毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

おしごとこわい

仕事していて今まで考えてきたことで、具体的でないためにいまいちまとめてこれなかったものを大別して。

何せ仕事そのものへの考えとかではないから、吐き出す先がない。

 

1)能力の分配と集団のパフォーマンスの向上について

2)何故看護理論とか哲学書を恃むのか

3)臨床が楽しくて怖い、とりあえず臨床

 

とりあえずこんな章立て。

 

▼1 能力の分配と集団のパフォーマンスの向上について

これは新人になって1か月くらいのときからずっと思っていたことなんですが、学生のときにはほとんどまったく気が付かなかった視点でした。

いや、実際には学生もその中に組み込まれており、時にスタッフからある程度信頼して役割を与えてもらえることに喜びを感じたりもしていたのですが、やはり今ほど実感してはいなかったような気がします。

自分がぺーぺーの新人であることに自覚的である必要に迫られます。今の自分にどれくらいの能力があってどこからは人の手を借りなければならないか、なんていう話を経時的にしていかなければならないわけで。

 

そんな中で、ごく自然になされているのが実は『スタッフ間の能力調整』だと思います。みんなはっきり言わないので実にわかりにくいです。私みたいな言葉にしないと理解しえない人間に雰囲気で理解させるのほんとやめて欲しい。

つまりスタッフのパーソナリティを理解してその仕事の密度・精度をある程度お互い共有しておかなければならないようです。得意・不得意をなんとなく理解していないと、本人のもてる最大の能力は発揮できないでしょうから。

別に私の職に限った話ではなくどの組織でもそうだと思うのですが、あまりはっきり明示されている例を見ません。そういうことは『当たり前』の『常識』として扱われるのでしょうか。だとしたらとんだ常識ですね。

 

 

 

▼2 何故看護理論とか哲学書を恃むのか

学生のころからずっと理論の本を読んできました。哲学関連の本については、小学生の頃から好きで、いつも身近に哲学という概念があった気がします。今に自分にも多分に影響していることと思う。

それは社会人になってからもやっぱり同じで、常に悩んだり行き詰ったりしていますし常にそういった類の本を1冊は読み止しにしています。

本来この職種の定型的な新人は『いま、まさに』必要とされる知識に常に飢えていなければならないはずで、私も勿論ある程度はそうです。けれどそこより先に逃れ得ぬ不安というか根源的な問題への疑問があり、それに応えてくれるのはいつも理論とか哲学の本でした。実際的な知識はもちろん明日役に立つかも知れないけど、10年先の自分を育てているのは確実にそれだけではないのですよね。

毎日の積み重ねが10年後の自分を作ると言われたらそれまでなんですがね。

でも、ただ毎日積み重ねるだけでも志向性のない茫漠とした経験を積むだけになるので、それはいやだなあと思ってね。

勉強しろよって話なんですけど(最低限はしています。最大限はキリがないので無理)

 

 

 

▼3 臨床が楽しくて怖い、とりあえず臨床

これが本題です。1と2はここに至るまでの前哨戦みたいなものです。頑張って読んで下さった方本当にごめんなさい。

 

悩んでばかりいますが臨床は好きです。臨床以外のことばかり考えていますが、すべては臨床のためです。すべてのことを現場での出来事に還元したいと願ってやみません。

過日、看護学校の同期(私は休養のため1年留年しているので’元’同期ですが)がほかの職種に転職していました。能力のある人で、確かに臨床1本という感じではない方です。他にも、4月に一緒に入職した同期が休養していたり、『臨床(それもたったひとつの病院、病棟の中の)』にこだわり続けることに何ほどの意味があるのかと疑問に思うこともよくあります。

 

私は転職がそれほどいいことだとも悪いことだとも思っていません。ケースバイケースという安易な言葉に逃げてもよいのであれば、その通りだと感じます。

ただ逃げるだけならば勿論推奨はされないのかも知れませんが、たとえば心身を病むまでになったとき(それが自身の脆さからなのか病院の環境からなのかはともかく)ひとまず逃げる選択肢というのもアリですし、立ち向かえるものであれば立ち向かうのもアリでしょう。

 

看護において転職は2パターンあります。

①そもそも職業・働き方を変えてしまう(つまり臨床を離れる)

②病院を変える(今回は施設・訪看勤務なども含める)

の2つですが、意外と私にとって②の方がハードルが高いように感じます。

何故なら、社会的な理由以外に②を選ぶ人は、『逃げる』或いは数年経って『この病院(病棟)で学ぶべきことは終わった』と感じる人が結構な数を占めているからです。

逃げたところで、自分が本当に逃げたかったものからは逃げられるか?

新天地は自分にとって前回よりもそれが改善されているか?

学ぶべきことは本当に学び終わっていたか?

などなど、悩むことが尽きないからです。 とくに3つめ、学ぶべきことが本当に学び終わっていたかどうかにはとかく執着があります。目新しい制度や場所、環境の変化に惑わされているうちに本質を見失うようでは本末転倒ですのでね。

 

次に、①について。今回話したかったのはこのことなのですが、恐らく私は①も②も当分選ぶことができないように思われます(必要ないのに選ぶことはありませんが)。

臨床がだめだった、向いていなかった、といって①に思いきれる人は、ある意味大胆で他の生き方・仕事に自信が持てる、あるいはそれを達成するに十分な能力を有しておられる方だと思います。尊敬します。逃げの結果であったとしても、少なくとも臨床よりはほかの選択肢の方がマシだと思えるその決断力に敬服します。

私には今のところ、今の病院にしがみついてなんとか新人教育を乗り越えるくらいの余力しかありません。それは少なくとも最低限’現状の教育システムで育っていけるだけの能力を有していた’というだけに過ぎず、適正があるとかないとかいう話ではないのです。ただ、『可能だったのでやっている』というそれだけで。

 

そんな思考のもとに日々を過ごしているので、同期や友人や先輩を見ていると、何年自分は臨床で学び続けるだろうかと思うのです。本当に毎日たくさんのことを学びますし、それは尽きることがないように思われるので。

ただ、経験10年を超えたあたりから、私がいま見るに能力の飽和が始まっています。つまり、そのあたりからより『言葉にならないもの』に頼り始めている気がしますし、成長の度合いもどことなく緩やかないし人によって『手抜き』が始まっているようにも見受けられます。もちろんその人次第でしょうが、そのあたりで①ないし②の選択肢を選ぶべきときが来るように思われるのです。

 

①はむしろ優先で、②はもっと後になるでしょう。

なんとなく指針が見えてきたのですよ。①は転職ではなく進学です。そして同じ病院に戻ってきて、やるだけのことをやったら②を選ぶ。

 

日付を跨いでだらだら書いてしまったのですごく中途半端な記事になってしまいましたが、どこかにこの思考の痕跡を残しておきたかったのでこの辺りにしておきます。

 

なおタイトルの『おしごとこわい』は、多分その日患者の容体の変化をアセスメントできずに色々思い悩んだ末この記事を書き始めたからですね。内容そのものは全然違う方向でした。