毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

才能のなさについて

ブログのネタを捻り出そうとしたら天からの声(フォロワーからのリプライ)が聞こえたので書く。

 

 

仕事のセンスがない話

特にお題を設けたわけでもないが、この春から私はまた臨床に戻った。臨床といっても病院勤務ではなく在宅…我々の臨床でいう「在宅」は在宅ワークではなく、「在宅看護」のことである。自分の家ではなくお宅訪問である。

 

結局向いてないとかそういうの

私の所属組織は新卒を採用していない(多分)。全員既卒で、数年〜長ければ数十年かの臨床経験のあとに門を叩く。

 

わかってはいるのだが、私は病院に所属していた頃からあまり「看護師」という職業に馴染みがない。疎外されているわけではないが、疎外感がある。いわゆる「企投」を頑張るわけだがーーつまりまあ、類似の概念として「コミットメント」とかいえばわかりやすいーーどうにも身動きが取りにくいというか、なんというか、まあ「向いていなさ」を感じるわけだ。

 

もちろん仕事が嫌なわけでもないし、手を抜いているわけでもない。嫌なわけではない、というのは、患者のもとに出向いて、ケアを施し、会話の中に自分の血肉を織り込むことが「嫌では」ないということだ。嫌ではないが、向いていないので、何かしらを繕わなければならない。

直裁にいえば、ド正論で薙ぎ倒したくなる(これは患者だろうが同業者だろうが構わない)場面で口をつぐみ、受容的にあるいは支持的に関わったりするときに、「きっと職業的には適切なのだろうが私ではないな」と感じる。

 

そうして様々な取り繕いが生じると、やっぱり「センス」みたいなもののなさが見えてくる。私がやってきたのは、学んだことの実践であって、自らの内側から自動的に湧くようなものではない。わざわざとってつけたものなので、職業のペルソナをつけている。それは対患者だけではなく、対同業者(もちろん上司にも後輩にも)で顕著かも知れない。

 

そして同業者に対してそうしているとき、私は「嘘をついて騙している」かのように感じる。後ろめたさもあるかもしれないし、理解され得ないことへの苦しみのようなものもあるかもしれない。

 

じゃあ何なら向いてるんだよ

おこがましい話だが、研究はある程度向いていた。どの程度かというと相当に低いレベルで、他の分野の院生や研究者とは比べ物にならない。私の領域の、実践に向いている人たちと比較した場合にだ。研究の領域だと「翻訳を介さずに言葉が通じる」と感じる。

もちろん私の所属研究室は看護だけが対象ではない(むしろ私が異色である)から、あらゆる前提知識を共有しているわけではないけど、「当たり前」が同じで、言葉の意味の認識が同じだから、他人とのコミュニケーションに割く脳のコストが少ないように思う。情報のロスも少ない。

 

まあ、相手に伝わらないように言う私が悪いのはそうなのだが。

 

とはいえ、年の功もあり私も実践領域の感覚的なところも多少はわかるようになった。わかるようになったが、ただそれだけであって、何か創造的に物事を進めるのはハードルが高い。

 

 

向いていない人が向いていない人のために

向いていない人間に役割ってあるのか?

あるのか?というか、役割を作るとしたらどうしたらいいのか?みたいなことを考えた。

考えた結果、私は実践領域の人が言語化せずにそのまま暗黙知から暗黙知へ伝授するエッセンスをわざわざ翻訳する術を身につけつつあるように思う。

別に難しいことではないのだが、忙しい実践者たちは初学者や別分野の人に自分たちのエッセンスをわざわざ言語化するコストを惜しむ傾向にある(ように思う、ときがある)。

 

向いていなさを突き詰めた結果、自分が技術として獲得したそれらを、方法論として記述することは確かに悪くないニッチのようだと思うに至った。

だからといって即座に何かできるかといわれるとそういうわけでもないが、「向いていなさ」は卓越した技術の持ち主がいる世界では意外と使える。なにせ初学者は山ほどいるし、向いていなさを上手く使ってニッチに切り込む人が相対的に少ないからだ。

相変わらず居心地は悪いかもしれないが、「居心地の悪さ」「向いてなさ」の摩擦によるエネルギーは使いようによっては役に立つ(と、思いたい)。

 

 

「向いてない」の逃げ道的用法

確かに、「向いていなかった」を「逃げ」ととらえる向きもある。というか、どちらかというとそういう負の側面から捉えられがちだ。私もわざわざ、たとえば面接なんかでそんなことを言う機会はない。それこそ臨床の人相手に面と向かって言ったことはない。

「仕事がでなくてすみませんねえ、ほんと、一生懸命やりますんで、えへへ」と言いながら実際それなりに一生懸命やればなんとかなってしまうからだ。自分にも負荷はかかるだろうが、それはペルソナに対してかかっているのであって、中の自分はただただ「向いてなさ」それ自体の軋轢のみを感じている。ゆえに、職業的適性とは関係なく、「やって」いさえすればなんとかなる。

生存者バイアスだ。捕まえろ!

 

 

育児とかもそうかも

私はおそらく乳幼児の育児もあまり向いていないと思う。見ているのは楽しいし、愛情も湧くが、親としてどうかと言われるとよくわからない。最終評価は将来子ども自身が下してくれるだろう。

一般的な育児、例えば発達段階に適切な遊びを考えたり、声の掛け方を選んだり、毎日の過ごし方を考えたり、そもそも0歳児のときから早々に預けて働いたりといったことのあらゆる面から「あんまり向いていない」感が滲み出ているのである。仕事と比べて超楽しいかと言われると、与えられた役割なので全うしているし、思ったよりかなり楽しいが、やはり「向いていなさ」を感じながら同業者(ママ)に対して「向いてなくてすみませんねえ」みたいな気持ちがある。すみませんねえ、ほんとに。

 

向いているかそうでないかではなくて

やるかやらないか、だ、という話を数年前(かなり前なのだが)に自分はしており、まあ今でもそう思う。逃げるかどうかを決めるのは自分だし、腹を括ってやる、やるなら何年間どのレベルまでやる、とかそういうリミットを決めるのも自分だ。ダラダラやるのももちろん自由だ。継続は力なりで、ダラダラと先を決めずに続けることで得られるものもそれなりにあると思う。思い切って「向いている」と思う方向に進んだからといって、向き不向きと「やっていける」環境が実際に一致するかは不確定だからだ。

たまに、「大学院に行って失敗した」のようなブログエントリなどを見かけるが、向いている・いないの問題もさることながら、「やりたくない」のにやっていくことはできないだろうと思うことがしばしばある。

 

センスのなさをカバーするには

  • どこまでやるかを決めておく
  • 何のスキルでセンスをカバーするか考える
  • 上記を準備・実行する
  • やる

以上だ。それで成功するとはひと言も言っていないが、センスのない人間はニッチでこうやって生きている。

最近思うところあるが、どんなに忙しくても、「向いているところ」にひとつでも軸足があれば「向いていないところ」との軋轢からくるストレスは意外にも分散される。たとえ「向いている」タスクを減らした方が時間的には助かるとしても、精神的に「向いていること」を削がれた状態というのはかなりのストレスがかかり、自己効力感も減り、その結果やっていけなくなる。

 

向いていないことをやっていくために、向いていることも細々やる。

時間がたっぷりある人は両方ガッツリ取り組めば良いが、時間も余裕もない人はコッソリ取り組み、種を蒔き、自分でそれを回収するしかない。

 

 

締まりがなくなってきたので、アダム・スミスの『道徳感情論』から好きな一節を借りて終わりたい。

 

聡明な人は、称賛されても自分がそれにふさわしくないとわかっていたらまず喜ばないけれども、称賛に値すると自分が思うことをしているときには、たとえ誰からも称賛されないとよく知っていても、しばしば大きな喜びを感じる。

是認されるべきでないことに世間の是認を得るのは、聡明な人にとってはけっして重要な目標とはなり得ない。現に是認される価値があることに是認を得るのは、ときに小さな目標にはなるかもしれない。

一方、是認に値するものになることは、つねに最も重要な目標となるはずである。

 

 

そんなに高尚な目標ではないのだが、「向いていること」が(広くいえば)世にとって是認に値するものになることは未だに拙い野望である。