毒素感傷文

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人間を作るということ3: メンタル崩壊

喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよくいったもので、今や激しい苦しさは忘れつつあります。しかし、今も不妊治療を続けておられる方の書き込みや胎児・乳児を亡くされた方のブログなどを読むと容易に涙が出ますし、コウノドリのようなエピソードを読んでもやはり自分の過去の境遇に近いものや苦しみについては心が揺さぶられます。

 

不妊治療の実際と意思決定のプロセスを経て、今回は感情面について書いていこうと思います。

 

 

不妊治療全体を通して

1年半に及ぶ治療は、私の場合は非常に孤独な戦いでした。実生活で伴侶以外に相談したのはカウンセラーの方だけでしたし、SNSに依存しがちなこの有様でさえオープンにすることができませんでした。もちろんオープンにしてはいけないわけではありませんでしたが、とにかく自分がなにか、不十分で欠けた存在であるように思えて、常に頭のどこかに治療のことがありました。

治療というものが自分のアイデンティティになってほしくない反面、治療を隠して生活することは治療への努力と治療によるキャパシティの減少が見えなくなることでもあります。不完全燃焼の院生生活、キャリア、その背景にじっとりとついて回る影のようなものでした。私は今でもあらゆる職場・研究室に対して双極性障害を明らかにせずに就労していますが、最初のうちは人生における努力と苦悩の半分をなかったことにして生きているように感じて非常に孤独であったことを思い出します。不妊治療を隠して生きることはそれと同じくらいの苦悩を伴いました。言ったところで解決しないというのが一番大きかったように思いますが、「マイナスをゼロにする努力」というのは人の目に映らず、なにか賞賛されるようなこともなく、また自分に対して客観的に誇りを持つことも難しく、忸怩たる思いを抱え続けました。そんな気持ちが通底するなか治療の変遷で都度感じていたことを書き残します。

 

 

最初の生化学的妊娠

実は、結婚後すぐに一度だけ生化学的妊娠を経験しました。元々基礎体温はろくに測っておらず、生理周期もガタガタ(30日〜50日近くなることもしばしば)だったので自己流妊活などというものにも積極的になれず、ブライダルチェックで異常がなければ若さに恃んでなんとかなるであろうという楽観的な気持ちでした。これが28歳の1年間です。

 

月経周期もよくわからないまま少し胃腸の体調不良を感じたので、自分のメンタル面からして(自分には双極性障害があり悪化するときには食欲不振や嘔気の症状も出ます)もよくわからないので検査薬を使ってみて陽性を知りました。

婦人科ではまだ胎嚢などは確認できず、ひとまず次週の受診となったところにすぐに月経があったので生化学的妊娠であったことを悟りました。実際生化学的妊娠は気づかれないことが多いだけでかなりの確率で発生しており(大凡全妊娠の3割という数字も見ました)、悲しむようなことではないと頭ではわかっていましたが、それでも一瞬期待したゆえに悲しみが襲ってきました。

また、念のためと渡された子宮収縮促進剤が非常につらく、むしろそちらの副作用のために仕事を数日休まざるを得ませんでした。当時は夜勤ありのフルタイムで看護師をしていたため職場は常に忙しく、力仕事を伴う立ち仕事であったために強い痛みを抱えて長時間の業務をすることが難しかったのです。よくあることだと流さずに休ませて下さった職場や上司には感謝しています。よく聞く話ですが、医療従事者のわりに妊娠への偏見やマタニティハラスメントも多いといわれる職業ですので、こういった面でも職場には恵まれていたと思います。

 

 

退職の意思決定

そんなことでと思われるかもしれませんが、生化学的妊娠が終わったことで急に妊娠と出産を意識するようになりました。当時大学院の進学を目指していたこともあり、妊娠とフルタイムの仕事とのバランスが難しく感じられました。よくあることですが、職場は慢性的に人手不足でしたし、仮に妊娠しても病院全体の調整の都合上外来業務などに回ることができない見通しであったことも影響しています。

また、つわりの酷かった先輩が辞めたことや自分の家庭の事情(当時は翌々年に遠方への転居が計画されていました)もあって同じ職場で育休や復帰の道筋が見えなかったこともあり、急速に勤務継続の意思が萎んでしまいました。

 

結局いつ辞めるかの判断となったのですが、思ったよりずっと早く退職することになりました。そしてこれは後付けですが、退職を決めたあとに職場のスタッフが2名立て続けに妊娠したことを知り、それぞれの事情も知らないのに「良いなあ」と思ったのを覚えています。同時に、自分がそれに続いていたところで妊婦が同時発生するとあまり職場の配慮が得られなかったであろうことを皮算用し、辞める決断をした自分を励ますことにもなりました。

当時よく覚えているのは、厳しかった(理不尽ではありませんでしたが)先輩が急に辞職を決めた理由を訊いて、私がそれに答えたときに同情してくれ、「ストレスが多いからね、辞めたあとすぐに子供ができて上手くやっている人もいるから」と励ましの言葉をくれたことです。

 

正直今でも、生化学的妊娠で心が折れて辞めるなんて馬鹿な決断だったと思わなくもないのですが、精神的にも体力的にもきつい仕事を多少無理してこなしていたのも事実なので、この気遣いが後々にも支えになりました。

妊娠に関して、頭ではわかっていても気持ちがついていかないという歯痒い思いを抱えたのはこれが最初でした。自分の伴侶はもともと感情表出が豊かではなく、また自分自身も大袈裟に悲しむことをよしとしない性格なので、誰かが代わりに悲しんでくれることは実にありがたいことでした。

 

 

 

不妊治療を開始するまで

そんなこんなで、新しく始めた非常勤と学部・大学院の授業、院試に備えながら少し休息する日々が始まりました。

気づけば結婚から1年ほどが過ぎ、通常の結婚生活かつ妊娠を望む夫婦であれば8割が妊娠成立を経験するといわれる時期に差し掛かっていました。ここまでの間にさらにもう一度生化学的妊娠を経験しました。この時はあまり落ち込みませんでしたし、婦人科も受診しませんでした。

 

その後はどちらかといえば院試のプレッシャーが強くややナーバスになっており、食欲も落ちて体重も減少したため月経不順が悪化していきました。院試自体はその後うまくいきますが、いずれにせよ妊娠の不成立についてどころか婦人科的ななんらかの治療を必要とする状態だと判断し、婦人科の通院を決意しました。

この頃の妊娠に関する思いについてはあまり覚えていませんが、自分は数字にこだわる傾向があり、8割の多数派に入らなかったことはなんらかの問題があるとみて良いだろうと考え始めていました。この8割は、婚姻から2年の間に9割になります。自分が介入なしにその1割になるとはあまり思えなかったのを覚えています。思えなかったというより、介入なしに過ごすことに耐えられなかったというのが正しいかもしれません。

 

 

 

婦人科の受診と不妊治療の開始

簡単な検査を受けながらホルモン剤の投与で卵胞の発育や子宮内膜の様子を経過観察する日々が始まりましたが、ここには特に大きな問題はありませんでした。タイミング法になった時点で夫婦仲に問題が発生するご家庭もあると聞きますが、幸い伴侶はとても協力的でしたしこういったことへの偏見や萎縮もありませんでした。

同時に、ブライダルチェックに相当するSTDの検査や精子の状態を確認する受診を伴侶に促して行ってもらいましたが、こちらも正常範囲内でした。

 

これらのアプローチは生理周期に換算して4-5回目くらいまで続けてきましたが、合間に挟んだ検査も異常が見つからないことから、「もう少し高度な治療が必要なのではないか」という焦りが生じました。異常がないことはもちろん喜ばしいことですが、異常なしで妊娠が成立しないというのもまた不思議なことだったからです。

 

そして人工授精までは一般不妊治療の範囲であるとはいえ、やはり通常の性交渉によらない妊娠にやや抵抗があったのも事実です。

これは私の不勉強によるものですが、体外受精と人工授精の区別がはっきりついておらず、のちに調べることによって人工授精へのハードルが低いことを知りました。人工授精以降の治療はやや特殊な装置や環境を必要とするため一般的な婦人科を扱うクリニックでは限界があり、ここで初めて転院することになりました。

 

転院にあたり、まだ自然なアプローチを続けるかどうか悩んだ覚えがあります。当時は「人工授精までやればなんとかなるだろう」という思いと、既に伴侶への申し訳なさが混在している状態でした。

 

 

一般不妊治療から高度不妊治療へ

2つめの精神的な関門はこの辺りで訪れました。

 

まず、転院してその環境に圧倒されました。ある程度覚悟はしていましたが、通院の時間的負担、待合室の息苦しさ。そこにいるすべての人が多かれ少なかれ治療を求めている人で、一体どれくらいかはわからないけれど自分より長く生殖医療を必要としてきているというその事実に少し呑まれてしまうような感覚です。

 

これは本当に勝手な言い分ですが、これまで目立った異常が見つからなかった自分がその場所での介入を必要としているという事実も重苦しいものがありました。何より自分の年齢はまだ不妊治療を受けるには比較的若かったのもあります。「なんで、どうして」という気持ちはこの辺りから強くなりはじめました。

受診のたびの流れ作業のような内診も、医療従事者のはしくれとして理解していても精神的苦痛を伴いました。「自分がモノのように感じられる」という感覚は、哲学者のクレール・マランが実体験に基づいて書いた部分を想起させました。私の体は私自身の意の及ばぬところで治療の対象になる、という身体と精神の切り離されたような感覚です。同時に、身体がいかなる介入を受けようともそれは「必要な医療」であって、主体的に意思決定するのはあくまで自分であるのだという気持ちもありました。つまり何かひとつの感情に支配されるというより、様々な機会に影響を受けながらずっと揺れ動いているような感じです。もちろん自分を奮い立たせる努力の結果でもありましたが、完全に憂鬱なまま固定される抑うつ状態ともいえない不安定さがありました。

 

また、必要な検査も並行して受けながら人工授精を3回目まで受けました。この頃には調べものにも慣れ、人工授精での生児の獲得率が4-6回目ほどでプラトーになることや、体外受精が必要になる場合の条件や負担などさまざまなことの知識を得ました。段々と不妊治療への偏見がなくなり、高度生殖医療への心理的ハードルが下がっていったのもこの頃です。

そしてハードルが下がるのは良いことですが、同時に成果がまったく出ないことへの負担も大きかったです。この頃はまだ大学院での見通しもさほど立っておらず、あらゆる面で成果がないことの苦しみがプレッシャーになっていました。体外受精に関しては経済的負担も跳ね上がりますし、侵襲も大きくなります。意思決定は自分のみとは言わず、伴侶にも相談しましたが、基本的には自分の意思決定に伴侶が同意するという形で進みました。それ自体は一度も否定されたことはありませんでしたが、体外受精を切り出す時点では治療の撤退のタイミングも同時に考えながらの話し合いとなり、苦しさに耐えきれずに泣きだしてしまうこともありました。

感情的になるのを良しとしない性分から、そもそも感情をコントロールできないこと自体が非常に苦痛だったのをよく覚えています。感情を持つことは罪ではないと頭ではわかっていても、明らかに非合理的な考えをしていることを自覚しますし、そもそも子をもつために結婚したことを考えると最早離婚さえ考えなければならないとまで追い詰められることもありました。100%本気ではなかったと思いますが、それでも「〜歳までに成果がなければ相手の時間を空費してしまうのではないか」という申し訳なさとプレッシャーは拭い去ることはできませんでした。信頼してないわけではありませんでしたが、選択肢が必要だと考えてのことでした。

結果的にその具体的な条件は保留しましたが、話し合うこと自体は無駄ではなかったと思っています。そして無駄ではないにしても、そもそもそんなことを話さないといけないような状況になるほど治療がステップアップしていくことに益々負担を感じてもいました。

 

相変わらず私は数字が好きなので、とある調査で「高度不妊治療を開始する時点で1/3程度の患者が抑うつ状態にある」という記述を発見し、これを中心としたカウンセリングを受ける決意をしました。そこまでのことではないという気持ちもありましたが、治療の継続で自分の持病が悪化する懸念は大いにありましたし、そもそも妊娠が成立したとしてもホルモンバランスによる負担やその後のマタニティブルー・産褥うつなどに関して自分がハイリスクであることを自覚していたこともあります。

そしてこの時期はコロナ禍の真っ只中であったこともあり、オンラインカウンセリングが普及したことも背景にありました。結果としてよいカウンセラーの方に恵まれ、1ヶ月に1度くらいのカウンセリングを受けることにしました。通院先にも比較的安価なカウンセリングが用意されていましたが、自分としてはトータルの(大学院やキャリアなど)意思決定に関する支援を必要としていたので、外部のカウンセリングに頼ることになりました。

 

 

 

仕事の精神的負担

この頃、勤務先では上司にだけ不妊治療のことを伝えていました。タイミング法のあいだはまだしも、人工授精となるとスケジュールの固定された受診タイミングが発生します。そのためシフトの変更を申し出る可能性がありました(結果的には人工授精のあいだは影響しませんでしたが)。勤務先も医療機関であり上司は医療従事者ですから特に抵抗なく相談できましたが、むしろそちらよりも勤務内容そのものが徐々にストレスになっていきました。

ひとつに、自分の向き不向きの問題で、もうひとつはコロナ禍と乳幼児についての葛藤です。

 

前回記事でも少し触れましたが、このときの勤務先はクリニックだったので看護師として知識や技術が必要とされる場面が少なく(これは単にたまたま私の職場がそうであっただけですが)、キャリアの継続にあまり寄与しないことへの不安がありました。元々、人工授精を開始したくらいの時期には転居している予定だったので予想外に勤務が長くなりつつあったことが大きく影響しています。

ゆえにすべて自分の決定による結果ではあるのですが、不妊治療が絡むと事態は複雑で、「コロナで自分が治療を遅れさせなければならなくなるリスクを抱えてまで他人の子供の診療の補助に従事する必要性が本当にあるのか」という疑問とも向き合うことになりました。

もっというと、「ここに絶対に来る必要性のある人間から感染するなら納得できるが、今の状態はおそらく納得できない」という結論に至り、体外受精のことも視野に入れつつ転職活動を開始しました。

 

この頃の悩みは深く、伴侶の転職(と転居)・体外受精による妊娠のタイミングと自分の仕事のやりがいを天秤にかけていました。

体外受精そのものに関しては、やると決めてからは少し精神的に安定して、「治療への興味」を優先させることができるようになってきました。体外受精によって卵子や胚を観察できるため、直接の不妊の原因にアプローチできる幅が広がるということも安定の要因でした。結果的には別の部分で問題が見つかるのですが、その頃にはかなり安心して前向きに治療に臨むことができていたと思います。

 

 

体外受精にまつわる精神的変化

体外受精になるころには精神的負担は減りつつありましたが、身体的・時間的負担は急増しました。そしてそのことに伴う精神的負担は増していきます(ややこしいですが事実です)。

「どうして自分ばかり時間を奪われなければならないのか」という気持ちは拭えない一方で、「やれることは全部やっている」というある種の満足感がありました。

結果的には最初の採卵で培養できた2つの胚を2回とも不成功に終え、次の採卵で得た胚を現在の妊娠に繋げることになりましたが、自己注射や処置の送り迎えなどを伴侶に願い出ることでかえって頼りやすくなりました。また、生殖に繋がる処置を外注してしまうことで、夫婦生活は別物として手元に戻ってきたような感覚があったのも回り回ってよい影響があったように思います。伴侶がどう感じていたかは推して知るべしですが、こうした一連のことについて否定的な見解を示されたことは一度もありませんでした。私がわざと感情表出を試みて愚痴を言ったりしても、(共感は得られないものの)耳を傾けてもくれない、受け止めてくれないということはありませんでした。

つくづく伴侶に迷惑をかけたと同時に、伴侶がいたからこそ治療に耐えることができたと思っています。(私の)治療に耐えたのはむしろ伴侶の方かもしれませんが、体外受精で跳ね上がった出費に関しても文句を言われたことはありません。むしろ、金銭面くらいでしか支援できることはない代わりにそこだけは苦労させまいとして私に声をかけることがしばしばありました。

わかりにくいですがそれが一種の控えめな愛情表現であることは理解していましたし、そういう「私の精神的な害悪になることを絶対にしない」ということに関しては徹底されていたように思います。私もこの頃はできる限り不満を具体的に口にするようにしていました。言わずに不機嫌になっても何も解決しないことは明白でしたので。

 

 

職場での負担

これに関しては前回・前々回で詳細に書いたので割愛します。

介護という性質からかスタッフの人間的な面への関わりが深い職場で、私の治療のことが伝わってしまい、不用意な質問が苦しむ原因になってしまいました。が、この職場に関してはそう長居しないと決めていたことからある程度心理的距離をおいて働くことができており、そこまで深く傷つくことはありませんでした。どちらかといえばわざと自責より他責に切り替えることで自分の心の問題を処理することにしていました。もちろん感謝も深く自覚していたので、実際に対応するときにはそちらの面が出るように振る舞いましたが。

 

 

おわりに

というわけで3回に渡り長々と書いた治療経過の記録はこれで終わりにします。出典などを出さずに書いているので、後々脚注の追加をするかもしれませんが、自分のための備忘録としては十分な内容になりました。

 

そもそもこれらの記事を書くことについて若干の悩みはありましたが、こうして整理して振り返ることそれ自体が多少自分のメンタルケアになったとも感じます。書かないまま、知られないまま供養することももちろんできたであろうとも思いますが、今でも悩みながら受けた治療について書くのは今後の自分にとってよい影響があるという予感があります。

あまり誰かのためになるような内容ではありませんが、不妊治療への理解の助けや言えずに苦しんでいる誰かの代弁になるならばこれに勝る幸せはありません。

 

お付き合いいただき、ありがとうございました。