毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

特に理由のない不安について

根拠のない予期をすることがある。最近(ここ数年)頻繁なものだと、「外出先でトイレに入ると個室で人が倒れているというシミュレーションをする」というもの。

まったくわけがわからない、理屈なしに直感的に「それ」が起こるような気がするのだ。喫茶店で、居酒屋で、駅のトイレで。個室を開けると人が倒れている。心肺停止かそれに近い状態である。私は人を呼ばなければならない。広い場所に移さなければならない。呼吸を感じられなければ即座に胸骨圧迫を開始しなければならない。

大体これは5割くらいの確率で自覚しており、そのため私は外出先のトイレに入る時には結構な覚悟をしている。多分人生でそんな機会はないだろうが。なんらかの手助けが必要な人には道端で何回か直接助力したことも声をかけたこともあるのに、私が覚悟を持っているのはなぜか外出先のトイレだけである。トイレでの対応は任せて欲しい(口だけは威勢がいいものだ)。

 

 

 

さらに、出産後に増えたものといえば、寝転がっている子を跨いで(あまりやらない方がいいが)移動するときなどだ。重いものを落としてしまう、自分がバランスを崩してしまい体の上に覆いかぶさってしまう、あまつさえ膝などが直撃してしまう。そうすると肋骨の骨折は免れないだろうし肝臓や脾臓、心臓などの主要な臓器を傷つけてしまうかもしれない。

これも、子どもの成長とともに安心するようになってきた。首の据わらない子どもを落としてしまいそうになる不安を抱える人は多いと思うが、その延長と言っていいだろう。因みに私は落とすことへの不安はほとんど感じたことがない。しかしながら、首が据わったかどうかわからない程度の子どもを沐浴している最中に手が滑りそうになったことはあるし、入浴からあがる際に足を滑らせて10cmほどの高さからドスンと置いてしまったこともある。しかしそれでもなお(何故?)落とすことの恐怖よりも潰してしまうかもしれないことへの不安の方が強いのである。頼むから適切なほうに気をつけてもらいたい。私は私を信じていないので、そのあとは足を滑らせないように入浴そのものをやめてシャワー浴に切り替えた。

 

 

 

私はこれらのシミュレーションや不安に名前がついているのかどうかわからないのだが、よほどのことで、たとえば外出先のトイレに入れないとか子どもに一定方向からしか近づくことができず育児に支障が出るなどしたらなんらかの病名がつきそうだ。

 

もっと他人に理解してもらえそうな例を思い出した。高所恐怖症だ。私は高いところに行くと「自分が飛び降りたいという願望を持つのではないだろうか」という不安を持つ。これを直接の高所恐怖症と呼ぶのかどうかわからない。自殺願望恐怖症とでも表現した方が良いのかもしれない。通過する電車に近づいた時も同じような想像をするが、電車は比較的マシである。その差はなんなのかよくわからない。

 

今まで人にあまり話したことはないし自分で言語化したこともないが、未だに自分の中には言語化の不十分な、感情にも満たない一瞬の衝動のようなもの(というかそれに対する不安)がある。

 

村上春樹のことはあまり好きではないのだが、昔、高校だか中学のときの授業で「扱わなかった」短編が思い起こされる。その最後の文章はこうだ。

 

ところで君たちはこの家に鏡が一枚もないことに気づいたかな。鏡を見ないで髭が剃れるようになるには結構時間がかかるんだぜ、本当の話。ーー村上春樹『鏡』

 

結局私もこの男のように、不安そのものを解消するためには「その状況を作らない」ことしかできないだろう。しかしトイレに行かないわけにはいかないから、やはり覚悟は必要なのである。多分人間誰しもこういう小さな覚悟が必要な場面はあるのではないだろうか。いやあって欲しい。

 

というわけでこの拙い日記を読んで下さった皆様に「そういえばわけのわからない不安があるな」といのがあったら是非私に教えていただきたい。主に私が安心するために。あとは密かに楽しむために。お待ちしております。