もする。

  • ◯◯ちゃんのママ

→元々私は私が好きな人の前以外ではすべてを演じているので役がひとつ増えるだけ。あと「人生の主役」は別に役が増えても減っても煌びやかでもそうでなくてもそもそも変わらない。

  • ママ友やPTA

→現状いなくてもやっていけている。PTAはむしろ会長になって恐怖政治を敷かないように注意する必要はありそう(過激派)。

  • 子への理想がないから困る

→困っていいと思う。子は独立した個人であり、一緒に考えるのが親の仕事なので。

  • いつまでも心配しなければならないのが煩わしい

→自分のことばかり気にして生きるのが苦痛なので子どもを気にかけているくらいが個人的に健全。因みにこの問題は本題の書籍で取り上げられていた。

  • 子どもの習い事やお弁当

→あまり真面目にやる気がない(ベビーシッター・家事代行頻用すると思う)。実母は頑張っていたけれど、自分としてはそんなに頑張らなくて良かったと思うし自分のことを大切にして欲しいと思っていたので、私自身はそうすると思う。お弁当手作りは親の愛情ではない。

  • キラキラコーティング

→本書でも扱われていた。確かにある。それに乗せられて作るのは自分も伴侶も子どもも不幸になる可能性があるとは思う。

 

パートナー

全体的にわかるけど、そもそも元々情緒的な繋がりが希薄(仲が悪いとかではない)なので落ち着くべきところに落ち着いたと思う。元から子をもつことを前提にしたパートナーシップなのでそうでないなら結婚していない。子どもがいなければずっと仲が良いと思ったら大間違いだ!(これは我が家の話です)

  • 幼い子に金や手間暇かけていい記憶になるとは限らない

→世の中良い記憶や経験だけで構成されていないのでそれ自体は別に問題ではないのでは

  • 女の子だと旦那をとられる

→エディプスコンプレックスだ!(進研ゼミで見た!)

  • 子育ての失敗、離婚問題

→難しい話だけど、そもそも「育った成果物」たる子どもという考え方がまず失敗の原因のような気もする。離婚はともかく別居は子持ちでもかなり有効な解決策になるし、「子どものため」は結局自分のためにならないばかりか子どもに有害なので理由にはならない。

 

というわけで、現状では私の中では大きな悩みの種にはならなかったなという感じです。強いて予想外があったとしたら、「母親になったことへの満足感」とは裏腹に「父親のパートナーになったことの不全感」はあります。ただし、「産まなかったら(母親でなかったら)どうであったか」を考えた場合、私はそちらを選ぶことはないだろうという見解です。

 

子どもを持つという能動的選択への責任

https://twitter.com/5axi4w57hyvgr2b/status/1612347655149211648?s=46&t=-B6N6G6_Kj8LyExl-wBt2A

 

私は子どもを持つことは受動的動機ではやっていけないと感じています。他人がどうかはわかりませんが、少なくとも結婚という契約に際して交わした条件を満たさなかった好例が上記かなと思います。

ここまで考えなしの人間が実在するのかはともかく、こうしたパートナーを持ってしまう場合にはやはり子を成さない方が母親(になる可能性のある人)としては健全なのだろうと思います。「母親になりたくない」は、受け入れられて然るべき感情であることが上記のツイートへの反応から伺えました。子をもつもたないに関わらず、パートナーの誠実さを欠いてはいけないという事例のように見えますね。

 

 

父親になって後悔、してますか?

さて、上記のツイートとも絡みますが、「父親になって後悔してる」というテーマはあり得るだろうかと本書を読んでいてずっと考えていました。

確かに母親は神格化されていました。現在もその名残があり、神ではなくなったものの神棚に祀りあげられて「祈ったんだから賽銭程度でしゃかりきに無制限責任と共にはたらきな」という概念をぶつけられているのかもと思うこともままあります。父親が楽だとか、縛りがないとか比較したいわけではありませんが、母親は「最初から」母親のなり方を知っていて、父親はそうではないように扱われることがしばしばあるのを目にしてきました。

 

私は、Twitterで妊娠期間中からアカウントを作成して、100名前後の方(アクティブユーザーはもっと少ないですが)と経過を共にしています。そんな中で、育児の環境や自身の精神疾患からくる子どもへの世話の気持ちの欠如、精神疾患かどうかに関わらず母親になったことを失敗したという感覚を持つ人、キャリアの停滞と喪失を嘆く人、愛情を持てたことに感嘆する人、さまざまな人を目にしてきました。私自身もその中のひとりです。私はたまたま望外に(想像していたよりずっと深く)愛情を持ちましたし、自分が思っていたよりずっと育児に関する知識を取り入れていたことに気がつきました。それは「母親だから」妊娠期間から着々と与えられてきたものもありますし、自分から求めて得たものもあります。特にお産周りは、男性の場合はほんとうに自ら率先して求めなければ得られない知識ばかりだと感じました。

 

そう、「父親になりきれないこと」は大して断罪されないけれど、そもそも「父親になること」へのイメージもまた曖昧で、「父親のなり方」が社会において基本的に明示されていない印象があります。それは女性の母親役割と表裏一体ですが、母親役割を後悔するのと同様に、父親役割は「持ちたいと表明すること」が難しく、それゆえに後悔という感情に至るほどそもそも育児に携われないという背景があるようにも思えます。

希望の持ち方がわからないというのもそれはそれで痛切な問題であると感じますし、母親役割の苦痛と別個で、しかし同時に解決すべく動いても良いかもしれないと感じています。本書自身が示したのは母親についてだけで父親はほとんど家父長制ないし新自由主義的価値観の体現者としてしか登場しないのですが、父親のもつ問題ーー「父親になれないこと」の問題について、当事者から取り沙汰されても良いような、という思いを持ちました。

 

 

本書の感想からはかなり外れた内容になりましたが、「本を読んで生まれる感想」というものは本来このように自由なものであるようにも感じます。

 

本書は「母親になって大して後悔していない」私が、母親になって後悔している人たちを理解する一助にきっとなってくれたと信じたいです。なので私自身の慰撫ではなくて、「私の知り得ない苦痛を持つ人に知らずして苦痛を押し付けない」ための前情報のようなものかもしれません。どんな苦痛にしろ、「知らなかったものを知る」という営為に損も道徳的悪もあまり存在しないように思われるので。

 

良い本でした。他の人が読んでみて「良い」と思えるかどうかは保証しかねますが、私は今この時期に読んで良かったと思っています。

 

よく眠る我が子の隣から書いた、しまりのない文章でした。あとで誤字脱字ちゃんとチェックした方がいいと思います。