毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

読書についてーわたしの本の歩き方

100冊読破というチャレンジをはじめて1年半になりました。冊数を目標としているわけではないのですが、やはり始める前と後では随分思考の様式が多彩になったし、学問を面白いと感じられるようになったと思います(そういう本を選んで読んでいるからですが)。

さてこのカッコ書きのなか。そういう本を選ぶということはどういうことか、振り返りながら自分の獲得方法を考えようかと思います。

 

ちなみにコンセプトは、下記の100冊読み終わった時点で書いたブログに書かれています。こちらも気分とノリで書いてしまったので厳密でない表現を多く用いていますが、ただの日記なのでご寛恕いただきたい。

streptococcus.hatenablog.com

 

ちなみに現在読んだ本はもうすぐ1000冊のうち1/3ほどになります。今年度読んだ本は100冊弱ほどになりました。

本は冊数ではないというのはどういうことかも含めて、自分の本の選び方の基準を今気づける範囲内で書きだしていこうと思います。

 

ちなみに、「本をたくさん読んだことはないけど勉強していきたいことがある!」という方は私のブログなんて読まなくても千葉雅也氏の「勉強の哲学」という本がおすすめです。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

あくまでわたしはわたしの出会い方を書いていくだけなので、万人の勉強(の基礎・導入)の参考にはならないものと思ってください。

ちなみに私の立場としては、「読書」は「勉強」とはいわないと考えております。

最初に明らかにしておかないと各位からツッコミがきそうなので。

 

初期の出会いをどうするか

1.気になる分野がすでにある

自分にはすでに職があり、その職は専門業務に関する修練を常に必要とするものです。

手技や最新の論説を理解することも勿論大切でしょうけれど、わたしはそれとはまた別に「あなたはだれ?」「世界はどこからきた?」という2つの問いに応えうるものを探していました。ちなみにこの問いはヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」の冒頭です。

それは前者において哲学であり、宗教学であり、認知科学・心理学であり、後者においては経済学、経営学社会学、人類学、物理学・情報科学のような分野で自分の求めている答えが多く出ている印象をもちました。ので、その関連文献を漁ることからはじまります。

なお、認知科学はそこから「知覚」への興味へと延長し、デザイン・建築・芸術関連の書籍へと枝葉を出します。そして余談ですが、「初期の出会い」という用語は私の専門分野であるところの看護理論においてジョイス・トラベルビーが提唱した、「人間対人間の看護」からの流用です。

 

2.最初は出会い方がわからない

いやもう本当に暗中模索からはじまりました。初期に読んでいた本をざっとみると、学術系(総合本を含む)では

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子」☆

②シッダールタ・ムカジー「病の皇帝『がん』に挑む」★☆

ピーター・ドラッカー「マネジメント」(エッセンシャル版)★☆

④フェルディナンド・ソシュール「一般言語学講義:コンスタンタンのノート」

⑤ニコル・サリンジャーガルブレイス 現代経済入門」

ドナルド・ノーマン「誰のためのデザイン?」★

⑦モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学

スティーブン・ピンカー「暴力の人類史」☆

⑨ニール・スミス「ジェントリフィケーションと報復都市」

ウンベルト・エーコ,ジャン・クロード=カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」★

・・・のように「それ最初に読む本とちゃう」というツッコミが入りそうなものをたくさん読んでいます。実際今でも内容が理解できていない本はたくさんあると思います。

ちなみに★をつけたのは、門外漢でもまずまず楽しく読めるというものです。☆は総合本です。

興味のあるものをなんとなく手あたり次第に読んでいくと、時々「読むことすらできない」本が出てきます。「初期の出会い」として不適切すぎる場合には、ぺらぺらめくってギブアップしてみてもよいのではないかというのが現在の自分の見解です。

ちなみに物理的な「本(実体)との出会い」をどのようにセッティングしていたかは100冊読了記のブログ記事の中に書いてあります。本屋にいって気になるタイトル・著者のものを手にとったりしていました。

 

出会うべきものと出会うにはどうすればよいのか

1.本との出会いが本を呼ぶ

これは本当にそうです。1冊よい本と出会うと、必ずその中には引用文献があり、その引用文献には著者がいます。ただ引用といってもあまりに数が多いので、

①どのように引用されていたのか(批判的だったのか、賛同の引用だったのか)

②引用を含めて書かれた文章は自分にとって理解可能だったか

③いくつかの関連書籍を読んでみて、何度もその文献(またその著者)は引用元になっていたか

論文を読み慣れている人にはこのあたりはお伝えする必要はないでしょうが、なにせ私は成書でさえそれほど読んでいないのでこういうところから考える必要がありました。

例を挙げるならば、哲学の本を読むとき、「デカルト」「スピノザ」「カント」・・・といった名前は非常によく出てきますよね。彼らが執筆活動をしていた時代を考えれば明らかなのですが、被引用が多ければ多いほどやはりその領域においてのちに与えた影響は大きいのです。つまり「読んでおいて少なくとも損はしない」ということになります。

ちなみに私はこの慣例に則ってスピノザの「エチカ」を読みはじめ、1年以上経った今も読み終えることができずにおります。

 

2.概説本はどうか?

日本語で読むことさえ難しい本になればなるほど、「著者についての概説本」や「本そのものについての概説本」がたくさん出ています。勿論それを読むのもありですが、あくまでさる研究者(ひいては忠実な読者)が読解した内容なので、「孫引き」といっても差し支えないかもしれません。読めない本を読んでみるというのもそれはそれで楽しいものです。誤読の危険性については、まだ私からはっきりとその功罪を述べることができませんが。

最初から本人の訳書を読んで心が砕けるよりは、概説本から興味をもつというのもアリだなあというのが最近の自分の考えです。

 

出会うべきでない本について

先述言及した千葉雅也氏の「勉強の哲学」にもありますが、「次なる興味を与えない本」「読み返す価値のない本」というのが、自分の中では学術の本として失格だと思っています。つまり、まだ勉強していない人に対して安易な答えを与える本は、読む意味がないということです。

次なる考えを滾々と湧きあがらせるもの、問答させるもの、新たな問いを立てるものが次なる読書へと誘うわけです。

 

現実世界との交錯/小説とそのほか芸術作品について

たとえば、哲学の中には文学からの影響を受けたり、引用するものが多くあります。バルザックプルーストセリーヌシモーヌ・ヴェイユボードレールボードリヤールジャン・ジュネ・・・芸術作品では、画家(絵)や音楽家(音楽)など。市井や大衆を論じる哲学があるので当たり前なのですが、読書「だけ」していても楽しくはないと思います。実体験があるからこそ読書の価値が高まるのです。

そういう意味で、小説は(大衆小説にしても)価値があると自分は思っていて、息抜き以外にも大きな影響を与えてくれます。小説に関しては書店などもフェアをよくだしますし、新刊も大きく出ますから、質のいい入門用学術本を探すよりずっと簡単です。他人の読書感想も参考になるでしょう。

 

それから個人の感想ですが(むしろ最初から全編にわたって個人の感想でしかないのですが)、読書以外の体験は貴重です。体験の豊富さが読書に再び還元されるような感覚に近いです。そういうと純粋な哲学の徒が殴りかかってきそうですが、専門に学ぶのでなければそれでもよい(楽しいのがいちばん)と思っております。

自分の引き出しがどんどん増えて、多様な学術分野に所属する人たちについて思いをはせることができるようになるのはとても楽しいことです。

 

 

特になにかのために書いた文章ではないので締めの言葉もオチもまとめもないのですが、現状自分の本の渡り歩きはこんな感じで進んでおります。