毒素感傷文

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社会人生活記 -いちねんめ編

社会人になってもうすぐ1年経つので、記録しておこうかなと思う。

 

 

社会人1年目というカテゴリにおいて

正直、1年もつと思わなかった。どうせつらくなって退職というか休職に追い込まれるのではないかと思っていた。事実、同期は休職のうえ年度末で退職となった。

現場とはそういうもんである。過密で不規則なスケジュールや人間同士の煩雑なコミュニケーションについていけずにドロップアウトする人が後を絶たない。それをドロップアウト、と呼ぶかどうかは別の話だ。臨床にいることだけが全てではないし、今の臨床にそぐわなかったら専門職失格かといえばまったくそうでもない。むしろ今の現場にある程度迎合できてしまうということは、それくらい革新的ではないということの表れでもある。勿論それも悪いことではない。

 

大枠からいこう。24でやっと正規の職を得て自活し始めると、へんな気分である。

ところがSNSで他人の人生を眺めていると、周囲は院卒医学部卒で24が社会人のはじまりなんて当たり前、浪人や再受験を経験している方ともなれば当然もっと上だ。

私の社会規範は高校生でぴたりと止まっているし、両親も特に学問に造詣ある(知識は豊富だが専修したわけではない)人ではなかったので、たぶん4大卒して就職といういわゆる世間の常識がいやになるほど身に沁みついているのである。

もっとも、私はそのすべてを蹴散らかしたわけだが。

 

蹴散らかした末に普通の社会人に戻ってきたreturneeとして、1年過ごした所感を述べておこうと思う。どこに需要があるのかも知れないけれども。

まず、1年目で何かができるようになる、なんていうことはどだい無理だ。できるようになったと思うのであればそれは驕りであり慢心であるとはっきり言っておきたい。高度な知識や技術を要求される職業であればあるほどそうだと思うのだけど、一般企業勤めをしたことのない私でも恐らく企業においての1年目が何ほどの役にも立たないであろうことはなんとなく予想がつくのである(我々よりはスムーズに適応できるのかも知れないが)。

役割がありそれが達成できるとしたら、元気であることと毎日来ることだ。あとよく学ぶこと、学んでいるということがはっきり周りの目に見えてわかることだ。

この学ぶはまねぶに似ていて、自学自習ではあまり意味を成さないと思う。春から夏にかけてわりとよく勉強したし仕事の役にも立ったと思うが、かなり迂遠な成果であり、すぐに結果に結びつかないのでやきもきした。それも必要な努力ではあるかも知れないけれど、そんなことで例えば無理をして体調を崩すくらいなら、阿呆でも毎日元気に働きにきてひとつでも多くのことを吸収して帰るほうが1年目としてはよほど目に見えて成長する。

 

この『目に見える』ことがわりと大切で、特に私のようなコミュ障の人見知りが職場で心の安寧を保つためには目に見える努力をしていると楽に生きていける。それは実際努力でなくてもよくて、『目に見える努力』に見える、ということが大事なのだ。

学生をしていたころからあまり物言いが上手でなかったし、必死になるのが顔に出ないのでこういうポーズをとる癖がついた。具体的にいうと、敢えてわかっていることを口に出して反復すること。これからの自分の行動を「〇〇します」ではなく、「△△だと思うので、××せずに〇〇します」と思考回路を開陳していくこと。

いや、皆様はお出来になるのかも知れないが、私は就職するまでできなかった。学生のころはそういうことが記録上でしか書けなかった。

そして自分はどこまでがわかっている、というアピールは結構大切で、そこまでの余分な助言を省いて必要な補助を先輩からしてもらえるようになるので実に楽になった。反対にそういうことができずにいると、次第に「できない人」という烙印を免れ得なくなる。できなくても構わないのだが、できない人を育てる余剰リソースのある職場は少ない。そこから特別な補助的教育を受けて、這い上がるのは結構な荒技であることは否めない。脅してはいけないのだが、むしろこれは我々が反省すべき点であると思う。

 

専門職1年目として(ちょっと後輩に向けて)

今年1年は勉強しなかった。本当に勉強しなかった。

学生の頃は実習や座学で毎日教科書を開いていたのに、働き始めてから家で書物をひらく時間が激減してしまった。趣味の本さえあまり読めないでいる。

勿論それは専門職として最低限度の知識が既に身についている前提なのだけど、それにしても日々の仕事に慣れるので精いっぱいだった。というか、細かな手技について手順を覚えたり指先の感覚を知ったりということはたくさんあったけれど、それは教科書を何度も何度も開く類の訓練ではなくて、一度理屈を覚えたら繰り返しやって身に着ける技術だった。

 

でも、学生のころに勉強することはちっとも損にはならないし、得することばかりだし、むしろ学生のときにたくさん勉強したらよいと思う。臨床に来るのがとても楽しくなる。カルテを読むのも、記録を書くのも、自分の中に引き出しがあれば知識同士がつながって知恵になり、体験を経て技術になっていく過程が実によくわかる。

学生のころにはあんなに苦心したアセスメントもカンファレンスも、1年経った今では最低限はできる(勿論相談はするし、助言は欠かさず求めるけれども)。今の実習生を見ていても私のころとさほどなにも変わらず、ちょっと気の毒すぎるなあといつも思うけど、なんとか腐らず頑張ってほしい。働くと楽になるから(ごめんなさい、人によりますけど)。

 

あと、愚痴っぽいことはあまり言いたかないけれど、現場の嫌なところなんて探せばいくらでも見つかる。スタッフも患者でも、他職種でも、本当にダメなところなんてキリがない。それはシステムの粗であったり人間の粗であったりするけど、それを詳らかにすることに腐心するよりはひとつでもいいところを探した方がいい。いいところ、というより伸ばしていけるところだ。自分の手で変えられない部分に不満を垂れても私の場合は自分がしんどくなるのでやらなかっただけだし、愚痴を言うことでやっていける人もいるとは思うけれど。

そういうことは別にこの職に限らず他でも同じことだとは思う。

 

学生であったころの自分や、いま学生の人びとに向けて

学生でいたときは鬱憤が溜まって仕方なく、早く働きたいと思っていた。いま友人知人の学生諸氏からも時折そんな声を聴く。それは当然の希求で、帰結だと思う。

ただ学生の頃の自分と較べて大きく変わったな、と思うことは、不満の傾向が変わったことと問題の解決方法がより具体的になったこと。夢が野望になったこと。この野望を計画に変えられなければ確実に無謀と蛮勇に終わるのだけれど。

 

組織やシステムを変えたいのならばその前に、その構造を知ることは大切なことだ。

SNSで見かける意識が高いだけの学生にできていなところは、そこかなあ、と思う。反対に、意識が高いだけの職業人にできていないところは、システムに既に組み込まれてしまっているから既存のシステムに対する根本的な解決策を想像できないこと。思い浮かびもしないことを、実行することはできない。だから別に学生が偉いとか職業人が偉いとかそんなことを言いたいわけではなくて、結局想像力の欠如が停滞を招くといいたいだけだ。

 

あとがきっぽいもの

あとがきなので文体が変わることをお許しください。

私は1年目として働きながら、学生も見ていました。実習の指定病院なので、学生が実習にきます。やっぱり教育はまだまだだなあと思うし、現場の指導の在り方もあまりにも粗造だし、学生に恥ずかしいというか申し訳ないことをしていると思います。学ぶべきはそこなのか?カリキュラムはそれでいいのか?カンファレンスの開き方はどうか?学習方法は、形態は・・・と改めて色々「それでいいのか?」案件が出てきます。

学生の頃もずっと疑問に思っていましたし、臨床に出てきた今でも思います。何故ならそれは臨床での新人教育や中堅の教育も色々問題が山積しているから。

どこを整えればどこが整うか、というのは常々考えていますがいまいち解決策が見えてきません。全部を少しずつ良くするのがいちばん無難なのかも知れませんし、事実そのようにゆっくりと流れは変わっていっているように思います。

けれども人間年をとればとるほど、物事に慣れれば慣れるほど、変化に対応する能力というものは衰えていきます。正確には、衰えないように常に鍛えておかなければ廃用していきます。

 

1年目が終わるにあたって今の自分は大体5年目~7年目くらいまでの職業人としての自分を想定して動いていますが、そこから先はまだまだ何も見えてきません。臨床にいると5~7年目といえば中堅(病院の規模によってはベテラン)扱いですが、自分の印象としては「1人前の入り口に立ったばかり」という印象です。つまり資格を取ることは通過点ですらなく、始発点ですらないのです。まだ気分は学生というか学生にさえなれていない下働きの徒弟気分。とてもではありませんが自分のことを何かの専門職者というつもりにはなれません。

 

しかし私もかなり意識は低いほうなんだが気持ち悪いですねこの記事。

曲がりなりにも1年働けて良かったです(小並感)。おわり