毒素感傷文

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社会人生活記 -さんねんめ編

3月が終われば、社会人生活もまる3年が終わったことになる。勿論次からは4年目で、随分「後輩」にあたる人が増えてきた。ちなみに「年上の後輩」というのはいない。正確には、いたのだが、みなドロップアウトしていった。闇である。

去年の記事はこちら。入れ子構造になっているので、去年の記事の中から一昨年の記事も辿ることができます。

streptococcus.hatenablog.com

 

相変わらずとめどなくつらつらと書こうと思う。

 

仕事と生活について

3年目になって新しく始まったこと

は、あまり面白いことがなかったのでそんなに書く気がない。2年目の仕事をブラッシュアップするだけのことである。2年目では時間が足りなかったり余裕がなくてできなかったことを、他の仕事を効率化することでじっくり考える時間を増やしたりした。

具体的には本当にこれはつまらないことで、病棟を委員会の長をおっかぶされたりしたのだが、のらりくらりしながら続けた。あと1年生の教育も幾らかは(他の病棟スタッフと同じように)責があって、向いていないながらもやった。怒るとか怖がらせることのないように、必要な学習が行き届くように、毎日彼らが健康に来られるようにと思ったが実際に言動に出せるほど私の発言力は強くない。

 

3年目になって初めて起こったこと

こちらが今回の記事の本題である。

この記事を好んで読まれるような方はご存知のことと思うが、自分は10年来気分障害を患っており、仕事を始める前からも仕事を始めてからもずっと情緒の不安定性や悲観は続いていた。悲しいことがあれば長く長く落ち込み、ものがのどを通らなくなることもしばしばあった。

 

今年の冬は寒かった。

「だから」というわけではまったくないが、この因果関係のない前置きをするのが好きなのでお許しいただきたい。今年の冬は寒かったのだ。まあ、とにかく、1年間の多忙やら働き始めてからの苦しさが堆積してしまったのか、1週間と少しの病気休暇をとった。働き始めてから、数日にわたって休んだのは初めてのことである。

 

何も特別なことではないと思う。

「何が」特別なことではないのか、「何が」特別なことなのかを下記に続けることをお許しいただきたい。

 

社会人にとって「特別ではない」憂鬱な気分と、短い休みについて

ここでひとつ、「プロ」としてではなく、当事者として、かつ当事者としての自分からお知らせしたいことがある。

 

人は誰でも抑うつ状態になりうる。それも簡単に。そのうち多くは一過性の抑うつとして回復を期待できるが、中には長い間抑うつ状態におかれた結果、何らかの心身症を発症してしまうことはある。

新生活になるときは誰でもストレスフルな状態である。

「ストレス」と本人が知覚していない場合でも、そうだ。第一志望の企業に就職して都内に出る。結婚して転居する。そんなときでも、知れずに負荷はかかっている。

こうしたとき、3日と言わず1週間くらい休みがあればよいが、そうでない場合がほとんどである。普通の生活を営みながら、新しいことをはじめなければならない。特別な休みはなにもない。

 

対人関係でセンシティブな傾向にあればあるほど、こうした摩擦による疲労はあるものと思っておいたほうがよいと思う。それから、日常生活において注意散漫になりがちで、何かひとつのことを実行するのに並々ならぬ注意力を要する人についてもそうである。「注意」というものはリソースを食うものだ。

「集中できない」状態はひとつのサインかもしれない。よく休もう。

 

わたしにとって「特別なこと」について

上の方にも書いたように、自分はたびたび抑うつ状態を長引かせてまごついた人生を送っている。具体的には、高校卒業後2年間の休養を要したし、専門学校に入学してからも実習を休んだために1年留年している。なので、このコースを歩む一般の人からは3年も長い無為を経験してきた。

若い人間にとってそれは多大なる挫折である。特に、ちっぽけな自尊心をせいぜい成績くらいでしか買うことのできない人間にとってはこれは高い鼻をめきめきとへし折られる行為に等しい。私の高い鼻(物理)は今も健在だが、社会的な高い鼻などないに等しい。最早削ぎ落してどこかに置いてきた。

 

社会人3年目にしてとうとう体を少し壊してしまい、1週間強ほど休んだが、無事に復調している。これは快挙である。

 

自分には後ろ盾がなにもない、という感覚がいつもあった。

人生がこうももたついているため、高校を卒業してから復帰のためにあれこれと手を付けては失敗し、そのたびにもう死んでやろうと思うほど絶望した。今でこそこうして文字にしても痛くもかゆくもないが、絶望するたびに自分は食事を断ち、自分で自分の身体を傷つけてきた。そうでもしないと世界に存在してはいけないような気がしていた。

将来は暗く、このように人に厳しい世の中ではきっと自分は地を這うようにしか生きてはいけないだろうと思っていた。だから、生きていても仕方なく、いつか死のうと思っていた。

それが、少し診断書をもらい、服薬するだけである程度元に戻り、仕事を継続できているのである。今までにこんな安定した気分を経験したことはない。いや、気分は安定しないが、社会的な安定を得たことはほとんどない。この上ない人生の喜びだと思う。

 

うつで仕事を休んでこんなに喜んでいるのは自分くらいのものかもしれないが、うつ状態の経験者にとっては「治療を続けながら以前と同様の社会生活を継続することができる」のはほんとうに快挙である。

 

「休めば治る」を自覚するのは難しい。「休んでも根本は治らない(かもしれない)」ときの自覚はもっと難しい

上記に書いた「短い休み」は、実はかなり高度な「だらけスキル」だと思ってほしい。通常の勤勉な人は、勤勉であればあるほど、こういった休み方はしづらいと思う。学校生活や勤労において、この程度で復調できるほど短時間で生活を整えるのも、内服を調節するのも慣れた人間でないと難しいと思う。

だから、休みは少なくとも1か月から数か月単位で取るものと思ってもらうとよい。

これは働き始めたときの同期、1年下、2年下の「年上の同期・後輩」たちがドロップアウトした経過をみていて思うことである。かれらには情緒の後ろ盾があまりない。私にそれが可能であるとは思えなかったので途中からは諦めてしまったが、「心が壊れている」と初回の自覚をするほどであるとき、それはもはや数日単位の休養で元に戻る段階ではない。

 

また、これらの抑うつ状態が「何によってもたらされたか」は先を生きるにあたって重要な観点だとも思う。

たとえば自分は憂鬱な気分を常にもっており、怒りを抑圧する性格上、おそらく生涯この憂鬱とは向き合い続けなければならない。時々短い休養を挟むことも必要となることだろう。「自分自身」を引き受けるのは本当に骨が折れる。こんな自分は投げ捨ててやりたい、と何度思ったかわからない。しかし、自分の知覚をもって自分自身を生きることができるのはやはり自分しかいないのである。

こういうことはいくらでも書けてしまい、書くと余計に長くなるので、少し中途半端になるがここまでにさせていただきたい。

 

知識(知性)と労働について

労働と生活、労働のコントロール、余暇の楽しみと付加価値について

労働に慣れてきたあたりで、今年度は大学生をはじめた。認知心理学をやりたいと思い、放送大学でとれるような科目は大体履修した。

5年働いたらCNS(専門看護師)の資格を得るべく2年間の休職(または退職してアルバイト生活兼業で)大学院進学を考えていたが、これは諸事情により保留されることになった(恐らくいつかこの2年間を経ることになるとは思う)。

学生時代~初期の教育制度、労働の裁量権などについて考えるにつれ、我々には単なるスキル向上以外にも多様性をもたらすことができると気が付きつつある。数年上の先輩の中には語学習得のためにワーキングホリデーなどで海外で息抜きをする先輩もいる(ほんとうに事情はそれぞれであると思われるので、内容については差し控える)。

家庭を持つ人もいる。が、家庭を持つことは何かを諦めることとまったく同義ではないこともまた証明できると思う。多くは自分自身のキャパシティと相談しながらになると思うので、これも他人についてあれこれいうべきことはなにもない。

 

さいごに

後輩をみていると、全体的に知識の枠組みが狭い。いや、これは幾らかの先輩にも思うことなので、あまり考えないようにはしているが、振り返るとまさにそうである。

ただ、長年この特殊な職場で継続して働いてきた以上、知識の堆積は確実にある。知識というよりはそれはすでに潜在的なものとなっており、彼らの「常識」を理解するには時間がかかる。彼ら自身がそれを言語化することをしてくれないためである。私は後輩と接するとき、この身体知の翻訳に努めるようにしている。これは4年目になっても恐らく変わらないことであると思う。私は余計な話しかしない嫌なやつでありたい。

 

以上これらの話にまったく脈絡はないものの、そもそも日記に章立てをしないと書けず、既に原稿用紙10枚分の文字を綴っていることを思うと四方山話もそこまでにしておけという感がある。

まったく推敲していないいつもの文章を投げてしまうが、反省はしていない。