毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

人間を作るということ2: 仕事・院生生活とのバランスについて

前回は「そもそも不妊治療とはなんぞや」ということについて書いていたので、今回は実際に私がとったバランスとスケジュール調整を備忘録がてら書いて行こうと思います。前回と違ってあまり誰のためでもありませんが、後から振り返って書いてみると大学院生・非常勤・不妊治療の三本立てをパズルかなんかのように組み立てていて若干面白いのでその点に関しては読んでいただく価値があるかも知れません。

しかしすべては未来を予測してのことではないので(想定はしますが)、もちろん行き当たりばったりで都度ぶち当たるたびに考えて決めたことです。治療に臨む人の意思決定がどんなふうに行われるのかに焦点をあてて書いていきます。

 

 

院生生活・仕事と不妊治療のバランスについて

大学院

M0: 入学前年、クリニック初診

元々転居(関西から関東への遠距離)の予定があったり、修士課程在学中の出産も想定していたため通信制の大学院を選択していました。また、退職した年にはまだ院試を受けなければならなかったので、治療開始のタイミングは院試の前後くらい(面接を受け、結果待ちをしている時期にクリニック初診)でした。

 

この年度には、

  • 院試準備・受験・合格
  • 学位審査(看護学士)の準備
  • 学部の科目履修・修士課程科目履修(後期のみ)
  • 非常勤(仕事1、後述)、常勤退職直後から

などをしています。

 

クリニックの受診動機はあくまで体調不良がメインでしたが、不妊治療もソフトなものなら始めたいという気持ちもあったので諸々好都合ではありました。が、ソフトな不妊治療(タイミング+排卵誘発)では一向に音沙汰がなかったため、どこでステップアップをするかは悩みどころでした。毎月の通院に疲れたことや、同じ治療を続けることへの悩みから、たしか2周期ほど治療を休みました。しかしながらこの間にも不安が拭えず、結局ステップアップのために紹介状を書いてもらい、次の周期には人工授精をすることになりました。人工授精を開始したのはM1になってからです。

 

M1: ステップアップ(人工授精、体外受精

M1開始時は諸々不慣れだったことや治療の疲れもあり、少し休んでいました。夏になるころには感触が掴めてきたのもあり、転院して人工授精に臨むことになります。結果としては4回不成功で、この頃には学会発表に出すか否かという程度の手応えがあったのである程度安心して治療内容をさらにステップアップする心の準備ができました。

時期としては、1回目の移植前後と学会発表・仕事2への転職活動がかぶっていました。

その後も移植と採卵がありましたが院生生活に大きな動きがなかったため、研究と履修科目に時間を充てていたと思います。M2で何が起こるかわからないので、M1の間に修了のための必須単位はすべて取り終えました。それからM0のときに準備した看護の学位(学士)も審査を受けて取得しました。

 

M2: 妊娠成立、出産(予定)

M2の最初は後述の仕事面での動きがあったため検査などに充てました。その後の移植で妊娠が成立したため、予定日通りであれば修論提出・口頭試問後の出産になることが予想できました。が、早産になるリスクは十分あるため今でも若干の危惧はしています。論文自体は出したので、急なことがあっても試問の日時をずらしてもらうことはできそうですが。

 

仕事面

仕事1: クリニック(M0-M1)

週2-3回、午後の診療時間帯(5時間程度)のみの勤務をしていました。身体的な負荷はフルタイム夜勤ありの病棟看護師の1/10くらいだと感じていました。元々治療を始める前から転居を見据えた短期の仕事や大学院との両立を考えた結果の選択で、治療を始めてからは治療が大変で他の仕事に移ることも考えにくくなり、結局そのまま続けていました。

勤務シフトにはかなり融通が利くので、採卵に伴う変更やその前後の体調不良での急な休みもなんとか許容される職場でした。大変ありがたかったです。

 

転職(M1)

が、もともとクリニックの業務の簡単さにやや飽きてしまっていた(専門職としての経験が薄くなりがちである)こともあり、結局ARTを考える時期になって退職(転職)をすることにしました。これはクリニック全般への見方というより、職場であまり看護師としての役割が求められていなかったことからくるものです。特に職場が悪いとかではなく単にマッチングの問題と状況が変わったことによります。

また、乳幼児に罪はありませんが、当時コロナ禍最盛期に加えてまだ検査や治療のシステムも模索中でしたから、「ここでかかってしまったら私は(一時的に)治療に通えなくなるのに、どうしてリスクを冒してよその(しかも軽症の)子どもの面倒を見なければいけないんだろう」と考えることはしばしばありました。非常に独善的な考え方ですが、いち患者・労働者としての思いはこんなものです。

 

治療とのバランスは、初回の採卵が終わったくらいの時期に転職活動を始めながら辞職の意を伝え、初回の移植の前くらいに転職先が決まりました。移植をしながら転職をすることへの不安はありましたが、非常勤ゆえ少し気楽であったのと、諸々の負担を考慮してルーティーンが固定されている(イレギュラー対応が少なく業務に慣れやすい)職場を選んでいたので「なんとかなるだろう」という気持ちもありました。

 

転職にあたり、不妊治療も院生もどう考えても不利でしたがそもそもそれと両立できることを前提としていたので優先度が高いのは先の2つであり、そのことを念頭に置いてオープンにして転職活動をしました。とはいえあまり探し回る気もなく、1つめで既にアクセスや業務内容・勤務スケジュールが適切なところに当たったのでそこにしてしまいました。

何より重要だったのは不妊治療の負担を考慮してもらえるという確約を面接時にされたことでしょうか。スタッフの身体的負担は大いに考慮される職場で、またしても職場には恵まれたのだと思います。

 

めちゃくちゃややこしくて自分でも混乱するので時系列で書くと、2020.11あたりから転職活動をして2020.12に決定、年末年始に初出勤(デイサービス)をしていました。以前の職場(クリニック)は2021.1を期限として退職しました。また、2021.3になんとなく見ていた求人でアカデミア関連かつ好都合なものを発見し、2021.4〜2022.1の有期雇用として入職しました。なので、2021.4からはダブルワークとなっておりましたが、自分の妊娠(による身体的負担の増大)や転居を理由として2022.7末にデイサービスを退職しています。

 

すべて後付けでうまく行ったとしか言えない状況ですが。

 

仕事2: デイサービス(M1-M2)

高齢者施設で週2回、8:30-17:30の1日勤務でした。本来は仕事1を退職したのち週3回の予定でしたが、私が大学の非常勤を始めてしまったので週2回で据え置きしてもらいました。もともと求人でも週2-4回の幅があったので許される程度です。

 

業務内容の中には仕事1と異なり介助度の高い高齢者も含まれているため、以前よりは身体的負担が増しました。が、不調はある程度考慮してもらえましたし力仕事を介護士の方がメインでして下さるなど比較的恵まれた環境ではあったと思います。しかしこちらも勤務時間中は立ちっぱなしなので採卵の前後はやはりつらく、勤務の変更などをお願いして休みをとりました。

また、妊娠してからはかなり早期から比較的重いつわりがあったので食事その他の匂いの負担や介助の負担もあり、妊娠3ヶ月の入り口くらいで早々に辞めてしまいました。つわりだけならば休職してから戻る可能性もあったのですが、この他に

  1. 継続して通院が必要だった不妊治療の専門病院にこだわる必要がなくなった
  2. 大学院の修論が控えているので復職すると負担が大きい
  3. 伴侶も春から転職しており比較的遠方の職場に通っていたため引っ越しの検討をしていた
  4. 仕事3の職場も2の場所に近いため引っ越しをさらに後押しした(有期雇用とはいえ)
  5. 院進も転居が前提だった

……などの理由からそもそも辞めない理由がほとんどなく、代わりの人も見つかったことからスムーズに辞めることができました。

 

なお、不妊治療と職場の融通に関してはやや辛い面もありました(前回の記事で少し触れています)。

あまり深追いするようなことでもないうえにたくさん配慮していただいたことも事実なので悪くは言いたくないのですが、「職場に言ったら言ったで大変(理解が得られたとしても)」ということもある、という程度です。

しかしながら、実は厚労省からの発表では「治療内容を勝手に上司が話すのはハラスメントに相当する」との記載もありますので、本来なら強く訴えても良かったことなのだとは思います。

 

そもそも基本的にお互いの体調を気遣う組織文化で、何かと情報共有したがることの弊害であったとも思います。いわゆる「アットホームな職場」というやつですね(私はとても苦手ですが、嫌いではありません)。

実際にはもちろんメリットもあって、特に妊娠が分かった後には随分早期であるにも関わらず常に気にかけてもらえましたし、治療に伴う痛みや動悸などの副作用なども適切に説明することで勤務中に少し休ませてもらうなどのこともしていました。

 

妊娠や不妊治療に関するハラスメントがほとんどなかったことは本当に恵まれていました。

妊娠初期はまだまだ流産の可能性が高いためできるだけ黙っていたかったのですが、つわりが早々に来てしまったことで説明せざるを得なかったのをやや負担に感じたこともあります。しかしながらこれも結果論で、辞職がスムーズになったのは事実ですし、もし流産してしまっていたらそれなりの配慮がしてもらえたのだろうと思います。

 

先の見えない治療を見越して転職するためには、「そもそも先が見えない」ことへの理解を得る必要はどうしてもあったと思います。これは私が専門職であったからこそ強気で選択しやすかったということも影響していますが、しかし治療と院生ととなると常勤を維持することができないというのも現実です。二足の草鞋は履けても三足は難しい、ということですね。仕事面で二足が履けないというのは、贅沢な悩みではありますがやはり多少悔しくはありました。

 

 

仕事3: 大学助手(M2)

こちらも非常勤で、週に1度だけの募集がかかっていたのを偶然見つけました。時期としては2回目の採卵が終わった直後くらい、仕事1は辞職しており仕事2に注力しはじめた時期です。仕事2も相当に融通のきく勤務体系だったので、院生であることや今後のキャリアを考えると少しでも教育に関わった経験が必要であると考え、仕事2と調整して仕事3をすることにしました。

こちらは大学の授業のある日にだけ行くので、9:00-17:00程度のときもあれば半日のときもあるという変則的な勤務です。勤務地がやや遠く、早朝のラッシュも予想されたので

「仕事2勤務終了→仕事3の近くのビジネスホテルに宿泊→翌朝仕事3へ行き終了後帰宅」

という収入度外視のことをしておりました。仕事3に関しては経験できるだけでもありがたかったので、この状況でもやる価値があったと思っています。

業務の身体的負担に関しては、立ち仕事が多めではあるものの仕事2より軽いため、苦なく続けることができました。

 

 

仕事2・仕事3と治療の両立

仕事2の初期で採卵(絶不調)、その直後に仕事3を開始したため、治療スケジュールはやや悩みました。

この時点で体外受精は2回不成功していたため無闇に繰り返すと胚を無駄にしてしまう可能性があることと、仮にうまく妊娠が成立したとしても職に就いて間もなく未知の身体的負担に遭遇する恐れがあったためです。

 

このとき妊娠の不成立の原因として簡単に疑えるのは、胚の染色体異常や着床障害でした。前者は検査にあたりそもそも出生前診断に関わる倫理的な問題をクリアする必要があり、遺伝カウンセリングなど綿密な準備が必要です。そのため、着床障害についてできる精査のため子宮鏡・エンドメトリオ(子宮内膜の組織検査)・子宮内膜蠕動検査を予定しました。検査の性質から、それぞれ別の周期で検査をするうえにその周期での移植ができない(施設によっては並行するところもあるようですが)ため、時間稼ぎには好都合でした。

 

結果として次の移植をするころには仕事2も3もある程度は慣れることができました。

仕事3に関してはつわりがひどくなるのと同時期くらいに前期の授業が終わったため、いちばんひどい時期をすべて夏休みで回避することができました。これについては本当に単なる偶然で、ラッキー以外の何物でもなかったと思います。お陰で夏休み明けまでに転居をし、大学の後期は安定期に入ってから安心して働くことができました。

 

 

というわけで再び記事が長くなってきたので治療と大学院・仕事については一旦ここで終わりにします。

多くの人が常勤・非常勤問わず治療との両立で悩まれます。前回の記事ではただただ大変であることだけを述べてしまったので、実際どのように意思決定に影響したのかについて何か伝わればこれに勝る幸いはありません。

 

また、治療の意思決定と自分のメンタル面については今回も書くことができませんでしたが、治療と仕事の調整にかかるストレスについては実際のところを書けたように思います。私は責任の軽い仕事ばかりをあえて選んだのでそれ自体のストレスは大してありませんでしたが、大局的にみてキャリアや進路・家族全体でみたときのライフプランというスケール話になるともちろんこれまた大きな悩みとプレッシャーが常につきまとっていました。このことについてまた書くかどうかはわかりませんが、記録のためにも何かのかたちで書けたらよいなと思っています。ではでは。