タイトルはいつも適当。
しばらくこれを避けていたんですが、読んでみました。
まあ内容はともあれ、レズかレズでないかというより、内面(特に健全な自我をもつことについて)の葛藤に直面している人がコミュニケーションについて考えるというお話です。
たまたま最近考えていたことと一致する部分があって、記事にしてみようかなと思いまして。
全然関係ないけど、他人が発信する非言語的コミュニケーションに疎い人はすぐアスペとか言われたりするのに、自分が発信する非言語的コミュニケーションに無頓着な人多過ぎるよね。その振る舞いが他人にどう影響するか考えたことあるのかな、って思う人よくいる。自分をコントロールできていない。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) September 14, 2015
そういう人、概して他人に対して操作的だし、時に威圧的で品がないし、すごく苦手だ。半側空間無視の人に全視野見ろって言ってるようなものかも知れないけど、つまりそれってこっちは半分の力を100%と看做されるわけでしょう。思慮深さが愚かさとして映るなら、私の好きな人たちはみんな愚かだ。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) September 14, 2015
というこのツイート2つなんですけどね。
漫画の方を読んで強く思ったのは、やっぱり非言語的コミュニケーションにおいてメッセージを送信するというのはすごく難しいことなんですよ。無意識の行動というか、こう見られたいという印象と違って受け取られてしまうことはよくあるんです。そしてそれで当たり前なんです。見られたいように見てもらえるわけがない。
たまたまこれが風俗というか性的な世界に踏み込んだ話なので、せっかくだし性的な話を昼間っからすると、セックス(というか性的な行為)は非常に高度な非言語的コミュニケーションというのは間違いでないなあ、と思います。
身体の距離の取り方、触れ方、相手の慈しみ方。
性的なことにするとすぐ忌避する方もいらっしゃいます。が、それは倫理的社会的制約がそうさせるのであって、例えば会話(老若男女問わず)そのものを拒否する人は多くありません。今回は、会話などのコミュニケーション手段のひとつとして、延長線上に性行為を置いてみるとしましょう。
そもそも会話ならばできると思っている人が、大きな間違いだと思う。
単純な言語だけで会話ができると思いますか?
答えは否。社会的な関係や場所に縛られたうえで、その場での互いの身体の位置や服装、表情、声のトーン、会話のテンポ、その他様々な非言語的条件づけがなされています。そのうえで言語的なやりとりがなされている。
それらをつぶさに汲み取ることができた場合に、自分という発信源がどのように発信しているかを自分自身が知覚することになるでしょう。
もちろん相手もメッセージを発信していますし、観察するだけでよいのであればむしろ自分のふるまいをどうこうするよりも相手の分析をするほうがいくらか簡単であるように思われます(表出されたものを読み取るだけでよいのであれば)。
性行為にこれを持ち込むと、ほとんど言語的な要素がなくて、身体の距離やそのときの部屋の温度、湿度、皮膚の感覚がほぼすべてを占めることになるでしょう。相手や状況からこれを読み取り、そして自分が発するメッセージに敏いひとが「コミュニケーションが上手」ということになるのかも知れません。
内田樹氏に傾倒しているわけではないのですが、彼が発信した言葉の中に
こんなものがございまして。
つまり、コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである。
という一文が含まれているのですが、セックスでも会話でもなんでもいいけれど、『不調を感じ取る能力』が含まれているのだなあと思ったのですよ。
最近ひしひしと自分がコミュ障であることを自覚しておりますが、実は自分と相手の発するメッセージに対して慎重で注意深いということはメリットでもあるのです。
会話にしろセックスにしろ、注意深く相手を読み取ることができて、自分の発するメッセージに慎重な人が好ましく思える。