「当たったか」
「当たったけど、死んでない。気を失っただけ……気付かれた、逃げなきゃ」
射た相手は川の向こう側、齢15に届くか否かというほどの年若いひとだった。僕らはそうせざるを得なかったのだ。
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時間が下ってその未来。「僕ら」が狙った「年若い人」への聞き取り。主体は「年若い人」へ。
「僕は剣術を石に教わりました」
「石?」
「石です、石の霊というか……要するに、人間のようなものが宿っているわけです。僕が弱かったもので、父から心配されて様々な師範をつけられたものです。しかし結局あの石に勝る師はおりませんでした」
「なるほど……今その石はどこに?」
「川のそば、大きな岩で囲われた洞穴のようなところに。とはいえ今はもうおりませんが。あることがあったあと、消えてしまいました」
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時間が遡ってさらにさらに昔、射られた彼が15歳の少年だったそのときへ。
川のそば、大きな洞穴の中で彼は休んでいた。傍らには何やら見慣れない服の青年、青年というには少し薹が立つか、という年頃の者が控えている。青年は立ったまま模擬刀を握りしめていた。この土地の者は男もみな髪を結うが、青年はざんばらにした髪をワカメよろしくそのままにしていた。
「もう、限界、ちょっと」
「……本来はもう少し頑張っていただきたいところですが、まあ、それでも体力のついた方ですね。以前に較べて悪くない」
「前に較べたら。そうだよね、前が酷かったから」
「いいでしょうね。川魚でも得て腹拵えしましょう」
少年は青年と連れ立って洞穴からひょっこりと姿を見せ、見晴らしの良い河原へ駆け出した。汗をかいた背中にぴったりと衣類が張り付いていた。川にそのまま浸かって、洗って干してやるか。
そんなことを考えていたとき、そのはだけた襟ぐりにすとんと矢が当る。先端はさほど鋭い鏃が備わっているわけではないものの、動きを止めるには十分な衝撃が胸を打って少年がバランスを崩す。後ろの青年が青ざめた顔で駆け寄り、抱きかかえ、気を失っているのを確認したのち眼光鋭く対岸に目をやる。
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視点が切り替わって対岸の草むら。
存在と目が合ったのは矢を射た子どもたちのうち、年少の者だった。子どもは、矢が少年を気絶させたものの殺しはしなかったことを確認して後ずさった。もう一矢をつがえたところで目が合ったのだ。
「当たったか」
「当たったけど、死んでない。気を失っただけ……気付かれた、逃げなきゃ」
そうはいったものの、子どもたちには事の重大さが理解できていなかった。対岸の集落の嗣子を殺せと誰かから命じられただけで、それはこの川沿いではよくあることだった。
年長の少年が、先に存在の異様さに気づいた。髪が結われていない。しかしこちらの集落の者でもない。存在が顔を上げた瞬間、なんともいえない嫌な感覚が腕を這う。
あいつは誰だ。
考えを巡らせながら木の後ろに隠れようとした瞬間、そばにはいないはずの存在が「顔」だけで少年の顔のとなりにきたことに気がつく。それは実体を伴っていないのに、しかし「顔」としか言いようのない何かだった。
人間の顔、とは言えないほどの凄みのある両目と、その少し下、右頬に丸く開いた「顔」。「顔」が示しているのは単なる目だが、目は明らかにその人間のものとは異なるなにかだった。それが「顔」としての異様な感覚を感じさせる源だろう。
少年は声を出せずにその存在と対峙した。
「見つけた」
息を呑み、年少の少年の袖を掴んでぐいと木の裏に倒れ込む。年少の少年には何が起こったかわからないようだった。
あの「顔」も本体は川向こうの存在のもので、今近くにいたのは幻だ。結局川向こうから見えなくなれば「顔」も近くには来られない。
逃げなければ。
頭の中にその言葉だけが渦巻いた。草むらを横切ると視界が開けてしまい、「顔」が近づくのを許してしまうだろう。
いつのまにか辺りは夜に転じており、少年たちが隠れる場所は限られていた。
川の中だ。
川の中に紛れて下れば、姿を見せずに集落に戻ることができるだろう。
年長の少年は意を決して、年少の少年を伴って川に滑り込んだ。
その対岸で、存在も静かに川に消えた。
射られた少年と話していたときの穏やかさはその姿のどこにもなかったが、しかし川に消えるとその怒りも見えなくなった。
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暗い。川に飛び込んでから数分も経っていないであろうに、暮れるどころか外は完全なる漆黒だった。
岸から離れたところで、一旦腰まで体を起こして川底に足をつける。隣に年少の少年もいることを確認する。
「もう少し下まで。これだけ離れれば、あとは歩いても良いだろう。何か見えるか?」
「何も。聞こえないし、見える範囲では近くにはいないと思う」
年少の少年の耳目は秀でており、頼りになった。これでよかろう、目標は射損ねたもののこちらの命があるだけマシだ。逃げ切ればなんとかなる。一旦川から出てーーと足元に目をやった瞬間、「顔」と目が合った。
何故。と声なくつぶやいたが、「顔」は何も答えなかった。強い怒りだけが少年たちを包み、存在が川から身を起こす。彼らの視界には既に「目」しか映っていない。
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数時間後、朝。射られた少年は川縁で目が覚めた。胸に鈍痛を感じて起き上がる。
何があったか、瞬時のことだったが、意識がはっきりするにつれ思い出して辺りを見回す。
存在はどこへ。
と、目をやった先には、増水した川の中から引き揚げる存在があった。
「大丈夫か」
「ええ」
「一体何が……」
問いながら近づいて、はたと立ち止まる。存在の顔を見て、「顔」に気がつく。右頬に開いた「目」。少年は今までに感じたことのない怒りを纏った存在に戸惑う。そもそも怒りがこれほど具現化して目に見えることなどあるものか。
「それはなんだ」
「それ? ああ。大したことはないのですよ」
穏やかな声と共に不意に怒りが消え、川の音が再びあたりを満たす。存在の顔に張り付いていた「目」がその瞼を閉じ、小さな傷のようになって顔に収まった。
「何もなくなりました」
存在が静かにつぶやき、少年はえもいわれぬざわついた感覚に襲われた。何があったかはわからないが、何かがこの世界から消えたのだ。多分、自分を射た者どもが。傷を負ってもいないであろうし、死体がどこかにあるわけでもないが、「死んだ」のだ。というより、死んだものとしてことを形容するしかないのだろう。
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時が変わり、聞き取りの場面に戻る。
「消えてしまったのです。僕はもう彼から教わるべきことを十分に教わっていました。あのとき、体の疲労と傷を労われ、僕は彼に伴われて集落に戻りました。数日で快癒したのですが、その後に河原に戻ってももうあの石はどこにもありませんでした。集落の者はみなあの存在のことを知っていたはずなのですが、そのときにはもう誰も彼のことを覚えていませんでした」