毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破 6周目(11-20)

1.そろそろ左派は〈経済〉を語ろう――レフト3.0の政治経済学(ブレイディみかこ 松尾匡 北田暁大

イデオロギー的には右派のケインズ的な国家による公共への投資がひいては左派の経済のやり方じゃん?っていうのはよくわかるんですけどアベ憎し過ぎでしょっていう印象を持ちました。中盤までの言葉の解説は松尾氏が一番というかこの人しかまともな人おらんやんと思ってたのに結局その人も政治的正答を求めて現政権批判に落ちているので、議題と構成はいいのに中身が熟していない感じがあります。

あと対談形式は基本となる用語がわかっていないと読みにくいもんやと思うんですけど、「ニーズとサンクション」って言われた時にはホェ?となりました。それ並ぶような言葉じゃないと自分は思っているんですけどどういうことなんですかね…市民のニーズとサンクションって…(これは社会学の人のほう

 

2.実践の倫理(ピーター・シンガー

実践の倫理

実践の倫理

 

ヴィーガニズムについていくらかの断片的な知識を得て思うことですが、言うは易し行うは難しということもまたあるのです。というわけでよく参照されている本書を読みました。

論理的な解が正しければ倫理の実践が可能か、人口に膾炙することが可能か、などはやはり難しく、多少の歪みが加わるであろうと思います。誰もが平等に理解するというのは、非現実的であろうと。まあここでヴィーガニズムを例えに出しましたが、中身はなんでもよいのです。最近よく考えてみて、社会の様相との乖離をみて「難しいですなあ」と思ったことの一例というだけ。その考えが間違いだとは私は思いません(というか、言うことはできない)。

本書の中にでてくるいくつかの思考実験についてもいささか妥当性に疑問があります。思考実験が哲学の道具として妥当かどうかというのもそもそも最近取り上げられている話題ではあると思いますが、前提が杜撰だなという印象をもった点がいくつかありました(特に生命倫理と効用の定義)。いわゆる'Plants tho'として彼らが反論しているものではなく、彼らが「何を」「どのように」守るべきで、そのために「誰を」「どのように」批判するのかという点においてです。極端な例で、映画「サファリ」のように現地人と金持ちの遊興を対比させて書くことはできるでしょうが、それですら貧困に喘ぐ現地人が調査された地域において管理可能な範囲において彼らの稼得のために行っていることであり、一絡げに解決できるようなことでもないし、そのための方向転換をして間接的な犠牲と費用はどれほど発生するのだろうかと思うのです。この辺りはもう少し、倫理ではなく国際間の厚生経済学を勉強する必要があるかなと思いました(効率の観点からではなく倫理の尊重の観点のために)。

 

動物倫理は配慮の平等なので、人間の苦痛に対して人間が最大限に配慮しているのと同等に苦痛を感じる能力のある動物にも(その苦痛をもたせないような)配慮をせよというのがあったと思うんですが、それ自体が(つまり意識の介在という階層化に対する)種差別ではないのか?という考えに至ってしまう。さきほどの'Plants tho'の方向へ、つまりより低次(または意識とは呼ぶことのできない)神経回路をもつほうへ注意を傾けるわけではなく、人間に向けてです。人間の社会における権利はさらに複雑で、動物の権利は苦痛を免れる権利だけでなく「(人間の)社会で」生きるにあたり不遇を受けない権利とは別の権利だと思っている。動物がありとあらゆる権利をもたないとはあまり思っていない。福祉はもちろん必要だと思っています。余計な苦痛を与えない(つまり動物福祉)、無益な再生産を行わない(苦痛を産生しながら環境と動物の生命を浪費的に扱わない)という環境への配慮は、こと先進国にあたって課題だとは思っています。が、発展途上国における狩猟は認容されている。これはこれで不思議なことです。先進国の要請により途上国がこれを目指しているのは確かですが、「魚の釣り方を教える」というのが開発経済学における途上国支援の基礎です。自国の産業構造をある程度自立して行えない地域において、他国への依存を比較的少なくすることは容易ではないように思われます。人間と動物における権利の階層性は否定しながら、人間と人間の権利の階層性は否定しないことは(シンガーの倫理を考慮すると)できません。途上国においては必要悪は認められるようです。無論先進国の浪費と環境汚染、途上国の経済や環境への影響は多大なる不利益であり、そこには責任が生ずるし途上国の人々を非難する理由にはなりませんが。

本書に書かれているわけではありませんが、菜食に基づいた農業による経済効果は動物食に比べて運転費用が少ないため、先進国においては経済効果が非常に大きいという試算もあります。が、その点についても途上国においてはその効果が微々たるものである由を説明する結果もあるようです(さらにその著書自体がピア・レビューに基づくものではないので批判の的になっている)。そしてそれらを正確に予測することは難しく、副次的作用まで含めるとさらに測定は困難になるでしょう。これらの(むしろ環境倫理に対する)漸進的な態度というのは批判されるべきなのでしょうか。私が動物の倫理の議題そのものに全面的に了解できていない(その問題だけを当該の課題とすることができない)ことにも問題はありそうです。そして他の倫理をもって動物倫理の代替とすることは、たぶんしてはならないと思われます(問題のすり替え)。

もうちょっと色々勉強すべきなのでしょう。保留事項がたくさんあります。

 

3.厚生経済学と経済政策論の対話: 福祉と権利、競争と規制、制度の設計と選択(鈴村興太郎)

この本のほんのわずかでも理解できたか怪しいです...。

このような感想から始まるのは憚られるのですが、ある種、著者の業績(というより仕事)を辿るような本でもありました。勿論教科書レベルよりずっと専門的で浩瀚な知識を要する(少なくとも厚生経済学の原理と変遷は知っておかないと議題についていけない感じだった)叙述ですが、対談を挟むこともあり著者の誠実な人柄と秘めたる熱情、静かで強い好奇心が伺える文章です。正直小説を読んでいてもこのような単語や表現はあまり出てこないのではないかという場面がいくつかありました。

そんな背景はさておき、本はポール・サミュエルソン教授との対話から始まります。厚生経済学の歴史、その提示内容、功利主義の目指すところを確認します。この辺りはかろうじて授業やら他の本でも触れたことがあります。第Ⅱ部は「競争と規制」という名前を戴いていますが、原理の説明のみならず昭和以降、日本が選択した経済政策に対してミクロの経済がどのように反応したか、という点を中心に検討します。もちろん政策の背景には国際経済の反映があります。鈴村氏によると、経済理論に関する文献は多々あれど「実際の経済現象を説明する文献はそう多くない」とのことでした。

それから、全編を通してケネス・アローの社会選択理論の対比も行われます。功利主義的な価値観を脱却すべく(それを目的としてではありませんが)構築された理論に対して、その成立の不可能性を指摘しています。ピグー・ヒックス以降の厚生経済の困難であるように思われました(しかしピグー、ヒックスの理論が現在も妥当性あるものであるいくつかの提示もあります)。厚生経済における「競争の必要性」と、「競争とはなにか」の論議を経て、9節冒頭にもある「血の通った厚生経済学を求めて」に至り、合理性と自由な選択の両立(というより双方を保障する)を図る理論について検討します。このあたりの数式はかろうじてベイズの定理が読める程度であとは全然無理でした。

それから第Ⅲ部途中、氏自身が科研費の選考者であり、またその世話にもなっていたとの由がありました(アカデミアに身を置くならばそれはそうですね)。これは希望であるが、と述べたうえで、特に時間のかかる文系学問には短期間での成果を求めるのではなく長期的視点で資金を投入する必要があるだろう、とのことでした。さもありなん。

分厚いしとっつきにくいと思うし分野外の人間が読んでもなんもわからんと思うんですけど、対談の形式がとられている(もちろん対談でない部分で註と追加はあります)ことでキーポイントの説明や時系列の変化を何度も辿りますから、教科書とはまた違う形式で耳目を(目だけやん)惹きます。現代経済学の講義以来経済の話から(特に理論からは)かなり足が遠のいていたと思います。これを機にちょっと戻りたい....

 

4.中東世界の音楽文化 ~うまれかわる伝統(西尾哲夫 他)

中東世界の音楽文化 〜うまれかわる伝統

中東世界の音楽文化 〜うまれかわる伝統

  • 作者: 西尾哲夫,水野信男,飯野りさ,小田淳一,斎藤完,酒井絵美,谷正人,椿原敦子,樋口美治,堀内正樹,松田嘉子
  • 出版社/メーカー: スタイルノー
  • 発売日: 2016/09/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本を購入してから多分まる3年くらい経つのだけど、なんとなくジャケ買いしたにもかかわらず、当時の興味は今の自分の興味をちゃんと反映しているなと思えて嬉しくなりました。音楽の話をするのに本を読むなんて変わっているな、と友人に言われたのを思い出します。

音楽「文化」と書くだけあって、民族の歴史のみならず土地の歴史も宗教の影響もそれぞれ書かれいます。音楽に対しては特に、教義そのものが是としていないこともあり歌い手も器楽奏者も土地を離れざるをえなかったり、作曲の様式を外から取り入れているときもあったとの由。これを書いている方々(章ごとにそれぞれの研究者が書いておられます)は中東の音楽や民族文化に関する調査をしていて、「アラブ」と一括りにせずにトルコ/シリア正教/イスラム文化とそれぞれに違いがあることを主張していました。たしかに知らなかったし、区別がついていませんでした。

本以外の情報を挟みますと、2年くらい前に『歌声に乗った小年』という映画を観ました。パレスチナガザ地区から『アラブ・アイドル』という歌番組(いわゆる素人一攫千金系の)に出る、という話。映画はそれ自体でとても重みのあるいい映画だったけど、この中にコーランを朗唱するシーンがあります。浅学にしてコーランの朗唱を聴いたことがなかったのだけど、その教義に反して非常に音楽性の高いものです。教義で禁じられているのは享楽的なものだけだとはいえ、時期によってはイランでは音楽全般が禁じられたと。本書の中でも、朗唱と音楽の身体性について述べられている部分があります。


محمد عساف - على الكوفية | Arab Idol

 

また、面白かったのは、西洋音楽との融合の過程です。西洋の音階や楽器はなかなか受け入れられなかったものの、ヴァイオリンは比較的早期に受け入れられたとのこと。中東の文化圏には、微分音が存在します。この微妙さを表現できるのは、弾き方によっては区切られた音階の存在しないヴァイオリン属でした。開放弦の調弦を下からG-D-G-H(やったかな)とし、弛ませることで穏やかな音色にしていたと。弓の毛も全部は使わず、指板寄りを弾くそうです。自分も末席を汚しながら弦楽器をたしなむ身なので、この話は非常に面白く読みました。

西洋のブームを反映したポップスやロックに親しむ若者もいるようですが、それはそれで海外との競争力において欠ける点があるために難しい面もあるとのこと。

ちなみに、『アラブ・アイドル』で優勝したムハンマド・アッサーフ氏はその後国連パレスチナ難民救済事業機関青年大使としても活動しながら音楽活動をしているようです。ポップスながら、音階も楽器も西洋とは異なるので純粋に面白いです。


#محمد_عساف - يا حلالي يا مالي | Mohammed Assaf - Ya Halali Ya Mali

 

 5.アメリカの高校生が読んでいる資産運用の教科書(山岡道男 浅野忠克)

アメリカの高校生が読んでいる資産運用の教科書

アメリカの高校生が読んでいる資産運用の教科書

 

これも3年前の月1万円本購入キャンペーン(自分の)のときに買ったものですね。あまり意味を見出せなくて放置していましたが、家庭をもったらそれなりに面白いかと思ってやっと読みました。複式簿記が読めると家計簿が読める...

サブプライムローンのシステムとか、その崩壊とか詳しく書かれているので結構面白いです。が、『資産運用の教科書』としてどうかはちょっとよくわかりませんね...読み物としては悪くないです、お金に興味を持ち始めたらという程度。

 

6.神話・寓意・徴候(カルロ・ギンズブルグ)

神話・寓意・徴候

神話・寓意・徴候

 

ずいぶん前に人からいただいた本。カルロ・ギンズブルグの本は『チーズとうじ虫』を以前読んだのですが、あちらが物語形式で書かれているのに対して、こちらは評論形式です。しかしある意味目指すところは同じだなと思いました。序文にも書いてあるけども、"合理主義と非合理主義の溝"を埋めるべくして書かれた本だそうな。

自分はこういう形式に慣れていないし、科学認識論といっても既にあるべき土台を科学によって提供されてしまっています。歴史を繙くにあたり、7つの題材を用いて宗教上のイコン・美術の解釈・精神分析・歴史の中の政治…等々持ち出しそれぞれの道理と科学を突き合わせていく構成です。あと余談なんですがデカルトはやっぱり神学の影響を無視できなかったらしいです。あの往復書簡どうも臭いなみたいなことをかつてやっていた読書会で言っていたような気がするのですが、無神論者の謗りを免れるために省察の内容にちらほら神が説明なしで使われるんですよね…魔女と悪魔の契約の話とかから入るのでちょっと面食らいますが、当時の医学・人類学まわりの構造主義であったり実証性を求めるようになる道筋で非科学が説明されるの自体は楽しいです。

自分はところどころしかついて行けなかったと思います...

 

 7.薬価の経済学(小黒和正 菅原琢磨他)

薬価の経済学

薬価の経済学

 

家にあったので読みました。

お堅いばかりの本かと最初は勘ぐっていましたが、思ったよりずっと面白かったです。最初からコラムの話をするのも気が引けますが、ところどころに挟まれるコラムで話の全貌もわかりやすくなります。このコラムニストは元証券会社のアナリストらしく、なるほど行政批判も製薬・卸業も俯瞰できるわけです。報道も大手から専門誌まで均しく較べることができて臨床からも遠い、実にバランスのとれた観察者だと思いました。

製薬会社が定めた薬価が卸業者を通して医療機関へ売却される過程の価格の鬩ぎあいとかまったく知らない話でしたし、医療費にかかわる政策全般の詳説も最初の方でなされるので門外漢でもある程度ついていけると思います。

後発医薬品とか高額医薬品と高額医療費制度あたりはまあ大体知ってる話なんですけど、投与継続期間でいうと抗リウマチ薬が総額(患者数×投与期間×投与頻度×薬価)でいえば結構な上位にランクインすることがわかりました。自分は免疫内科勤務でしたので、生物製剤を打つスパンとその種類の豊富さ、適応の幅広さには正直びっくりすることが多かったです。まあ高いよな…わかる…バイオシミラーの話も出てきていましたね。

後発医薬品については、薬剤師による薬局での変更が処方箋からのオプトアウトによってなされていたものがオプトイン方式になって促進されたっていうの、好きです(ハードウェアの変更で意思決定を誘導するやつ)。創薬に関してはインセンティブが何%になれば有効にはたらくかみたいな試算もちゃんとされていることを知れました。いや面白いというか当たり前なんですけど、本当に新しく知る話ばっかりなので「よくできているなあ」という印象があります。

 

それから、業界の独占性・閉鎖性に関しても説明の章があります。医療系ベンチャーの話にについては、客観的に構造を一部しか見ていないのにそれでも渋いなあと感じることがままあります。産業構造に依存していそうというのと、広くは社会保険だの経済・福祉政策の構造に依存していそうという感じがあり、実際にそのようでした。

医療福祉のIT化はともかくとして地域社会の構造変換とかは正直(展望なので)あまり現実的ではなかったんですが、総合して勉強になる本でした。

 

8.命の価値: 規制国家に人間味を(キャス・サンスティーン)

命の価値: 規制国家に人間味を

命の価値: 規制国家に人間味を

 

序盤の情報規制問題局における意思決定のくだり、サスペンスっぽくて面白かった(といってはいかんが)です。

費用便益分析の話がメインなのですが、ちょうどこの本の前に読んだ『薬価の経済学』(というか医療の経済学全般)が費用便益分析を用いているので、その詳細といったふうに読むことができました。

費用便益分析という金の話を持ち出すと一様に人は嫌がるというのは日本でもそうでなくてもあるようで、こうした考えが強い反対に遭うことはままあるようです。が、費用便益分析の中には定量化しづらいもの(例えば人の幸福は個人によって差があるとか)なので、広義では功利主義とも少し異なる立場といえましょう(即、人間に量的に適応するものではないという意味において)。

 

9.10.数学ガールの秘密ノート 微分を追いかけて / 積分を見つめて(結城浩

ベクトルと数列が未読なんですが、放送大学科目『入門微分積分』の教科書が自分にはあまりに難しかったので入門編(放送大のは入門って書いているが『大学数学』としての入門)として購入しました。が、これの問題が解けるようになっても放送大の教科にはまるで歯が立たないです...いちばん嬉しかったのは、積分のほうの最後に級数が出てくるおかげで教科書のわからなさがだいぶほぐれたことでしょうか。

文系用の数学という感じで心のハードルをとっても下げてくれますが、受験数学が最低限出来る人にはまったく必要ないと思います。

 

 

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食い逃げ

じっとテーブルを見ていた。

アイスコーヒーの中の氷が、まだ僅かな茶色に浸かっている。

 

視界の端には伝票がある。

書かれているのは620円と540円。これはマンデリンとカフェ・モカの対価で、僕たちがここにいた時間は30分と少し。

それから540円分の小銭と、汗をかいた空のグラス。こっちは彼女がここを去った痕跡。

ビンタされなかっただけ、よしとしよう。

 

ここはさる施設の併設カフェで、古き良き昭和の香りを漂わせる軽食とデザートのメニューを張り出している。各階、事務所への配達も請け負っているようだ。入り口は施設内部と大通りに開かれており、経営としては悪くなさそうな人の入りだ。

程よい喧騒の中で、さきほどの会話を思い出す。憂鬱がじわじわと背中を這っている。仕方なかったのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

 

しばらく腕組みをしてどこへともなく視線を彷徨わせていると、コーヒーに速やかに反応した僕の膀胱がトイレに行ってくれないかと請う。逆らう理由もないので、当然手洗いを探した。

どうやら店の外、施設の共用部分に行かなければならないようだ。

 

用を済ませて、内側の入り口から入りなおす。僕の席は入り口にいちばん近くて、とても薄暗かった。気分にぴったりだ。やり直せない時間に対する恋慕が黒々と心の中に居場所をつくる。僕には帰る場所さえなくなったのに。

 

3年半いっしょに住んだ家を、きょう、抜け出した。

荷物はもう運んであって、あとはもう僕の体と心が部屋を出るだけ。荷物の帰る場所はある。

僕が今から帰りたい場所がないだけだ。

 

 

 

かといっていつまでもここにいるわけにもいかない。席を立って、携帯を尻ポケットに突っ込んだ。次、座るときに忘れず取り出さないと、この前みたいに粉砕してしまう。

 

どこにも行きたいところはないのに、新緑と鋭い日差しの中にずるずると這い出た。

 

涙も出なかった。

 

誰も悪くないのに、僕は居場所を失い、彼女は信じた未来を失った。彼女はちょっとだけ泣いた。ここに来るまでにたくさん泣いていて、涸れてしまったのかもしれない。それでも涙は渾々と瞳の表面を潤していた。長い睫毛に雫を作るのが、きれいだなと思った。

 

 

駅に向かって歩いて、はたと気付く。

僕は会計を済ませるのを忘れてしまったかもしれない。

慌てて戻ろうとしたが、そもそも僕が店を出るのに誰も声をかけなかった。不思議だ。出口があちこちにあるから、見逃してしまったのかもしれない。

 

緑の覆いを作られた頭上で、羽化するタイミングを間違えた蝉が、一匹だけ鳴いていた。

今鳴いても誰にも出会えないのに。

 

 

暫く立ち止まって蝉の声を聴いていたが、ひとりの客も、店員も出てこなかった。

ただ噴水だけがしゃばしゃばと音を立てて活動していて、他は時が止まったかのような静けさである。

 

彼女といたら、会計なんて忘れることはなかったのにな。

 

少しだけ自棄になって、駅とは反対側に歩き出した。

偶然とはいえ、これは食い逃げだ。もし見咎められて怒られたら、完全に忘れていたといって謝ろう。実際にそうなのだから。

 

 

 

僕が食い逃げしたのは、コーヒーと、彼女の時間と、あと2人分のこころだ。そのとき、やっと涙が出た。新しく帰る場所なんていらないから、居心地が悪くていいから、僕のものがなにひとつないあの部屋に帰りたい。

 

蝉が鳴き続けていて、できるだけ長く生きていてくれますようにと願う。踵を返して、駅に向かった。

距離感について

深夜なので記事を書こうと思う。

 

 

私にとって距離感とはなにか

自分は人との距離が遠い。

20歳になる前からSNSMMORPGをしていて人と心の距離が遠いことに慣れていたのもあるかもしれない。そういえば個人のウェブサイトも(流行りで面白そうだったので)やっていた。はたまた、中高生、もっと遡るなら小学生の終わり頃には既に人と隔たりがあることははっきり感じていて、それでもひとりになると困るからなんとか取り繕っていたのも大きいかもしれない。だから、組織行動を必要とされるとき以外は大体ひとりでいたかった。というか、ひとりのときに思索が進むことはよく知っていた。惜しむらくは、その思索のための素材を当時はそう多く持っていなかったことだ。自分の内側には大したことのない芽生えたての自意識くらいしかなかった。

 

対面での人間関係はとても苦手で、寄ると触るとトラブルが起きたりしたし、相手の気持ちを理解することができていたとは思えない。あるいは、予想したとしても相手にとって望ましい行動を取ることが難しかった。

 

あるとき、「◯◯ちゃんは距離感がいいね」と言われて、とても楽になった。とても遠いのだという。

深く関わらず、自らの無力を知り、しかしできたらそこで踏みとどまり、求められれば必ず助けに応じること。言葉には、悩んで答えること。

曖昧なことで申し訳ないが、内面に悩んで他者と会話することさえ憚られてき、またそのまま抑うつ状態を経て「健康なコミュニケーション」をすっかり忘れてしまった自分にはとてもありがたかった。

誰かのためではないから、不適切なことも勿論あったろう。それでも、自分を主体としながらも少しずつ相手の知覚にも軸をおいて関わりたいと思えるようになったのはおそらくその言葉がきっかけだ。

振り返ってそう感じるというだけのことなので、実際はさまざまな人のちょっとした態度に救われてきたのだと思う。

 

 

 

距離の事故について

極端な例を表に出すが、私はときどき、同性に告白される。私自身の性自認は女性であり、男性との性行動を望む。というか結婚している。

 

彼女たちがなにを私に望んでいるのかはよくわからない。でも、(そういったことを望む一般的な)男性がいうような性的な一対一の契約ではないことはなんとなく感じる。私はなにを差し出すことを求められており、何を答えればよいのか、わからなくなる。余計な気がかりではあろうけど、彼女らは私の心に踏み込んでくるので、どこで線引きをしてよいかわからなくなる。とても怖い思いをする。

 

上記のようなことは本当に極端な例だけれど、個人と個人の関係においてもこんなときのような困惑を、多分感じている。それとはわからない程度に、微かに。でも確実に。

とくに、会話をする知人以外の関わりをもつときは、かなり疲れてしまう。役割上、私は何をするべきなのかと。

おおよそ、いつも誤ったふるまいをしていると感じているがゆえの不適切なコーピングなのだとは思う。それで、つまり自分の負担だけでカバーできるときもあるし、そうではないときもある。

 

われわれは他者を読み、同時に他者から読まれてもいる。複数の読みの相互干渉。われわれの読みどおりにおまえ自身を読めと他者に強いる(隷従)。われわれ自身についての読みどおりにわれわれを読めと他者に強いる(征服)。

 

(中略)他者というものは、当人をまえにして(あるいは当人を思いうかべて)われわれが読みとるものとは別物たりうることを、いつでもすみやかに認める心構えでいなければならない。

 

あるいはむしろ、他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である、それどころか似ても似つかぬ代物であることを、他者のうちに読みとらねばならない。

 

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

誤ったゆえの疲れなのだろうか。

誤りたくないゆえの疲れなのだろうか。

それとも、誤っていると気取られたくないゆえの疲れだろうか?

 

 

 

適切な距離なんてない

しまりのないことを言うけれど、誰かにとって適切な距離なんてものは存在しないと思っている。その人がある距離を口にしていても、実際にはそうでない方が関係がうまくいくこともある。うまくいく、ということが、一定の期間他の人よりも親密で頼りになることなのか、細く長く続くことなのか、それさえも定義されていない。だからこそ適切な距離なんてものは存在しない。あるいは経時的に変わってしまうかもしれないし、完全に離れること、関わりを断つことが適切なこともあろう。

 

それは私が私であり、誰かが誰かであるからだ。

私が主体をもっていなければ、物差しとして客観性を保てるかもしれない。が、個体をやめられない以上、私や相手は互いにとって視認しうる対象であり、なんらかの感情や印象が存在して、距離の前にお互いを認識している。

 

認識を先回りしてコミュニケーションを完成させることはできない。

 

以前、内田樹氏がご自身のブログで「コミュニケーション力とは、壊れてしまったコミュニケーションを修復する能力のことである」と述べていた。その言説がどれくらい妥当かはさておき、当時の自分は納得した。勿論うまくできはしない。でも、コミュニケーション力というビジネス界での用語やコミュニケーション障害といったネットスラングに対して疑問を抱いていた自分には最低限の説明になった。同じ定義を用いている人が多数であるとは思えないが。

彼が読み解いていたエマニュエル・レヴィナスという哲学者の他者論を、私はまだよく知らない。

 

 

 

どう距離をとろうか?

さて、これから新しく人と関わるにあたって大きく方法を変更することは難しい(と思っている)。しかし近頃はとみに、ただ年上の人間のいう新しいことだけでなく、現れた若い人たちの言葉に耳を傾けねばならぬと思う。自分の我を押し付けずに話を聞くことはとても難しい。自分は既に済ませた道で悩む人たちをみると、口出ししたくなるのは悪い癖だ。その人にはその人に適した方法も道も存在するし、なによりみな異なる力を有しており、私なぞより遥かに広い視界が開けるであろうという期待(これは私が若い人全般に抱いている印象であり、特定個人に望むものではない)があるからだ。

 

耳を傾けたいとき、私は仕事以外での方法を未だにあまり知らない。折角なので、読んだ本の引用からそれを学ぼうと思う。

 

もちろん彼に教えたり知らせたりすることは何もない。そのそばではつねに黙って耳を傾ける方がよい思想家の一人に考えさせたり、考えさせようとすることが、どうしてできようか。

 

それゆえ私は、彼に何も言わずに、せめて彼に触れたかったのだ。とは言っても、気配りを欠かさずに、節度ある距離をおいて、しかし、気配りをもって。

 

彼の心を揺さぶることなく彼に触れること。要するに、彼に何も言わずに、あるいは誰が話しているか告げずに、彼に知らせること。彼に知らせること、しかし触れることの問題について彼と何も共有せずに、彼であればこの知らせのなかで彼に触れる何かについて語るであろうように。

 

私の感嘆を示す友愛の証しによって、彼を邪魔したり、うんざりさせたりせずに。ほとんど感じ取れないくらいに、触知できないくらいに。ージャック・デリダ『触覚、 ジャン=リュック・ナンシーに触れる』

 

かくありたいものだが、果たしてできるだろうか。

パート主婦3か月経過のちょっとした記

激務から解放されて完全に虚無になった人の記録。

 

 

空っぽになったようでまったく空っぽになってくれなかった

私は適応が遅い。

あんなに大変だった病棟勤務が終わって、突然放り出された。いや、突然すべてを辞めてしまうと完全に呆けてしまうことが予想されたので、新しい仕事を探した。幸いすぐに見つかった。

諸々の事情であと1年少ししか働けない予定だったので条件は厳しかったが、転職サイトを使って近隣のクリニックに就職することができた。

 

本当は、地域医療の中でも施設や訪問看護での勤務ができたらよかったけどこればかりは仕方ない。のちに、もしかしたら1年がもっと長くなる可能性も出てきてこれに関してはいまだに葛藤がある。それも仕方のないことだけれど。

 

学業について

まだ前の職に就業している予定だったので、試験のスケジュール上少し変わった科目も取っている。法学、言語学のさわり、マーケティング、哲学を少々。

数学の単位を前期に取り逃してしまったので、それも詰め込んだら意外と忙しかった。

院試を受けるために計画書を書いているが、それも初めてのことなのでうまくいく保証はない。宙ぶらりんというのはつらいものだ。

 

仕事について

先述の通り、いきなり病棟勤務からクリニックに移るので少し不安があった。

呼吸器の管理からちょっとどころではない皮膚処置まで、ありとあらゆることが委ねられていて、気の抜けない日常がなくなった。どれだけ気を張り詰めて生活していたのかしみじみと実感する。

少なくとも今の仕事では人は死なない。少し味気はなくなったが、今までみていた科とまったく違う分野なので、学ぼうと思えば新しいことはいくらでもある。ただ、長年続ける自信はあまりない。だからこそ今のうちに経験したいと思ったのだが。

 

地域医療の一端を知ることができるのはラッキーだと思う。

もとよりそのつもりでクリニックを選んだのだが、意外にも大規模の病院に送られるような人も訪れる。以前はそういった鑑別のもとで選り抜かれた人々が、外来を通じて病棟にあがってくるのを待つ立場だった。今回は送る立場を知ることができる。それはそれでなかなか面白いことだ。

 

読書について

学業に本格的に専心するようになったこともあり、まったくできなくなってしまった。

興味はあるが時間がない。病棟で働いていたころは半ば現実逃避として取り組んでいたものが急に拭い去られてしまって、戸惑うばかりである。

 

今までできなかったこと、今できること

哲学若手研究者フォーラム

先日、このようなものに誘われて参加した。

東京までの遠征であったため、始発の新幹線に飛び乗って分野外の自分がお邪魔するのは気が引ける反面、とてもわくわくした。

趣味程度の哲学の本を読む程度であったのが、仕事の合間を縫って読書会に参加するようになり、ついにこんなところまで足を運べるようになった。小さな一歩ではあるものの、確実な一歩でもあった。

会場では同時間帯にいくつか口演があるので、好きなところに赴く。

自分は主に分析哲学を聴講したが、若手だけあって緊張しながら質疑応答に臨まれる発表者の方が多かったように思う。何より少し驚いたのは、鋭い質問が飛び交う中にも発表者の意志を代弁するような姿勢も見受けられたことである。哲学研究会では、相手を委縮させたり言い負かしてしまうような場面もあると風のうわさに聞いたことがあったので少しびくびくしていたが、決してそのような雰囲気は感じなかった(少なくとも私が聴講した中では)。

 

倫理学、メタ倫理(に近い?)分野の発表にもうかがうことができ、まことに充実した2日間を過ごすことができた。同伴してくれた友人に自分の分野と哲学の接続可能性についてつい話し込んでしまったりもした。こういう機会をもてることはまことにありがたいことである。

これから何につながるとはまだ言い難いものの、興味のある方向へ足を伸ばすのは以前はできなかったことだ。

 

プログラミングに手をつける

やりたいといい始めてから2年が経過していた。

その間に、前職の多忙な中でもできることとして、学部で統計の授業をとっていた。

それを少し生かしつつ、Pythonをやりはじめた。

自分の基礎はまったく(ほとんど?)ない。上記の統計の知識が少しと、マークアップ言語をはるか昔に書いていたのと(古のオタクはこういうスキルがある)、学部で計算機科学にまつわる科目を追加して少し取り始めた程度である。

 

幸いにして自宅の環境は完備されており、始めるには申し分ない条件がそろっていた。

ありがたいことに、Twitterでは沼に引きずりこんでくれる御仁が多数おられ、ちょっとわからないことをつぶやくと支援の手が伸びてくる。藁にも縋る思いでそれをつかんで、少しずつ進めている。思ったより楽しい。

こうしたことに踏み込むには、心と時間の余裕が必要だった。

前職の折にも半期ごとに9科目の授業を抱えていたので、時間そのものはあったのだがいかんせん心の余裕がなかったようである。

 

チェロの活動を再開する

これもなかなかできなかったことだ。以前にも1-3か月に1度程度楽器を引っ張り出してレッスンルームを借りていたが、勘を思い出すにも至らなかった。当然上達などするはずもない。数年にわたって同じ曲を弾き続けている(飽きないのもそれはそれで自分にしては珍しいが)。

運よく、自分が楽器を始めたころからお世話になっている教室で発表会が開催されるらしく、ソロとカルテットをあわせて数曲乗せてもらえることになった。

あれこれ詰め込みすぎである。

 

ところで、先日カルテットの初合わせに参加したところ、いきなり楽器が破損してしまった。おそらくそこまで大掛かりな修理ではないものの、今までの不精を楽器に叱られたような気分になった。すみません。

 

全然暇にならなかった

書き出してみるとそれなりに忙しかった。

時間に余裕があることだけは確かだが、気持ちはいつも急いていて、それでいて長期計画が多いためになかなかいい成果を出せないものが多い。

結構ストレスフルだったし、何より自己肯定感の低下がみられた。

仕方ないことであるが、激務の職業をやり遂げていることは自信を保つ援けになっていた。向いていないといいながらも、複雑なコミュニケーションと手厚いケアを施せることはありがたいことだったのだ。もちろんこれは職に就いている間も感じていたことだが。

 

これからどこへいこうか。

どこへいくかは決めているけど、きちんとたどり着ける自信はまだない。

感傷的散文

真夜中なので感傷的になろうと思ったら夜が明けた。

 

 

長い長い夜が明けるように、この10年くらい、毎年わずかずつ体調がよくなってきた。

そうと書くくらい、自分と不調はいつも仲良しだった。

今は激しい精神の不調は鳴りを潜め、睡眠と食事とたまに募る苦しさだけが外形を留めている。

 

四季の移り変わりごとに、つらかった時期を思い出す。盛夏ならば、学校に通えずひとりで補講を受けたことや、食事が摂れずベッドに横になっていたことを。冬ならば、部屋に閉じこもって自傷するくらいしか眠る手段がなかったことを。

 

そういう、季節ごとの過去の記憶が随分薄くなって、最近はたと気づいた苦しみがふたつある。

 

ひとつは、人が死ぬことへの疲れ。

もうひとつは、産むことへの恐れ。

 

ひとつは、先の4年で味わってきたことだ。砂がこぼれ落ちるように弱っていく他人の体のことを、何度か記事に書いた。自分自身のグリーフケアをしたつもりが、できておらず、数ヶ月後になって苦しくなってなぜだか泣いてしまうことが何度かあった。

 

そしてもうひとつ。

 

隠してもいないし、聞かれもしないが、まるでタブーのようにそれはある。

大したことはなく、かたちとして知ることもなかったが、化学流産は私をひどく戸惑わせた。

いや、妊娠という事情が実際に降りかかって初めて気付く自分の狼狽といったほうがいいか。

だから妊娠が継続された場合にはこれが実行されただけのことだったのだ。わかった瞬間に身構えたことが、不意打ちを食らったように全部押し流されて、痛みだけが残ったのが。仕事を休んだという事実だけが残ったのが。悲しかったのだ。

 

仕事を続けるか辞めるか。家族の中では私の仕事は私のために続けられていることで、いつ辞めてもよかった。でも職場には曖昧にしか伝えていなかった。いずれにしても妊婦が働けるような職場ではなかったし、諸々の事情から復職もする手立てがなかったので辞職は自明だった。でも実際に腹を括るのは骨が折れた。

何より、結局妊娠を継続し得なかったということをひっそり抱えて職を辞することがつらかった。おおっぴらにいうことでもない。でも寿退社なんてものではなかった。悲しい気持ちはどこにもいくことができなかった。

 

就学をどうするか。

自分は職業人であるとともに兼業で大学生をやっていて、学部生から院生になろうと画策していた。妊娠出産をいつ挟んでもいいようにしていた。というか、いつ挟まっても不都合な時期というのはあるもので、まあ仕方ないものと思っていた。

逆算して考え直したことが、白紙になった。

 

家族をどうするか。

自分自身の体調がどう変わっていくのかわからない不安を抱えながら、一瞬ではあるけれど、家族の優しさにも触れた。そして、一瞬でそれも流れ去った(優しさがなくなったのではなく、元の日常に戻った)。悲しいけど仕方ないことだ。

 

誰だったか、Twitterでブログ記事を書いていた人がいた。確か私と同じくらいの時期のごく初期の流産をした人だったと思う。

その人も仕事をなんとか都合をつけてこなしていた。産科で化学流産(だったかどうかちょっと覚えていないのだけど)であることを告げられて、あなたのせいではないと言われて、その人は泣いていた。

 

私は泣かなかった。強いのではなく、泣く必要がなかったから。私は、それが自分のせいではないと勿論知っていた。身体的にもそこまでの負担ではないことも。泣いても現実が変わるわけではない、とどこか冷めた目で自分の痛みを突き放していた。

 

でも、気持ちの狼狽は2倍になったことを自覚しなければいけなかった。期待と不安に揺さぶられた直後に、悲しみとその秘匿を要求されて、完全に思考停止してしまった。そして私は考えることをやめた。

何より、思っていたより子宮収縮剤の副作用が強く、激痛でじっとしていることもできない夜を過ごしたからだ。あのブログの人は確か救急外来を受診していた。私はそれも必要ないことを知っていて、家族に痛みどめを買ってきてほしいと頼んだ。

その晩、明らかに通常とは異なる組織(どうやら出来損ないの胎盤のようだ)を流した。正直興味があったが(何しろ未熟な胎盤なんて見る機会はそうそうないので)、感染性廃棄物であることを思い出してすぐに捨てた。

 

悲しむべきではないのだと思う。

それはそう思う。だからこれは感傷だ。

 

いっときでも舞い上がってしまって、そしてすぐにその舞い上がりをぶち壊されて、右往左往したばかみたいな自分への慰めだ。

 

こんなの、もうあって欲しくないのだ。

 

そのときがくるまでなんの用意もできていなかったけど、少なくとも舞い上がることができるくらいには腹はくくっていたのだ。

なにもいなくなったことで、戸惑って泣きたくないんだ。

わかりきった不安に怯えるのは構わないけど、こんな無駄な感傷をいつまでも抱えているわけにはいかないから、

 

だからここに埋めさせてほしい。

結婚して半年の記

まだ籍を入れてからは半年に至らないが、同居からは1年近く経過しているので、良しとしよう。

 

自分は人に生活を合わせるのが苦手だ。

 

いきなり負の側面から書いてしまうことに若干の抵抗はある。結婚生活は総じて幸福だが、自分自身の特性から逃れることはできない。結婚して2週間経ったとき、舞い上がっていたかと言われればさほどでもなかった気がするが、当時抱えていた不安は結局その後も影響を及ぼした。想定以上にいいこともあった。今からそのことを書く。

 

 

他人と暮らすこと、生きることの負の側面について

他人の気配がすることへの負担

わかってはいたが、プライバシーというものが1Kで生活していたときよりとても少なくなってしまった。必ず家に人が帰ってくることに慣れなかった。自分は神経質な性格であることは自負していたが、物音や人の移動があるだけでもそちらに気がいってしまう。おかげでゆっくり眠れない・集中して勉強できないなど、負の影響がなかったわけではない。

 

生活リズムが違うことによる体への負担

自分は当時夜勤や12時間の勤務を含むとても不規則な仕事をしていたので、食事の時間・寝るタイミング・睡眠時間も毎日まちまちだった。そして、コントロールは比較的良好とはいえ、精神疾患のためにかれこれ10年以上食事と睡眠には困難を抱えていた。

伴侶も伴侶で仕事は多忙であり、帰宅時間はまちまちだった。

 

まず、生活リズムのずれが睡眠に影響した。

当時、最大2~2.5時間程度、入眠と起床時刻にずれがあった。

にも拘わらず、同じ部屋で狭い布団で寝ていたのは(後から改善したことを考えると)非常に不適切な選択だったようだ。住む場所の広さが許すなら、寂しいが、こういったパートナーをもつ人はベッドくらい分けるのが適切かもしれない。

睡眠に困難を抱える人間が生活リズムの異なる人間と生活することが甚だ困難を伴うことはよくよく学んだ。生活リズムが不規則な仕事に就いてからはずっと一人暮らしだったので、頭ではわかっていてもどれだけ体に負担になるかわかっていなかった。

もちろん眠れないし、朝もつらい。立ち仕事で体をよく使うので、朝に弱い自分にはたいそうな負担になった。

 

家事の負担についての精神的な負担

もともとひとり分の家事もろくにできないほどハードな仕事をしていたので、1.5人分ほどの家事をしなければならなくなったことがさらに生活に負担を与えた。

それは強制されたものではなかったが、自らの家事だけを(たとえば食事・洗濯など)自分の分だけすることは難しいので、結果として伴侶の分もやった。本当に疲れてできないときに責められることも家事を求められることも決してなかったけれど、日々の疲れというものは恐ろしいもので、ただでさえ仕事に負担を感じているところに家事がのしかかると心が狭くなってしまう。そんな自分にさえ腹が立った。

自分が感情労働をしているためか、帰宅時に疲れ切ってしまい虚脱していることもあったし、日々の怒りが爆発してしまうこともあった。

これは私が一方的にぶつけていたもので、つまり相手に感情をぶつけてしまうことによって自分が傷つくという性質のものだ。伴侶が怒りや苛立ちを私に対してぶつけないでくれることは、本当にありがたかった。

 

住む場所、仕事、ライフプランの変更を余儀なくされる

長期的な展望としては、まずキャリアプランが大きく変わってしまった。

自分がひとりのときは、遠い未来のことまで思い描かなければ「いま」の自分を奮い立たせることができなかった。糊口をしのぐというのは難しいもので、自分にはどうにも向いていないと思いながらも働いてきた身には、急に「今の仕事を(いつかは)やめる」「将来の設計を変える」というほぼ強制的な選択肢が降ってきたことはよかれあしかれ影響が大きかった。こういうことに直面するひとは、このご時世多いのだろうなと思う。

何度も何度も納得するまで伴侶と話し合ったし、具体的な問題点も解決策も出した。頭では合理的な選択ができたと思っても、気持ちがついていかないことはどうしてもあった。

伴侶の転勤があればついていくし(これは私が望んだことでもあるが)、そうなると転勤した地で職を得るのは少し時間がかかる。もしかしたら乳幼児を抱えているかもしれない。生活が一変してしまうことへの不安は今もなくならない。

 

ホームズの社会適応評価尺度(SRRS)において、「結婚」を50としたとき、「伴侶との死別」は100に位置づけられる。それほどに「結婚」は普遍的なストレスであることを、結婚してみて身をもって理解した。

 

 

他人と暮らすこと、生きることの正の側面について

わるいことを先に書いたのは、いいことのほうが多かったからだ。

でも、いいことは具体的でないことばかりで書きづらい。不満についてのほうが饒舌で、幸せなほうが寡黙になるとは皮肉なことである。

 

なんでも相談できる相手がいる

自分はあまり人に相談しないたちで、なおかつ愚痴も弱音も人に言うのがとても苦手だった。しかも交友関係がとても狭く、また職業への馴染みもさほどは感じられず、同僚と感情を共有することも難しかった。

半面、伴侶は(もちろん話がしやすいことも結婚には影響しているので)とても話しやすい。感情的になったりしないし、伴侶としての私を常に尊重して気を遣ってくれた。その配慮に慣れないこともあったが、私が葛藤や不安を言語化することを決して拒否しなかった。

 

家が広くなった

何を言っているんだと思われるかもしれないが、ワンルームや1Kという狭い間取りは生活空間の機能を分けることができない。家が広くなり、生活機能を分けることがくらしをよくすることに気が付いた。

キッチン・ダイニング・書斎(勉強する場所)・寝室が機能別になっていることはそれぞれの質を高めた。もちろん間仕切りがなくてもいい。

ワンルームだと、ダイニングと勉強する場所がほとんど同じだったり、ダイニングがベッドのすぐ隣になったりしてしまう。一人暮らしにしては自分はよく調理をするほうだったので、ワンルームの時期はかなりつらかった。1Kで一人暮らしをはじめたときにはキッチンの問題は改善されたが、勉強場所としての1Kはまだまだ集中しづらかった。読書や勉強(といっても教科書を読む程度)は、外の喫茶店で細切れに行うことが多かった。

 

それが、居住空間が分かれれば思ってもみない変化があった。

ダイニングでは伴侶がいれば話ができるし、ご飯を食べられる(当たり前だが)。食事を決まった場所でできるのは、食事そのものが楽しくなるきっかけになった。ひとりでもそもそと食べるのとは格が違った。

睡眠に関しては上述の問題を抱えてはいたものの、帰って寝るだけの生活からずいぶん変わった。もちろんこれに関しては、家で集中して仕事や勉強のできる伴侶の影響を受けたところも大きい。ある点で非常に尊敬できる人間と生活することは、自分自身の生活を見直すことにつながる。

 

スキンシップがあり、精神的に安定する

定量的な評価が難しいが、伴侶がそばにいることのひとつにスキンシップによるメリットが大きかった。もともとかなり情緒的に不安定で、抑うつ傾向にあり、将来への希望をもつ(これ自体にはストレスも伴ったが)ことには困難を抱えていた。

けれど、ほぼ毎日帰ってきて望んで一緒に起居する人間がいることは、何より精神の満足と安寧につながった。具体的に不安を言葉にできないときでも、離れずそばにだれかいてくれることにどれだけ感謝したかわからない。

 

社会的・経済的に安定する

これは外から見えるメリットでもあるのだが、外から見て「伴侶がいる」ことは、何かと便利だ。

ジェンダーによる嫌な思いをする人は男女とも多いとは思うが、幸いにして自分はさほどのストレスはなかった。姻族の付き合いは伴侶が極力遠ざけてくれたし、女性ばかりの職場で結婚そのもののストレスに理解を示してくれる先輩に恵まれた。自分は過去に家族を心配ばかりさせてきていたので、安心させることもできた。

もちろん経済の安定ばかりを求めて結婚したわけではないが、心身に無理をさせて働いていたのもまた事実なので、仕事を続けることも辞めることも私の一存に任せてくれた伴侶には頭が上がらない。経済的な優越を笠に着て、伴侶に仕事上や家事のうえでの強制をする小さな人間は多いものである。

もちろん仕事が変わることによるストレスも上記に述べたように大きなものだったが、その代わりに自分のやりたい勉強に没頭することを応援してもらえるのもありがたいことである。これは結婚そのものがもたらすものではないが、伴侶がいなかったら考えられなかったことだ。

 

しまりのない結論

これはただの日記なので結論なんてあったものではないのだが、半年(といっても同居1年くらいだが)経つといろいろなことがわかるものである。し、いろいろなことが変わるものである。

住む場所も、名前も、仕事も変わった。もう自分が自分を特徴づけるものは何もないくらいだ。免許証からパスポートから何から何まで変えた。

けれど、今も趣味や勉強したいことは特に変わらず続けている。そして、たったひとりで続けるより、見守ってくれる人がいるのは心強い。

 

生活の変化が怖かったけれど、その一部に、伴侶を頼ることへの不安があったのだろうと思う。経済的にも社会的にも依存せざるを得ない構造を作ることが、家庭における自分の発言権を失うことになるんじゃないかとか、今後のキャリアを大きく損なうことになるのではないかとか、どうしても気にせざるを得なかった。同居し始めたときにはぼんやりとしか見えなかった不安が、可視化して、そして今は少し軽減した。

 

今後に関しても問題は山積していて、顕在しているものもあればまだはっきりしないものもある。

ただ今いえることは、それらが乗り越えられそうだから結婚したということだ。

 

以上が面倒くさい惚気である。

向いていない(と思う)仕事をすること -ある看護師の一例

壮大な自己満足にお付き合いいただきたい。

 

私は看護師である。

先日、4年間務めた病院を退職した。体力的な限界も精神的な限界も、仕事の楽しさも苦しさも感じながら。家庭の事情があり、遠からず今の職場を辞する時期がくることは明白だったので、あとは自分の決断がいつになるかというだけのことだった。遠からずというのはたった1年ほどのことで、無理を重ねたとて、キャリアにも自身の健康にもその無理に見合うほどペイしないように思われた。したがって、健康と生活の安定を優先した。

 

4年間それなりに楽しく勤めたものの、やはり「あの環境」の「あの業務」は自分には必ずしも適していなかったと思う。

ではなにが激務を耐えさせたのか、そこで得たものはなんだったのか、何を展望として職場を去ることができるのか。

できたら、この仕事について「自分には向いていない」思う、入職間もない方々に。そして、葛藤を抱えつつこの職を目指そうとしている方に向けてお伝えしたい。そして、これから「向いていない」かもしれないことを生業にしようとしている人の力になれたら、これに勝る幸いはない。

 

 

 

 

私について

前もって、私自身の説明をさせていただきたい。

 

私は高校在学時、抑うつを呈する気分障害に陥った。そのため高校卒業後もすぐには進学せず、2年の間療養をしており、その2年目の最後に専門学校を受験した。

入学してからも上記の精神疾患をひきずっていたので、(看護学生の皆さまご存知の)過酷な実習に耐えられなくなったことがあり、自ら望んで1年の留年をして休養期間を設けている。このため、勤務開始時には24歳だった。

 

働きだしてからもほぼ常時の服薬と通院を要したが、勤務自体は(3年目に少し体調不良を自覚したのもあって2週間ほどの病休を取得した以外は)続けることができた。

 

そのほか、勤務外の個人的な興味として、臨床3年目に放送大学(心理・教育コース)の3年次に編入学し、卒業している。

 

なぜ看護師を職として選んだか 

端的にいうとやりたいことがなく、金もなく、リスクを負っていたからだ。

 

やりたいことは「なかった」のではなく、正確には「それを職につなげるまでの道のりがあまりにも遠く、間接的で、今の自分から手の届くものに思えなかった」ということだ。自分が生まれた時期はすでにバブル崩壊後で、中高生を育った時期はリーマンショックのあおりを受けて全国的に不況であった。就職後の労働環境もよくないことは大体知っていたし、日銭を稼ぐためにやりたいかどうかわからない仕事を星の数ほどある(実際にはそこまで多くない)学部学科や、企業の中から選ぶということができなかった。偏差値で行きたい学校を決めるよりも先に、その次にある就職活動というものがどうしても脳裏をよぎった。*1

 

そして結局は高校在学中に精神疾患を発症したため、就職は余計に難しくなった。

まして就学資金も余裕がなく(一家の大黒柱は定年退職したうえ病気で再雇用も困難になった)、自分への健康に不安をかかえた状態で勉学に刻苦して1年や2年浪人するなども考えにくかった。なぜならその先に、上記のような不安と不確定要素に対する忌避があったからだ。*2

 

なぜこの仕事に向いていないと判断したか

  1. そもそもすでにうつを経験している
  2. 組織行動が苦手
  3. 興味・志向が周囲の看護学生・看護師とたいていは大きく異なる
  4. 感情表出が得意ではない
  5. 一緒に働く人の意図が読めない

1.すでにうつを経験している

「看護師(または看護学生)」「うつ(あるいは抑うつ)」などで検索をかけると、一般の記事(つまり、いち看護学生の怨嗟の声)や学術記事(査読の有無にかかわらず看護学生の無力感に対する危機感がみてとれる検索結果が出てくる)が大量にヒットする。つまり就学そのものにも、医療や看護の独特の価値観にコミットできない人間が大量に出てくるリスクはある。

医療・臨床心理・介護福祉に関わる職種の中にも、(ほかの業種と同様に)メンタル系疾患を抱えた人が一定数いる。中には、自らの経験をもとにして医療やケアに携わりたいと志した人も、そのほかの要因(不況で賃金の確証のある仕事が少ないなど)を抱える人もいると思う。

でも、結果的には、医療従事者や医療機関にも精神疾患患者への根強いスティグマがあり、就職への途は厳しい。就学の途上も、上記のような理由で実習などに体力的・精神的な困難を抱える可能性はあったし、その後の就業においても不安はあった。

 

2.組織行動が苦手

これは書くまでもないと思うが、看護師はチームプレーを要求される。昨今、病院の理念としても看護教育の理念としても、また地域医療全体の理念としても、他職種との協働が叫ばれる。それ以上に、病棟という単位で病床の患者の維持・管理を行うにあたり看護師同士のコミュニケーションが前提となる。

対して自分は、小学校低学年のころから「集団行動が苦手なようです」と通信欄に書かれるほど組織での行動が苦手だった。

女性に生まれた以上、思春期がくると学校社会特有の感情的ななれ合いのようなものがあり、自分のように「目的志向の組織」にしか所属できない人間には、「その場にいるから仲良くする」という場の調停者的役割を担うことができなかった。*3

 

3.興味・志向について周囲の看護学生・看護師と差異がある

高校生以前から、文学・歴史・哲学・芸術(音楽・デザイン)に興味があった。

看護学生のころには各種看護理論の本は最低でも1冊くらいは通読していたが、1クラス40人の看護学校でそういう理論的な部分に興味をもつ人はほとんどいなかった。

 

その興味は抑うつを経て多少変化があったものの、むしろより広域になり、より深化した。特に、在職2年目からは「100冊読破」という計画をひとりで立ててひとりでやり始め、他分野の初学者向けの学術書や一般向けにそれを紐解いたものを読み始めた。

その類は、おおむね哲学(倫理も含むが分析哲学現象学等の細分化した分野も含まれる)・社会学(おもに都市社会学と教育社会学に興味をもった)・認知科学(とっつきやすく、門戸も広かったので認知心理を中心に)・心理学(統計に馴染みをもつためにやった)・経営(上記のように組織行動が苦手だったので、かえって人的資源のマネジメントに興味をもった)を中心としてその関連文献を読み漁った。*4

 

病棟勤務をはじめてからも、こういう興味の持ち方をしてそれを楽しむ人はあまりいなかったように思う。だから、休憩室で取り交わされる会話についても(テレビ番組、芸能人、他愛のないニュース)まったくついていけなかった。*5

 

4.感情表出が不得意

感情のコントロールに不安があったので、就職してすぐに近所のカウンセリングルームに駆け込んだ。ちなみに、それまでは精神科のフォローアップのみで、カウンセリングを受けたことはない(保険がきかず比較的高額であり、実家に経済的に依存した状態では遠慮があったため)。

そこで受けたMMPI(Minnesota Multiphasic Personality Inventory; ミネソタ多面人格目録)で臨床心理士の方から受けた解釈には見出しの件が含まれていた。

抑圧した感情をうまくガス抜きできない(そしてこれが性格的なものであり、大きな変更はおそらく難しい)ということは、これからも高いストレスに晒されたときには抑うつを悪化させるリスクがあるということだと理解した。*6

 

5.一緒に働く人の意図が読めない

どうにも自分には言語とか感情の解釈に少し人と違いがあるようだということを、就職してからより強く意識するようになった。どの程度他の人とずれがあるのかということについては客観的な尺度を用いていないのでなんともいえないが、指示された事物や求められる答えの方向性を具体的に導き出せないことがよくあった。

もっとも、これは「看護学生・新人看護師あるある」の話でもあると思うので、私だけが非常に強い不適合を示す理由にはならないと思う。

 

不適合をカバーするために行ったこと、自然とカバーできるようになったこと

毎年、年度末になるとその年の所感を書いている。委細は下記記事に記載されているが、重要な箇所はさして多くないので、一部引用という形をとりたい。

なお、2年目と3年目の記事には前年の記事を入れ子構造にして記載してあるので、元記事を読んでくださる方は迷路に入ってしまわないようご留意いただきたい。

 

1年目。組織で働くということ

社会人生活記 -いちねんめ編 - 毒素感傷文

過密で不規則なスケジュールや人間同士の煩雑なコミュニケーションについていけずにドロップアウトする人が後を絶たない。それをドロップアウト、と呼ぶかどうかは別の話だ。臨床にいることだけが全てではないし、今の臨床にそぐわなかったら専門職失格かといえばまったくそうでもない。

 

 

おしごとこわい - 毒素感傷文

自分がぺーぺーの新人であることに自覚的である必要に迫られます。今の自分にどれくらいの能力があってどこからは人の手を借りなければならないか、なんていう話を経時的にしていかなければならないわけで。

 

そんな中で、ごく自然になされているのが実は『スタッフ間の能力調整』だと思います。みんなはっきり言わないので実にわかりにくいです。私みたいな言葉にしないと理解しえない人間に雰囲気で理解させるのほんとやめて欲しい。

つまりスタッフのパーソナリティを理解してその仕事の密度・精度をある程度お互い共有しておかなければならないようです。得意・不得意をなんとなく理解していないと、本人のもてる最大の能力は発揮できないでしょうから。

別に私の職に限った話ではなくどの組織でもそうだと思うのですが、あまりはっきり明示されている例を見ません。そういうことは『当たり前』の『常識』として扱われるのでしょうか。だとしたらとんだ常識ですね。

これが1年目の記事で、今回自分が述べた内容に最も適した部分の抜粋である。

年度の途中には看護の組織論や臨床における自己の育て方についても考えていたらしい。この頃に、フランスの哲学者モーリスメルロ=ポンティ著「知覚の現象学」や奥川幸子「身体知と言語」を読み、認知全般に関わる哲学や科学等の一般人向け学術書を読み始めた(本のチョイスがまだうまくなかったので、この頃は哲学でよく挫折した)。

常に悩んだり行き詰ったりしていますし常にそういった類の本を1冊は読み止しにしています。

本来この職種の定型的な新人は『いま、まさに』必要とされる知識に常に飢えていなければならないはずで、私も勿論ある程度はそうです。けれどそこより先に逃れ得ぬ不安というか根源的な問題への疑問があり、それに応えてくれるのはいつも理論とか哲学の本でした。実際的な知識はもちろん明日役に立つかも知れないけど、10年先の自分を育てているのは確実にそれだけではないのですよね。(中略)

でも、ただ毎日積み重ねるだけでも志向性のない茫漠とした経験を積むだけになるので、それはいやだなあと思ってね。

どうやら自分はこの頃から、看護で臨床をするにあたって臨床の実用的知識だけでは自分は生きてはいけない(仕事をし続けるのはつらい)というのを肌身で感じていたらしく、看護を取り巻く環境に対する知識や他の視点を求めていたらしい。そうしてメタ的な視点に自らをおくことで、日々の慣れない仕事に少しずつ適応しようとしていた。

 

転職は常に検討していた

考えることがなくなり暇になると、他の職業について思いを巡らせた。もちろん同じ業種での転職も考えた。それは、実際に手をつけるというよりは「可能性を考える」ことであった。自分の方向性を常に確認する必要があった、なぜなら自分の臨床の規範となる人はいれど、キャリア全般の指標となる人はいなかったからである。*7

先の「おしごと怖い」にその内容が少し書かれている。長めの引用になるがご容赦いただきたい。

『臨床(それもたったひとつの病院、病棟の中の)』にこだわり続けることに何ほどの意味があるのかと疑問に思うこともよくあります。(中略)

私は転職がそれほどいいことだとも悪いことだとも思っていません。ケースバイケースという安易な言葉に逃げてもよいのであれば、その通りだと感じます。

 

看護において転職は2パターンあります。*8

①そもそも職業・働き方を変えてしまう(つまり臨床を離れる)

②病院を変える(今回は施設・訪看勤務なども含める)

の2つですが、意外と私にとって②の方がハードルが高いように感じます。

 

自分が本当に逃げたかったものからは逃げられるか?

新天地は自分にとって前回よりもそれが改善されているか?

学ぶべきことは本当に学び終わっていたか?

などなど、悩むことが尽きないからです。 とくに3つめ、学ぶべきことが本当に学び終わっていたかどうかにはとかく執着があります。

 

臨床がだめだった、向いていなかった、といって①に思いきれる人は、ある意味大胆で他の生き方・仕事に自信が持てる、あるいはそれを達成するに十分な能力を有しておられる方だと思います。尊敬します。逃げの結果であったとしても、少なくとも臨床よりはほかの選択肢の方がマシだと思えるその決断力に敬服します。

私には今のところ、今の病院にしがみついてなんとか新人教育を乗り越えるくらいの余力しかありません。それは少なくとも最低限’現状の教育システムで育っていけるだけの能力を有していた’というだけに過ぎず、適正があるとかないとかいう話ではないのです。ただ、『可能だったのでやっている』というそれだけで。

そんな思考のもとに日々を過ごしているので、同期や友人や先輩を見ていると、何年自分は臨床で学び続けるだろうかと思うのです。

 

2年目。看取ることへのエネルギー

そして2年目に、自分は人の死を多く経験することになった。安らかでなく、どちらかといえば悔いの残るケアの経験ばかりが重なって、随分消耗したらしい。

社会人生活記 -にねんめ編 - 毒素感傷文

ときになにをもってしても「なおす」ことのできない症状に出会うとき、その症状に侵されている個体・肉体・実存と対峙するとき、自分はえもいわれぬ無力を噛み締める。1年目でなにかできるようになるというのはどだい間違っている、と1年目の終わりに書いたが、2年目にはより『無力さ』の正体が明らかになってきたような感じがある。

今まで噛んでいた砂の味を自覚するようなものだ。実にまずい。

人の死という現象を理解するため、かどうかはわからないが、1年目にも増してたくさん本を読んだ。金銭的に余裕ができたのもあり、当初は「1ヶ月に1万円分までならなんでも(当時は雑誌や看護の専門書など)購入してもよい」という決まりを自分に与えていた。とはいえ、大量の本を読むようになったので、結果的にはほとんどが図書館からの借り物になった。

 

職場では、プライマリナース(1人の患者を最初から最後まで担当するスタッフ)を務めることになり、責任は重くなった。裁量権は大きくなったものの、まだ半人前のまま仕事をするのは負担だった。なにより、人がたくさん亡くなるということはそこまでの生命に向き合うということであったため、感情的な消耗が激しかった。行きつけの飲み屋で、客が誰もいなくなった夜更けに泣いたこともあった(同僚に泣きつくわけではないところがいかにもぼっちらしい所業だ)。

 

3年目。小さく折れること、撓むこと

社会人生活記 -さんねんめ編 - 毒素感傷文

うつで仕事を休んでこんなに喜んでいるのは自分くらいのものかもしれないが、うつ状態の経験者にとっては「治療を続けながら以前と同様の社会生活を継続することができる」のはほんとうに快挙である。

 

「休めば治る」を自覚するのは難しい。「休んでも根本は治らない(かもしれない)」ときの自覚はもっと難しい。
上記に書いた「短い休み」は、実はかなり高度な「だらけスキル」だと思ってほしい。通常の勤勉な人は、勤勉であればあるほど、こういった休み方はしづらいと思う。学校生活や勤労において、この程度で復調できるほど短時間で生活を整えるのも、内服を調節するのも慣れた人間でないと難しいと思う。

 

だから、休みは少なくとも1か月から数か月単位で取るものと思ってもらうとよい。

 

「自分自身」を引き受けるのは本当に骨が折れる。こんな自分は投げ捨ててやりたい、と何度思ったかわからない。しかし、自分の知覚をもって自分自身を生きることができるのはやはり自分しかいないのである。

先に書いたように、自分は2週間ほど仕事を休んで服薬の調整をした。不眠や食欲の減退など自分の不調の指標となる症状が出たとき、もう通常の休養では戻らない可能性がある・このまま仕事を続けるのが難しいと判断するのは自分自身でも困難である。無理をすることもできたのかもしれないが、得策ではないように思えたので、上司と相談して少し休みをもらった。

引用にもあるように、こういう調整は「人生の挫折」を味わったことのない人には難しいような気がする。依然として精神疾患へのスティグマはあるし、なによりも内面化された精神的な負担への恐怖や実際に休んだのちの復帰などを考えると、足踏みしてしまう人が多いのも頷ける。

 

これからのこと

ここまでで、「組織行動への注力」「興味・志向への注力」「うつのコントロールの(ある程度の)達成」を書いてきた。

そして、退職のときは思ったより早くやってきた。それも、自分が特に望んではいなかったかたちで。

 

ライフステージの進行というのは、常にこれら仕事への葛藤と隣り合わせである。苦労してこの葛藤を解決してきた身としては手放しに退職を喜べなかった部分がある(だからこそこうしてめちゃくちゃ長い記事を書いているのだが)。

 

これからのことはTwitterに小出しにしているので、ここまで読んでくださった方にはまことに恐縮であるが、省きたい。有言実行は今の世の中では評価されることかもしれないが、自分はまだまとまりをもって志向性をもつことができないアイデアを「なまのまま」の形で出すのがとても苦手だ。今現在進行していることにはそれなりに意味があるけれども。

 

最後になるけれども、自分が4年間を働きとおしたのも、その間に自分の興味により深くのめりこむきっかけになったのも、TwitterでフォローしていたりRTで回ってきたブログを読んだりして得た発奮によるものが非常に大きい。ぼっちの自分が「仕事がつらい!」といえば近所のツイッタラーが実際に会って構ってくれたり(これにはもちろんリスクがあるので必ずしも推奨はされないが、昔と違って現実と紐づく情報が多くなったのでずいぶんハードルもリスクも下がったと思う)、あれに興味があるといえば近い分野や的確な成書のおすすめを教えてくれたりした。

 

向いていない仕事をやるということは、「そもそもやる必要があるかどうか」「健康状態がそれに見合うかどうか」という要素と天秤にかけたうえで、「やりたければやれる」。

私はいまもむかしも、精神疾患をもちながら看護師として生きていることを基準にしている。こんな自分でも人様の役に立てることがあるとすれば、このようにその方法を公開するくらいのことである。

 

これまでお付き合いいただいた方々も、これから出会う方々も、どうかよろしくお願いします。

*1:※なぜ企業就職が前提であったかというと、実家の都合で学部卒就職が前提だったからだ。自分の興味や能力の偏りの都合で「文系」所属であったことも影響しているが。

*2:看護学校(専門学校)は公立であると地方自治体から助成金が出ていることが多く、そのため学費は非常に安い。

*3:働いてみてから感じたが、現職看護師は意外と「組織行動が得意」というわけでもない人が散見される。今ではむしろ、そういう人も含めて組織行動にまとめあげてしまうのが病棟という看護単位であるのだと思っている。

*4:この記事を書いている現在では、この100冊読破は6周目に突入しており、511冊を数えている。

*5:もしかしたらこういうことに興味をもっていた人はいたのかもしれないが、たぶんそういう人はのちに修士課程に進んだりしていたのだろう。

*6:その後臨床心理士さんからはソマティック・サイコセラピーを勧められたが、結局は仕事が忙しくその後足が遠のいてしまった。もしかしたら、仕事上の苦悩を聞いてもらうだけでもよかったのかもしれないが、当時の自分はその苦悩を自覚することでさえ負担になるほど職務へのプレッシャーを感じていた

*7:どの本・ブログだったか忘れたが、「キャリアの師をもて」みたいな記載があった。いかにも経営っぽい。

*8:比較的早い年月での転職の場合を考慮しての分類です