毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破6周目(91-100)

600冊目の読了記事まで書いてから3か月近く経つというのに、最後の10冊記事をほったらかしていました。途中まで書いたままにしていた記事なので、記憶が若干曖昧です(ごめんなさい)。

この3か月何していたかというとほぼ体調不良で過ごしており修論のための準備もえっちらおっちらという状態で、それでも600冊からちみちみ読み進めることができているのはひとえに本たちがもつ各々の魅力と自分の興味からの要請であるなあと噛みしめております。全然読めなくて歯がゆいです。

というわけで1冊目から。

 

1.アエネーイスヴェルギリウス

アエネーイス (西洋古典叢書)

アエネーイス (西洋古典叢書)

 

叙事詩というものを初めて読みました。背景となる史実を知らないのでなんとも評価のしようがなく、また人名なのか神の名前なのか地名なのかもたまにあやふやになるので難渋しながら読んだのですが、のちの哲学・文学に多大なる影響を与えていることを、このあとすぐにモンテーニュ『エセー』を読んで知りました。人の姿勢や考え・行為を徳とするその現象については、儒教に通ずるものを感じます。

 

 

2.これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン(太田啓子)

元々この本が出版されたのは知っていたのですが、なかなか手に取るきっかけはありませんでした。長く続いている読書会のメンバーがこれを題材にと提案されたことが契機となり通読しましたが、最近学術書や古典・ポピュラーサイエンスばかり読んでいたのもあって典拠の少なさや書き口の甘さがどうしても気になってしまいました。

しかし社会現象を記述するためにはよい見方であると感じますし、きっとこういう書籍からまたあらたにボトムアップの研究(の着想)があるのであろうとも思っています。

 

 

3.生物群集を理解する(大串隆之)

生物群集を理解する (シリーズ群集生態学)

生物群集を理解する (シリーズ群集生態学)

  • 発売日: 2020/09/25
  • メディア: 単行本
 

生態学」、耳にはするけれどもあまりなじみのないジャンルでした。知り合いがこれを読まれており、生態学の入門としてお薦めされていたような記憶があるので手に取ってみました。そもそも分野に不慣れなため日本語を読むので精一杯でしたが、「ニッチ」の概念を生態学本来の意味から知ることができたりと何かと得るところが多かったです。個人的には、最近の数値シミュレーションなどが発達したこともあって生体群の動きがエージェント化されるようになったことも反映されていたのがとてもよかったです(動的にみるのがとても好きなので)。

 

4.合意形成学(猪原健弘)

合意形成学

合意形成学

  • 作者:猪原 健弘
  • 発売日: 2011/03/01
  • メディア: 単行本
 

今年のはじめから参加し始めた勉強会の第2冊めです。合意形成に関する政策・モデリング・理論等各分野の専門家が寄稿したものを編集した書籍となっています。

自分も、1回分だけですがレジュメ(というか発表?)担当になりました。医療における合意形成と生殖医療の話なので、かいつまんだ話ができたらと思います(まだこれからです)。

 

5.エセー1(モンテーニュ

モンテーニュ先生の子育てブログという罵倒(誉め言葉です)をTwitterでしてしまったのですが、随所で内省しつつ「人を教育する」「知識とはなにか」「道徳教育」みたいなテーマを通底して小節が続きます。まだ1巻しか読んでいないので6巻まで是非読みたいところです。

 

私は自分を支配し、指図することが十分にできない。私よりも偶然のほうが、私の上に権力をもつ。私がひとりだけで私の精神を探ったり用いたりするときよりも、機会や仲間や私の声の振動さえもが私の精神からより多くのものを引き出すのである。だから、私の心にあるものを言葉にするほうが、これを書き物にするよりもいいものができる。どちらもつまらぬものではあるが、強いて優劣をいえばそうである。私にはこんなこともある。すなわち私が自分を探すところには自分を見いださないということだ。また、私の判断によってたずねる場合よりも、偶然によって自分を見いだすということだ。私も書いているうちに何か鋭いことを言ったかもしれない。(もちろん他人から見ればなまくらだが、私から見れば鋭いという意味だ。だがこんな謙遜はよそう。誰でもそんなことを力に応じて言うのだから。)だが、私はそれをすっかり見失って、何を言おうとしたのかわからなくなって、他の人が私よりも先にそれを見つけてくれたことがしばしばある。もし私がそういうたびに削字刀をふるうならば、すべてを抹殺してしまうだろう。偶然がいつかそこに真昼の日よりも明るい光を投げて、私にそれを明らかに示してくれることがあるだろう。そして私は自分の迷いに驚くことであろう。ーモンテーニュ『エセー』第十章 弁舌の遅速について

 

アリストテレスのいう「知恵はあるが、分別のない人たち」について)……この欠陥は彼らの学問に対する態度が間違っていることに由来するというほうがよいと思う。また、いまの教育法では生徒も教師も、より物識りにはなっても、より有能にならないのは不思議ではないというほうがよいと思う。…われわれはただ記憶を満たそうとだけつとめて、判断力や良心を空のままほうっておく。ちょうど、鳥がときどき穀物を探しに出かけ、これを味わいもしないでくちばしにくわえてきて、雛どもについばませるように、われわれの先生方も、書物の中に知識をあさって、それを口の先にのせてきて、吐き出し、風に撒き散らすだけである。…

…もっともいけないことは、彼らに教えられた生徒や子供たちにとって、その知識が少しも滋養になっていないことだ。知識は手から手へと移って、ただ、他人に見せびらかし、他人と語り合い、談話の棚にするためのものでしかない。

《彼らは他人と語ることを学んだが、自分自身と語ることを学ばなかった。》…

…われわれは次のように言うことを知っている。「キケロがこう言った。これがプラトンの教えだ。これがアリストテレスの言葉だ」と。けれども、われわれ自身はいったいどう言うのか。われわれはどう判断するのか。

われわれはどう行動するのか。あんなふうになら鸚鵡だって立派に言えるだろう。

…われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは火が必要になって、隣にもらいにゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持って帰るのを忘れてしまう人によく似ている。

腹に食物をいっぱいに詰め込んでも、それが消化されなければ、自分の血となり肉とならなければ、自分の体力を増強しなければ、何になるか。…

…"おのれ自身のために賢くない知者を私は憎む。"
《なぜなら、知識は獲得するだけでなく利用せねばならぬから。》

…世間に広くはびこるこういう種類の人々を仔細に見る者は、彼らがたいていの場合、自分のことも他人のこともよくわかっていないということに、また、相当に詰まった記憶をもってはいるが判断力はまったく空っぽだということに、私同様、気がつくであろう。…"判断力を伴わない学問が何になるか、"とあるように、分別がなければ、学問は何の役にも立たないからである。…もしも知識が魂を変えないなら、そして不完全な状態を改善しないなら、たしかに、そのままにほうっておくほうがずっとましだ。知識は危険な剣である。

 

6.哲学がわかる 自由意志(トーマス・ピンク)

随分前に、匿名でAmazon欲しいものリストからいただいたものです。読了が遅くなってしまってすみません、ありがとうございました。手元にあってとてもいい本です、本当にありがたいです。

なんとなく意識の哲学・分析哲学みたいな感じかなあという印象を勝手に抱いていたのですが、よく考えたら(よく考えなくても)自由意志って責任とセットでとらえられがちなんですよね。なので倫理の面からしても非常に重要な概念だったことを本書で思い出しました。

自由意志はあるのかないのかみたいな話も哲学史から辿りますが、それ以上に、自由意志によって責任は発生するのか(するとしてどの範囲をカバーしている・そしてするべきなのか)という話が面白いです。人格の概念とかと併せて今後深めていきたい分野です。

 

7.はじめての参与観察ー現場と私をつなぐ社会学(山北輝裕)

アカデミアで社会学を専門にされている著者が、フィールドワークと出会い、路上生活者とそのの援助者について参与観察を行うようになったきっかけとその帰結についてまとめた本です。「はじめての」と書かれてはいますが「手順書」ではなく、生身の人間(それも社会学の初学者である学部生)がフィールドワークに取り組みはじめるところから、大学院を出て参与観察を終えるまでの一連の流れを「主観的に」、かつその心境や戸惑いをダイナミックに書いた本です。普段学術書を読み慣れない人でも、楽しんで読むことができると思います。

 

8.プラグマティズム入門(伊藤邦武)

引用が雑になってしまいましたが、ちくま新書セールのときにノリで買いました。プラグマティズムについては米盛裕二著『アブダクション―仮説と発見の論理』しか読んだことがなかったので、じゃあ結局プラグマティズムってなんなのよ...と中途半端なままになって気持ち悪かったので他の本をいつかあたろうと思っていたのでした。結果的には今もよくわかっていません(おい)。入門といいつつそこそこ難しい本でした、半分くらいはプラグマティズムにまつわる歴史的経緯の話で、それぞれの論者が微妙に異なる定義を持ち出してくるので、結局「どの物差しでプラグマティズムを理解するか」

 

 

むしろ注意するべきなのは、言明可能・不可能の問題ではなくて、われわれが「語りえないことは沈黙しなければならない」と考える場合に、沈黙しなければならないというときの「ねばならない」が、形而上学の主張ではなくて、むしろ倫理的、道徳的な主張だということである。それは形而上学の克服を一つの倫理的な課題とする、ということであり、言語哲学の試みは本来、この倫理的な課題として遂行される必要がある。

 

ブランダムは、同じくセラーズの問題意識を共有しながら、人間の言語行為の核心に、「理由を与えたり、求めたりする、推論的ゲーム」があることに注目し、「主張」という言語ゲームの特権性を主張すると同時に、言語ゲームにおける「関与や義務や資格」の視点の重要性を指摘した。

この辺は三木那由多氏『話し手の意味の心理性と公共性: コミュニケーションの哲学へ』でも指摘されていたことですね。

ブランダムの言語哲学では、言語の意味や帰結、あるいは認識の真理や客観性について語る際に、言語使用に関する語用論的考察を最優先するというところに、最大の特徴がある。パース以来の長い言語分析の伝統において、さまざまな理論が採用されてきたが、言語の分析のアプローチには三つの角度があるということは、とりあえず基本的に共有されてきた。すなわち、命題や文を作る言葉どうしの連結の論理を明らかにする統語論(シンタクス)と、命題や文と外的世界との間で成り立つ関係を問題にする意味論(セマンティクス)、そして、命題や文のやり取りを行う情報交換の場での、文の発話の適切性を判定する基準に関わる語用論(プラグマティクス)の三つである。

 

発話と理解の行為は、このように信念へのコミットメントとそれに付随して生じる権利の付与を本質的に含むという意味で、規範的な行為である。会話は規則に従ってなされているが、その規則は文章を作る文法的・統語論的規則ではなくて、複数の主体の間での信念やコミットメントとそれに付随する権利をめぐる、ギブアンドテイクの関係を支配する規則である。複数の主体は情報を交換することを通じて、権利をめぐるスコアキーピングをしている。このスコアキーピングのゲームのなかで、人は相手の主張の理由を尋ねたり、逆に、必要であると判断すれば自分から理由を補足したり説明したりする。つまり、人はセラーズのいう通り、「理由の空間」に生きるという仕方で、事実についての判断や説明や理解を行っている。

 

発話と理解の行為は、このように信念へのコミットメントとそれに付随して生じる権利の付与を本質的に含むという意味で、規範的な行為である。会話は規則に従ってなされているが、その規則は文章を作る文法的・統語論的規則ではなくて、複数の主体の間での信念やコミットメントとそれに付随する権利をめぐる、ギブアンドテイクの関係を支配する規則である。複数の主体は情報を交換することを通じて、権利をめぐるスコアキーピングをしている。このスコアキーピングのゲームのなかで、人は相手の主張の理由を尋ねたり、逆に、必要であると判断すれば自分から理由を補足したり説明したりする。つまり、人はセラーズのいう通り、「理由の空間」に生きるという仕方で、事実についての判断や説明や理解を行っている。

 

演繹とは、真理を保存した形で前提に含まれた内容を分析的に析出する推論である。帰納とは、有限なデータを基にしてより一般的な命題を形成する推論である。これに対して仮説形成は、不可思議な現象に関する合理的な説明を可能にするために、何らかの仮説を提言する推論である。それは、「これまでの経験や一般の常識では説明しにくい、不可思議な事象Cが目の前にある。しかし、もしもHが生じているのであれば、HからはCが演繹できる。したがって、HであればCの成立は不思議ではなくなる。それゆえ、ひょっとすればHではないのか」、という推測の形式である。

 

ミサックの解釈では、パースの理論的立場は、まさに探究という文脈に属する多様な探究スタイルに密着して、「信念・効果・真理」の結びつきを理解する立場であり、そのゆえに科学や形而上学のみならず、道徳や政治的問題に関する実践哲学的探究に関しても、有効活用できるようになるというのである。  それでは、道徳的信念の可否をめぐる論議には、この種の実在論的な真理概念が適用可能なのか、そうではないのか──。これこそ今日の実践哲学上の中心的問題の一つであるといえるが、第二の主著である『真理・政治・道徳』で、彼女は次のように論じている。今日の道徳哲学や政治哲学の構想においては、真理概念に対する強い懐疑が浸透している。民主主義的体制を他の政治体制に優先する立場と認める理論にあっても、その真理や正当性についてはとりあえず判断を停止し、あくまでも手続き的な公平性に訴えると同時に歴史的な有効性についても顧慮することで、十分にその優位性を確保できるとするのが、今日のこの分野での一般的な傾向である。その理由は、現代社会における価値基準や信念体系の多様性があまりにも顕著であるために、多元的信念の評価のためのメタ的な議論はほとんど不可能に思われるからである。こうした哲学的正当化の議論を拒否する実践哲学の代表として、たとえばジョン・ロールズの『正義論』以降の理論的立場を考えることができるが、ローティもまたこのロールズの「政治的であって形而上学的ではない」分析の方向を大いに賞賛してきた。

 『仮説と発見の論理』と照らし合わせてもう一度読んでみたいです。

 

9.死刑囚最後の日(ヴィクトル・ユーゴー

物語を久々に手に取りました。死刑廃止への強い要求からこの話が書かれたとのことですが、確かに、ただ死刑に至るまでの道のりで考えたことが訥々と描かれていて、それなのに「死刑でよかったのか?」と思わせる短い文章です。物語の力、論証よりも訴える力があると感じるのはこういうときですね。

 

10.現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践(黒田結子・北村文

現代エスノグラフィーを知りたいなあと思って手に取った本ですがぶっちゃけ中身結構忘れちゃいました...。ワードマップなので比較的網羅している印象があったのですが、他の本でじゅうぶん間に合っていたのであんまり記憶に残らなかったという気がします...。