毒素感傷文

大学生活とか、読書の感想とかその他とか

感傷的散文

真夜中なので感傷的になろうと思ったら夜が明けた。

 

 

長い長い夜が明けるように、この10年くらい、毎年わずかずつ体調がよくなってきた。

そうと書くくらい、自分と不調はいつも仲良しだった。

今は激しい精神の不調は鳴りを潜め、睡眠と食事とたまに募る苦しさだけが外形を留めている。

 

四季の移り変わりごとに、つらかった時期を思い出す。盛夏ならば、学校に通えずひとりで補講を受けたことや、食事が摂れずベッドに横になっていたことを。冬ならば、部屋に閉じこもって自傷するくらいしか眠る手段がなかったことを。

 

そういう、季節ごとの過去の記憶が随分薄くなって、最近はたと気づいた苦しみがふたつある。

 

ひとつは、人が死ぬことへの疲れ。

もうひとつは、産むことへの恐れ。

 

ひとつは、先の4年で味わってきたことだ。砂がこぼれ落ちるように弱っていく他人の体のことを、何度か記事に書いた。自分自身のグリーフケアをしたつもりが、できておらず、数ヶ月後になって苦しくなってなぜだか泣いてしまうことが何度かあった。

 

そしてもうひとつ。

 

隠してもいないし、聞かれもしないが、まるでタブーのようにそれはある。

大したことはなく、かたちとして知ることもなかったが、化学流産は私をひどく戸惑わせた。

いや、妊娠という事情が実際に降りかかって初めて気付く自分の狼狽といったほうがいいか。

だから妊娠が継続された場合にはこれが実行されただけのことだったのだ。わかった瞬間に身構えたことが、不意打ちを食らったように全部押し流されて、痛みだけが残ったのが。仕事を休んだという事実だけが残ったのが。悲しかったのだ。

 

仕事を続けるか辞めるか。家族の中では私の仕事は私のために続けられていることで、いつ辞めてもよかった。でも職場には曖昧にしか伝えていなかった。いずれにしても妊婦が働けるような職場ではなかったし、諸々の事情から復職もする手立てがなかったので辞職は自明だった。でも実際に腹を括るのは骨が折れた。

何より、結局妊娠を継続し得なかったということをひっそり抱えて職を辞することがつらかった。おおっぴらにいうことでもない。でも寿退社なんてものではなかった。悲しい気持ちはどこにもいくことができなかった。

 

就学をどうするか。

自分は職業人であるとともに兼業で大学生をやっていて、学部生から院生になろうと画策していた。妊娠出産をいつ挟んでもいいようにしていた。というか、いつ挟まっても不都合な時期というのはあるもので、まあ仕方ないものと思っていた。

逆算して考え直したことが、白紙になった。

 

家族をどうするか。

自分自身の体調がどう変わっていくのかわからない不安を抱えながら、一瞬ではあるけれど、家族の優しさにも触れた。そして、一瞬でそれも流れ去った(優しさがなくなったのではなく、元の日常に戻った)。悲しいけど仕方ないことだ。

 

誰だったか、Twitterでブログ記事を書いていた人がいた。確か私と同じくらいの時期のごく初期の流産をした人だったと思う。

その人も仕事をなんとか都合をつけてこなしていた。産科で化学流産(だったかどうかちょっと覚えていないのだけど)であることを告げられて、あなたのせいではないと言われて、その人は泣いていた。

 

私は泣かなかった。強いのではなく、泣く必要がなかったから。私は、それが自分のせいではないと勿論知っていた。身体的にもそこまでの負担ではないことも。泣いても現実が変わるわけではない、とどこか冷めた目で自分の痛みを突き放していた。

 

でも、気持ちの狼狽は2倍になったことを自覚しなければいけなかった。期待と不安に揺さぶられた直後に、悲しみとその秘匿を要求されて、完全に思考停止してしまった。そして私は考えることをやめた。

何より、思っていたより子宮収縮剤の副作用が強く、激痛でじっとしていることもできない夜を過ごしたからだ。あのブログの人は確か救急外来を受診していた。私はそれも必要ないことを知っていて、家族に痛みどめを買ってきてほしいと頼んだ。

その晩、明らかに通常とは異なる組織(どうやら出来損ないの胎盤のようだ)を流した。正直興味があったが(何しろ未熟な胎盤なんて見る機会はそうそうないので)、感染性廃棄物であることを思い出してすぐに捨てた。

 

悲しむべきではないのだと思う。

それはそう思う。だからこれは感傷だ。

 

いっときでも舞い上がってしまって、そしてすぐにその舞い上がりをぶち壊されて、右往左往したばかみたいな自分への慰めだ。

 

こんなの、もうあって欲しくないのだ。

 

そのときがくるまでなんの用意もできていなかったけど、少なくとも舞い上がることができるくらいには腹はくくっていたのだ。

なにもいなくなったことで、戸惑って泣きたくないんだ。

わかりきった不安に怯えるのは構わないけど、こんな無駄な感傷をいつまでも抱えているわけにはいかないから、

 

だからここに埋めさせてほしい。

結婚して半年の記

まだ籍を入れてからは半年に至らないが、同居からは1年近く経過しているので、良しとしよう。

 

自分は人に生活を合わせるのが苦手だ。

 

いきなり負の側面から書いてしまうことに若干の抵抗はある。結婚生活は総じて幸福だが、自分自身の特性から逃れることはできない。結婚して2週間経ったとき、舞い上がっていたかと言われればさほどでもなかった気がするが、当時抱えていた不安は結局その後も影響を及ぼした。想定以上にいいこともあった。今からそのことを書く。

 

 

他人と暮らすこと、生きることの負の側面について

他人の気配がすることへの負担

わかってはいたが、プライバシーというものが1Kで生活していたときよりとても少なくなってしまった。必ず家に人が帰ってくることに慣れなかった。自分は神経質な性格であることは自負していたが、物音や人の移動があるだけでもそちらに気がいってしまう。おかげでゆっくり眠れない・集中して勉強できないなど、負の影響がなかったわけではない。

 

生活リズムが違うことによる体への負担

自分は当時夜勤や12時間の勤務を含むとても不規則な仕事をしていたので、食事の時間・寝るタイミング・睡眠時間も毎日まちまちだった。そして、コントロールは比較的良好とはいえ、精神疾患のためにかれこれ10年以上食事と睡眠には困難を抱えていた。

伴侶も伴侶で仕事は多忙であり、帰宅時間はまちまちだった。

 

まず、生活リズムのずれが睡眠に影響した。

当時、最大2~2.5時間程度、入眠と起床時刻にずれがあった。

にも拘わらず、同じ部屋で狭い布団で寝ていたのは(後から改善したことを考えると)非常に不適切な選択だったようだ。住む場所の広さが許すなら、寂しいが、こういったパートナーをもつ人はベッドくらい分けるのが適切かもしれない。

睡眠に困難を抱える人間が生活リズムの異なる人間と生活することが甚だ困難を伴うことはよくよく学んだ。生活リズムが不規則な仕事に就いてからはずっと一人暮らしだったので、頭ではわかっていてもどれだけ体に負担になるかわかっていなかった。

もちろん眠れないし、朝もつらい。立ち仕事で体をよく使うので、朝に弱い自分にはたいそうな負担になった。

 

家事の負担についての精神的な負担

もともとひとり分の家事もろくにできないほどハードな仕事をしていたので、1.5人分ほどの家事をしなければならなくなったことがさらに生活に負担を与えた。

それは強制されたものではなかったが、自らの家事だけを(たとえば食事・洗濯など)自分の分だけすることは難しいので、結果として伴侶の分もやった。本当に疲れてできないときに責められることも家事を求められることも決してなかったけれど、日々の疲れというものは恐ろしいもので、ただでさえ仕事に負担を感じているところに家事がのしかかると心が狭くなってしまう。そんな自分にさえ腹が立った。

自分が感情労働をしているためか、帰宅時に疲れ切ってしまい虚脱していることもあったし、日々の怒りが爆発してしまうこともあった。

これは私が一方的にぶつけていたもので、つまり相手に感情をぶつけてしまうことによって自分が傷つくという性質のものだ。伴侶が怒りや苛立ちを私に対してぶつけないでくれることは、本当にありがたかった。

 

住む場所、仕事、ライフプランの変更を余儀なくされる

長期的な展望としては、まずキャリアプランが大きく変わってしまった。

自分がひとりのときは、遠い未来のことまで思い描かなければ「いま」の自分を奮い立たせることができなかった。糊口をしのぐというのは難しいもので、自分にはどうにも向いていないと思いながらも働いてきた身には、急に「今の仕事を(いつかは)やめる」「将来の設計を変える」というほぼ強制的な選択肢が降ってきたことはよかれあしかれ影響が大きかった。こういうことに直面するひとは、このご時世多いのだろうなと思う。

何度も何度も納得するまで伴侶と話し合ったし、具体的な問題点も解決策も出した。頭では合理的な選択ができたと思っても、気持ちがついていかないことはどうしてもあった。

伴侶の転勤があればついていくし(これは私が望んだことでもあるが)、そうなると転勤した地で職を得るのは少し時間がかかる。もしかしたら乳幼児を抱えているかもしれない。生活が一変してしまうことへの不安は今もなくならない。

 

ホームズの社会適応評価尺度(SRRS)において、「結婚」を50としたとき、「伴侶との死別」は100に位置づけられる。それほどに「結婚」は普遍的なストレスであることを、結婚してみて身をもって理解した。

 

 

他人と暮らすこと、生きることの正の側面について

わるいことを先に書いたのは、いいことのほうが多かったからだ。

でも、いいことは具体的でないことばかりで書きづらい。不満についてのほうが饒舌で、幸せなほうが寡黙になるとは皮肉なことである。

 

なんでも相談できる相手がいる

自分はあまり人に相談しないたちで、なおかつ愚痴も弱音も人に言うのがとても苦手だった。しかも交友関係がとても狭く、また職業への馴染みもさほどは感じられず、同僚と感情を共有することも難しかった。

半面、伴侶は(もちろん話がしやすいことも結婚には影響しているので)とても話しやすい。感情的になったりしないし、伴侶としての私を常に尊重して気を遣ってくれた。その配慮に慣れないこともあったが、私が葛藤や不安を言語化することを決して拒否しなかった。

 

家が広くなった

何を言っているんだと思われるかもしれないが、ワンルームや1Kという狭い間取りは生活空間の機能を分けることができない。家が広くなり、生活機能を分けることがくらしをよくすることに気が付いた。

キッチン・ダイニング・書斎(勉強する場所)・寝室が機能別になっていることはそれぞれの質を高めた。もちろん間仕切りがなくてもいい。

ワンルームだと、ダイニングと勉強する場所がほとんど同じだったり、ダイニングがベッドのすぐ隣になったりしてしまう。一人暮らしにしては自分はよく調理をするほうだったので、ワンルームの時期はかなりつらかった。1Kで一人暮らしをはじめたときにはキッチンの問題は改善されたが、勉強場所としての1Kはまだまだ集中しづらかった。読書や勉強(といっても教科書を読む程度)は、外の喫茶店で細切れに行うことが多かった。

 

それが、居住空間が分かれれば思ってもみない変化があった。

ダイニングでは伴侶がいれば話ができるし、ご飯を食べられる(当たり前だが)。食事を決まった場所でできるのは、食事そのものが楽しくなるきっかけになった。ひとりでもそもそと食べるのとは格が違った。

睡眠に関しては上述の問題を抱えてはいたものの、帰って寝るだけの生活からずいぶん変わった。もちろんこれに関しては、家で集中して仕事や勉強のできる伴侶の影響を受けたところも大きい。ある点で非常に尊敬できる人間と生活することは、自分自身の生活を見直すことにつながる。

 

スキンシップがあり、精神的に安定する

定量的な評価が難しいが、伴侶がそばにいることのひとつにスキンシップによるメリットが大きかった。もともとかなり情緒的に不安定で、抑うつ傾向にあり、将来への希望をもつ(これ自体にはストレスも伴ったが)ことには困難を抱えていた。

けれど、ほぼ毎日帰ってきて望んで一緒に起居する人間がいることは、何より精神の満足と安寧につながった。具体的に不安を言葉にできないときでも、離れずそばにだれかいてくれることにどれだけ感謝したかわからない。

 

社会的・経済的に安定する

これは外から見えるメリットでもあるのだが、外から見て「伴侶がいる」ことは、何かと便利だ。

ジェンダーによる嫌な思いをする人は男女とも多いとは思うが、幸いにして自分はさほどのストレスはなかった。姻族の付き合いは伴侶が極力遠ざけてくれたし、女性ばかりの職場で結婚そのもののストレスに理解を示してくれる先輩に恵まれた。自分は過去に家族を心配ばかりさせてきていたので、安心させることもできた。

もちろん経済の安定ばかりを求めて結婚したわけではないが、心身に無理をさせて働いていたのもまた事実なので、仕事を続けることも辞めることも私の一存に任せてくれた伴侶には頭が上がらない。経済的な優越を笠に着て、伴侶に仕事上や家事のうえでの強制をする小さな人間は多いものである。

もちろん仕事が変わることによるストレスも上記に述べたように大きなものだったが、その代わりに自分のやりたい勉強に没頭することを応援してもらえるのもありがたいことである。これは結婚そのものがもたらすものではないが、伴侶がいなかったら考えられなかったことだ。

 

しまりのない結論

これはただの日記なので結論なんてあったものではないのだが、半年(といっても同居1年くらいだが)経つといろいろなことがわかるものである。し、いろいろなことが変わるものである。

住む場所も、名前も、仕事も変わった。もう自分が自分を特徴づけるものは何もないくらいだ。免許証からパスポートから何から何まで変えた。

けれど、今も趣味や勉強したいことは特に変わらず続けている。そして、たったひとりで続けるより、見守ってくれる人がいるのは心強い。

 

生活の変化が怖かったけれど、その一部に、伴侶を頼ることへの不安があったのだろうと思う。経済的にも社会的にも依存せざるを得ない構造を作ることが、家庭における自分の発言権を失うことになるんじゃないかとか、今後のキャリアを大きく損なうことになるのではないかとか、どうしても気にせざるを得なかった。同居し始めたときにはぼんやりとしか見えなかった不安が、可視化して、そして今は少し軽減した。

 

今後に関しても問題は山積していて、顕在しているものもあればまだはっきりしないものもある。

ただ今いえることは、それらが乗り越えられそうだから結婚したということだ。

 

以上が面倒くさい惚気である。

向いていない(と思う)仕事をすること -ある看護師の一例

壮大な自己満足にお付き合いいただきたい。

 

私は看護師である。

先日、4年間務めた病院を退職した。体力的な限界も精神的な限界も、仕事の楽しさも苦しさも感じながら。家庭の事情があり、遠からず今の職場を辞する時期がくることは明白だったので、あとは自分の決断がいつになるかというだけのことだった。遠からずというのはたった1年ほどのことで、無理を重ねたとて、キャリアにも自身の健康にもその無理に見合うほどペイしないように思われた。したがって、健康と生活の安定を優先した。

 

4年間それなりに楽しく勤めたものの、やはり「あの環境」の「あの業務」は自分には必ずしも適していなかったと思う。

ではなにが激務を耐えさせたのか、そこで得たものはなんだったのか、何を展望として職場を去ることができるのか。

できたら、この仕事について「自分には向いていない」思う、入職間もない方々に。そして、葛藤を抱えつつこの職を目指そうとしている方に向けてお伝えしたい。そして、これから「向いていない」かもしれないことを生業にしようとしている人の力になれたら、これに勝る幸いはない。

 

 

 

 

私について

前もって、私自身の説明をさせていただきたい。

 

私は高校在学時、抑うつを呈する気分障害に陥った。そのため高校卒業後もすぐには進学せず、2年の間療養をしており、その2年目の最後に専門学校を受験した。

入学してからも上記の精神疾患をひきずっていたので、(看護学生の皆さまご存知の)過酷な実習に耐えられなくなったことがあり、自ら望んで1年の留年をして休養期間を設けている。このため、勤務開始時には24歳だった。

 

働きだしてからもほぼ常時の服薬と通院を要したが、勤務自体は(3年目に少し体調不良を自覚したのもあって2週間ほどの病休を取得した以外は)続けることができた。

 

そのほか、勤務外の個人的な興味として、臨床3年目に放送大学(心理・教育コース)の3年次に編入学し、卒業している。

 

なぜ看護師を職として選んだか 

端的にいうとやりたいことがなく、金もなく、リスクを負っていたからだ。

 

やりたいことは「なかった」のではなく、正確には「それを職につなげるまでの道のりがあまりにも遠く、間接的で、今の自分から手の届くものに思えなかった」ということだ。自分が生まれた時期はすでにバブル崩壊後で、中高生を育った時期はリーマンショックのあおりを受けて全国的に不況であった。就職後の労働環境もよくないことは大体知っていたし、日銭を稼ぐためにやりたいかどうかわからない仕事を星の数ほどある(実際にはそこまで多くない)学部学科や、企業の中から選ぶということができなかった。偏差値で行きたい学校を決めるよりも先に、その次にある就職活動というものがどうしても脳裏をよぎった。*1

 

そして結局は高校在学中に精神疾患を発症したため、就職は余計に難しくなった。

まして就学資金も余裕がなく(一家の大黒柱は定年退職したうえ病気で再雇用も困難になった)、自分への健康に不安をかかえた状態で勉学に刻苦して1年や2年浪人するなども考えにくかった。なぜならその先に、上記のような不安と不確定要素に対する忌避があったからだ。*2

 

なぜこの仕事に向いていないと判断したか

  1. そもそもすでにうつを経験している
  2. 組織行動が苦手
  3. 興味・志向が周囲の看護学生・看護師とたいていは大きく異なる
  4. 感情表出が得意ではない
  5. 一緒に働く人の意図が読めない

1.すでにうつを経験している

「看護師(または看護学生)」「うつ(あるいは抑うつ)」などで検索をかけると、一般の記事(つまり、いち看護学生の怨嗟の声)や学術記事(査読の有無にかかわらず看護学生の無力感に対する危機感がみてとれる検索結果が出てくる)が大量にヒットする。つまり就学そのものにも、医療や看護の独特の価値観にコミットできない人間が大量に出てくるリスクはある。

医療・臨床心理・介護福祉に関わる職種の中にも、(ほかの業種と同様に)メンタル系疾患を抱えた人が一定数いる。中には、自らの経験をもとにして医療やケアに携わりたいと志した人も、そのほかの要因(不況で賃金の確証のある仕事が少ないなど)を抱える人もいると思う。

でも、結果的には、医療従事者や医療機関にも精神疾患患者への根強いスティグマがあり、就職への途は厳しい。就学の途上も、上記のような理由で実習などに体力的・精神的な困難を抱える可能性はあったし、その後の就業においても不安はあった。

 

2.組織行動が苦手

これは書くまでもないと思うが、看護師はチームプレーを要求される。昨今、病院の理念としても看護教育の理念としても、また地域医療全体の理念としても、他職種との協働が叫ばれる。それ以上に、病棟という単位で病床の患者の維持・管理を行うにあたり看護師同士のコミュニケーションが前提となる。

対して自分は、小学校低学年のころから「集団行動が苦手なようです」と通信欄に書かれるほど組織での行動が苦手だった。

女性に生まれた以上、思春期がくると学校社会特有の感情的ななれ合いのようなものがあり、自分のように「目的志向の組織」にしか所属できない人間には、「その場にいるから仲良くする」という場の調停者的役割を担うことができなかった。*3

 

3.興味・志向について周囲の看護学生・看護師と差異がある

高校生以前から、文学・歴史・哲学・芸術(音楽・デザイン)に興味があった。

看護学生のころには各種看護理論の本は最低でも1冊くらいは通読していたが、1クラス40人の看護学校でそういう理論的な部分に興味をもつ人はほとんどいなかった。

 

その興味は抑うつを経て多少変化があったものの、むしろより広域になり、より深化した。特に、在職2年目からは「100冊読破」という計画をひとりで立ててひとりでやり始め、他分野の初学者向けの学術書や一般向けにそれを紐解いたものを読み始めた。

その類は、おおむね哲学(倫理も含むが分析哲学現象学等の細分化した分野も含まれる)・社会学(おもに都市社会学と教育社会学に興味をもった)・認知科学(とっつきやすく、門戸も広かったので認知心理を中心に)・心理学(統計に馴染みをもつためにやった)・経営(上記のように組織行動が苦手だったので、かえって人的資源のマネジメントに興味をもった)を中心としてその関連文献を読み漁った。*4

 

病棟勤務をはじめてからも、こういう興味の持ち方をしてそれを楽しむ人はあまりいなかったように思う。だから、休憩室で取り交わされる会話についても(テレビ番組、芸能人、他愛のないニュース)まったくついていけなかった。*5

 

4.感情表出が不得意

感情のコントロールに不安があったので、就職してすぐに近所のカウンセリングルームに駆け込んだ。ちなみに、それまでは精神科のフォローアップのみで、カウンセリングを受けたことはない(保険がきかず比較的高額であり、実家に経済的に依存した状態では遠慮があったため)。

そこで受けたMMPI(Minnesota Multiphasic Personality Inventory; ミネソタ多面人格目録)で臨床心理士の方から受けた解釈には見出しの件が含まれていた。

抑圧した感情をうまくガス抜きできない(そしてこれが性格的なものであり、大きな変更はおそらく難しい)ということは、これからも高いストレスに晒されたときには抑うつを悪化させるリスクがあるということだと理解した。*6

 

5.一緒に働く人の意図が読めない

どうにも自分には言語とか感情の解釈に少し人と違いがあるようだということを、就職してからより強く意識するようになった。どの程度他の人とずれがあるのかということについては客観的な尺度を用いていないのでなんともいえないが、指示された事物や求められる答えの方向性を具体的に導き出せないことがよくあった。

もっとも、これは「看護学生・新人看護師あるある」の話でもあると思うので、私だけが非常に強い不適合を示す理由にはならないと思う。

 

不適合をカバーするために行ったこと、自然とカバーできるようになったこと

毎年、年度末になるとその年の所感を書いている。委細は下記記事に記載されているが、重要な箇所はさして多くないので、一部引用という形をとりたい。

なお、2年目と3年目の記事には前年の記事を入れ子構造にして記載してあるので、元記事を読んでくださる方は迷路に入ってしまわないようご留意いただきたい。

 

1年目。組織で働くということ

社会人生活記 -いちねんめ編 - 毒素感傷文

過密で不規則なスケジュールや人間同士の煩雑なコミュニケーションについていけずにドロップアウトする人が後を絶たない。それをドロップアウト、と呼ぶかどうかは別の話だ。臨床にいることだけが全てではないし、今の臨床にそぐわなかったら専門職失格かといえばまったくそうでもない。

 

 

おしごとこわい - 毒素感傷文

自分がぺーぺーの新人であることに自覚的である必要に迫られます。今の自分にどれくらいの能力があってどこからは人の手を借りなければならないか、なんていう話を経時的にしていかなければならないわけで。

 

そんな中で、ごく自然になされているのが実は『スタッフ間の能力調整』だと思います。みんなはっきり言わないので実にわかりにくいです。私みたいな言葉にしないと理解しえない人間に雰囲気で理解させるのほんとやめて欲しい。

つまりスタッフのパーソナリティを理解してその仕事の密度・精度をある程度お互い共有しておかなければならないようです。得意・不得意をなんとなく理解していないと、本人のもてる最大の能力は発揮できないでしょうから。

別に私の職に限った話ではなくどの組織でもそうだと思うのですが、あまりはっきり明示されている例を見ません。そういうことは『当たり前』の『常識』として扱われるのでしょうか。だとしたらとんだ常識ですね。

これが1年目の記事で、今回自分が述べた内容に最も適した部分の抜粋である。

年度の途中には看護の組織論や臨床における自己の育て方についても考えていたらしい。この頃に、フランスの哲学者モーリスメルロ=ポンティ著「知覚の現象学」や奥川幸子「身体知と言語」を読み、認知全般に関わる哲学や科学等の一般人向け学術書を読み始めた(本のチョイスがまだうまくなかったので、この頃は哲学でよく挫折した)。

常に悩んだり行き詰ったりしていますし常にそういった類の本を1冊は読み止しにしています。

本来この職種の定型的な新人は『いま、まさに』必要とされる知識に常に飢えていなければならないはずで、私も勿論ある程度はそうです。けれどそこより先に逃れ得ぬ不安というか根源的な問題への疑問があり、それに応えてくれるのはいつも理論とか哲学の本でした。実際的な知識はもちろん明日役に立つかも知れないけど、10年先の自分を育てているのは確実にそれだけではないのですよね。(中略)

でも、ただ毎日積み重ねるだけでも志向性のない茫漠とした経験を積むだけになるので、それはいやだなあと思ってね。

どうやら自分はこの頃から、看護で臨床をするにあたって臨床の実用的知識だけでは自分は生きてはいけない(仕事をし続けるのはつらい)というのを肌身で感じていたらしく、看護を取り巻く環境に対する知識や他の視点を求めていたらしい。そうしてメタ的な視点に自らをおくことで、日々の慣れない仕事に少しずつ適応しようとしていた。

 

一応転職についても検討自体は常にしていた

考えることがなくなり暇になると、他の職業について思いを巡らせた。もちろん同じ業種での転職も考えた。それは、実際に手をつけるというよりは「可能性を考える」ことであった。自分の方向性を常に確認する必要があった、なぜなら自分の臨床の規範となる人はいれど、キャリア全般の指標となる人はいなかったからである。*7

先の「おしごと怖い」にその内容が少し書かれている。長めの引用になるがご容赦いただきたい。

『臨床(それもたったひとつの病院、病棟の中の)』にこだわり続けることに何ほどの意味があるのかと疑問に思うこともよくあります。(中略)

私は転職がそれほどいいことだとも悪いことだとも思っていません。ケースバイケースという安易な言葉に逃げてもよいのであれば、その通りだと感じます。

 

看護において転職は2パターンあります。*8

①そもそも職業・働き方を変えてしまう(つまり臨床を離れる)

②病院を変える(今回は施設・訪看勤務なども含める)

の2つですが、意外と私にとって②の方がハードルが高いように感じます。

 

自分が本当に逃げたかったものからは逃げられるか?

新天地は自分にとって前回よりもそれが改善されているか?

学ぶべきことは本当に学び終わっていたか?

などなど、悩むことが尽きないからです。 とくに3つめ、学ぶべきことが本当に学び終わっていたかどうかにはとかく執着があります。

 

臨床がだめだった、向いていなかった、といって①に思いきれる人は、ある意味大胆で他の生き方・仕事に自信が持てる、あるいはそれを達成するに十分な能力を有しておられる方だと思います。尊敬します。逃げの結果であったとしても、少なくとも臨床よりはほかの選択肢の方がマシだと思えるその決断力に敬服します。

私には今のところ、今の病院にしがみついてなんとか新人教育を乗り越えるくらいの余力しかありません。それは少なくとも最低限’現状の教育システムで育っていけるだけの能力を有していた’というだけに過ぎず、適正があるとかないとかいう話ではないのです。ただ、『可能だったのでやっている』というそれだけで。

そんな思考のもとに日々を過ごしているので、同期や友人や先輩を見ていると、何年自分は臨床で学び続けるだろうかと思うのです。

 

2年目。看取ることへのエネルギー

そして2年目に、自分は人の死を多く経験することになった。安らかでなく、どちらかといえば悔いの残るケアの経験ばかりが重なって、随分消耗したらしい。

社会人生活記 -にねんめ編 - 毒素感傷文

ときになにをもってしても「なおす」ことのできない症状に出会うとき、その症状に侵されている個体・肉体・実存と対峙するとき、自分はえもいわれぬ無力を噛み締める。1年目でなにかできるようになるというのはどだい間違っている、と1年目の終わりに書いたが、2年目にはより『無力さ』の正体が明らかになってきたような感じがある。

今まで噛んでいた砂の味を自覚するようなものだ。実にまずい。

人の死という現象を理解するため、かどうかはわからないが、1年目にも増してたくさん本を読んだ。金銭的に余裕ができたのもあり、当初は「1ヶ月に1万円分までならなんでも(当時は雑誌や看護の専門書など)購入してもよい」という決まりを自分に与えていた。とはいえ、大量の本を読むようになったので、結果的にはほとんどが図書館からの借り物になった。

 

職場では、プライマリナース(1人の患者を最初から最後まで担当するスタッフ)を務めることになり、責任は重くなった。裁量権は大きくなったものの、まだ半人前のまま仕事をするのは負担だった。なにより、人がたくさん亡くなるということはそこまでの生命に向き合うということであったため、感情的な消耗が激しかった。行きつけの飲み屋で、客が誰もいなくなった夜更けに泣いたこともあった(同僚に泣きつくわけではないところがいかにもぼっちらしい所業だ)。

 

3年目。小さく折れること、撓むこと

社会人生活記 -さんねんめ編 - 毒素感傷文

うつで仕事を休んでこんなに喜んでいるのは自分くらいのものかもしれないが、うつ状態の経験者にとっては「治療を続けながら以前と同様の社会生活を継続することができる」のはほんとうに快挙である。

 

「休めば治る」を自覚するのは難しい。「休んでも根本は治らない(かもしれない)」ときの自覚はもっと難しい。
上記に書いた「短い休み」は、実はかなり高度な「だらけスキル」だと思ってほしい。通常の勤勉な人は、勤勉であればあるほど、こういった休み方はしづらいと思う。学校生活や勤労において、この程度で復調できるほど短時間で生活を整えるのも、内服を調節するのも慣れた人間でないと難しいと思う。

 

だから、休みは少なくとも1か月から数か月単位で取るものと思ってもらうとよい。

 

「自分自身」を引き受けるのは本当に骨が折れる。こんな自分は投げ捨ててやりたい、と何度思ったかわからない。しかし、自分の知覚をもって自分自身を生きることができるのはやはり自分しかいないのである。

先に書いたように、自分は2週間ほど仕事を休んで服薬の調整をした。不眠や食欲の減退など自分の不調の指標となる症状が出たとき、もう通常の休養では戻らない可能性がある・このまま仕事を続けるのが難しいと判断するのは自分自身でも困難である。無理をすることもできたのかもしれないが、得策ではないように思えたので、上司と相談して少し休みをもらった。

引用にもあるように、こういう調整は「人生の挫折」を味わったことのない人には難しいような気がする。依然として精神疾患へのスティグマはあるし、なによりも内面化された精神的な負担への恐怖や実際に休んだのちの復帰などを考えると、足踏みしてしまう人が多いのも頷ける。

 

これからのこと

ここまでで、「組織行動への注力」「興味・志向への注力」「うつのコントロールの(ある程度の)達成」を書いてきた。

そして、退職のときは思ったより早くやってきた。それも、自分が特に望んではいなかったかたちで。

 

ライフステージの進行というのは、常にこれら仕事への葛藤と隣り合わせである。苦労してこの葛藤を解決してきた身としては手放しに退職を喜べなかった部分がある(だからこそこうしてめちゃくちゃ長い記事を書いているのだが)。

 

これからのことはTwitterに小出しにしているので、ここまで読んでくださった方にはまことに恐縮であるが、省きたい。有言実行は今の世の中では評価されることかもしれないが、自分はまだまとまりをもって志向性をもつことができないアイデアを「なまのまま」の形で出すのがとても苦手だ。今現在進行していることにはそれなりに意味があるけれども。

 

最後になるけれども、自分が4年間を働きとおしたのも、その間に自分の興味により深くのめりこむきっかけになったのも、TwitterでフォローしていたりRTで回ってきたブログを読んだりして得た発奮によるものが非常に大きい。ぼっちの自分が「仕事がつらい!」といえば近所のツイッタラーが実際に会って構ってくれたり(これにはもちろんリスクがあるので必ずしも推奨はされないが、昔と違って現実と紐づく情報が多くなったのでずいぶんハードルもリスクも下がったと思う)、あれに興味があるといえば近い分野や的確な成書のおすすめを教えてくれたりした。

 

向いていない仕事をやるということは、「そもそもやる必要があるかどうか」「健康状態がそれに見合うかどうか」という要素と天秤にかけたうえで、「やりたければやれる」。

私はいまもむかしも、精神疾患をもちながら看護師として生きていることを基準にしている。こんな自分でも人様の役に立てることがあるとすれば、このようにその方法を公開するくらいのことである。

 

これまでお付き合いいただいた方々も、これから出会う方々も、どうかよろしくお願いします。

*1:※なぜ企業就職が前提であったかというと、実家の都合で学部卒就職が前提だったからだ。自分の興味や能力の偏りの都合で「文系」所属であったことも影響しているが。

*2:看護学校(専門学校)は公立であると地方自治体から助成金が出ていることが多く、そのため学費は非常に安い。

*3:働いてみてから感じたが、現職看護師は意外と「組織行動が得意」というわけでもない人が散見される。今ではむしろ、そういう人も含めて組織行動にまとめあげてしまうのが病棟という看護単位であるのだと思っている。

*4:この記事を書いている現在では、この100冊読破は6周目に突入しており、511冊を数えている。

*5:もしかしたらこういうことに興味をもっていた人はいたのかもしれないが、たぶんそういう人はのちに修士課程に進んだりしていたのだろう。

*6:その後臨床心理士さんからはソマティック・サイコセラピーを勧められたが、結局は仕事が忙しくその後足が遠のいてしまった。もしかしたら、仕事上の苦悩を聞いてもらうだけでもよかったのかもしれないが、当時の自分はその苦悩を自覚することでさえ負担になるほど職務へのプレッシャーを感じていた

*7:どの本・ブログだったか忘れたが、「キャリアの師をもて」みたいな記載があった。いかにも経営っぽい。

*8:比較的早い年月での転職の場合を考慮しての分類です

結婚関連予定調整について

http://streptococcus.hatenablog.com/entry/2018/12/17/163610

前回記事では費用のみでいっぱいになってしまったので、今回は1年間の予定調整で大変だった部分を抜き出して書きます。

 

自分と伴侶はほとんど予定が合わない生活をしており、帰宅しても顔を合わせる時間が極端に少ないため、意思決定に難渋したりスケジュールのすり合わせが大変だと感じました。勤務体系がまったく異なるため、お互いに休日かつ余暇時間として過ごせる日は、ひと月のうち半日あればいいほうです。こういうカップルも世にはあろうかと思いますので、月ごとに実際にあった行事について、使った時間の実際とその流れを思い返してメモ書きしていきます。

 

住居選定について:外出はトータル1日程度、空き時間で個別に検討

知った土地から知った土地への転居でしたので、実際の不動産仲介業者へ足を運んだ回数は2回でした。いずれも私の夜勤明けに2-3時間程度です。年末年始に1度、5月に1度で、5月に関しては伴侶が午前休をとっていました。

2回目にも同じ建物の別室を紹介されたので、やはり良かろうということになり決定しました。書面で比較できるため、情報は持ち帰ってそれぞれの居住者がメリットデメリットや金銭面の比較をしたので、意思決定にかけた総時間は長いです。生活リズムや実生活の想定は、出来うる範囲で会話ログにより構成していきました。

 

親族との顔合わせについて:計5回

タイミングの調整が非常に大変でした。

お互いの両親の顔も知らない状態から始めたので、我が両親と自分たち・伴侶母と自分たち・伴侶父と自分たち・伴侶父と自分たちと我が両親・伴侶母と自分たちと我が両親という5回の顔合わせが必要でした。これがいわば結納がわりです(結納はしなかったので)。

 

結婚式選定・打ち合わせ・前撮りその他:伴侶との行動は計5-6回

  • 挙式相談(私だけ)

1-2時間ほど。相談カウンターにひょこっと行って、そのまま式の規模や参加者、雰囲気、前もって特別な配慮が必要な相談内容についてお話。その場で式場を探していただき、選んだ2件を見学に行くことになりました。

なおこの時点では日付未定、参加者も概算でした。相談の時点で伴侶と行くなら、ここから予定調整が必要です。

 

  • 式場巡り(私だけ)

自分の休暇に手配していただいた午前と午後に分けて、ひとつずつ巡ります。挙式・披露宴の会場・場合によっては試食、それから伝えていた挙式の規模によりざっくりと予算を出してもらいます。2-3時間かかるので、頑張っても1日3件が限度だと思います。

ちなみにこれも伴侶といくなら調整が必要ですし、場合によっては複数回、遠方まで行かれる方もいらっしゃるようです。

そしてここで持ち帰った情報を元に伴侶と時間があるときに検討します。また、親族への日付確認も始めます。挙式スタイルを再考する必要があるかどうかや、前撮りの希望確認やスケジュール的に可能かどうかなどもこのときに見積書を元に進めます。家庭での時間もそれなりに要しました。(とはいえ複数回にわたって相談して、トータル10時間も使っていないような気がします)

結局、探していただいた式場の2件目に定めることができました。

 

  • 式場打ち合わせ1回目(私だけ)

私だけで行動しすぎだろうという意見があるかもしれませんが、その通りです。この間にも親族同士の顔合わせをしていたので、それを調整するだけで手一杯でした。

というわけで、式場打ち合わせ第1回では前回作っていただいた予算と伴侶との相談内容を元に、衣装屋さん候補(プランの中に組み込まれた3件を提示されました)・前撮りプランに加えて当日の大まかな流れを作ります。オプショナルなもので、伴侶と考えておいてここは必要だとか必要ないといった意見を反映させ、より正確な見積書を出してもらいます。このときに確か着手金5万円をお支払いしたと思います。

 

この日持ち帰った情報を元に伴侶と衣装屋さんの目星をつけます。因みに我が家は、「大体どこもラインナップは似たり寄ったりなので、家から近いところにしよう」とかいう杜撰な理由で決めました。行って様子がよければそのまま決定するつもりで訪問することにします。

衣装屋選び、衣装合わせは場合により本当に回数を重ねるようです…(義理の弟夫婦が6-7回選びに行ったと聞いてたまげました)衣装にこだわりある方はここが時間をかけるポイントになるので注意が必要です。また、提携している衣装屋さん以外から持ち込みをする場合には別料金が発生することもあります。費用面は低くおさえたい、選択肢は狭い方が選びやすいなどの理由があれば前もって理想を考えておくと話が早いでしょう。

 

  • 衣装屋さん選び・そのまま衣装(白無垢・紋付袴)合わせ+式場打ち合わせ第2回(伴侶と)

伴侶お出ましです。午前と午後にわけて、目当ての衣装屋さんでプランについて詳細を相談しそのまま衣装屋さんは決定しました。

  1. 日程と前撮りの内容聞き取り
  2. 親族への貸し衣裳
  3. 紋付袴・白無垢選定・決定
  4. 前撮り用の色打掛を見る(時間がなかったので決定はせず)
  5. 契約書作成

衣装屋さんでの料金は挙式のプランに含まれているので、支払いは発生しません。ただし、衣装そのものへの保険をかけたりするので、結果的に当日用の保険3万円分ほどをかけました(そそっかしいので衣装を汚すと大変です…)。

親族については、それぞれにカタログを送って、持ち込みをするのか衣装を借りるかを選んでもらいます(親族衣装は勿論持ち込み可能です)。

 

午後からは2人で打ち合わせに足を運び、細かい調整をします。

私一人では考慮しかねていた、引き出物選び・招待状デザイン・参加者の最終決定・神社挙式から会食までのスケジュール確認など。

ここではまだ予算が最終決定していないので、支払いはしていません。

持ち帰りの決定事項は引き出物・引き菓子で、何故か選ぶのに少し時間がかかりました(弟夫婦の結婚式とのバランスがあったので)。

 

  • 衣装合わせ2回目(伴侶と)

前撮り衣装を選びます。まずドレスとタキシードからで、希望を元に3-4着選んでもらいます(色、ドレスのタイプ、全体の雰囲気など)。タキシードも同様にして、とりあえず試着。タキシードは2着、ドレスは3着ほど試着してさっさと決めてしまいました。白いものなんてあんまり変わりはないという強引な理由と、あれも違うこれも違うといったところで結局微々たる差に時間をかける必要はないと思ったので。ここも選ぶ人は時間のかけどころですし、お色直しをする方はさらに時間がかかります。

それから、衣装のインナーを揃える必要があるので、インナーを用意します(各自買いに行く)。

 

  • 式場打ち合わせ第3回(私だけ)

招待状の宛名書きを依頼していたので、受け取りに行きます。進捗報告と、親族の衣装希望をここで少し伝えておきます。

テーブル装花、前撮りの進行、写真屋さんとのお話もこのときに進めました。最終決定はプランナーさんに伝えればokなので、ほぼ話を聞くだけです。

また、美容打ち合わせ(多分ここでしたと思うのですが)は自分のみなので、この後美容室に行って親族の希望や、自分のセットの希望を伝えます。あとここで毛剃りと顔面肩周りのエステが2回くらい入ることになりました…(自分の空き時間に2回行きました、夜勤明けとかでへとへとでしたけど)

この後、招待状の中身を作成して糊付け、切手を貼って郵送します。

 

  • 衣装合わせ3回目最終調整(伴侶と)

前回の衣装合わせで採寸上調整が必要だった部分の確認をし、契約書の調印をします。

 

  • 指輪選び(伴侶と)

前もっていくつか候補の店を挙げておきました。この過程に時間がかかりましたが、店頭に行って候補を見ていると比較的すんなり決まったかと思います。悩んだり試着していた時間は1時間ほどで、残り30分でサイズ合わせをして購入決定。これも悩む人は悩むところであると思います。自分たちも、店自体を選ぶにはそれなりの時間をかけました。

 

  • 前撮り(伴侶込み そりゃそうだ)・写真選び・第4回打ち合わせ

1日かけて前撮りです。朝から化粧と着付けをしてもらって神社で撮影し、すぐ着替えてドレスで撮影。そのまま当日の打ち合わせもします。具体的な式進行や引き出物引き菓子の最終決定、親族のメイク・ヘアメイク・貸衣装のやりとりもここでしたような気がします。朝から出向いて、夕方16時くらいまでご飯なしで挑んだような…

 

  • 入籍(伴侶と)

私は夜勤明け、伴侶は仕事の合間に出しました。

ものすごく…隙間時間活用です…

 

  • 結婚式、新婚旅行

というわけで当日です。こちらも朝早くから出向いて昼間会食、16時くらいに解散です。

前もってしたことといえば、会場に作るウェルカムボードのような前撮り写真を印刷したことくらいでしょうか。当日はほぼ手ぶらくらいで行けるようにしました。

 

 

まとめ

…というわけで、自分だけで調整した部分を含めると半年で12回、2人での行動も6回ほど(いずれもほぼ半日以上)日付を合わせる必要がありました。これに加えて親族顔合わせの回数が多かったので、スケジュール管理と、1人でできることは空き時間で済ませるのが重要だったように思います。

それからほかのカップルを見ていて思ったことは、2人でその場でしなければならない意思決定はそう多くはないということです。

なので、必要な情報をメモしたり資料を持ち帰ることで予定のすり合わせを極力少なく済ませたことも影響しているとは思います。

初回に書いた通り、予定が合う日はほとんどなかったので、伴侶に有給をとってもらったり私が休み希望を出したりと前もってスケジュール確認が必要です。

何月までに何を決めておく必要があるか、どのようなイベントがその月にあるのかはざっくり把握しておいた方がよいでしょう。

 

 

というわけで、忙しかった挙式予定管理編はこれで終了です。挙式から随分日付が経ってしまったのでうろ覚えなところもありますが、カレンダーを振り返っているのでほぼ正確な情報です。忙しかった…(トオイメ)

前回よりニッチな内容ですが、忙しい方々の参考になれば幸いです。

100冊読破 6周目(1-10)

1.メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える(佐藤岳詩)

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

出たときからずっと読みたいなとは思っていましたがやっとここまでたどり着きました。哲学は興味がありましたが、いわゆる倫理のまわりというのは自分自身の倫理観が未熟なこともあって意外と最近になるまで深く触れることができずにきました。いい本に出会えたなと思います。こういうところからも始めたい。

そもそもなぜよいことをしなければならないか?よいこととはなにか?よいことをすることは信念から動機づけられるか? という問いは自分は存在論から両論見つつやったことはなかったなと思いました。こと私的な場や仕事のような道具的思考に陥りがちな場所ではこういう考えは持ちにくいです。本書で特に推せることは、カントやデカルトスピノザアリストテレスといった古代から近代までの哲学者による倫理をおさらいはするけれども必須の知識とはしないことです。必ず解説が入りますから、安心して読めます。

入門・医療倫理のなかにメタ倫理に関する関連箇所があるようなので、折角やしもうちょっと具体的な問題とその見方と解決方法を見てみてもいいかなと思いました。あと自分自身の読書があまり倫理関連の理論は追えていないことを痛感しました、繰り返しになりますが本書は言葉がやさしいので(註もかなりいい)、おすすめです。

 

2.バッタを倒しにアフリカへ(前野ウルド浩太郎)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

熱量がすごい。とにかくすごい。

著者は、蝗害に苦しむモーリタニアに博士課程以降単身で乗り込んだ昆虫研究者です。新書で出ていますから手に取りやすいうえに、書きくちが非常に軽妙です。しかしながら研究者としてぶち当たる壁や言語・文化の壁など折々に異邦人としての要素もあって、緩急はない(ただただジェットコースターのように)くらい畳み掛けてきます。面白いです。おすすめです。

 

特に似ているなあと思った本はカルロス・マグダレナ「植物たちの救世主」です。彼も実践者でありながら研究をしていますが、この本も研究から実践(蝗害の観測と対処まで)が場合によってはひとりの人間、組織によって説明されます。

 

と、固いことを書いてしまいましたが、「目の前にいる大量のバッタは全部わたしのものだ」「バッタが蹂躙されるシーンも喉から手が出るほど見てみたい」「怯えるバッタも愛おしい」などのパワーワードが次々と飛び出す冒険譚です、是非お手にとっていただければ幸いです(新書なので安いですし)

 

3.数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する(岡崎裕史)

数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する (光文社新書)

数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する (光文社新書)

 

勁草書房から出ている「ダメな統計学(アレックス・ラインハート著)」をもっと基礎から、そもそもデータを集めるとはどういうことか?なんのために集めるのか?というところから始めるような本です。「文系」出身でデータが苦手な社会人向けといえばそう。ところどころネタが仕込まれていて面白いです(リア充の行動を暴くくだりは…いいのか…?)新書で読みやすい。Twitterのフォロイー氏から情報を得て読みました。

 

4.辞書を編む(飯間浩明

辞書を編む (光文社新書)

辞書を編む (光文社新書)

 

こちらもフォロイー氏おすすめを経て手に取りました。

三浦しをんの小説「舟を編む」のパロディタイトルですね。こちらは小説ではなく、本物の辞書編纂者(三省堂第6版)による本です。

編纂者の地道な作業については、私は少しだけ耳にしたことがあったのですが、この本の中にたっぷり書かれています。新しい用法をもつ語が新しい辞書に載るべきか、載らざるべきか、載るならばいかなる記述によって説明されるべきか。

自分は小学生以降ずっと国語が好きで、辞書もよくお世話になったのですが、そういえば「小・中学生向け」の辞書は使ったことがありません。この熱意をみていると、実際こういう辞書とほかの辞書の見比べができても楽しいかなあと思うなどしました。新書ですから読みやすいです。

 

5.ヴィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか(入不二基義

このシリーズは毎回とても面白く読めるので、言語哲学方面ということでヴィトゲンシュタインを手に取りました。とはいえ(例の)難解な論理の集合から発展させた「論理哲学論考」のみならず、その著作と人物を、ヴィトゲンシュタインの提示する独我論に沿って説明します。

「論考」を光文社古典新訳で読んで以降、どうにも難しく感じていたのですが、こういう紐解きかたがあることに感銘を受けましたしほ その他の著作にもやっと重い腰を上げる気になりました。あと、もしかしたら論考に関していえば野矢茂樹訳(岩波)を読むべきだったかもしれません。

 

6.デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか(森本浩一)

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

 

シリーズ・哲学のエッセンス 連続です。

言語哲学や知覚の哲学を読んでいるとなにかと出てくる分析哲学の大家・デイヴィドソンについて知りたくて読んでみました。ほぼ言語哲学の観点からのみの考察となりますから、片手落ちではあるのかもしれません。もっとも、このシリーズには概してそういうところがありますが、それも含んでも導入を簡単にすることのほうが大事というコンセプトなので間違ってはいません。

 

表題にもなっている「言語」というのは、それに表現されるような共通のコミュニケーション手段ー発話、文字、記号といったものですが、そんな概念が共通のものとして存在するかどうかといった問いに帰着します。そして答えはNOで、共通のものは存在せず、ばらばらにあるコミュニケーションが言語を定義しているに過ぎないというものでした。

その他の重要な業績については私はほとんど知らないんですが、分析哲学を理解するうえで確実に避けては通れない人であろうことが予想されるので追い追い読んでいきたいです。

 

7.インターカルチュラル・コミュニケーションの理論と実践(三牧陽子 村岡貴子 他)

インターカルチュラルコミュニケーションの理論と実践

インターカルチュラルコミュニケーションの理論と実践

 

とてもおすすめなんですけど、内容の充実度とともに値段が高いので安易なおすすめがしづらくてつらい。

談話分析を含めてさまざまな異文化間コミュニケーション分析を行っている本です、博論の焼き直しがしばしば紛れています(紛れるっていうな)というか各々の博論のまとめに近いです。自分が日々気にしているコミュニケーションのバックグラウンドについて、いろんなパターンが示されていて面白かったです。留学生-日本人の間(日本語ベースのケースと外国語ベースで日本人が留学生の例もあった)のコミュニケーションの非流暢なパターンにはじまり、夫婦間の問題解決に対する意識の差がコミュニケーションにおけるインポライトネスをもたらす(ゴフマンのface理論を背景に)場面の分析とかもありました… なんだこれ耳が痛すぎる(そういう問題ではない

 

自分は多分コミュニケーションを今後の研究課題としていくであろうと思うのですが、哲学者アルフォンソ・リンギスの言を思い出します。

コミュニケーションとは、メッセージを、バックグラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから、引き出すことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱に対する闘いである。ーアルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』

 

8.言語心理学入門(芳賀純)

言語心理学入門 (有斐閣双書)

言語心理学入門 (有斐閣双書)

 

言語と心理の両方に跨っているといえる本はこれでようやく3冊めだと思う。古い本ですけど、文章心理学や国語教育からの発展の歴史を知れるという意味でも面白いなと思えました。

安原和也「ことばの認知プロセス」トレヴァー・ハーレイ「心理言語学を語る」に続きです。ピアジェチョムスキーの操作と変換の類似性とかちょっと面白い。あと研究内容が日本人対象なのもよい。コミュニケーションの前提になる、ものごとに対する直観の問題とか文脈の問題は今後ますます(異言語の間だけでなく、同じ母語話者においても所属する社会集団や年代によって)生じてくるように思われるのでもっと色々読みたい分野のひとつです。

 

9.言語はなぜ哲学の問題になるのか(イアン・ハッキング

言語はなぜ哲学の問題になるのか

言語はなぜ哲学の問題になるのか

 

これ面白かったです!いや内容わかるかって言われたら8割わからんかった気がします、けど知ってる2割が心から楽しめるように書かれていてびっくりしました。世界思想社言語哲学を学ぶ人のために」とかちょっと読んだことがあるのですけど、「言語哲学に至る道のり」を追ったことはそういえばなかったなと思いました(触れた本はちらほらある

観念、意味、文の全盛期(ちょっと行為論入る)の順に言語哲学がどのように捉えられたり発展したりしていたのを書くんですけど、バークリ・ヒューム・カントで「知識」/悟性と説明されてきたものがラッセル(の一部)とフレーゲで意味の体系に置き換えられることの説明があったのが個人的には一番の収穫でした。哲学の全体の流れをやったことがないとこういうのわからなくてそれぞれの人の言うことをそれぞれに聞いてなるほどわからんわとなるので。いや解説本読んでもなるほどわからんのですけど。

 

で、「なぜ言語は哲学の問題になるのか」に対する著者の答えは「一貫しない」。一貫しないのは、それぞれ主張や語の定義が異なるというような些細な違いではなくて、時代の変遷と共に言語によって捉えられる現象や観察される内容が次々に変わってきて、その度に哲学もアップデートされてきた(アップデートを要求されてきた)から、というもの。結論はシンプルなんですけど。

最近になって、素人が哲学の(解説本ではなく)原著者の訳本をシコシコ読むことが必ずしもいいことだとは思えなくなってきてなんかあまり楽しくないというか他のもっと形而下のことに注力すべきみたいな考えになっていたんですけど、ぼちぼちこれを読んでいてやっぱり考えを改めました、元の本を読むのも必要だなと。読んだことのある著者の概念は「あーそうか、『純理』になんとなく通底しているものか」みたいな受け止め方ができるのに、読んでいない本についてはその著者の基本的なスタイルからしてそもそも覚えてないし何もわからない、通約不可能性にぶち当たりましたかね状態になる。何度も感じてはきたわけですが。

勿論学問としてやるなら訳本どころか原著読んで当たり前なんですけど、お楽しみで哲学を理解してみたいとか考えについて知りたいという欲求に対して、「哲学用語図鑑」とか「教養としての哲学」みたいなのではあまり面白くないというか。単語や概念の解説では、なんで議論がそこに至ったのかよくわからないんですよね。なんの前提も共有していないド素人が読んでわかるものでもないんですけど概略本と解説本と訳本を行ったり来たりするのは楽しいし、ただの用語図鑑として教養としての哲学(知ってるだけ)をある程度解釈したいなら訳本くらいまではいるなと思った次第です。

 

10.言語と認知ー心的実在としての言語(ノーム・チョムスキー

言語と認知―心的実在としての言語

言語と認知―心的実在としての言語

 

世界思想社生成文法を学ぶ人のために」が方法論であるとしたら、こちらはその生成文法を必要とする心理的構造についての話です。生成文法の仕組みについては他の本をあたらないとほぼ書いていません。

無限に文章を構成したり、文法的誤りを検知できる能力は発達の過程で獲得され、それを獲得する装置はもともと人に備わっているというのがチョムスキーの理論なのでその前後の議論について解説が加えられます。講義録なので言葉は平易ですが、相変わらず着想に至るまでが難しいのでもう少し統語論全体の知識が必要である気がします…読めたとは言えません。

放送大学に興味をお持ちの方へ、社会人編入・全科卒業生からのまとめ

無事卒業できたので、珍しく情報提供メインのブログ記事を打ちます。

自分がやってみての所感も書きますが、一般的に入学を考慮する社会人の方が気になる点を入念に記載する方針です。

 

そして一番最初にお伝えしておくべきことは、何においても「公式がいちばん詳しい」...ということです。このブログはあくまで実際に履修した者の気持ちでしかないので、興味が出てこられたならば最終確認はご自身の目でしていただくのがよいでしょう。

 

お品書き

  1. 放送大学の特色・メリット(とデメリット)
  2. 学費の実際と入学の手順について
  3. 試験までのスケジュールについて
  4. 面接授業について
  5. 履修計画について
  6. エキスパートプランについて
  7. 卒業時点の履修成果
  8. 放送大学で学ぶということ

 

1.放送大学の特色・メリット(とデメリット)

  • 試験・面接授業以外は通学がない

試験・面接授業は基本的に各学習センター(都道府県に最低でも1か所ずつあります)で行われます。そのため、放送・オンライン授業についてはすべて自宅で受講することが可能です。

  • 学費が安い

受講した分だけ受講料がかかります。学部生ですと、面接授業も放送・オンライン授業も1単位あたり5,500円です(放送授業は2単位となることが多いので、11,000円です)。自分の場合は、半期あたり9科目18単位を取り続けて卒業しました(2年間で72単位を取得した計算ですが、3年次編入者は62単位あれば卒業可能です)。

  • 卒論は書いても書かなくてもよい

これはデメリットになりうるといえばそうですが、卒論は全科履修生のみが履修できます(6単位として認定)。そして、履修年度の前年度には申請・研究計画書提出が必要であり、かつ2年間の放送大在学と放送大での62単位修得が必須条件なので、3年次編入者で2年間での卒業を志す社会人には不可能なスケジュールとなります。2年間での卒業を要さなければ、可能です。

  • 時間をかけた単位取得、多様な履修スタイルが可能

これは興味のある方がまず最初に得られる情報かと思います。ちなみのどの履修方法についても10月入学が可能です。

<全科履修生>

入学(初年次、2年次・3年次への編入)と卒業のある様式で、最長10年の在籍が可能です。全科履修生のみ入学時に高校卒業(または見込み)証明を提出する必要があります。卒業時に学士(学位)の取得が可能です。

私は看護専門学校卒業生のため、62単位を単位認定して全科履修生に編入しました。

<選科履修生・科目履修生>

選科履修生は1年間、科目履修生は半年の在籍資格を得るものです。

こちらは高卒の認定の必要がないので手続きが簡単です。

また、取得した単位を引き継いで全科履修生へ入学する(卒業単位として申請する)ことが可能です。

  • 学割がきく

学校法人なので、学生証があればジムや映画館、その他アミューズメント施設で学割がきく可能性が高いです。年齢制限がある場合は不可能ですが...

  • 他大学の図書館などの施設利用ができる場合がある

大学生という身分はなにかと便利です。上記のように学割を使うこともできますし、いざ卒論を書く段になってなかなか有料のジャーナルにアクセスしづらいなと思うときや実資料を閲覧したい場合に、学生証は最大の武器であると思います。実際の利用はまだしたことがないのですが。

 

おまけ

放送大学はちょっと変わった使い方をすることもできます。

それは、入学してから放送授業を聞くだけならタダということです。テキスト料金・単位認定があること前提での料金が1単位5,500円なだけなので、入学さえしてしまえばどの放送授業でも、とりあえず好きな時に好きな回の授業を視聴することが可能です。シラバスを読んでもで実際の難易度がわかりにくいとか、自分の興味と合致するかわからない場合にはこういった手段もあります。単位はいらないけど知識は欲しい方にもおすすめです。

 

 

2.学費の実際と入学の手順について

全科履修生で入学した場合、入学金が24,000円かかります。お試しで科目履修したいという方には、科目履修生(入学金7,000円)または選科履修生(同じく9,000円)がおすすめです。気持ちが固い場合には、全科履修生で最初から入学したほうがお得ではありますが。

また、編入学の場合は単位審査料が必要です(10,000円)。

よって、私のパターンのように初回編入学+9科目履修登録した場合、入学時のみ133,000円かかります。あとの授業については、履修した分のみの費用です。

 

時系列の動きとしては

入学したい学期の前までに(3月20日・9月20日くらいが例年最終の締め切りです)

・高校卒業証明書取得

・前大学・専門学校での単位取得証明(編入学の場合)

を揃えます。

そして放送大学から入学申請に必要な願書を取り寄せます。詳しくは下記リンクにありますが、この際に所属コースを選ばないといけません。全科履修生の場合は卒業のための必要単位として、自コースからの取得最低単位数があります(34単位)。あまり興味のないコースを選ぶと、卒業のために興味のない科目を取らなければならなくなってしまうので要注意です。

www.ouj.ac.jp

 

 

3.試験までのスケジュールについて(放送授業の場合)

というわけで実際に入学した場合の予定のシミュレーションです。

単位認定試験は学部の場合7月末~8月頭、1月末~2月頭です。

試験場所は各都道府県学習センター。

ですが、認定試験までに通信指導という中間考査のようなものがあります(6月初旬、11月下旬ごろ締め切り)

記述式以外は郵送またはオンラインでの提出が可能で、郵送はちょっと面倒なのでオンラインをお勧めします。情報学関連科目ではオンラインのみの提出の科目もあります。詳しいスケジュールは下記へ。

www.ouj.ac.jp

これを働きながら実施する場合には、単位認定試験そのもののスケジュール調整が必要となってきます。認定試験は複数科目を同じ時間に実施しますので、重複した場合は片方しか受けることができません。よって、社会人学生ですと履修科目を選ぶ際に前もって試験スケジュールまで考える必要があります。

 

初年度初学期はスケジュールまで考える余裕がなく、また夏休みを使えばなんとかなるだろうと思っていた自分を参考例として下記に供出します。ひどいもんでした。

streptococcus.hatenablog.com

学習の動機や履修方法についても少し書いていますので、本格的に入学を検討されている方は参考程度にお目通しいただければと思います。

 

そしてここまで書くとおわかりであるかと思いますが、たとえ放送授業であってもたくさん科目を取ると結構忙しいです。

看護の学位のみを必要とする方のようにほぼ既習の科目をたくさんとる場合はまだしも、仕事の傍らに知らない分野を(テキスト・放送授業で)履修し、通信指導を提出し、半期ごとの単位認定試験を通すのは履修計画上の困難を伴います。ご利用は計画的に。

 

4.面接授業・オンライン授業について

全科履修生の場合、卒業までに「授業形態にかかわる単位数(20単位)」もとる必要があります。自分の場合は専門学校卒後編入しておりますので、編入時単位認定の際にこれはクリアしております。

面接授業:各学習センターが開講する授業(専用冊子が必要です)

オンライン授業:1時限ずつ受講し、レポートを提出するスタイル。私は受けたことがありません(すみません…)学部ではあまり多くないスタイルですが、全国的なe-learningの敷衍によって今後放送大学でも増えていく気がします。大学院はわりとオンライン科目が多いです。

 

5.履修計画について

試験時間・学習に必要な時間というたての軸と、達成目標という横の軸が必要かと思われます。縦の軸については3で申し上げたように、自分の仕事が許す時間を逆算して試験時間の割り振りから科目を選ぶことです。そして横の軸は、何年かかけて達成したい目標がどこにあるのかを定めてそれを並行で達成することです。

 

というわけで自分のとりうるパターンを例として出します。

<看護師の場合>

看護学の学位だけが欲しい(短大・専門卒)の場合、自分の所属していた学校の単位内容・単位数を確認したうえで放送大学へ2年または1年在学し、必要科目を62または31単位以上履修すると学位授与機構への申請・審査のうえ学位取得が可能です。

ちなみにこの「または」というのは区分の違いによるものですので、自分の学校に単位取得内容を申請・取得したうえで学位授与機構が発行している「学士への途」を入手し、自分がどちらの区分に該当するか調べる必要があります。31単位というものの、半分(16単位、うち2単位は必ず看護の科目から)は自分の専門分野(医療・福祉・臨床心理系科目)の修得が不可欠です。が、最短ルートで学位のみを取得することも可能です。合計16科目なので、場合によっては1年で取得できます。詳しくは下記へ。

 

学士取得のための手引き(看護学)ー放送大学

http://ouj-dp.web-creek.com/pdf/2018-1j.pdf


 

<自分の場合:看護専門卒(第2区分)が、看護学と教養の学位取得と認定心理士の取得を目指す>

さらに自分は認定心理士の取得をサブ目標のひとつとしていたので、心理科目の取得が直接卒業認定科目につながるよう「心理と教育」コースに所属しました。

 

認定心理士取得の手引き(放送大学

http://ouj-dp.web-creek.com/pdf/2018-1j.pdf

 

ここに記載されている認定科目を取得しながら教育・心理コースの科目を網羅していきました。とはいえ教育と臨床心理にはそこまで興味がなかったので、認知心理系を含めた必要最小限を取得します。これで必要単位はたしか37単位分(認定心理士には1単位換算されてしまう副次主題科目というものがあります、放送大学としての単位は40単位くらいとりました)ほどになりました。では残り30単位分はどのような興味に沿って取ったか。

 

6.エキスパートプランについて

エキスパートプランというのは、コース選択以外にもある主題において関連する科目を履修できるよう、コース横断的に科目を履修するナビゲーターのようなものです。

実際にみていただいたほうが早いです。

https://www.ouj.ac.jp/hp/gakubu/expert/assets/pdf/expert_04.pdf

こちらを穴が開くほど見つめたのち、自分がこれまでに取得してきた単位に加えて好きそうな科目が加わっているカリキュラムを探します。

ちなみに「心理学基礎プラン」は認定心理士のほうがさらに上位に位置するため最初から認証を得るつもりはありません。

 

私の興味と一致して、かつ履修内容が現実的であったのは

現代社会の探究」「人にやさしいメディアのデザイン」「社会数学」「計算機科学の基礎」「データサイエンス」…などでした。

これらとふたつの学位、認定心理士を横軸として超贅沢に科目をとります。もちろん仕事はしているので、仕事に合わせた試験しかとれません。

 

7.卒業時点の履修成果

とりあえず一旦卒業するので、「教養(学士)」は自動的に達成です。

そしてほかの目標と、達成できなかった要因と残り科目について。

 

スケジュールがあわなかったためにあと1単位の面接授業(心理学実験2)がとれず、延期です。

 

  • 学士(看護)(未達成)

残り3科目です。科目を取り出したのが遅かったのもあり、試験日程が仕事と合いませんでした。

 

  • エキスパートプラン
  1. 現代社会の探究(達成)
  2. 人にやさしいメディアのデザイン(達成)
  3. 社会数学(未達成)
  4. 計算機科学の基礎(未達成)
  5. データサイエンス(未達成)

 

エキスパートプランについてはおまけのようなものなのですが、とり始めると関連科目が意外と楽しく、3-5まで残り科目を履修することになりそうです。ちなみに3.4.5はそれぞれ重複する科目が多いので(エキスパートプランはままあります)、学習動機としては使いやすいです。

 

8.大学で学ぶということ

随分とテクニカルな部分についてばかり書いてきましたが、そもそも大学で学ぶ動機は多様です。自分の場合は、途中にあげた2017年の記事に詳しく書いておりますが、日々の仕事と少し離れた(しかし遠くで関連はしている分野の)勉強がしたいと思ったのがきっかけです。

 

社会人として生活をしていると仕事で忙しく、どうしても智を愛する姿勢から遠ざかってしまいます。この記事には時間と単位の関係ばかり書いてしまいましたが、学びの内容や方向性は人それぞれ。開く教科書も十人十色であることでしょう。

ただ、私が読んできた教科書についてはそのほとんどが非常にたくさんの関連学習を促し、豊かな読書案内を備えています。この点においては、放送大学であっても他大学であっても目指す成果は同じところにあるのではないでしょうか。科目を単に履修するのみでなく、生活や仕事の世界・ニュースや旅行などで見聞きする世界の中に課題を発見し、自ら解決方法を模索する(そして解決方法が難しければほかの書籍をあたって方法を探る)力を養うには、教科書だけでも足りなければ放送授業だけでも足りず、またその力は単位認定試験によってのみ測られるものでもないと自分は思っております。

 

生涯学習を謳う大学ですから、いち市民として考え模索する手助けができるようカリキュラムが用意されています。勿論、どのような活用方法をとったとて自由な(そしてそこが魅力の)大学です。自分のキャリアの足しにするにしても市民としての良識を涵養するにしても、門戸はひろく開かれております。放送大学open university of Japanですので、学びたいと思う人には智を提供してくれる場です。2年間という短い期間ではありましたが、存分に楽しむことができました。

 

締まりのない終わりになってしまいましたが、ご興味をお持ちの方にとって少しでも放送大が魅力的に映りましたら幸いです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

500冊読了記/100冊の中からオススメ10選(401-500の中から)

1.この宇宙の片隅に(ショーン・キャロル)

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―
この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―
  

この本に関しては個別の記事を書きました。

天体物理の中でも非常に読みやすい本であると思われます。事前にマックス・テグマーク「数学的な宇宙」やニック・レーン「生命・エネルギー・進化」を読んでいたために目新しいと感じるところはそこまで多くはないのですが、何よりその読みやすさと明快さが魅力であると思います。下記の引用をみていただくとわかるように、確率論の話がぼちぼちでてきます。科学全般に対する一般人の態度の規範になるような本でもあります。

それから、読了当時には同意しかねていたのですが、「いかに人は佳く生くるか」という問いに関しても、意外と現代の哲学はこれを本格的な議論として受け入れているようです。

解決策は、きわめて小さくてまともに取り上げる必要のない信頼水準があるのを認めることだ。その可能性が偽であることを知っているかのようにふるまうことは意味をなす。つまり、私たちは「私はXを信じる」を、「Xが成り立つことを証明できる」ということではなく、「Xを疑うのに相当量の時間や手間をかけるのは非生産的だと思う」ということだと受け取る。

私たちは、ある理論に有利な証拠を積み上げるあまり、それについての懐疑を維持することが「分割ある警戒」を超えてただのへそまがりになることもありうる。

私たちは常に、新しい証拠を前にして自分が信じていることを変えてよいという気でいなければならないが、そのために必要な証拠は、それを手間をかけて探さなくてもよいほど圧倒的である必要があるかもしれない。

結局残るのは、何かの絶対的な証明ではなく、何かについての高い程度の信頼であり、それ以外のことに対する不確実性が高まるということだ。

それは私たちに望める最善のことであると同時に、世界が事実として私たちに確かに認めるのもそこまでだ。人生は短い。絶対確実は決して出てこない。ーショーン・キャロル「この宇宙の片隅に」

www.ted.com

tedにも著者の動画があるようです。

 

2.脳の中の天使(V・S・ラマチャンドラン)

脳のなかの天使
脳のなかの天使
 

この方の「脳のなかの幽霊」のほうが著名なようです。

著者のラマチャンドラン氏は神経内科の医師・研究者です。本書の冒頭で提示される、「研究というものに実験装置が加わると、その装置をいかにして使うかといったことに固執してしまい原始的な反射を用いたり手ずからおこなう実験が軽視されたり扱われなくなってしまう」という危惧は結構身につまされるものがありました。いえ、特になにか具体例があるわけではないのですが。

神経美学の話になるとこれが結構面白くて、ラマチャンドラン氏のお名前にもあるようにルーツであるところのインドの仏像のうつくしさの要素についての話がでてきます。これが後半に入ったくらいなので、前半はほとんど神経科学の話です。具象と抽象の谷についてや、デフォルメのありかたについても書かれています。美術系の本でなくてこういった認知科学から捉えられた美学(芸術・音楽の知覚について)の論は多くないので、読んでいて嬉しいです。芸術系の人で、認知科学に興味のある方への入門書としていいかもしれません。

 

3.不合理だからうまくいく:行動経済学で「人を動かす」(ダン・アリエリー)

カーネマンの「ファスト&スロー」が意思決定にまつわるゲームのような感覚で読める本だとしたら、これはヒューマンドラマを読みながら(実際アリエリー教授の若年時代に負った全身の熱傷との闘いが説明に多く用いられます)行動経済学を学ぶことができる本です。リチャード・セイラー行動経済学の逆襲」よりも少し心理学寄りです。

特に情緒と意思決定の関係について書かれた点については昨今の医療者必読と言いたいくらいですが、必読というと言いすぎですと怒られそうなのでやめておきます。信頼と怒りが意思決定に影響することや、感情的に決めた(利点もあれば欠点もある)ルールが長期に行動に影響する点など面白いです。医療者なので、アリエリー教授が若くしてひどい火傷を負ってそれから立ち直るまでの苦痛とそれの対価として得た経験知に気がいってしまいますが、人間の知覚を永続的に変化させる痛みの経験についても積極的に検討しておられ大変読んでいて面白くありました。

タイトルはちょっとトボけていますが、トボけて手に取るとまあまあいい本です 行動経済学に興味あるけど難しい本は手が出しにくいワ〜という方に是非。

 

4.植物たちの救世主(カルロス・マグダレナ)

植物たちの救世主

植物たちの救世主

 

「熱狂的植物育成本」です。

著者はスペイン出身の園芸家、カルロス・マグダレナ。英国王立キュー・ガーデンで近絶滅種を含めて希少な植物の繁殖と保護に努めています。その活動範囲はまさに世界中どこでも、高山・砂漠といった極限環境から熱帯雨林や孤島までありとあらゆる場所を対象としています。本人は植物「学者」とは呼ばれないのかもしれませんが、キュー・ガーデンの講師も務めていて、現在ではどのような環境で生育するかわからない希少植物の発芽から次世代へのバトンタッチまでを考慮し、実験し、そしてあわよくば元の環境に戻して繁殖させます。ひとつひとつの実践が既に探究行為なのです。

希少な植物をみつけると、まずどの科・属・種に分類されるかを見分けます(そうすることからしか話は始まらない)。そして気候や気温、土の状態や発芽の条件といった生育条件を調べ、キュー・ガーデンの研究室に持ち帰り最適な環境を作る。毎回試されるこれも、場合によってはラスト・チャンスかも知れないのです。土地の人間社会も植物の生存に大きく影響しているため、生きるための森林伐採や国策による開墾が土地の環境を変えてしまうことはままあります。悲劇的な状態でほぼ唯一無二の植物を発見し、悲鳴をあげるシーンもたびたび。また、キュー・ガーデンで繁殖に成功しても、元の環境で適切に扱われるとは限りません。

植物を救い続け、驚くべき出会いに感嘆する著者の目は植物のいる現在の環境だけでなく過去・未来の数十年にわたり向けられていて、僅かながらその視線を共有できるのがまた面白いのです。著者はスイレンが大好きで、スイレンのためなら現地で他の調査中でもすぐに車を止めて走り出してしまいます。さながら植物への依存症なのですが(著作の中で本人がそう述べており、コカの葉を噛みながら高山に向かうシーンは見もの)、その情熱が植物たちを何度も再生に導き、滅びの瀬戸際で踏みとどまらせます。学術書でもなく専門書でもなく、これは一種の冒険譚(むしろ本人ではなく、植物の)に近いものがありました。

植物を取り巻く人為的環境への言及は批判的なものばかりでなく、現地の人々への理解と協力的姿勢に満ちており、現地の社会で現存の環境を維持・向上するメリットを述べたうえで技術の伝達を行います。産業でもなく政策でもなく教育でもなく、植物に関する「国際協力」というのがよいのでしょうか…文化人類学や考古学等他の地理環境と文化に関係する本は読んだことがあるのですが、ここまで「植物」に特化した本は自分は初めて読みましたし、ものすごく面白かったと書くしかありません。おすすめです。

 

5.WORK DESIGN(イリス・ボネット)

WORK DESIGN(ワークデザイン):行動経済学でジェンダー格差を克服する

WORK DESIGN(ワークデザイン):行動経済学でジェンダー格差を克服する

 

行動経済学…うんまあ行動経済学

内容は簡単な認知心理学のおさらいと膨大な企業・官公庁のもつデータで「バイアスを探る」本です。経済の理論的な部分は他の本に譲ってよいですが、ジェンダーのみならずエスニシティに関わる「バイアスの介在」がどのように学習・採用・組織内活動に影響しているかを、さまざまな手法で実証します。鮮やかなのはその事実ではなく、改善可能かどうかと、教育方法が有効か無効かの提示の仕方です。著者は公共政策大学院の教授であり、また部局長の歴もおありとのこと、学術界や政界まで及んで女性や民族的少数派のひとびとがいかなる差別を受けるか説明し、その解消のきっかけとなる組織構造・採用システム・研修内容の変更にどれだけコストをかける意義があるかを述べています。

収集されたデータの検証、行われた社会・心理実験、実際に各国各組織で修正されたダイバーシティへの取り組みがいかなる結果であったかは各章をお読みいただければと思います。教育・研修・採用におけるメソッドを変更する有効性は、測ってこそ改善のしがいがあり、そしてコストの投入もできるものなので、やみくもにやるもんとちゃうでというメッセージがあちこちから読み取れます。ダイバーシティ研修後に免罪符効果で否定的な価値観が強化されるとかわりと絶望できる内容だなあと思います(なにくれとなく耳にしていたことではあるのですが)。あと人事評価システムの公平性と客観性とか。

昨今、働き方改革だの大学入試改革だの移民政策だのいろんなところで改革の余波があるのですが、そこに対しても前に後ろに検証がなされてどんなかたちであれ反省が活かされなければまた金をドブに突っ込んだことになるよなあと思うのでした。

 

6.医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者(大竹文雄 平井啓)

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

 

平井氏の記事は、実は以前に下記の記事に目を通しております。

www.igaku-shoin.co.jp

ついでに、引用元であるModern Physicianも購入しました(手元にあります)。そちらの内容を、もっとわかりやすく、また「日常の診療場面でよくある例」を交えてまとめなおしたのがこちらの本と思うとよいです。

雑誌や医学書院の記事の中にはみられなかったのが、医療従事者側からのバイアスももちろん存在しているということでしょうか。

患者さん(医療を受ける側)の方にもおすすめですし、医療従事者にもおすすめできる本であると思います。とくに臨床の方へ。

 

7.無限論の教室(野矢茂樹

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

 

数学の哲学ーというか、概念としての数学について考える物語です。

というととっつきにくいように思えますが、数弱の私でも考えながら読めるようなものなので、興味はあれど苦手、という方にも大変おすすめできるかと思います。先生が毎回ケーキやお茶を出してきたりけなしてきたりしますが、1講義ごとに1問題ずつ考えます。「アキレスと亀」「可算無限と非可算無限」「ゲーデル不完全性定理」などなど。数学ガールみたいな感じで読めます。たぶん。

 

8.アメリカ大都市の死と生(ジェイン・ジェイコブズ

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

 

この本は実は関連映画が出ていて、映画を見ていただいたほうがよりわかりやすいと思われます。

youtu.be

ジェイコブズは市井のジャーナリストであり、生涯学者ではありませんでした。しかしながらトップダウンの都市計画がいかに有害であるかを様々な方向から指摘しており、ジェイコブズ以降、近代の人類学・都市社会学その他に大きな影響を与えました。何より、無遠慮な都市の改変を止めさせたことにその功績があるでしょう。

実証がしっかりしていないこともまた批判されてはいるのですが、現代に都市に住まう者でも十分に感じられる都市の要素とその重要性について再考できる本であると思います。誰におすすめすればいいかといわれると困りますが...都市が好きな方へ。

 

9.刑務所の読書クラブ(ミキータ・ブロットマン)

刑務所の読書クラブ:教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら

刑務所の読書クラブ:教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら

 

実に感ずるところの多い本でした。珍しく、むしろ短編小説に近いスタイルの本です。

ちなみに文春オンラインに私などよりよくまとまった書籍紹介があって、もうこちらをお読みいただければ十分興味をもっていただけるようにも思います。

bunshun.jp

読書というのは誰にでも同じように楽しまれるようなものでもなく、また刑務所という特殊な環境が読書クラブの参加者たちをひきつけていた(そこにとどまらせていた)ところが大きいなという印象です。刑期がおわり、釈放されたのちの受刑者の行動に対して、著者の諦念や、限界に対して絶望する心情も描かれています。

 

 

10.心理言語学を語る:ことばへの科学的アプローチ(トレヴァー・ハーレイ)

心理言語学を語る: ことばへの科学的アプローチ

心理言語学を語る: ことばへの科学的アプローチ

 

音韻論、意味論、語用論そして統語解析についてそれぞれに躓いている自分にとっては大変面白い本でした。今まで読んだ本たちを犠牲にせずに新たなる話題に繋げられるのは、著者が学説の分離をいちおう列挙・概説してくれているからです。

本書は心理学または言語学の学部生と、その他興味ある一般の人に向けて書かれているとだけあって、分厚いながら大変読みやすくやっております。いや大変というほどでもないんですが、語義通りに読めば読めるという意味において決して高くないと思います(ほかの本が難しすぎるというのもある)。因みに本書は心理言語学の教科書が重版になったのちに書かれており、さらなる興味のある各位はそちらを読まれたしとのことでありました。こちらは学説の詳説を極力省き、それらの生み出されるプロセスの解説に焦点を当てていますから、心理言語学の研究や解釈をじゅうぶんに楽しむことができるでしょう。

認知科学や、その言語的側面に興味のある方におすすめです。