毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

100冊読破 4周目(51-60)

1.ジンメル社会学を学ぶ人のために(早川洋行、菅野仁) 

ジンメル社会学を学ぶ人のために

ジンメル社会学を学ぶ人のために

 

ジンメルその人についてあまり知らなかったので読みました。社会学者でありながら、社会学以外の分野の学者と親交が深かったようです(ベルクソンやジャンケレヴィッチといった哲学の影響を受けているよう)。

ニクラス・ルーマンジグムント・バウマンアンソニー・ギデンズ、アーヴィング・ゴッフマンなど、計量のみによらない機能重視の社会学に影響を与えたとされております エスノメソドロジーにまだそれほど手法が確立していなかった時代のこと。ジンメルの著書読んだことないので読んでみたいものです ケアワーカー向けでもあるかもしれません。

 

2.ライプニッツを学ぶ人のために(酒井潔)

ライプニッツを学ぶ人のために

ライプニッツを学ぶ人のために

 

ライプニッツ、なんの文脈で自分が引っ掛けたのかはわかりませんがラッセルの哲学入門やグリックの「インフォメーションの人類史」できっとはやくから見かけていたと思います。数学に興味が出てきたおかげでようやっと重い腰をあげてライプニッツ入門みたいな本はないかと探していたところまんまと学ぶ人のためにシリーズに引っかかってしまいました。たいへんよかったです

前半は本人のもっていた人脈と思想の解説で、後半(というか最後の方)にこれからもっと読みたいという人向け、研究者向けに書籍の紹介と主要概念の概説がなされています。自分は同時代の人だとデカルトスピノザくらいしか認識できていないのですが、デカルトはいまいちしっくりこずスピノザは挫折するという惨憺たる有様です。が、ライプニッツ形而上学とそれに至る数学の方法論は非常に好きです。たしかに事物の処理の仕方が情報学っぽい感じがあるんですよね。意識の認識とかもデカルトよりよほどしっくりきます。あとライプニッツの時代に中国の思想についての興味がさかんだったということや、バロック音楽・美術の時代背景(ヘンデル、バッハ、パーセルパッヘルベル)を絡めてくれていたのも有り難かったです あの頃の芸術は数学の発展ときっても切り離せないものがあります

 

3.9.介入 Ⅰ・Ⅱ 〔社会科学と政治行動1961-2001〕(ピエール・ブルデュー

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

 

 

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

介入 ? 〔社会科学と政治行動1961-2001〕 (ブルデュー・ライブラリー)

 

これのⅠを読んで書いたのが以前の記事です。

これらはブルデューの死後に、雑誌への寄稿や出された声明文、インタビューをまとめたもの。教育社会学を含め、晩年の政治への参加に焦点を当てたもの。Ⅱは、前巻が教育をとりまく環境に焦点を当てていたのに対してこちらは経済、というか貧困に相対する人たちの社会運動を支援することについて、という感じです。晩年のブルデューは色んな社会運動を支援しており、成功したものもあればほぼほぼまるっと失敗に終わったものもあり、周囲というかメディアから随分とこき下ろされたりもしたようです。知識人が地に堕ちたなんて言われて。日本でも思い当たる人は何人かいますが

時代背景に深い理解があるわけではないのでなんとも言い難い節もいくつかありましたし、そもそも内容理解が半分も及ばない状態で読んでしまったんですが、今日本にある問題がいくつか。既に20-30年前に指摘されている点について(しかもその時期既にあった問題ではなく、この指摘があったあとに改革がなされて問題が生み出されてしまった)ことについては言い訳のしようもないなと思うなど。政策方面はぶっちゃけ自分が疎いので全然ダメなんですけど、こういう風に系統的に集められたものを読むと、批判的視点と「どこを問題とするか」っていう問いは常に自分の中にもっておかないといかんなあと思います。あとやっぱり人文学的な知識と見地は捨ててはいけない。


4.苦悩する人間(ヴィクトール・E.フランクル

苦悩する人間 (フランクル・コレクション)

苦悩する人間 (フランクル・コレクション)

 

人間には、ペースメーカーが必要です。そして、ペースメーカーが必要であるがるゆえに、ペースメーカーを追い越しえないだけの距離が必要なのです。ペースメーカーに追いつくなら、そのとたんにペースメーカーは必要でなくなるでしょう。現存在は、あるものとあるべきものとの間の緊張関係として存在しています。というのは、人間が現に存在するのは、存在するためではなく、生成するためだからです。

 

創造価値の実現によって運命を形成できない人、できなくなってしまった人は、それでも運命を克服することができます。別の仕方で克服することができるのです。それは、まさに態度価値を実現することによってです。つまり、正しく苦悩すること、運命的なものに対して正しい態度をとることによってです。それには、苦悩能力を獲得しているということが前提となります。ここから、この内面的克服は、外面的形成を断念するにしても、結局はやはり形成、つまり自己形成なのだということがわかります。というのは、苦悩能力の獲得は、自己形成の行為であるからです。

 

最後に、苦悩する人間でなく、苦労する隣人、共に苦悩する人間について一言しておきましょう。苦悩することが意味に満ちているのと同じように、苦悩を共に遂行すること、共に苦悩することも意味に満ちています。それは、同じように意味に満ちていると共に、また同じように無言なのです。

 

「メタ臨床講義」を「制約されざる人間」として出版したのちの、補遺のような本。精神分析的、精神病理的な観点を抜け出して意味を見出すための本…だけど、わかりやすさとしては「虚無感について」の方をお勧めします。ロゴセラピーはずいぶんもう定着した概念だと自分は思っているんですが、あれは他人が誰かに施すものではないです。誰かが自らに対してあれこれ当てはめて解決に導くその道筋を支持してはじめて意味のあるようなものであり、作ることができるのはきっかけだけです。あとは本人の力に任されている。もちろん本人をエンパワメントすることもできます。でも、やり遂げるのはあくまで本人なのだと思う。自分もそうしてきたなあと思いますし、他人がそれに取り組むのを見ることもありますけど、あるメソドロジーに則ったりするようなものではなくて、個人がもともと持っている法則に従うのだろうと。

 

5.哲学的な何か、あと数学とか(飲茶)

哲学的な何か、あと数学とか

哲学的な何か、あと数学とか

 

フェルマーの最終定理をめぐる数学者たちの物語。面白すぎて一気に読みましたが、私は肝心の中身の高次の部分は全然知らないので、十分に楽しめたとはいえないかもしれません(途中に非ユークリッド幾何とかへの道も開かれています)。ただ、論理式をこの1年で結構いろんな本で見かけてきて思っていたことがちゃんと言葉になっていたのでとても嬉しかったです。まさに「哲学的ななにか、あと数学とか」です。

数学者の闘いなかなか面白い。わりとよく絶望しています。

 

6.ハイデガー存在と時間』を学ぶ人のために(宮原勇)

ハイデガー『存在と時間』を学ぶ人のために

ハイデガー『存在と時間』を学ぶ人のために

 

誰もが他者であり、誰も自分自身ではない ーマルティン・ハイデガー

ハイデガーの『存在と時間』は、難解なことで有名な現象学(かな)の哲学です。絶対読めないだろうと思ってこのシリーズの力を借りることにしました。

フッサールの「内的時間意識の現象学」も「現象学の理念」もわからんなーと思いながら読んだのですが、ハイデガーはどちらかといえばカントやベルクソンの流れを汲んでいるのでより具体的といえば具体的かなあと思います。あと存在論に関する注釈が好きです。あれはデザイン原論に近い。世界内存在ってやつがいまいちわからずにいたのですが、ある人間が知覚する世界の感覚については「ある道具にはその中に使用用途などの要素が含まれる」、道具がアフォードしていることについて具体的に述べられているようです。時間についても結構ベルクソンの「物質と記憶」に近い解釈かなあと思います。

 

7.知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用(源河亨)

知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用

知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用

 

認知科学と知覚の哲学についてわかりやすく書かれているので入門書としていいんじゃないかと思います。自分はデネットとかホフスタッターを心折れながら何冊か読んだクチなのですが、『心の哲学』に関しては結構自分は科学寄り(というか計算機寄り)の暫定解をもっているのでゾンビがどうこうとかには正直全然興味ないんですが、知覚の哲学はかなり興味があったのでフィッシュの『知覚の哲学入門』で序盤のセンスデータとか副詞説が難しかったのが心残りだったんですよね。臨床哲学とかは結構昔からある分野ですけど自分はフロイトラカンみたいな精神分析的な流れがめっちゃ嫌いで、かといって知覚の哲学についてはメルロ=ポンティで止まってしまうわけにもいかず、その後はどうにもお気持ち臨床哲学・お気持ち現象学になるので(芸術論とか身体論とかも)お気持ちを許すな!!なぜ知覚はもっと分析できないのか!!いやいける!いけ!というやっていきを思い起こさせてくれるような本でした。

心理学の授業も進んできたところなので面白かったです。自分は科学に色々を求める人間になってしまっているので、厳密性とか測定方法とかそういうことに感激することが多いのですが、どのようにしてそれが認知されるかとかどこに問題があるかを探すのは哲学が大いに手腕を揮うところであるなあと思うなどしました。

好きだったのは音楽とか美術に関する5-6章にかけてでしょうか。興味深かったのは、「音の不在」に関する認識のくだりです。科学もなかなか踏み入ることが難しく、哲学も説明をしにくい領域であると思うのですが、科学の理論を援用しながらその「しくみ」を紐解くかんじです 言葉は比較的平易ですが学ぶところは多い本でした。

ダニエル・デネットがモデルとしてよく用いている『デーモン』、低次の次元でもともとだいたいの人間に備わっているものと、訓練(ないし個体における脳機能の特殊性)によって高次・メタな次元に持ち上げられるものがあると思っています。線の認知とかは認知科学の分野で既に明らかですが、空間認知とか音楽の形態認識(和音進行・旋律の聴き分けなど)に関してはかなり複雑ないくつかの次元で同時に処理が行われている感じがある 意識下に浮上させるか否かはともかく、演奏者にしろ作曲家にしろ編曲者にしろこういうのありそうで。今まで鷲田教授とかそのほかの身体論で納得がいっていなかった部分かもしれません。芸術方面の方からの言及も読んだことがありますが、まだ納得いっていなかった。もうちょっと深められそう。

 

8.カントを学ぶ人のために(有福孝岳)

カントを学ぶ人のために

カントを学ぶ人のために

 

カントは3大批判のうち純粋理性批判実践理性批判熊野純彦氏の訳で読んだだけだったのですが、判断力批判読んでみたくなりました。前者ふたつが『理性と悟性』=知覚される世界、『倫理と道徳』=人間の内面世界という大きなテーマが与えられているとしたら、判断力批判は『美学』=人間の共通感覚について、という感じのようです。これは上記の本を読んで自分が享けた印象であり、掴みあぐねているかもしれませんが。

『カントを学ぶ人のために』には最初の方に、心の哲学の問題を考えるにあたっても『純粋理性批判』にあるア・プリオリな直観の概念を検討することで前に進めることがある、というようなくだりがあって嬉しかったです。カントによる認識論の転回やこの『批判』が後の思想に多大なる影響を与えたことはいうまでもありません。本書は3大批判とその他の書籍について、近現代の思想にどのように援用されているかが詳しく書かれていてたいへんよいです。『カントを学ぶ人』というより『カントに学ぶ人のために』という感じ。『判断力批判』、ハンナ・アーレントが政治哲学に共通する要素を多く見出しているそうで、そちらも是非読んでみたいなあと思いました。

 

ここから先は自分が読みながら考えていたことなんですが、じぶんはなぜ個別の学問領域を最初から実践的にとりくまずいったん『哲学』の俎上にあげてから個別に分化したがるのか、1冊の本をしっかりと読みこまない(こめない)のか、その理由がぼんやりわかったような気がします。自分はなにか人が『考える』『感じる』『経験する』こととその結果もたらされた事実とその経緯に興味があり、また科学にしろ哲学にしろ、人文にしろ芸術にしろその表現や『問い』が生まれる過程と、その過程で解き明かされることのなかった「あいだ」の問題に興味があるのです。もちろん「あいだ」でさえ、問いの俎上にあげれば問題になり、そしてその「あいだ」もまた何かとの「あいだ」を持っています。1冊の本を、『文脈』を読んだり『書籍』を読んだりすることだけでは自分はその「あいだ」を発見することができない。ありとあらゆる人間の思考をいったりきたりしたい。特に、分岐点までさかのぼって「あいだ」の問いに肉薄しようとすると、必然もういない人の思考にアクセスしなければならなくなる。その簡便な手段として本が未だ他の追随を許さぬ優れたツールなのだろうなと改めて思うなどしました。ひとつひとつ論文を丁寧に読むことも勿論大切なことですし、実践のフィールドを持ち続けることも大事なことですが、同時に自分の中の思考のマップを作るのにやっぱり哲学は便利なんですよね。私は哲学を目的としているわけではないので、そのあたりはたくさん本を読む方が性に合います。観念論や思考の技法も含めるとマインドマップというモデルでは説明がつかなくなる気がします。哲学だけではなく、形而下の諸科学にも文学にも、それを説明する様式が備わっているので。

 

10.科学哲学入門―知の形而上学(中山康雄)

科学哲学入門―知の形而上学

科学哲学入門―知の形而上学

 

ポパーとか読んでみたいけどとっつきにくいなあと思って入門してみました。社会構成主義の流れに第2部全体を割いていたのが意外。哲学史と数学の歩みを絡めつつヴィトゲンシュタインを起点としてクーンまでを説明して、第2部に入る感じの導入が非常にスムーズですが、前提となる知識が結構必要になる気がします。

社会学をするのにエスノグラフィーみたいな文化的・質的なものだけを使うのに非常に抵抗があったので分析哲学ガンガン使って欲しい感じはあります

 

放送大学1年目後期と1年目の授業全般について

とっている授業についての個人的なまとめ。授業名の右側に個人的な興味と授業の面白さ、お勧め度に関しての評価をいれています。あと統計はぐうの音もでない状態なのでまだ放置です。面接科目も面白かったのですが、地域や講師による差が大きいと思われるので今回は省きました。

 

1.心理学概論:心理と教育コース導入科目(×)

取り忘れていました。「心理学概論」という名前の授業は専門学生のときに受けているのと、読書やその他実習でほぼ既習の内容しかないので面白くはないです。資格に必要なもののためにとらざるを得ませんでした(楽しめなくて申し訳ない)

 

2.人格心理学:心理と教育コース導入科目(△)

パーソナリティに関する心理学は一元的になりがちなのと、随分古典的なのであまり興味を持てずにいます。臨床心理に進む人にはいいかもしれないなあと思って△。

 

3.心理学研究法:心理と教育コース専門科目(○)

難易度が高くないわりには大事なことが網羅的に書かれているので、研究法に関していくつか読んだ中でも教科書として優れているなあと感じました。

心理学、素朴心理学というか一般に認知されている印象が非常に古典的で、観察法・面接法などやや量的も質を保証する面でも確実性に欠けることが実に残念だったのですが、本書は最近の生理学的指標や統計的手法についても書かれています。

『心理学』という全般的なものをとらえるのに、ある意味『心理学概論』よりもこの授業のほうが適切な気さえします。

 

4.音を追究する:総合科目(△~○)

物理的な音の構成と音の認知・知覚に関する仕組みから、音楽に関する文化や楽器の特性まで「音」という概念を幅広く扱います。いささか幅広くなりすぎている印象は拭えません。音に関して多面的なアプローチをしたい方へ。私は認知心理学的な方面が好きなのでとりました。

 

5.色と形を探究する:総合科目(△~○)

上記同様です。ただ、色と形に関しては文化的要素がさらに強く出ている感じがするので、日本史や世界史が好きな方にもおすすめできるかなあと思います。

 

6.情報社会のユニバーサルデザイン:情報コース専門科目(△~○)

情報通信技術とユーザビリティについての教科書です。いささか生産性度外視な部分も否めませんが、福祉という観点にとどまらずにひろくあまねく教育・産業・都市計画など多岐に渡ってアプローチしているのは放送大学の授業らしい感じがあります(実際に放送大学をとりあげている章もあります)前期でとったソーシャルシティに興味のある方にはおすすめできるかもしれません。△が入っているのは手広くなりすぎてただの読み物感もあるので(すみません)

 

7.産業とデザイン:社会と産業コース専門科目(○)

面白かったです!デザインの進化と文脈が、時代と共に語られ、その広告の手法についても論じられています。この科目はなにより引用・参考文献がどれもこれも興味を惹かれます。

 

8.交通心理学:心理と教育コース専門科目(○)

認知科学産業心理学の融合という感じです。自分の気になる領域と近いからというのもありますが、既にインフラとなっているものに関してリスクマネジメントを加えるのは効率性があって自分は非常に好きです。前期に受けた危機の心理学よりも、交通心理学のほうが『危機(瞬間的判断によるインシデント)』の心理学っぽいです。

 

 

前期の科目についてのおすすめ具合について。

1.発達心理学概論:心理と教育コース導入科目(×)

小児科と精神科の授業の焼き直しだったので楽しめませんでした(すみません)

 

2.教育心理学概論:心理と教育コース導入科目(◎)

前期に書いたブログにもありますがとても面白いです。認知と知覚、発達の観点から学ぶこと全般について説明されています。何より言葉がとても平易です、が、概念はとても高度なものを提示しています。ここを導入に心理学をしはじめたらとても楽しいと思いますし、社会学や教育学に興味のある方にも是非こういう視点はもっていて欲しい。

 

3.認知心理学:心理と教育コース専門科目(○)

認知科学への興味が嵩じて放送大学入ったといっても過言ではないので勿論楽しく受けました。内容も充実しています。認知心理への導入としてはとてもいいと思います

 

4.認知神経科学:心理と教育コース専門科目(△~○)

認知科学やりたい人にはおすすめですし、生理学の基礎を学んでいる人にも特に問題はないでしょうがこれは放送大学の中ではかなりハイレベルな気がします。放送を少し聴きましたが、わかりやすくはなかった。試験もわりと難しい気がします(記述です)。

やりたい人にしかお勧めはできませんが、自分は楽しみました。

 

5.比較認知科学:心理と教育コース専門科目(△~〇)

上に続いて難易度が比較的高い科目だと思います。行動学的心理学ですかね。学習心理学とも近いと思います(教育ではなく「学習」です、心理学における学習という言葉は「まなび」ではなく「習慣の獲得」くらいの意味だと思ってください)。

古典的な手法から最近わかったことまで広く紹介されていて面白いのですが、人にお勧めできるかというとちょっと難しいかもしれません。認知神経科学とあわせて、資格取得もあるしなあと思ってとった科目です(多分難易度は結構高い)。どちらも試験を受けている人がかなり少ないのが印象的でした。

 

6.危機の心理学:心理と教育コース総合科目(○)

社会・認知心理学行動経済学っぽい本です。今期受けている『交通心理学』よりは、もっとソーシャルな意味での『リスク』について論じている本。面白いです。ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』とか好きな方なら楽しく授業を受けられると思います。

 

7.社会心理学(○)

心理学系の有名な本を1冊ずつ紹介しながら、その中の概念や傾向を解説していくスタイル。「教育心理学概論」や「危機の心理学」と同様、わかりやすいのがよいです。

 

8.ソーシャルシティ:心理と教育コース専門科目(◎)

都市計画と情報通信技術の融合科目という感じです。とても面白い。

「情報社会のユニバーサルデザイン」とも関連が深いと思いますが、こちらのほうが経済活性などについても論じられているほか、アクセシビリティが実際の行動に影響を及ぼすかどうかやその測定方法、判定の方法についてまで述べられていてよくまとまっている印象です。たのしい。

 

ちなみに前期にまだ右も左もわからないまま書いたブログがこちら。

streptococcus.hatenablog.com

 

個人的なもやもや:放送大学と文化的再生産とメリトクラシー

日記です。誰が何と言おうと。

 

昨日、放送大学の面接授業をひとつ受けてきました(心理学実験のうち認知心理学に属するもの)。それから、語学学校にいま通っています。勿論本業も変わらず続けています。

放送大学の姿勢・授業のチョイス(放送大学エキスパート)を見たり、受講者層を数字で知り、厚生経済学や教育格差による貧困についての本を読んだりしてみて考えていることについていくつか。

 

1.地域差がもたらす小児の時点での学力差

まずはひとつめ。以前みかけた、「日本の小学生」を対象とした調査です。

教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書 [2007年~2008年] │ベネッセ教育総合研究所

調査書全容は非常に長大なので、いくつか要点を挙げておきます。もっと中身は面白いので、ご興味があれば是非本文とデータに目を通してください。

①都市部とそれ以外で学力の獲得に差はある

②ただしその格差を埋める要素として、社会的な交流や学級効果のいくつかの特性を挙げることはできる

③母親の学歴(学校歴ではない)は有意に子どもの国語の能力の自覚に影響する

このあたりはフランスの社会学ピエール・ブルデューの著書「ディスタンクシオン」とその他において文化的再生産がおこなわれることからも説明ができます。つまり今回は日本で改めて証明されたというだけのことで、既に以前からこのようなことが起こりうることはわかっています(3番目に関しては意外でしたが)。

自分が興味深いのはこの調査の第6章においての児玉教授のコメントです。以下に引用します。

「有能な者たち」のための教育は、特定の専門家による独占へと閉ざされている教育である。そこでは、知ることと習熟すること、知ることとできることを結びつけようとする。これに対して、「無能な者たち」のための教育は、誰にでも開かれている教育である。そこでは、知ることと考えることを結びつけ、それによって知の独占性を開放しようとする

 

たとえば、医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること。つまり、職業と結びついた専門的知識や技能を、市民化された批評的知識へと組み替えていくこと。ここに、メリトクラティックな学力観を組み替えていく一つの方向性があるのではないだろうか。

と、子どもの学力格差がそもそも教育をもたらすシステム(家族の教育システム・能力、地域のシステム・能力)に依存していることから、その『学力』のメリトクラティックな価値観の構造転換を促しています。

太字にした部分は、放送大学の理念とかなり似ているといえます。

後述しますが、コレージュ・ド・フランス(一般市民にも開放されたフランスの国立大学)の提言とも一致します。

 

2.リーディングスキルに代表される知の構造の変化について

学力の格差はのちに経済格差や文化的活動の格差につながります。

小児をはなれて(小児も対象にされていますが大人にも適用できるとしています)、リーディングスキルテストについての記事をいくつか読んでみました。

Noriko Arai: Can a robot pass a university entrance exam? | TED Talk

ja.tiny.ted.com

TEDでの発表の全和訳は上記です。本文は動画。

「東ロボくん」はセンター試験で上位20%に位置し、この成績は日本の6割以上の大学に入学できると説明されています。そして、「暗記や演算により解決する問題はAIの方が得意、ただAIはまだ『意味』を読み取ることはできない。人間の得意とする分野を伸ばす教育改革が必要」・・・と提言されています。

ちなみにリーディングスキルテストは、「国語」のスキルを問うものではありません。文章の意味の読み取りが必要という点において、頭の中で文章を再構成して意味を読み取る技術といいかえればよいでしょうか。算数だろうが数学だろうが、物理だろうが化学だろうが文章題である限り必要なスキルであるということです。

詳しくはこちら。

リーディングスキルテストで測る読解力とは国立情報学研究所

 

このTED動画の内容も非常に面白いので(自然言語を演算可能な様式に置換して数学の問題を解くシーンなど見物です・・・!)おすすめです。

 

3.「未来の教育のための提言」コレージュ・ド・フランス(1985年)

全文引用したいくらいなのですが、全部すると結構長いので関係のありそうなところだけ抜粋します。そして自分がそのとき考えた一言をちょっとつけていきます。

1.科学の統一と文化の多様性

調和のとれた教育は、科学的思考に本質的な普遍主義と、生活の様式や、智慧のあり様、文化的感受性の多様性に着目する人間諸科学が教える相対主義との双方を両立させなければならない。

前者は自然科学で後者は人文科学的知識といった感じですね。文系理系で区別してしまえば早いかもしれませんが、のちの文章で示されるように学域横断的な教育であると考えると教育の方法を仕分けるものではないような気がします。

2.優秀さの形態の多様化

達成の多様なあり方をその中の一つのあり方を頂点にして序列化する、「知性」の一元論に対して、教育はすべての手段を用いて戦わなければならないし、社会的に認められる文化的な優秀さのあり方を多様化しなければならない。

これが現在の日本の苦しいところではないでしょうか。知性を序列化する構造はまさしく「学歴社会」ならぬ「学校歴社会」に依存しており、たとえ若い人が放送大学などの開かれた教育の場でいくら頑張ったところで個人の貧困を大きく免れる手段にはなりにくい理由のひとつであると思います。左記のような理由で、放送大学のような存在は、確実に地域の貧困格差の解消によい影響は与えるでしょうが、個人に対して「知識欲を満たす」以上のメリットを与えにくいと考えられます。

ちなみにキャリアアップにつながるシステムとしては教育訓練給付金制度(厚労省HP)というものがありますが、放送大学のカリキュラムについては修士・社会経営コースと臨床心理士養成コースにのみ適用されます。私が行き始めた語学学校にも使えました(お小遣いくらいの額ですが)。

3.機会の複数化

学校的な評決の帰結を可能な限りに緩和し、学校的成功が生涯にわたる聖別、学校的挫折が生涯にわたる断罪の効果をもつことを防ぐために、学科系統を増やし、学科系統間の移動の可能性を増やし、やり直しのきかぬ断絶をどのようなものについても緩和しなければならない。

7.継続的に、そして(職業生活と)交互に行なわれる教育

教育は、生涯にわたって継続して行なわれるべきであり、学校教育の終了と社会生活の開始との間の断絶を埋めるためにあらゆる手立てが講じられなければならない。

このあたりが成人教育の必要性なのですが、今回言及できることはそう多くありません。しいていえば次の文章とあわせて読むと若い人でも、直接賃金に繋がりそうにない生涯学習に踏み込む意義がみられるかと思われます。

9.自治の中でのまた自治を通じての、(学校教育機関の)開放

学校教育機関は、外部の人びとと連携した協議や活動を行ない、文化普及のための他の諸機関の活動との間でその活動の調整を行ない、自主的市民活動のための新たな中心、すなわち、真の意味での市民教育の実践の場とならなければならない。それとともに、(これまで評価が十分ではなかった)教員の役割に、十分な評価を与え、教員の権限を拡大することによって、教員団の自治を強化しなければならない。

ちなみに、学府による公開講座というのは年々増えています。6年前のデータなのでちょっと古いのですが(生涯学習社会の実現に向けて高等教育機関に期待される役割について(文科省))

この資料の22ページに「大学(国・公・私立)公開講座実施状況」があるのですが、20年で倍近くなってはいるのですよね。ただそこにアクセスする手段や、実際に社会生活を営む個人が余暇時間に勉強できるかというと厳しいものがあるのでしょう(その下に、生涯学習に踏み切れない理由が挙げられています)。

放送大学生涯学習を基本とした機関であることは、在籍者の年齢層・職業層(上記リンク19ページ)をみると明らかです。ちなみにフルタイムで働きながら生涯学習<キャリアアップという優先度で通える高等教育機関としては経営大学院などがあるのでしょうけれども、このあたりはなかなかに学費が高いです。ある程度既に優越した状況にある人しかアクセスする手段がないように思えます。

 

4.個人的なもやもや①:格差の結果もたらされた個人の貧困

現在(いくらか教育格差がもたらしたと考えられる、少なくとも相対的な)貧困状態に陥っている個人が、ただ日銭を手にする以上に高等教育によって貧困を脱することはできるのだろうか?

→これに対する現状ひとことでいえてしまう反論

「貧困を脱するために必要なのは、高等教育ではなくむしろ中等教育である。」つまり、「貧困を脱してから高等教育をうけろ」というものです。お説ごもっともです(自分に向かってなにをいっているんだ)。そう、現状の「若いうちに相当の学歴を積み上げなければ満足な収入が得られない」構造を前提とするならば、知にアクセスする手段はまず地固めをしてからにしかならないのです。これは個人における葛藤であるなあと思います。

 

5.個人的なもやもや②:個人への生涯教育の応用について

大学などの教育機関・企業の研究機関に所属していない個人が、系統だった研究活動に従事するようになることは可能になるだろうか?またそれによるメリットはあるだろうか?

・・・これに関しては非常に難しいだろうと思います。

いちばん最初に挙げた「放送大学エキスパートプラン」についても、地域における活動に焦点を当てたものが非常に多いのですが、それによる知識の再生産はごくゆっくりです。というか、世代を超えたものになります。教育格差の是正としてはそれでよいのですが、では現状のために個人は何をすればよいのかという点においてはたと立ち止まります。たとえば自分であれば専門職能人ですから専門教育に従事することも勿論可能ではあるわけですが、教育と研究が実務実践と分断されていて苦労するという構造は企業においてもみられるのではないかと思います。

(比較的)若いひとの生涯学習がこれに寄与する可能性はあるだろうか、と考えますが、そもそも労働者の余暇時間というものが削られに削られている現状では困難なことかもしれません。

100冊読破 4周目(41-50)

1.解明される意識(ダニエル・デネット

解明される意識

解明される意識

 

解明される宗教、思考の技法ときて3冊目のデネット氏の本です。確かにチューリングチョムスキーに影響を受けていそうなと思われる機能主義・言語学的(いや機械言語的?)な思考の展開で、読んでいて飽きないといえば飽きません。これを読んで楽しいのは、むしろ理学系の人かなあという印象がありますが、文系の自分が理論を通して理学的なものの考え方に興味を持つことができるのもまた嬉しい話です。ただ、前提となる知識が認知科学全般とコンピュータ科学になってくるので読むには心して挑まねばなりません。

満を持して挑んだだけあって楽しかったです。難しいですが。1年以上前から読みたいとは思っていましたが、あの頃に読んでももっとわからなかったでしょう。心の哲学のなかでもハードプロブレムに切り込んでいるのが7-8章にかけてだったんですけど、クオリアは意識の付帯現象であるという説明がなされていました。

神経科学的アプローチという意味ではチャーチランドの「物質と意識」があるんですけど、正直あれに関しては私はちょっとまだ理解が及ばなかったところがあります。デネットは多元的草稿モデル(感覚の入出力が常に編集され続ける)ことを唱えて、カルテジアン劇場という争論に決着をつけます。ヘテロ現象学に関しては主観にすべてを依拠することを廃した現象学、という印象を持ちました。訳者あとがきに書かれていたのですが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を再編したような感じだと書かれていて大変うれしくなりました。まあそこまで比較できるほど他を知らないんですけど

あと認知言語学的にアツいのは、「入力された言語の処理」は機械も人間も解析が進んでいるのに、「どうやって出力していくか?」には焦点があてられていないのでは、という問いでした。つまり思いが言葉になり、言葉(道具)になった概念を再獲得することでさらに思考を進めるという過程ですね。このあたりは確かに今までに読んだ言語学の本にも哲学の本にも神経科学の本にもなかったような気がします。もしかしたら難しそうだから私が意図的に避けていただけかも知れませんが。

デネットはさかんに生物学者リチャード・ドーキンスの引用をしますが、ドーキンスを引用することで斥けられるのは哲学のうちの「ナンセンスな議論」だけだと思っています。デネットは「解明される宗教」で、ドーキンス以上にずっと前向きな宗教の覚知を進めていて、それはドーキンスの半ば過激ともいえる無神論と相容れません。進化生物学、進化心理学は勿論「道具」として用いてはいますがそこに本義があるわけではないので、そこから導き出される新しい議論に関してもあくまでデネットが授けてくれているのはまさに「思考の技法」(=道具)なんだなあと思うなどしました。

 

2.有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論(カンタン・メイヤスー)

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

 

哲学とはつねに、その分身である詭弁――曖昧であり、構造的でもある分身――すれすれのところで、奇妙な議論を発明することである。哲学することはつねに、オリジナルな論証の領域を必要とする、ある観念の展開である

 

(中略)その観念を擁護し探究するには、オリジナルな論証の領域が必要なのであり、その論証のモデルは、実証科学にも――そして論理学にも――これまで想定されてきた正しい推論の技術にもないのである。だから哲学にとって推論を統御する内的方法を生みだすことは本質的なことである。さまざまな測量標や批判が、全体として新たに構成されたその領域に、その内部において合法な/不法な言明を分かつ諸限界を導入するのである。ーカンタン・メイヤスー

 

もはや神秘的なものは存在しない。それは、問題が存在しないからではなく、もはや理由が存在しないからである。ーカンタン・メイヤスー

 

米森氏の「アブダクション 仮説と発見の論理」が科学に関する哲学だとしたら、この本は哲学に関する科学(ではないのだが)のようでした。分析哲学現象学(を含む大陸哲学)を再検討するにあたり、数学的(または弁証法的)矛盾と、その矛盾の論理的許容を用いる。もっとも私にはよくわかりませんが。

惜しむらくは私自身がヒュームの言説というものをよくわかっていないし読んだこともないということなのですが、4章(本書は5章だてである)をひとつまるまる割いて検討しているにもかかわらずなにをいっているのかさっぱりわからん状態が発生したので、折角だしヒューム読むかーという気持ちです。

科学哲学、結構入口が難しいなと思っていましたが現代の哲学者がこういう考え方をしておられるなら悪くないな、もっと読みたいなという気がします ウィリアム・フィッシュ「知覚の哲学入門」も今度もう一度読書会で取り組む予定なので楽しく読めたらいいなと思うなどしました。

あとこの本を翻訳した主訳者が千葉雅也氏(「勉強の哲学」の著者)なのですが、千葉氏による生成変化についての試論「動きすぎてはいけない」を前読んだときさっぱりわからずついていけなかったのを思い出しました ドゥルーズを読み始めたころだったのでそらそうなるやろという感じですが・・・現代の数学(というか計算機科学)の領域を概観する哲学、というか哲学が科学に概観されているのかも知れませんが、いいレベルにいるのだなと思います。哲学は科学の発展に伴って観念を絶えず変化させることができるし、そのスピードがあがれば哲学は「勝手に考える」。走らせるのは人間ですが


3.道徳感情論(アダム・スミス

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

 

日経BPの訳、読みやすかったのでお勧めです。

いい文章が本当に多くて、引用が多いのをお許しください。

隠棲して思索に耽り悲嘆や怨恨を深く内省するような人は、慈悲心に満ち、寛大で、道義心に秀でることが多いかもしれないが、世慣れた人にごくふつうにみられる安定した気分はめったに持ち合わせていない。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

言葉が引き起こした苦悩は、言葉とともに消えてはくれない。私たちを何よりも悩ませるのは、感覚の対象物ではなくて、想像が生む観念なのである。不安を引き起こすのが観念である以上、時が経ち、新たな出来事が起きて記憶からいくらか拭い去られるまでは、想像力はいつまでもその観念を思い出させ、心を苦しめ疼かせる。ーアダム・スミス道徳感情論」より第2篇「さまざまな情念が適切とみなされる度合いについて」

 

徳は愛し報いるべきものであり、言い換えれば愛され報われるにふさやしいという顕著な特徴を備えている。逆に悪徳は、嫌われ罰されるにふさわしいという特徴を持つ。だがこれらの特徴はどれも、他人の感情を直接の拠りどころにしている。徳が愛し報いるべきなのは、それ自体が愛や感謝の対象だからではなく、他人に愛や感謝をかき立てるからだ。徳がこのように好まれると知っているからこそ、徳の実践は心の平穏や自分に対する満足感を伴う。逆に悪徳が嫌われると知っているからこそ、悪徳は苦悩を伴う。愛されることほど、そして愛されることにふさわしいと感じることほど、しあわせなことはあるまい。また、憎まれること、そして憎まれて当然だと感じることほど、ふしあわせなことはあるまい。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

慈悲心に満ちてはいるがほとんど自制心を持ち合わせていない人が世の中には大勢いる。この人たちは無気力で優柔不断であり、困難や危険に遭遇すると、名誉ある使命の遂行中でもあっさり挫けてしまう。その一方で、完璧な自制心を備え、いかなる困難や危険にもけっしてひるまず取り乱さない人間もいる。この人たちはどれほど大胆不敵で無謀な企てにも乗り出す気構えはあるが、しかし正義や慈悲といったものはすこしも感じないように見受けられる。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

思慮深い人は、必ずしもとびきり繊細な感受性の持ち主ではないが、つねに友情には篤い。ただしこの友情は、未熟な若い人の無邪気な心を魅了するような熱烈で移ろいやすい感情ではなく、試練を経て選び抜かれた少数の友人への揺るぎない誠実な愛情である。こうした友人は、輝かしい業績に対する軽々しい感嘆からではなく、謙虚、分別、善行に対する冷静な敬意に基づいて選ばれる。ただし、思慮深い人が友情を結べるとしても、一般的な意味での社交性に富むとは限らない。陽気で快活な会話の飛び交うはなやかな社交界に顔を出すことはめったになく、主役を演じることはさらに稀である。社交界のような場は日頃の几帳面な節制を妨げ、不断の努力を邪魔し、厳格な倹約に反することがあまりに多いせいだろう。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

この日経版、アマルティア・センが序文を書いているのですが、アダムスミスの著書でより有名な「国富論」に優りこちらが読まれるべき理由として彼(セン)の功績以上に説明になるものはないと思います。

デカルトの情念論よりもさらに社会における人間の心理に踏み込んでいます。今読まれるべき本だなあと本当に思いますし、これは人にお勧めできますね・・・

 

4.インド思想史(J.ゴンダ)

インド思想史 (岩波文庫)

インド思想史 (岩波文庫)

 

印哲きになる!というてたら、Twitterの方がお勧めくださった2冊のうち2冊目。ちなみに1冊めは、中村元の「慈悲」。あれもよかったです。デカルト読んだ後に本書(インド思想史のほう)を読むと、ウパニシャッド哲学はよく似た捉え方してへんかと思ったりします。意識と対象の捉え方とか。西洋哲学読み慣れた人にも読めるというか、仏教の教義についてというよりその先駆となるインドの自然哲学の連綿を繙いてくれます。しかもすっきりと読めて中庸である。これは素晴らしい

ナーガールジュナちょっと読んでみたいなあと思いました。

 

5.6.微生物の狩人 上・下(ポール・ド・クライフ)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

 

 

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

 

 出てくる人の頭がそろいもそろっておかしい。おすすめです。

道学者先生たちはーーその中にはなんた医者も大勢いたのであるーーこのメチニコフの実験に対して喧々囂々の非難を浴びせかけた。「こんなに容易な、しかも完全な予防が広がるようになればーーまるで不道徳に対する刑罰をなくしてしまうようなものだ!」と、彼らはいった。しかし、メチニコフはこう答えただけであった。「この病気の蔓延を防ごうという試みは不道徳として反対されている。しかしいくら道徳的だといっても、梅毒の恐ろしい蔓延や、罪のない者までを巻添えにしてしまうことに対してすべての予防策が何の役にもたたぬとなってみれば、この業病と闘うにあたって幾らかでも有用な方策があるとした場合、これを差し控えることこそが不道徳ではないか。」ーポール・ド・クライフ「微生物の狩人」

 

サルバルサンを成功させたところで終わりでした。いやーほとんど全員がマジキチ(褒め言葉)なので非常に面白かったです。内科的治療というのはかくあらねばならぬ…(「病の皇帝」同様、病態の解明と薬品の開発・治験というのはもはや狂気じみた情熱と隣り合わせなのがとてもよいです)岩波文庫なので心して取り組んだのですがなんのことはなく、とても躍動感ある読みやすい文章でした。軽率に殺されるウシ・ウマ・サル・ヒツジ・モルモット・ネズミ・イヌ…動物愛護団体が聴いたら発狂しそう。

微生物学というか感染症にまつわる研究というのは常に公衆衛生上の問題解決を導くものですが、本書はそれをあえて傍流とし、それを惹き起こした人々の業績と行為、その絡み合いについて詳細に述べています。このあたりが病の皇帝との違いだろうか。農耕を中心とした世界史、化学(レーウェンフックの時代にあってはまだ科学全般も揺籃の時期であったわけですが)、生物学などと密接に関わりあるのが微生物の世界なので、めっちょ面白いのですよ。高校生くらいで読んだらこれはもう確実に大学生活をエンジョイできるやつだ。

 

7.8.孤独な群衆 上・下(デイヴィッド・リースマン)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

 
孤独な群衆 下 (始まりの本)

孤独な群衆 下 (始まりの本)

 

他人指向的な人間にとっては社交性の欠如は社交性の過剰よりもはるかに深刻な問題なのだ。じぶんを指導し、かつ認めてくれる「他人たち」が存在していることこそ、かれの同調性と自己合理化のためのもっとも重要な要素なのである。かれの性格そのものが社交性を要望しているのである。かれから社交性をうばってしまったらかれは自律的にはなりえない。かれはアノミー型になるだけである。アルコール中毒や薬品中毒の患者からとつぜん酒なり薬品なりをとりあげたらたいへんなことになる。それとおなじように、他人指向型の人間から突然社交性をうばうということは不可能だ。しかも、他人指向型の人間が自律性を求めることは独力で達成することができないのである。かれはつねに友人を必要としている。-デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』

この本のバックグラウンドをあまり知らずに読んだのですが、アメリカ版『菊と刀』という感じです(実際版を重ねた訳者あとがきにもそのことが書いてあった)。イェール大学からのペーパーバックとして出版されたらしい。一般人が読める専門書という位置づけですかね。下巻前半部では、社会的個人がいかにして政治に向き合うか、といったことが話題になります。このあたりはJ.S.ミルの『自由論』やエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』に負うところが多い印象を受けました。後半部の階層化社会に関しては、それブルデューでいいのでは・・・という気もしましたが『孤独な群衆』の素晴らしいところは、メディアと個人との関係を詳らかにしたことにあると思います。全編通じて、マスメディアが個人と社会の関係や社会的個人の考え方・行動に与えた影響をよく論じています。マクルーハンの『メディア論』よりも前だというならなおのこと価値がある。この本は社会学としてというより公共哲学の本で確かよく取り上げられていたんですよね。なるほど確かに公共哲学といえばかなりしっくりきます(まあだからなんだと言われるとそれまでなんですが)。社会学としては今から振り返ると観念論っぽいです。

 

本の内容自体は社会心理学的な社会学、といった風合いです。これはいかにも現代的な書き方ですが、社会心理学というものが「社会で生活する”個人についての”心理学」というような解釈だと思っていただければ幸いです。大衆の行動傾向について論じるものではありません。本文中でも触れられていますが、フロイトによる精神分析の煽りを社会学も大いに受けており、小児の発達の解釈にに心理学・精神医学が繁用されていたバックグラウンドがあります。これに対して、リースマンは社会の様相の変化が個人の発達様式や教育の在り方に影響していると指摘しています。

内部指向型と外部指向型(対人関係を重視する)発達の違い(そして何がそれをもたらしたか)にマス・メディアによる教育効果を挙げたのは恐らく彼の功績なのだろうと思います。内部指向型の人間、なるほど今の団塊の世代に多いなと思いました。彼らはバイブル、ないしバイブルになる理想の人間像を持っている。私が先日ご飯どころで押し付けがましくフロムの「自由からの逃走」について語られたのも、それを重視する教育の志向性からでしょうか。

なお高度に教育された内的志向型の人間は(たとえば)サラリーマンなどの生産的なことに価値を見出さない傾向にあり、研究的な事物に執心するとありましたが、現代においてはそもそもサラリーマンになることすら難しく、かくも社会が研究を尊重しない時代ですので現代社会のYAMIを感じます。

 

まあそんな話はいいとして、外的指向型の人間は他者からはみ出ることよりもある程度他人と足並みをそろえることを望む傾向にある、みたいなのを読むとこれはメディアの発達に伴ってさらに加速しているなあと思わざるを得ません。このへんは書いてあることではなく自分が読みながら考えていたことなのですが、現代においては発達段階で個性(秀でた部分にしろ劣った部分にしろ)をそのままにしておくのはとても難しくなってきているなあと感じます。個人を点、社会的な繋がりを線とするなら、線を大事にするあまり点としての自分を見失ったり、点として際立てば線を失ってしまったり。それを学校教育でなんとかするのも、家庭の教育でなんとかするのももう無理が嵩んでいると感じます。公教育においてはバックグラウンドがより多様化しつつあるため、表層の問題を解決するだけでは何度も同じケースを(より深刻な形で)教育者が経験することになるでしょうし、家庭の教育に依存した場合、核家族は内部志向型よりさらに昔の伝統志向型教育を失っているので、文化資本社会関係資本という「個人を育てるために必要な社会資源」を持たざる者はより孤立するという状況に陥るのでしょう。「何かしても貧しいが、何もしなければさらに貧しくなる」苦しみがやってくる。

じゃあ点としての個人の教育はどうやって救われるだろうかと思ったときに、自分は前ならサードプレイスとして、都市における公共空間がある程度教育的であることを目指せるかと思っていたのですが、リースマンはメディアの可能性を指摘していましたね。まあ今や惨憺たる有様ですがそれでもメディアというものを広く捉えた場合に、確かにないよりはあったほうがいいメディアというものがたくさんあるんですよね。それだけに頼ることはもちろん不可能でしょうが、線を利用して点を豊かにすることに関しては期待できる分野がいくつもありますね。

 

9.重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)

 

 頭痛に襲われて痛みがひどくなる途上で、ただしいまだ最悪の状態には達していないときに、だれかの額のきっかりおなじ箇所を殴って、その人を苦しめてやりたいという烈しい願望をつのらせたことがあるのを、忘れてはならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

みずからの根を断たねばならない。樹木を切り倒し、それで十字架を作り、日々、この十字架を担わねばならない。社会的にも植物としても自身の根を断つこと。(中略)だが自身の根を断つときは、より多くの実在を求めているのだ。(中略)都市はわが家にいる感覚をもつこと。(中略)不幸にも、根づきを変容させる手掛かりも得られぬままに根を失ってしまうなら、いかなる希望が残されているというのか。ーシモーヌ・ヴェイユ

 

精神の領域において、想像上のものと実在的なものをいかにして区別するのか。想像上の楽園よりも実在の地獄のほうを選ばねばならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

貴重なものが傷つきやすいのは美しい。傷つきやすいのは存在の徴だから。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

 追求する対象のまえで一歩退くこと。迂回のみが功を奏する。まずは後退しなければ、なにも始まらない。梃子、船舶、労働全般。葡萄の房をむりに引っぱると粒が地面に落ちてしまう。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

執筆とは出産である。もう限界だと思える努力をせずにはいられない。だが行動もおなじだ。もう限界だと思える努力をしていないのではと危惧する必要はない。自己に嘘をつかず、注意をこらしていればよい。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

われわれは他者を読み、同時に他者から読まれてもいる。複数の読みの相互干渉。われわれの読みどおりにおまえ自身を読めと他者に強いる(隷従)。われわれ自身についての読みどおりにわれわれを読めと他者に強いる(征服)。(中略)他者というものは、当人をまえにして(あるいは当人を思いうかべて)われわれが読みとるものとは別物たりうることを、いつでもすみやかに認める心構えでいなければならない。あるいはむしろ、他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である、それどころか似ても似つかぬ代物であることを、他者のうちに読みとらねばならない。だれもが自分にたいする別様の読みを求めて沈黙の叫びをあげている。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

隣りあう独房にいるふたりの囚徒は、壁を叩いて意志を伝えあう。壁はふたりを隔てるが、意志の疎通を可能にもする。われわれと神も然り。あらゆる隔離は一種の絆である。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

カイエ(雑記帳)の一部である本書は、全編を通して散文形式の短い節の連なりで作られます。短い評論(評論としてはあまりにシンプルだけど)に近い。最早Twitterかと。彼女がいかに多くの本を読み、それについてそれぞれ深い洞察があり、自分なりの解釈をしていたか感じられる文章です。

ボーヴォワールを彷彿とさせるけれど、彼女が敢然とペンを揮うひとであったのに対して、ヴェイユはとても慎ましく、内気で繊細な文章を書く。なにかに否定的でも、口撃することのなさそうな。

重力とは往時の生活における(彼女の生を全部に渡って支配していた)時代の要請による暴力や抑圧を指し、恩寵はその名の通り神による救済を指すようだけれど、これ自体を論じた篇は私はあまり得心がいきませんでした。神に祈るということをあまりしたことがないからかも知れないけど

ヴェイユの博学は大陸哲学や神学のみに留まらず、数学や言語哲学、東洋哲学に及んでいた。この辺りが、20世紀初頭で信仰と科学に挟まれる理由かとも思う。彼女自身は短い生涯のほとんどすべてを、神経性食欲不振に悩まされたらしい(エピソードとしては乳児の頃からあるようだ…)二階堂奥歯の「八本脚の蝶」や、「この世界の片隅に」をなぜか思い出しました。あと、「ヴィオレット ある作家の肖像」も。後者2つは映画ですが、なんというか、時代背景を考慮すると面白く読める文章であるように思います。

 

10.プラグマティズムを学ぶ人のために(加賀 裕郎)

プラグマティズムを学ぶ人のために

プラグマティズムを学ぶ人のために

 

パース、クワインといった分析哲学の基礎となる領域にいまいち突っ込みあぐねていたので本書に概説をお願いしてみましたが、さっくりとまとまっていて、かつ古典的プラグマティズムからネオ・プラグマティズム、応用倫理学や教育指針への適用など網羅的に書かれていてよかったです。

100冊読破 4周目(31-40)

1.ヘーゲル現代思想(寄川条路)

ヘーゲルと現代思想

ヘーゲルと現代思想

 

短い本だったけど面白かった。哲学のことをなにも知らなくても、何冊か読めば必ずヘーゲルの名前は出てくる。カントもそうだけど。もっと先代ならまだしも、時代がくだってもこんなにひろく影響しているといのは「影響」の仕方に関してだけでも本になるし知れば面白い。

 


2.社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた(スディール・ヴェンカテッシュ)

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

 

面白かったです!こういう調査型の社会学者を追っていなかったなあ、と思いました。大都市の地下がどうなっているか、その「文化のコード」の変遷とつながりの変容を書きあらわした本。しかしめっちゃ小説っぽい書き口です(最近こういうの多いのだろうか)。

ドラッグの売人の親玉とか売春婦を斡旋する人たちの協力を得て調査を進めるのですが、彼自身の話も勿論ここには書き表されていて非常に読み物として優れています。勿論論文などの実績も出されている方です(書き口が軽妙すぎて忘れそうになります)。

 

3.変態する世界(ウルリッヒ・ベック

変態する世界

変態する世界

 

 

概念論過ぎるし、語るには根拠がなさ過ぎる。完全なる印象操作によるものと言わざるを得ない。だったらもっと地道でミクロな社会学か、経済学か、はたまた公共哲学になるべきだった。さっき読んだヴェンカテッシュの「社会学者がニューヨークの〜」では、たしかに都市の紐帯の変容と文化の衝突にきちんと触れている。それがたしかに変わったのだと、記述できている。でもこれは違う。災害や気候変動を盾に、そのときどにでいいようにグローバリズムを持ち出したに過ぎない。たしかに電子化によって都市は変わりつつある、グローバリゼーションは資本主義による格差の助長を食い止められていない。でも正しい記述もしていないし正しい展望を述べているとも感じない。もっと現実に忠実な書籍は大量にある。ルーマンブルデューに言及するに及ばずだ。

・・・というけちょんけちょんな感想を残していますが、正直理解できなかっただけといわれればそうかもしれません。ただ再読する気にはなれない。

 

4.徴候・記憶・外傷(中井久夫

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

思ったより読みやすかったです。中井久夫氏の本は結構好き。最後の方に鷲田清一氏との対談がありましたね・・・

この方は精神科医で、長く診療に携わりながら恐らく教育分野でも哲学(思想)の分野でも秀でた方なのですが、患者さんの解釈がとてもやさしいんですよね。精神分析というとどうしても患者そのものをみないイメージがあって忌避的になりがちなんですが、こうやって物語に沿うように解釈されたらとても気持ちがいいだろうなあと思うんですよ。

 

5.ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造(カール・ハート)

ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造

ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造

 

ずっと気になっていたのですがようやく手に取ることができました。昨日の「社会学者がニューヨークの〜」と、ある意味で見ている分野は同じだなあと感じますが、結構自分の薬物に対する見方の誤りに気づきましたね。それから、ハームリダクションについて概念や存在は知っていてもその運用方法は知らんかったなあと思います。今回のことでスポットライトがあてられたのは支持的な社会的紐帯の薄さについてですが、昨日読んだ本は新たなネットワークの技法にも触れています。なんというか、両方読んでみてちょうどいい感じがしますが、強いて言えば本書のほうがより真面目で、希望がありますね。どんなに世知辛くても。そして学びがある。人にどちらか一冊を勧めろと言われたら、私はこっちを勧めるかな。

 

6.質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学(岸政彦)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

 

以前から読もうかとは思っていましたが、有斐閣フェアでも見かけたのでやはり一度読むべきやなと思って借りてきました。結論としては…うーむ、やっぱり自分はまだまだ社会学(とくに現代の社会問題のミクロな部分)には切り込めないなあという印象を受けました。それと同時に、診療科を精神科・内科・外科と分けたとき、多分それぞれ介入の方法などに違いはあれど、恐らくこういった生活史の聴き取りや生活の再編(慢性疾患領域ではよく扱う概念ですが)に携わっているなあと思うなどしました。臨床はいいフィールドだと思います。社会調査のなかでも、個人への聴き取りが必要な質的研究は相当難しいし骨が折れるという印象です。我々はその点、場所はすでに固定されますが、フィールドが既に与えられた状態なんですよね…。

 

7.侵入者―いま〈生命〉はどこに?(ジャン=リュック・ナンシー

なんというか興味深い本でした。さらりと書かれているのに免疫抑制と易感染性の関係などに触れているし、ことさら先に現代の医学をかじるとこういう視点は新鮮です。あと文章がうつくしい。これはデリダのときにも思いました。

ナンシーは50歳のとき(1991年)に心臓移植を受けています。そのことをデリダが「触覚、」で考察しているのですが、本書はナンシー自身の移植にまつわる身体知覚の変容について書かれています。勿論移植に限らず、病の体験というのは人になにか語らせる力があります。それでも、病を得る前から書いたり読んだり、考えたりする訓練をじゅうぶん受けてきた人の体験というものは他の人のそれとやや異なるなと思うことがあります。勿論はじめから、ほとんど障害を病とともに過ごす人もいるわけですが。

 

8.意識をめぐる冒険(クリストフ・コッホ)

意識をめぐる冒険

意識をめぐる冒険

 

われわれは日々臨床のなかで「知覚」としての意識にも、覚醒状態としての意識にも触れることができる。恒常性の破綻とも、その回復とも、永遠に失われる過程も見ることができる。だから意識状態の変容には(知識の有無は別にしても)客観する体験として知っているんだが。そうじゃない人にはどうなんだろうか、と思う。私たちが意識のない人間を丁重にケアするのは、家族のようになにかを期待しているからだけではない。倫理的観点や職業意識からだけでもない。昏睡状態における最小意識について少し知識があるからというだけでもない。難しいなこれは

 

アントニオ・ダマシオの「自己が心にやってくる」、スタニスラス・ドゥアンヌの「意識と脳」もとてと面白かったのですが、この本は格別だと思います。真の意味で科学哲学に挑んだ本かなあと思う。あと、物理学とか心理学の基礎的な知識があればもっと理解が深まって楽しいと思います。

 

9.カンギレムと経験の統一性: 判断することと行動すること 1926–1939年(グザヴィエ・ロート)

生とは単に環境に従属するだけでなく、自らに固有の環境を設定するのである。ージョルジュ・カンギレム

カンギレムはそこで、生き物の特性とは環境を甘受することにあるのではなく、「自分の環境をつくること、自分の環境を構成すること」なのだと再度主張する。(グザヴィエ・ロート)

 

人間とは、世界のうちに存在するのではなく、世界に対立して存在するージョルジュ・カンギレム

 

カンギレム本人の位置づけがイマイチよくわかっていなかったのでカンギレム本を読みたいなあと思って探していたところ、『正常と病理』に至るまでの著作についてそれぞれ概念の解説と誰の思想の影響を受けたか、という注釈のついた本があったので読んでみました。かのピエール・ブルデューに影響を与えた、大陸における科学哲学(分析哲学のようなものではなく、「具体的・具象的」な現代における大陸哲学)の草分け的存在のように感じます。ベルクソンの潮流からドゥルーズに至るまでに橋渡しができたような感じです。勿論それだけではないのですが。ごめんなさいブルデュー社会学者なんですけど、1930年代を理解するうえでカンギレムの位置づけってめちゃくちゃ大事なんやなあという感じです もうちょっとカンギレム読めたいです。あとラニョーとかアランを全然知らないので前後関係がまったくわかりません。

 

10.「誤読」の哲学 ドゥルーズフーコーから中世哲学へ(山内志朗

これ面白かったです。いやほとんどおすすめはできないんですけど、でもとても面白かった。本の構成が何よりいい。とっつきにくい中世の哲学への扉をこじ開けてくれる。著者自身のおはなしがところどころに出てくるのですが、最初はジル・ドゥルーズミシェル・フーコーが使っている用語の定義や概念について「これ誤解やんけ」みたいなツッコミを繰り返してしまうことから、どんどん概念を遡る旅をしていきます。カンギレムが科学史であるとしたらこの本は観念史みたいな感じですね。カント、もっとうえ、デカルト、もっとうえ!オッカム、スコトゥス、アウレオリ…と。彼らがどのように「読みを間違え」ることで観念を先に進めてきたかが書かれています、が、内容はめっちゃ専門的で難しい

しかしなにより言葉がうつくしい。著者は章末でよく「線香をあげて」います。神学的解釈を詳細に書いたあとで、この「線香をあげ」るの、めっちゃ面白いなと思いました。なんというか、読ませる文章ですね。「中動態の世界」のあの書き方が好きな人なら、きっと読めるのではないでしょうか。ただし扱っているものが具体的でない以上、あれより読むのはずっと難しいと思ってよいと思います。中世の哲学に食らいつきたいけどかじりどころがわからない自分にはとても面白く感じられました。

100冊読破 4周目(21-30)

 1.隷従への道ー全体主義と自由(フリードリヒ・ハイエク

隷従への道―全体主義と自由

隷従への道―全体主義と自由

 

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境(山中優)

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像(吉野 裕介)

いずれも勁草書房から出版の上記2冊を読んだあと初めてハイエク氏本人の本を読んだのですが、まあタイトルの通りというか時代的に経済の本というよりは全体主義によって焼き尽くされた自由を再考するといった風合いです。風合いとかいうまでもなく名の知れた名著なので読んでおかねばと思い読みました。経済学的見地ではハイエクケインズと深い対立構造を築いていたとののとですが、哲学的姿勢(つまり全体主義への批判的姿勢)においてはハイエクの思想をケインズが全面的に支援する書簡を送っているとのこと。1944年3月初刊ですが、日本で初めて訳本が出たのは1954年。時代のことを考えれば致し方のないことかと思いますが、ミルの自由論に少し追うところはあるものの全体主義へ至る道についての話なんかは確かにひじょうに社会学的です。アーレントの「全体主義の起源」などに先立ってこれを発表したとなると、ほんとうにタイムリーな著作です。

ハイエクの政治的思想として、経済に対してどちらかといえば介入を最小限にする手段を選んでいます。そして労働者の権利の確保に関していくつか(この著書ではない別の本で)述べており、そういうところがどこか厚生経済学的な側面をもつのかなあと思ったりしますが、経済史全体をまだまだ俯瞰できていないようにも思えます。名著読破、とりあえずできてよかったです。

 

2.文化的再生産の社会学ブルデュー理論からの展開〕(宮島喬

〈増補新版〉文化的再生産の社会学  〔ブルデュー理論からの展開〕

〈増補新版〉文化的再生産の社会学 〔ブルデュー理論からの展開〕

 

以前読んだ「差異と欲望」のように、ブルデューを読解して日本社会に適用していくというもの。本人の著書、「介入」とか「ディスタンクシオン」をそろそろ読んでみようかと思っているのですが、もし本体があまりに難しかったらやはりこっちだけでもかなり正確にブルデューの理論を追えるような気がします。

 

3.アマルティア・センー経済学と倫理学(鈴村興太郎)

アマルティア・セン―経済学と倫理学

アマルティア・セン―経済学と倫理学

 

タイトルだけで調べていたら目的と違う本を借りてしまった(私が読みたかったのは2013年ちくま学芸文庫の講義録のほう)のですが、これもいい本だったので普通に全部読みました。前半がセンの経済学的な功績についての説明と考え方についての展開、後半が倫理における応用といった感じです。数式(記号?)が前半に出てきまくるので心が折れそうになるのですが、ひとつひとつその式が何を表しているかについても説明書きが足されているのでドロップアウトせずに済みました。厚生経済学における「効用」の捉え方、結構面白いなあと思います 学ぶところが多いです

曰く福祉における効用は受けとり手によって効果が違うので個体の数だけ、考えうる条件だけ多くのパターンが存在すると。この辺りは医療の考え方ではお馴染みですが、確かに(特にマクロの)経済学ではおざなりにされてきた見方だと思います まあケインズとかざっと読んだ感想ですけども。ヌスバウムと共同で研究していたこともあるくらい哲学には近いセンですが、ノーベル賞受賞の理由は経済学における功績に対してであったりします なかなか私にはついていききれないところもありましたが・・・

アダム・スミス、カント、ノージックロールズなどの論じる共同体の倫理に触れるとともに、ベンサムやミル、バーリンの提示する「個人の自由」を検討しているのが大変嬉しいところです。

 

4.徳について〈2〉徳と愛1(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ)

徳について〈2〉徳と愛1

徳について〈2〉徳と愛1

 

1巻「意向の真剣さ」を読む前に読んでしまいました。

不幸のどん底に触れる者は、そのことによって、もはやなにも失うものはない。というのは、どん底より深く落ちることはないからだ。そして、絶頂は、凋落の不安定な始まりであり、絶望の極みは、また、再生の始まりでもありうる。暁は、もっとも暗い夜に準備され、春は、冬のもっとも長い夜に準備されるのではないだろうか。

徳に関しては結構宗教的要素が入るので理解しづらいのですが、「真摯さ」について述べているときの決定木みたいな割り振り方は結構好きです。モチーフに音楽が用いられることが多いのは彼自身がピアニストでもあったからのようですけれど、論理学的な側面は実は音楽の(特に楽譜の)中にも多分にあります。しかしジャンケレヴィッチから徳を学ぶのは私には早すぎたような気がします。

 

5.アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障(アマルティア・セン

アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障 (ちくま学芸文庫)

アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障 (ちくま学芸文庫)

 

 

飢餓は、悪魔と同じく、最後尾にいるものをつかまえます。

グローバリズムは別に人間を貧困にしないし格差を必ず拡大するとは限らんよ、っていうセン教授の東大での講義録です。今の日本の窮状をみるにいささか持ち上げられすぎている感はありますが、果たして文明の衝突を乗り越えてグローバリゼーションは人間を豊かにするか?という問いに答えます。しかし答えというよりは、グローバリゼーションはなにも今にはじまったことではなくかねてよりあったことだと続く。問題はそれがどのように為されるかにかかっているという観点で話は進みます。こないだ私が「エシカルコーヒー」にブーたれていた件にも触れられていました。薄いです。読める。読めるぞぉ

 

6.構造と実践―ブルデュー自身によるブルデューピエール・ブルデュー

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

 

なるほど、シミュレーション・モデルが、それで可能な作用様態を想像することが可能になるという、発見的機能を持つこともあるでしょう。しかし、そうしたモデルを構築する者たちは、すでにカントが数学者たちの悪弊として告発していた、現実というもののモデルからモデルの現実性にとび移ってしまうという教理的誘惑に、しばしば負けてしまうのです。

ブルデューは結構手厳しく分類に固執することを批判しています。これはブルデュー自身がそこで現れている構造よりもその構造をもたらす志向性と内在する実践に着目していたからであろうと思うのだけど、フッサールハイデガーメルロ=ポンティには影響を受けたといっていてなるほど感あります。

 

7.ヘーゲル初期論文集成()

ヘーゲル初期論文集成

ヘーゲル初期論文集成

 

直観はたしかに理性によって要請されるものではあるが、制限されたものとしてではなく、反省の作品の一面性を補完するために要請される。つまり、直観と反省はたがいに対立したままではなく、〈ひとつ〉になることが要請されているのである。

こうして自我=自我は思弁からは見棄てられ、反省にゆだねられてしまう。純粋意識はもはや絶対的同一性としては登場せず、どうがんばっても経験的意識に対立する。

 

徳が律法への服従の補完であるように、愛は徳の補完である、徳のあらゆる一面性、あらゆる排他性、あらゆる限界は愛によって廃棄されている。もはや有徳の罪、罪深い徳はない。というのも、愛はありとしあらゆるものの生きいきとした関係だからである。

ヘーゲルの文章というものをはじめて読みました(勿論訳本ですが)。

精神現象学、法の哲学、宗教哲学講義など西洋哲学の中ではカントやハイデガーと並んで重要な位置をしめていますが、この本に関しては法の哲学・宗教哲学としての要素が色濃くでているように思います。

 

7.悲鳴をあげる身体(鷲田清一

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

わかりやすい丁寧な文章で現代社会と人間の身体知覚の関係、自己肯定と社会性の保持をどう織り成しているかというのを新旧問わず哲学・文学の引用とともに説明するものです。短いし読みやすいですしなによりやはり得心がいく。

鷲田氏は臨床哲学だけでなくファッション…から皮膚までの身体知覚や空間の知覚、はてはコミュニケーションの場の状態を詳細に書き表して説明することに関しては他に類を見ないくらい簡潔です(私が慣れているだけかも知れませんが)哲学というと野矢先生とか出てきがちですが、臨床にいる人には、とくにケアワーカーには私は間違いなく鷲田清一氏を先に読んでいただきたいと思ってしまいます。その、考えることが難しいことではないということを知ってもらうために。いつでもあなたがたの手は、皮膚は、感覚は考えているのだとわかってもらいたいので。

 

9.開かれ―人間と動物(ジョルジョ・アガンベン

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

 

アガンベンは「裸性」を読んだ時にいいなって思って、主要概念の解説書である「ホモ・サケル」を読んだのでした。今回は政治哲学を巡る個人の話というよりは、人間と動物を分かつものはなにかとかそれが意思決定に作用できるかという話だったように思います ハイデガーの概念の応用が多いので難しい。結構ポストモダンかぶいたひとたちからの引用が多いし言葉の使い方も難解なんですが、この主要概念めっちゃ好きなんですよね。なぜかっていうと政治における主体の単位を個人の、特に肉体の主権に着目しているから。それはわりと攻殻機動隊の世界観に似ていると思う

 

10.赦すこと: 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの(ジャック・デリダ

薄い本、というか持ち帰るのに軽い本というだけの理由で借りてしまったのだが中身はなんとジャンケレヴィッチに関する話題でござった。ジャンケレヴィッチとデリダ、なんとなく相性が悪く感じたのだが。というのもデリダはあくまで書字に拘り、ジャンケレヴィッチは概念の整理に拘っているように見える。「徳と愛」でジャンケレヴィッチの説明した「誠実さ」に関する分析はまさに書字(文法)というよりは論理的・記号的なものであり、意思決定のツリーのような分類法だったので。ジャンケレヴィッチのほうがデリダよりずっと難解で掴み所なく感じるし、デリダに言語化されると意味がわからん。

まあ意味わからんで終わってしまったらそれまでなのでそんなことで諦めるわけにはいかないのだが、本書は恩赦(恩寵)や人が人を裁くときの「赦さぬ」とはどういうことかについて論じている。和解、妥結、といった止揚の概念にやや近いものを持ち出した上で。「赦」と「許」の違いは、後者が比較的個人的・法的なものであるのに対して前者は超法規的・宗教的要素があることかなと思う(辞書的にもそうだけど)。恩赦というのも不思議な概念だけど。ハームリダクションが必要とされて以来、罪の与え方は変わっただろうけど、当時の贖罪の変遷はどうなっていたんだろうか。

読書についてーわたしの本の歩き方

100冊読破というチャレンジをはじめて1年半になりました。冊数を目標としているわけではないのですが、やはり始める前と後では随分思考の様式が多彩になったし、学問を面白いと感じられるようになったと思います(そういう本を選んで読んでいるからですが)。

さてこのカッコ書きのなか。そういう本を選ぶということはどういうことか、振り返りながら自分の獲得方法を考えようかと思います。

 

ちなみにコンセプトは、下記の100冊読み終わった時点で書いたブログに書かれています。こちらも気分とノリで書いてしまったので厳密でない表現を多く用いていますが、ただの日記なのでご寛恕いただきたい。

streptococcus.hatenablog.com

 

ちなみに現在読んだ本はもうすぐ1000冊のうち1/3ほどになります。今年度読んだ本は100冊弱ほどになりました。

本は冊数ではないというのはどういうことかも含めて、自分の本の選び方の基準を今気づける範囲内で書きだしていこうと思います。

 

ちなみに、「本をたくさん読んだことはないけど勉強していきたいことがある!」という方は私のブログなんて読まなくても千葉雅也氏の「勉強の哲学」という本がおすすめです。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

あくまでわたしはわたしの出会い方を書いていくだけなので、万人の勉強(の基礎・導入)の参考にはならないものと思ってください。

ちなみに私の立場としては、「読書」は「勉強」とはいわないと考えております。

最初に明らかにしておかないと各位からツッコミがきそうなので。

 

初期の出会いをどうするか

1.気になる分野がすでにある

自分にはすでに職があり、その職は専門業務に関する修練を常に必要とするものです。

手技や最新の論説を理解することも勿論大切でしょうけれど、わたしはそれとはまた別に「あなたはだれ?」「世界はどこからきた?」という2つの問いに応えうるものを探していました。ちなみにこの問いはヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」の冒頭です。

それは前者において哲学であり、宗教学であり、認知科学・心理学であり、後者においては経済学、経営学社会学、人類学、物理学・情報科学のような分野で自分の求めている答えが多く出ている印象をもちました。ので、その関連文献を漁ることからはじまります。

なお、認知科学はそこから「知覚」への興味へと延長し、デザイン・建築・芸術関連の書籍へと枝葉を出します。そして余談ですが、「初期の出会い」という用語は私の専門分野であるところの看護理論においてジョイス・トラベルビーが提唱した、「人間対人間の看護」からの流用です。

 

2.最初は出会い方がわからない

いやもう本当に暗中模索からはじまりました。初期に読んでいた本をざっとみると、学術系(総合本を含む)では

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子」☆

②シッダールタ・ムカジー「病の皇帝『がん』に挑む」★☆

ピーター・ドラッカー「マネジメント」(エッセンシャル版)★☆

④フェルディナンド・ソシュール「一般言語学講義:コンスタンタンのノート」

⑤ニコル・サリンジャーガルブレイス 現代経済入門」

ドナルド・ノーマン「誰のためのデザイン?」★

⑦モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学

スティーブン・ピンカー「暴力の人類史」☆

⑨ニール・スミス「ジェントリフィケーションと報復都市」

ウンベルト・エーコ,ジャン・クロード=カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」★

・・・のように「それ最初に読む本とちゃう」というツッコミが入りそうなものをたくさん読んでいます。実際今でも内容が理解できていない本はたくさんあると思います。

ちなみに★をつけたのは、門外漢でもまずまず楽しく読めるというものです。☆は総合本です。

興味のあるものをなんとなく手あたり次第に読んでいくと、時々「読むことすらできない」本が出てきます。「初期の出会い」として不適切すぎる場合には、ぺらぺらめくってギブアップしてみてもよいのではないかというのが現在の自分の見解です。

ちなみに物理的な「本(実体)との出会い」をどのようにセッティングしていたかは100冊読了記のブログ記事の中に書いてあります。本屋にいって気になるタイトル・著者のものを手にとったりしていました。

 

出会うべきものと出会うにはどうすればよいのか

1.本との出会いが本を呼ぶ

これは本当にそうです。1冊よい本と出会うと、必ずその中には引用文献があり、その引用文献には著者がいます。ただ引用といってもあまりに数が多いので、

①どのように引用されていたのか(批判的だったのか、賛同の引用だったのか)

②引用を含めて書かれた文章は自分にとって理解可能だったか

③いくつかの関連書籍を読んでみて、何度もその文献(またその著者)は引用元になっていたか

論文を読み慣れている人にはこのあたりはお伝えする必要はないでしょうが、なにせ私は成書でさえそれほど読んでいないのでこういうところから考える必要がありました。

例を挙げるならば、哲学の本を読むとき、「デカルト」「スピノザ」「カント」・・・といった名前は非常によく出てきますよね。彼らが執筆活動をしていた時代を考えれば明らかなのですが、被引用が多ければ多いほどやはりその領域においてのちに与えた影響は大きいのです。つまり「読んでおいて少なくとも損はしない」ということになります。

ちなみに私はこの慣例に則ってスピノザの「エチカ」を読みはじめ、1年以上経った今も読み終えることができずにおります。

 

2.概説本はどうか?

日本語で読むことさえ難しい本になればなるほど、「著者についての概説本」や「本そのものについての概説本」がたくさん出ています。勿論それを読むのもありですが、あくまでさる研究者(ひいては忠実な読者)が読解した内容なので、「孫引き」といっても差し支えないかもしれません。読めない本を読んでみるというのもそれはそれで楽しいものです。誤読の危険性については、まだ私からはっきりとその功罪を述べることができませんが。

最初から本人の訳書を読んで心が砕けるよりは、概説本から興味をもつというのもアリだなあというのが最近の自分の考えです。

 

出会うべきでない本について

先述言及した千葉雅也氏の「勉強の哲学」にもありますが、「次なる興味を与えない本」「読み返す価値のない本」というのが、自分の中では学術の本として失格だと思っています。つまり、まだ勉強していない人に対して安易な答えを与える本は、読む意味がないということです。

次なる考えを滾々と湧きあがらせるもの、問答させるもの、新たな問いを立てるものが次なる読書へと誘うわけです。

 

現実世界との交錯/小説とそのほか芸術作品について

たとえば、哲学の中には文学からの影響を受けたり、引用するものが多くあります。バルザックプルーストセリーヌシモーヌ・ヴェイユボードレールボードリヤールジャン・ジュネ・・・芸術作品では、画家(絵)や音楽家(音楽)など。市井や大衆を論じる哲学があるので当たり前なのですが、読書「だけ」していても楽しくはないと思います。実体験があるからこそ読書の価値が高まるのです。

そういう意味で、小説は(大衆小説にしても)価値があると自分は思っていて、息抜き以外にも大きな影響を与えてくれます。小説に関しては書店などもフェアをよくだしますし、新刊も大きく出ますから、質のいい入門用学術本を探すよりずっと簡単です。他人の読書感想も参考になるでしょう。

 

それから個人の感想ですが(むしろ最初から全編にわたって個人の感想でしかないのですが)、読書以外の体験は貴重です。体験の豊富さが読書に再び還元されるような感覚に近いです。そういうと純粋な哲学の徒が殴りかかってきそうですが、専門に学ぶのでなければそれでもよい(楽しいのがいちばん)と思っております。

自分の引き出しがどんどん増えて、多様な学術分野に所属する人たちについて思いをはせることができるようになるのはとても楽しいことです。

 

 

特になにかのために書いた文章ではないので締めの言葉もオチもまとめもないのですが、現状自分の本の渡り歩きはこんな感じで進んでおります。