真夜中なので感傷的になろうと思ったら夜が明けた。
長い長い夜が明けるように、この10年くらい、毎年わずかずつ体調がよくなってきた。
そうと書くくらい、自分と不調はいつも仲良しだった。
今は激しい精神の不調は鳴りを潜め、睡眠と食事とたまに募る苦しさだけが外形を留めている。
四季の移り変わりごとに、つらかった時期を思い出す。盛夏ならば、学校に通えずひとりで補講を受けたことや、食事が摂れずベッドに横になっていたことを。冬ならば、部屋に閉じこもって自傷するくらいしか眠る手段がなかったことを。
そういう、季節ごとの過去の記憶が随分薄くなって、最近はたと気づいた苦しみがふたつある。
ひとつは、人が死ぬことへの疲れ。
もうひとつは、産むことへの恐れ。
ひとつは、先の4年で味わってきたことだ。砂がこぼれ落ちるように弱っていく他人の体のことを、何度か記事に書いた。自分自身のグリーフケアをしたつもりが、できておらず、数ヶ月後になって苦しくなってなぜだか泣いてしまうことが何度かあった。
そしてもうひとつ。
隠してもいないし、聞かれもしないが、まるでタブーのようにそれはある。
大したことはなく、かたちとして知ることもなかったが、化学流産は私をひどく戸惑わせた。
いや、妊娠という事情が実際に降りかかって初めて気付く自分の狼狽といったほうがいいか。
だから妊娠が継続された場合にはこれが実行されただけのことだったのだ。わかった瞬間に身構えたことが、不意打ちを食らったように全部押し流されて、痛みだけが残ったのが。仕事を休んだという事実だけが残ったのが。悲しかったのだ。
仕事を続けるか辞めるか。家族の中では私の仕事は私のために続けられていることで、いつ辞めてもよかった。でも職場には曖昧にしか伝えていなかった。いずれにしても妊婦が働けるような職場ではなかったし、諸々の事情から復職もする手立てがなかったので辞職は自明だった。でも実際に腹を括るのは骨が折れた。
何より、結局妊娠を継続し得なかったということをひっそり抱えて職を辞することがつらかった。おおっぴらにいうことでもない。でも寿退社なんてものではなかった。悲しい気持ちはどこにもいくことができなかった。
就学をどうするか。
自分は職業人であるとともに兼業で大学生をやっていて、学部生から院生になろうと画策していた。妊娠出産をいつ挟んでもいいようにしていた。というか、いつ挟まっても不都合な時期というのはあるもので、まあ仕方ないものと思っていた。
逆算して考え直したことが、白紙になった。
家族をどうするか。
自分自身の体調がどう変わっていくのかわからない不安を抱えながら、一瞬ではあるけれど、家族の優しさにも触れた。そして、一瞬でそれも流れ去った(優しさがなくなったのではなく、元の日常に戻った)。悲しいけど仕方ないことだ。
誰だったか、Twitterでブログ記事を書いていた人がいた。確か私と同じくらいの時期のごく初期の流産をした人だったと思う。
その人も仕事をなんとか都合をつけてこなしていた。産科で化学流産(だったかどうかちょっと覚えていないのだけど)であることを告げられて、あなたのせいではないと言われて、その人は泣いていた。
私は泣かなかった。強いのではなく、泣く必要がなかったから。私は、それが自分のせいではないと勿論知っていた。身体的にもそこまでの負担ではないことも。泣いても現実が変わるわけではない、とどこか冷めた目で自分の痛みを突き放していた。
でも、気持ちの狼狽は2倍になったことを自覚しなければいけなかった。期待と不安に揺さぶられた直後に、悲しみとその秘匿を要求されて、完全に思考停止してしまった。そして私は考えることをやめた。
何より、思っていたより子宮収縮剤の副作用が強く、激痛でじっとしていることもできない夜を過ごしたからだ。あのブログの人は確か救急外来を受診していた。私はそれも必要ないことを知っていて、家族に痛みどめを買ってきてほしいと頼んだ。
その晩、明らかに通常とは異なる組織(どうやら出来損ないの胎盤のようだ)を流した。正直興味があったが(何しろ未熟な胎盤なんて見る機会はそうそうないので)、感染性廃棄物であることを思い出してすぐに捨てた。
悲しむべきではないのだと思う。
それはそう思う。だからこれは感傷だ。
いっときでも舞い上がってしまって、そしてすぐにその舞い上がりをぶち壊されて、右往左往したばかみたいな自分への慰めだ。
こんなの、もうあって欲しくないのだ。
そのときがくるまでなんの用意もできていなかったけど、少なくとも舞い上がることができるくらいには腹はくくっていたのだ。
なにもいなくなったことで、戸惑って泣きたくないんだ。
わかりきった不安に怯えるのは構わないけど、こんな無駄な感傷をいつまでも抱えているわけにはいかないから、
だからここに埋めさせてほしい。