毒素感傷文

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夜は短し歩けよ乙女

「あ、これはいい」というのは、森見登美彦の『四畳半神話体系』がアニメになったときから思っていました。あの空間に関する絶妙な感覚は映画では絶対にできないし、テンポ感も小説そのままだったから。今回観に行く機会があったのをとても嬉しく思います。

ちなみに、面白そうなので新海誠監督の『君の名は。』と、悉く対比させていこうと思います。

 

 

アニメーションについて

比喩の表現が非常によくできていました。デフォルメがじょうずなので、言葉にしてみると大げさな内容がそのまま絵になって動く感じです。

君の名は。』に、デフォルメはありません。映画のように、知覚に忠実に描かれている。それが本物と感じられるように。反対に、『夜は短し~』では、実際アニメーション化されたものが目に見えることは決してないのだけども、比喩として言葉によくしていることがそのまま使われているのです。

 

あと、本編そのものについて、図式化されると確かに宝ヶ池は御所からみて鬼門だったなあ・・・とか(岩倉実相院のあるあたり)、鬼門だの疫病神(李白そのもの)とか色々民俗的なことについて考えることが多かったです。原作を読んだときには、李白老人についてそこまでつよく意識した覚えはないのですが。

 

知覚と抽象概念の取り扱いについて

アニメの途中で「ねこぢる草」を思い出しました。サブカルの中でもアングラよりのものがお好きな方はよくご存じだと思うのですが、シュールで複雑な世界観をアニメーションにしている作家の方です。ちなみにすでに故人です。そのことでも有名なんですけれど。

君の名は。』と較べることができてしまうのでどうしてもやってしまうのですが、夜は短しでは「自分の頭の中での出来事」がよく絵になります。乙女の胃のなかが温まるのもそうですが、「私(作中では先輩)」の体験・知覚世界がそのままアニメになります。これは実は映画では絶対にできないことで、だからこそアニメを観るときにはすごく期待しているところだったりします。とてもよかった。例えば脳内会議で「イド(エス)」の声、「スーパーエゴ」の声、などなどいろんな声が聞こえるシーンがあるんですけど、まさに自分自身の心の中って常にそういう状態なんですよね。一歩踏み出すにもとても勇気がいって、言葉一つひねり出すのに何年もかかったりする状態。本作に出てくる人はみんなそういう「内面世界」が豊かなんです。

ちなみにこれを『君の名は。』とか、新海監督の他の作品(わたしは『秒速5センチメートル』と『ほしのこえ』『言の葉の庭』くらいしか観ていませんが)に当てはめると、それらは「心象風景」として表現されます。雪の冷たさ、影の暗さ、緑の瑞々しさのように。あくまで「視覚世界」へのこだわりがつよい。そこに心象風景を投影していくかたちで話が進みますし、言葉はとても少ない。しゃべったとしても、本質的なことは観る手に委ねられています。ところが、夜は短しでは、抽象的な(むしろ前衛的な)絵画のごとき世界観となってキャラクターをつぶしたりこねくりまわしたりもてあそんだりと、人間の心の中の七転八倒ぶりをそのまま描いてしまうわけです。私は、せっかくアニメなのにこれをやらないのはもったいないって思ってしまう。

 

空間・時間の感覚について

李白が孤独に耐える時間がありましたね。あの表現もとても好きで、いや、詭弁論部OB.OG会でも出てきましたが、「時計がこんなにゆっくり進んでいる」「私たちにはもう時間がない」という感覚、あまねくいろんな人々と交流していなければ得られない概念だと私は思っています。

つい嬉しくて哲学の話になってしまうのですが、ベルクソンは「物質と記憶」にて、時間とは空間的なものであると述べました。それは時間というのが実際には計測する際に時計の秒針の動きのように、空間を測ることによってしか共通の感覚を持つことができないみたいなのを私自身は著作を読んでも理解できず土屋教授の本から学んだのですが。

日々人間を相手に仕事をしていると、おのおの物事のとらえ方も、感覚も、ストレスへの対処法も、死やそれに準ずるたいへんな危機状態に対する心理もほんっっとうにそれぞれ違うものであることをしみじみ感じます。「自分以外の人が何を感じどう過ごしているか知りたい」という相互的な欲求が物語の最後にあったのは、正直表面上の言葉のやりとりなんかよりずっと大切だと思う。

村上春樹の小説なんかにもよく言われることですが(あれはあれで私はとても好き)、物語には人と人とのやりとりがよくでてくるのに気持ちが通っていないシーンがありますよね。大体のアニメを観ていても、違う概念をすり合わせて納得するシーンだとか、すれ違ってどうしてもわかりあえない困難には直面していなかったりして悩んでしまうんですよ。事物についてのすれ違いはあっても、観念や認識についてのすれ違いをそれそのものでわかりあうことの困難に日々直面していると、なんというかそう簡単にわかられてたまるかという卑屈な気持ちになってしまうのです。

勿論、物語の中でくらいそうあって欲しいという気持ちもわからなくはないですが、少なくともこのアニメを作ったひとはそういうジレンマが表現できるのだなあと思って嬉しくなりました。

 

圧倒的な文字数というか言葉の数

原作が小説ですから当たり前といえば当たり前なのですが、言葉の密度がものすごく高いです。これ、森見作品に慣れていない人が聞くと「字幕もない日本語映画なのに理解できない」ということになりかねません。というか、日常会話で使用しない(私は使ってよく怒られる)言葉が頻発するのでこれ普段本読まない層は理解できるのか・・・?と思うなどしました。まあ数語理解できなかったところで面白さは損なわれないでしょうが。

 

ところで話は変わりますが洋画を吹き替えで観る層っていますけど、字幕を読むという行為も実は訓練が必要なんですよね。字幕の切り替わりは結構早いので、幼いころから洋画を字幕で観たり、あるいは後付けで訓練しないとついていけないのだそうです。

 

さてさて元に戻ります。

あとは、『君の名は。』が絵画的・印象的な映画だとすれば、『夜は短し~』は戯曲(とくに喜劇)的だなあとも思いました。理由は今までにまとめたとおりなのですけれど。

 

とりあえず忘れないうちに投下しておきます。また思い出したら何か付け足すのかもしれないし付け足さないのかもしれない。