https://twitter.com/foolon2011/status/643369796931719168
https://twitter.com/foolon2011/status/643371029054685184
この元ツイートを見て感化されて書き始めた連ツイ
多分写真やって挫折というか露骨にセンスのなさを嘆く人はこういう人なんじゃないかと思う。内に湧き上がるものなしに技巧を凝らそうとすればプロやら経験の長い人、より技術の巧みな人に敵うはずのないのは自明だし。結局アマチュアの楽しさってなんであれ『その人らしさ』であるような気がするのよ
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
まあ別にこれは私の動機であって他人に強要する気もなければ下に見たりもせんけど、『撮りたい絵面』が強烈に心の中にないと絵や物語を描/書くように写真は撮れないと思う。平たくいうとその人の心象風景の描写がなければ、写真は本当につまらない。上手くても見る価値を感じない。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
たまたま撮る側としての私は10年くらいなんの勉強もせず写真を撮ってきて、いろんな目的を経て今の『歩いた道にある美しい風景を収める』で落ち着いた。見る側としては、『その人の目を借りてものを見て、感じることを楽しむ』になる。だから、上手いだけの写真ならば見なくてもいい。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
文章でも絵でも写真でもいいけれど、プロのものでない限りはそのものの陰に見え隠れする『その人らしさ』、詳らかにするならパーソナリティや美的感覚、価値観、人生観、心象風景を愛した時に、作品が美しく見える。作品と、それを残したその人を好きになる。衝動のない芸術はただの技術やろう
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
上手くなるためにはなんでも苦しいのかも知れない。でも苦しむのも含めて楽しくないなら、それは上手くなったとしても心底幸福をもたらしてはくれない気がする。いいカメラを持つようになっても私ならば絶対に、撮りたいようにしか撮らない。カメラを恃むと、つまらなくなる。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
しかしながら強烈な衝動のない人が作品を作るために細やかな構図なんかのテクニックがあるのだと思う。外す前に基礎を学ぶのは勿論大切なことだから。でも写真みたいに自由度が高いと、それもすぐに技術としては飽和してしまう。そこからが多分苦しいのだろうね
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
私に限っていうならたまたま音楽に馴染み深い生活を送ってきたけれど、弦楽器はガチガチに基礎の必要な楽器だから、写真みたいに自由度が高くて楽だと驚く。自分の視覚や感覚、それと写真のフレームや写りの違いで遊びたくなる。勝負が一瞬でつく。写真しかやらない人は、大変だろうと思う。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
『小説は読まれて初めて完成する』みたいなの、だれが言ったのだっけ。書く側の感性と読む側の感受性があって作品が理解される。まあこれはプロであってもそうなんだろうけど、アマチュアはもっと自由でいいんじゃないかと思う。『あの人がこんなことに心揺さぶられているなんて!』という感覚、好きだ
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14
作る側の瞬間の愉しみは凄まじい。身体感覚過激派なので、楽器との一体感や指先の感覚、耳への刺激、たまにステージの緊張、写真ならば、目の前のものを収めようと自分の体を使って四苦八苦しているときが一番楽しい。楽しくないならやったりするもんか。
— れんさ球菌 (@streptocoooccus) 2015, 9月 14