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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

映画感想『ネオン・デーモン』『ロブスター』

ネオン・デーモン


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

監督とか役者とか演出が誰かとかわたくしあんまり覚えることができないですしネタバレも勿論しません。なんというかアングラカルチャー系の映画ですが、好きでした。60席しかない映画館の、10席くらいしか埋まらない中でみましたよ。

 

全編通して、なんというかシュルレアリスム的世界観があって自分はとっても好きでした。音楽もストーリーも必要最小限しかない、物語というよりは写真/絵画のような映画。

 

映像の美しさ・人間の美しさはかなり近接距離のものですが、「ムード」「空間」の演出がものすごくいい。暗闇の中で金粉を少女のうなじに塗り付けるシーンとか、ショーでウォーキングするシーンとか。

 

似ているなあと少し思ったのは、邦画の『ヘルタースケルター』ですかね。でもあちらは人情や心性みたいなものによりウェットに肉薄しようとしていたのに対して、こちらはあくまで構造美とかを追求したような。ヘルタースケルターは良くも悪くも猥雑な感じで、俗悪でかわいらしいんですよね。こっちはもっとヴィヴィッドな感じ。

個人的には最後の撮影シーンがとても好きでした。あとエンドロールの、肌にスパンコールを散らしていく撮影。

写真を撮る人なら、それも人間を撮る人なら楽しみがわかるような気がします。

万人にはまったくお勧めできない映画ではありますが、私は結構好きでした。

 

 

ロブスター


映画『ロブスター』予告編

 

人間は必ず誰かとつがいでいなければならないのだろうか。そうでなければ、必ずひとりでいなければならないのだろうか?・・・とか、考えさせられます。

 

予告編には皮肉で面白い、みたいなことを描かれていますがふつうにいい映画だと思います。ただ人は選ぶ。

映像がとにかく美しいです。最近の映画だからとかでなくて、人物を美しく撮るすべが全部詰まっているというか。些細なシーンでも光の当たり方とかよく考えられているのです。先述のネオン・デーモンは美がテーマなのでさもありなんといった感じなのですけれどもね。スローモーションになるシーンとかちょっと面白かったりするんですけど、映像が美しすぎてやや笑うのも忘れます。というか何度も言いますがこの映画、全然笑えないです。誰だ笑ったやつは!みたいな映画。

 

主人公が男性だからか、男性性のありかた/男性の性のありかたみたいなものも垣間見えてきます。女性性に関しては些か放置気味ですが、この映画においてはそんなことは放っておいてよいでしょう(ウーマンリブな映画はいまどき溢れすぎていて食傷気味)。

 

全編通して通底されている『恋に落ちなければならない』という脅迫は、ある種現代社会への強烈な皮肉だなあと思います。もちろんそれを指して作られているのでしょうけれど、夫婦円満でなくてはならないとかセックスをしなければならないとか、嘘があってはならないとか。嘘があっちゃいけないんですか?相手や自分を守るための嘘であっても?という疑問がすぐわいてくるようにできている。

そんな強制された状態で恋愛できるかっていうと、まあ、当然できませんわな。

 

でも問題はその先にもあって、『独りを選んだらずっと独りでいなければならない』。これ、今の社会にもわりとあるんでないかなあ、という気がします。

つまり恋愛を楽しむ人類と楽しまない人類で二分されていて、その間を自由にいったりきたりするのが非常に窮屈なのですよ。映画本編とはまったくかけ離れますが、『非モテ』『非リア』って集まりたがるじゃないですか。揶揄であっても、カップルが成就しようものなら村八分にしてみたり。それが映画本編のなかではもっと強烈なかたちで出てくるのですけど、そういった雰囲気、そういえば現代社会にもあるんじゃないかなあとふと思ったんです。

 

あと、偽装夫婦のシーンで出てくるホームセンターのシーンがすっごく好きでした。ものすごく気を遣って生活用品を購入するのですが、街に出ていくのにこれくらいの精神的負担を負って出てきている人っているんじゃないかな、という気持ちにさせられました。この気持ちはうまく言い表せないのですが、「よそに出ていてもおかしくない人間」を装いながら生活の用を足すのがめちゃくちゃハードルの高い時期が自分にはかつてあって、そのことを思い出したんです。野生動物をスーパーマーケットに連れてくるみたいな感じ。おそるおそる周囲をうかがいながら生活する。

 

それでもひとりではいられないときもある

映画を観ての感想なのでこれはなんともいえないのですが、なにせ勧めてくれたのがわたしの姉だったので色々思うところはありました。なるほど、好きそうだな、と。

 

わたしたちはいつも「社会に所属していなければならない」し、そうでなければ安定できないようにできています。映画みたいな理不尽なルールは徹底されていないだけで、真綿のように首を絞められている人たちもいるわけです。

夫婦でなくてもいい、恋人にならなくてもいい、ほんとうに気の合うひとを必要とするあいだだけ一緒にいることも可能だろうなあと日々自分は思っているので、まさにそれを皮肉のかたちで描き切ってみせた「ロブスター」は自分のなかでは名作(迷作?)となりました。

影についての知覚 (0)

もうすぐ、働き始めて2年目が終わる。20代もなかばを過ぎて、後半に差し掛かった。いい時期だなあとつくづく思う。

諸々のことについて節目が来たように感じ、まとめを書いてみたいと思ったが、うまくまとまらない。なので、連載のような形式にしてみようと思う。各々の章でまとまりを持たせた掌編になれば多少書く者として面白いかも知れない。どうしてそのようなことをしてしまうのかわからないけれど、多分癖のようなものだ。何度でも何度でも繰り返し振り返る癖があるのだ。

 

10年目という節目について

9年前の3月の末、わたしはほとんど燃え尽きていた。高校2年生の春だった。次の月である3年生の4月の頭に、自殺未遂(と見做されること)をし、今の自分からはあるまきじきことだけれど救急搬送され、その数日後から1か月余り入院した。積極的治療というより、家や学校という環境からいちど物理的に距離をおくという休養目的での入院だったけれど。

 

あれから9年経った。自分はいま病院で働いていて、毎日病む人たちを相手にしている。その死を看取ることさえある。余談だが、先日祖父が亡くなった。病院で働いていると「死ぬ瞬間」には立ち会うが、そのあとの儀礼的なことにはほとんど関わることがないので、有難い体験でもあった。

 

この手記が誰かの訳に立つとは決して思えないし、ほとんど自分のための過去の慰撫という意味しか持たないのだけれども、それでもあえて人に向けて書くのは「なにかの」足しになればいいやという思いからである。娯楽でもいいし、参考でもいいし、(たまにありがたいことに)目標にでもいい。

 

回復過程としての事実はそんなに書かないし、つらい記憶としても書きたくない

高校を卒業してから8年、実はこれから「社会人」をやりながら「大学生」になるつもりでいる。まだ実際にそうなるかは未確定なのだけども。

コンプレックスがなかったといえばウソになるし、あったというほど強い行動の根拠にはなっていなかったが、なにかを体系的に学んでみたいという思いが強かった。それが直接生産的な物事に繋がるという快感をいちどでいいから味わってみたい、というただそれだけの動機なのだけれど、10年でここまで自分が回復するとは正直あまり思っていなかった。周りからの期待ももうなかったと思うけれど、自分自身がいちばん自分を信じていなかった。今も勿論信じきってはいない。

 

それでもなぜか頭の中はハッピーだった。

これがとても不思議なことで、たとえばうつの最中にあって毎日泣き暮らしていたときにも「死にたい」「消えたい」という思いと、「自分はとても恵まれている」「幸福である」という思いが同居していることが多かった。不幸である、と感じたことがほんとうに一度もない。希死念慮を抱いている間は不幸であると言われてしまえば勿論そうなのだけど、これこそ本人の主観の問題であるため困ったものである。病気で苦しかった間も、必ず世界はいつも美しかった。

 

10年なんて、生きていれば誰にだって過ぎていく。

10代なかばから20代なかばなんて、いい時期だ。ほんとうにいい時期だ。青春に戻りたいという人もいるし、同窓会を開いて和気藹々とする人もいるし、卒業アルバムには写真がある。体の発達と精神の発達が自覚的である時期であり、その時期に悩んだことは何物であっても自分の糧になる(と、わたしは勝手に思っている)。

けど自分にとっては、その10年の間のほとんどが苦しくつらい時期だった。勿論上記のように幸福だと感じることができても、人生がすべて奪われてしまったように感じることがあり、うち1-2年についてはほとんどベッドの上で過ごし、眠れず、食べられないといったよくある症状にたいへん苦しめられた。それがある程度コントロールされ、一般的には過酷とされるような職業を年単位で継続できているということは、数字で考えるより体感としてもっともっと幸福なことであったりする。

 

ときどき、じぶんは幸福になり過ぎて、死んでしまうのではないかと思うことがある。

天罰が下るのではないかと思ったり、今までのこれは全部夢でないかと疑ったりする。起きると身体は憂鬱なあのベッドの上にあり、その脹脛には自分で傷つけた生々しい傷口が痛みを伴っているのではないかと思うことがある。だから夜中に物音がしない部屋で目が覚めるのは、今でもとても恐ろしい。

 

だから、情景として覚えている「あのときたまらなく美しく見えた景色」について、そのときの自分の状況も含めて、ここに書いて行く。そんなに期限は設けていないけど、思いついたときに。

 

あの何度も私を泣かせた世界の景色がいま全部自分の手の中にあって、ほんとうに毎日がしあわせに思う。

 

臨床2年目も終わるし

今年度も本当に失敗ばかりした。仕事も不出来だし、私生活も実にうまくいかなかった。というのはまさに自覚的なこと・他覚的なこと全部含めてだけれど、やり直しをさせてくれる周囲の人びとや環境に感謝するとともに土下座せんばかりの勢いで謝りたい。

でも結局どう頑張ってみたところで、多分この無様というか惨めな生活はそんなに変わらないのだろうとも思う。見つけたところを微修正していくことでしか得られるものはない。10年間生きてみて取りこぼしたものについて、取り返すつもりで修正を重ねていきたい。

章が進めば臨床2年目のまとめとして書いてみてもいいし、あるいは別建てて書いてもよい気がする。にんげん、もっと他人に語るようにして物事を整理してみてもよいのではないか。自分だけがおしゃべりなようで恥ずかしい。

100冊読破 3周目(11-20)

1.精神について―ハイデッガーと問い(ジャック・デリダ

精神について―ハイデッガーと問い

精神について―ハイデッガーと問い

 

討論を、たとえもうすでにとても遅くなっているとしても、中断させなければ十分です。眠ることのない精神は、帰り来て常に残っていることをするでしょう。炎や灰を通して。しかし全く別のものとして。避けようもなく。ージャック・デリダ『精神について』

ハイデガー読んでなくて『存在と時間』も当然未読なのによんでもうた。最初の方に書かれていた、「なにかが語られることによって語られないことが克明に浮かび上がる」みたいなくだりが好きでした。なんというかハイデガーの講演自体が、時代背景なくして語られえぬものなので理解は難しい感じした。ハイデガー読まねばな。

 

2.差異について(ジル・ドゥルーズ

差異について

差異について

 

ベルクソンは事前に『意識に最初から与えられているものについての試論』『物質と記憶』『笑い』を読んでいたのだがなんとなくドゥルーズの傾向はメルロ=ポンティよりもより弁証学的で知覚(主体)というよりは論理(客体)に近いものを感じる。

千のプラトー』『スピノザ』『差異と反復』とあれこれ読んでみたもののまだなにもわかっていないなあ

 

3.かくれた次元(エドワード・T・ホール)

かくれた次元

かくれた次元

 

じっと一目見つめるだけで、罰することも、励ますことも、優位を確立することもできる。ひとみの大きさで好きかきらいかを示すことができる。ーエドワード・ホール『かくれた次元』

 

われわれが文化の研究から学んだのは、知覚世界の型どりというものが文化の函数であるばかりでなく、関係、活動性、ならびに情緒の函数でもあるということである。

 

ウェストエンドの人たちが悲しんだのは、環境そのものではなく、一つのまとまった生活様式としての建物、道路、そして人間という複合された関係だったのである。

 

文化の次元はその大部分がかくれていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に目をつぶっていられるかである。

なにといえばいいのか困るが、公共空間の知覚に関するはなし。

臨床のひとというよりかは、むしろ建築のひとたちに読んでいただきたい。

 

4.抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義(ミハイル・レオンティエーヴィッチチタレンコ)

抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義

抄訳 古代哲学者墨子―その学派と教義

  • 作者: ミハイル・レオンティエーヴィッチチタレンコ,飯塚利男
  • 出版社/メーカー: MBC21
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本
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墨子の兼愛思想好きなので読んだのだがこれを初墨子本にするのは明らかに間違っている気がする。一応昔『墨攻』は読んだことがあるけどそういうレベルじゃないこれは完全に教科書というか研究書のたぐいだ。しかもロシア人が書いたやつ 正直ちんぷんかんぷんだった、が、そもそも文化大革命によりかなり失われてしまった貴重な資料の多くがロシアに流れていてそのまま保管されておりロシアには古代中国哲学研究の素地があるという文化的背景が面白かった。墨子自体についてはなんというか法哲学社会学的な側面が大きくて所謂隣人愛とかというより功利主義的面が見えた。

というより中国思想史自体が全体的に、哲学寄りなのかもしれない。

 

5.『荘子』―鶏となって時を告げよ(中島隆博

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

 

コミュニケーションとは、メッセージを、バックグラウンド・ノイズとそのメッセージに内在するノイズから、引き出すことを意味する。コミュニケーションとは、干渉と混乱に対する闘いである。ーアルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』より

墨子社会学法哲学という感じだったけど荘子は公共の哲学という感じである。

結構他我の境界が曖昧な論理が多いというか、あまり個体としての肉体を意識していないのが面白かったです 荘子もうちょっと読みたい。

 

6.『孫子』―解答のない兵法(平田昌司

『一曰度、二曰量、三曰數、四曰稱、五曰勝、地生度、度生量、量生數、数生稱、稱生勝、故勝兵若以鎰稱銖、敗兵若以銖稱鎰』ってやつが好きだった。何かものことを考えるにあたり、その地形や概観を把握して投入すべきリソースを考えるというのはほぼマネジメントの考え方。確かに経営者が持て囃す理由もわからなくはないが、物事のとらえ方の整理であって実際に経営に使えるかといえばそうではないと思う。なぜビジネスマンはすぐに孫子を読もうとするのか。

 

7.不確実性の時代(ジョン・K・ガルブレイス

不確実性の時代 (1978年)

不確実性の時代 (1978年)

 

ヴィトゲンシュタインの『論考』を読んだからだろうか、ちょっと面白いなと思った。私は大抵本を選ぶとき、本屋・図書館のどの棚にあるか/どの著者のものであるか/どんなタイトル・副題であるかに結構左右されている。『不確実性の時代』は、経済学の中でもエスノメソドロジーに近いところにあった。なおかつ、ガルブレイスの手によるものでなければ私の目には止まらなかったと思う。経済学に疎く、一般の高校生くらいの知識しかない自分にとって(マルクスを除いて)初めての本がガルブレイスの『現代経済入門』だった。非常に読みやすかったので、この本にも期待したのだけど、正解だった。

でもガルブレイスにまつわるこのような経験がなければ、少なくとも高校の教科書にはガルブレイスの名前はなかったはずだし(もしかしたら資料集とかにはあったのかも知れないけど)、自分は多分この本を手に取ることができなかったろうということだ。『現代経済入門』も、たまたま古本屋で見つけた。というわけで本書は経済学から見た近代世界史の解釈、というか経済史のような本であったわけなのだけど、近-現代社会って政治的な解釈をするよりも経済的な解釈が補助にあったほうが随分わかりやすいのだなあと思った。高校のときにも思ったことだけど、経済ってあまり高校で教えてもらえない。1978年の訳だけども非常に読みやすいし(訳者の業かどうかはわからんけど)、2009年版のが講談社から出ているので、私のような門外漢にはありがたい本。

 

8.社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジーアンソニー・ギデンズ

社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジー

社会理論の現代像―デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジー

 

 人間の自由は、行為の結果を知ることばかりでなく、その知識を行動の反省的合理化のコンテクストのなかに適用することにもあるからである。ー『社会理論の現代像』アントニー・ギデンズ

副題を知らずに読んだ。図書館はカバー外されているのでこういうことがよく起こる。適当にジャケ借りというかタイトルに惹かれて手にとってあわや挫折するかと思うくらい大変な本だったのだが、この本自体が目指していたものがなにかが見えて来ると途端に価値あるものになるので不思議なものである。

マルクスについてはいろんな人がいろんな角度から解釈を与えている 前に読んだガルブレイスの本にもあったし避けては通れん道なのだが、社会哲学というか社会科学と公共哲学が分かれる前の哲学というか方法論的な経済学と解釈してよいような気がしてきた。あいにくデュルケムもウェーバーも読んでいないので話の委細ははっきりいってさっぱりわからんといってもいいくらいなのだが、哲学がまだ社会哲学としては唯物論的史観しか持っていなかった頃からの観念の転回を援けたのが本書なのではという気がする。しかしユルゲン・ハーバーマス、公共哲学においてはかなり重要なポジションっぽいので『公共性の構造転換』だけでも読んでおいてよかったーという気になっている 社会学という大枠についていけないからこそ法哲学とか経済学に区切って考えているのだよ

 

10.エスノメソドロジー社会学的思考の解体(ハロルド・ガーフィンケル

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 

 私たちがすでに確証したことは、規則を決め、状況を定義することも、当の行動を記述することも、物語の語り手の特権であるということだ。...私たち(読み手/聞き手)は、もとの実際の行動をこのような記述的カテゴリーに変形するコード化手続きの適切さを信用しなければならない。

これに関して、東日本大震災の折の混乱を思い出してコメントを下さった方がいたので少しつけたしを。コード化について、たとえば一定のメソッドにしたがっていればそれに倣って誰かの語り口を塞いでよいかといえばまったくそうではなく、反対にナラティヴなものについて、質的・量的にひとつの視座から簡単に評定していいものではない、ということです。

あとは『受刑者コード』の章が面白かった。会社とか部署とか、教室やラボみたいな狭いコミュニティにおける文法に苦労したことがある人は結構いると思うんですけど、自分はそこから落伍するひととなんとかコミットする人の差やそこのムードが良かったり悪かったりする理由がとてもきになるのです。社会心理学みたいな分野はあれどそれだけでは説明がつかないだろうし、勿論そこでのローカルルールや個人の社会的要素も反映されると思う。ミニマムな公共哲学みたいな感じですかね。アノミーについて深めていきたい所存。

社会人生活記 -にねんめ編

臨床で働きだして2年目が終わろうとしている。

正直、2年前の春は気分はどん底・お先まっくらの状態で(仲良しだった恋人と破局したところだったのだ)、じぶんはこのさきいったいどうやって生きていくのかと絶望している状況だったしひとりで生きていく自信がまったくなかった。でも、1年やり通して、そして2年目も終わろうとしている。他人には当たり前のことだろうが、人生が停滞しまくっている自分にとってはひじょうに貴重な実績・自信の源になっている。ありがたいことだ。

streptococcus.hatenablog.com

 

1年目の終わりに書いた記事がこちら。

ああだこうだ書いているが、正直1年目を耐え抜けたら(自分は)2年目はさらに最適化・構造化を進めるのみだと思っている。1年目で体得した技術やフローはもっと速度をあげて効率化させ、他のことを詰め込めるスペースを作ること。

 

1.臨床において2年目で新しくはじまったこと

うちの場合は、長期入院者(つまり状態が悪かったり退院時にはなんらかのサポートが必要な人間の退院調整を含む)のプライマリを務めることだったのだが、これがもう自分にはめちゃくちゃハードだった。なにせ、1年で受け持った主要な(長期入院の)患者は皆さん、亡くなられたのだ。

勿論個人情報にあたるので詳細は伏せるが、病棟の特性上、老いも若きも転がり落ちるように病状の悪くなる科である。彼らはときに最期まで積極的治療の対象となり、緩和ケアの介入のタイミングに難渋する。家族との時間も満足にとれず、それまでの人生において(病に侵されているために)達成できたことも少なく、実存の苦痛と身体の苦痛の両方に苛まれながら亡くなっていく。看ているこちらとしても、たまらなくつらかった。それが、今年度の上半期だった。臨床2年目、1年働いただけではなにも身についていない状態ではなにも解決には導けなかったし、解決などないことを思い知らされた。詳細を伏せた状態で誰かに話してみたところで心は軽くならず、結局年末くらいまでそのしんどさは引きずることになった。勿論プライマリを務めた患者以外にも病棟では多い時で週に2名くらい亡くなられたりと、情緒的にもおそらく激務であったろうことがわかる。

 

2.死とは何か

人間の死とはなにか、1年目から(1年目もやはり亡くなる方は多かったので)色々考えていた。ケアする人々の心に突き刺さるものがどうしてこんなに鋭く痛むのかも、なんとなくわかるようになった。

時間を共にすること、とよく人はいうが、私たちはどの次元であれニーズを満たすために存在している。自律の段階をニーズとするひともいれば、生理的欲求を満たせない人もいる。いずれもその時間に必ず場を共有し、肉体がふれあい、互いに互いを五感で認知している。それが失われていくこと、弱っていくこと(勿論反対もあるが今はそこには注目しないでおこう)、を文字通り「肌で」感じることが、つらさの源であろうと自分はいまなんとなく思う。

カルテ上に反映される画像・検査データも勿論重要な情報ではあるけれども、その状況を元手に臨床症状としての痛み・不快感・虚弱・食欲不振・不眠etc...ときになにをもってしても「なおす」ことのできない症状に出会うとき、その症状に侵されている個体・肉体・実存と対峙するとき、自分はえもいわれぬ無力を噛み締める。1年目でなにかできるようになるというのはどだい間違っている、と1年目の終わりに書いたが、2年目にはより『無力さ』の正体が明らかになってきたような感じがある。

今まで噛んでいた砂の味を自覚するようなものだ。実にまずい。

 

そして終止符としての死が訪れる時、自分はようやくそれまでの自分たちの営為がどんなものであったかを「過去のものとして」振り返ることができる。それ以上先が存在しないからだ。あったとしても、別の人間に活かされるという実に前向きな名目で行うことができる。現存する生命を目の前に対峙するとき、そこにたましいの(自分も他人も)休息はない。生きることは実に厳しいことであるな、とこの1年でひしひしと思った。それはいわゆる、臨床にいない人がいうような「金のかかる無駄な延命」のようなものではない。凄絶な闘いの末に亡くなるからこそ、それに付き添った家族にも勿論本人にも、いわれようのない敬意が自然と表される。自分にできるかといわれればまったく自信はない。自分たちが仕事として行えることも、そんなに多くはない。本人がもともと持っているポテンシャルをうまくいくように調整するだけのことだ。うまくいかないときに、できることはそう多くはない(こういうと方々からおしかりを受けそうだが)。

 

かくて自分はこの1年も本当に多くの死と向き合った。

そのせいか、死に向かうひとの要望にはなんとなく敏感になり、またひとりのケアワーカーとしても最低限の居場所を確保できて自分の要望も職場に通しやすくなったのでちょっとだけ自主性のあることができるようになった。最期の外出、最期の入浴、最期の...、結果的に『最期』になってしまっただけなのだが、その偶然が本人や家族の些細な思い出になったことをよそから聞かされて驚いたことが何度かあった。常に無知と無力感に苛まれているけれども、そういう行為にいちおう意味はあるのだと(自分は本当にそんなに深く考えないでやっているので)とらえることができるようになった。

 

このままいくと、ブラックジャック系というよりキリコ系の臨床者になりそうな感じはある。

 

3.私生活ではじめたこと

1年目と大きく、これだけは変わった(変えた)といえることがある。このブログかTwitter、いずれかを追っていただければわかることではあるが、勿論読書である。

もともと自分はそれほど読書家というわけでもなく、実家の人間がよく本を読むのでまあつられて自分も、という程度だった。多くは小説だった。

それが大きく変わったのは今年1年のことだ。あまりにも本を読めていないことに焦りというかいらだち・欲求不満のようなものがあり、「そうだ、1か月に1万円分だけ好きなだけ自分のための本を買おう」と思った。最初は専門書でも雑誌でもよいつもりだった。これがいけなかった。

 

streptococcus.hatenablog.com

結局は100冊、8か月足らずで読み終えたのだった。

そしてその後2か月強でもう100冊を読み切った。

年度末までまだ少しあるけれど、今読み終えた本は218冊。数で測るものではないけれど、そこそこ読んだのだなあという実感がある。

臨床にいて上記の知覚に耐え兼ね、自分は本の世界に逃げ込んだのだけど、小説という「空想」ではなく学問という「他の視座」だった。

 

まるでカメラを様々な角度から構えるように、臨床という場を諸々の視点から切り取ることがだんだん趣味のようになってきた感じである。

 

4.読書とは何か

自分にとって読書とはこの1年、なんだったのか。

実にいろんな本を興味の赴くままに読んだけど、1年目の終わりに書いたことに少しだけ答えがあった。

 組織やシステムを変えたいのならばその前に、その構造を知ることは大切なこと。

SNSで見かける意識が高いだけの学生にできていなところは、そこかなあ、と思う。反対に、意識が高いだけの職業人にできていないところは、システムに既に組み込まれてしまっているから既存のシステムに対する根本的な解決策を想像できないこと。思い浮かびもしないことを、実行することはできない。だから別に学生が偉いとか職業人が偉いとかそんなことを言いたいわけではなくて、結局想像力の欠如が停滞を招くといいたいだけ。

自分がやりたかったのは想像する力の涵養だったのだろうか、という気がした。様々な角度からものごとを見るだけの視座の獲得。

 

実は2年目のなかばに、通信大学に入学しようとして、書類不備というアホみたいなミスで半年先に延びることになった(今現在書類を探し回っているので半年間で何も学んでいない阿呆である)。一応心理コースをとろうと思っているのだけど臨床心理とかに興味があるわけではなかった。どちらかといえば「知覚の探求」をしていきたいのである。

それにあたって自分が知りたいのは結局なんなのか、何をどう変えたいのか知りたいがための時間が、ミスって延長した半年の期間であったように思える。

 

100冊の次の100冊があまりに早かったのは目的が明確だったからかもしれない。いや、冬が寒かっただけだ。多分そうだ。寒すぎて引っ越しした。

 

 

それもつかの間、冬は終わり、暦の上では春が来た。3度目の春になる。

これからなにをしようかな。

2012年08月22日07:26

薬缶の音がする 。私はブランケットを抱いてソファに蹲る
時々珈琲を飲む

窓を開ければ肋間神経を苛むほどの風

中庭を囲んで1200人の生活が営まれている
可視空間に不特定多数の生活を想像すると、
途方もないような
嬉しいような悲しいような愛しいような憎いような
複雑な気持ちに襲われて指一本動かなくなる

 

窓を閉めソファに戻る
ブレザーはいつもどうしていただろう
通学時間が極端に短く綺麗なままの制服

授業中に耐えられなくなると手のひらを切った
少しだけで痛いから
何故耐えられなかったのか

行先が線路しか無くとも
それは死んだら嘆き悲しんでくれるひとがいるとわかっているから

 


傲慢な話だ


切ることも誰かを傷つける
わかっている

 

私がめちゃくちゃに踏みにじってきた

そんなもんだろう
誰でも

 

おはよう世界

100冊読破 3周目(1-10)

1.「ものづくり」を変えるITの「ものがたり」―日本の産業、教育、医療、行政の未来を考える(廉宗淳)

情報系コンサルタントされていた方の本。電子カルテ導入に携わったとのことでちょい興味持って読んだんだが、面白かった。真面目でいい本でした。行政系システムの解説とかとてもよい。日本と韓国の情報系ネットワークの構築、全然手法が違うので面白いといえば面白いけど比較されすぎて鬱陶しい人もいるかもしれない。読み物にはいいです。

 

2.「他者」の倫理学 -レヴィナス親鸞、そして宇野弘蔵を読む(青木孝平)

「他者」の倫理学  -レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む

「他者」の倫理学 -レヴィナス、親鸞、そして宇野弘蔵を読む

 

仏教は一般的な日本史で読み、哲学は現象学ヘーゲルフッサールーメルポン&サルトルで止まっていたのでレヴィナスの概念をさっと考えるにあたってよかったのだが経済学に関してはマルクス資本論を1巻だけ(全14冊)しか読んでないのでよくわからんとしか言いようがなかった。他者を前提として現状分析的なものを展開したいのであれば哲学ー仏教ー経済学、というよりアマルティア・センやジョン・ロールズのように貧困に関する法や経済学に依拠した方が方法論は出てきそうなものだが。著者が経済学のひとなので経済学における他者性の倫理学を宙に投げたような感じではあった。つまりこれは答えではなく、契機なんだろうという気がする

 

3.グローバル化進む日本企業のダイナミズム(みずほ銀行国際戦略情報部)

グローバル化進む日本企業のダイナミズム

グローバル化進む日本企業のダイナミズム

 

東南アジア各国の経済と雇用の形態とかインフラの整備率とかかなり面白い。あとは中東・アフリカ圏とか。文化を理解するに宗教と経済をなくして達成し得ないなという気がしてくる 面白い。ものを売る、資本を投下するということにおいてやはりお金が一番ものをいうというかカネや価値がいちばん国家という枠組みを軽々と超えられるのに対して、文化やインフラ・制度をいかにして乗り越えるかというのが面白く書かれている。硬めの本に見えるし実際そうだけど、読み物としても面白かったです。

 

4.【新版】組織行動のマネジメント―入門から実践へ(スティーブン・ロビンス)

【新版】組織行動のマネジメント―入門から実践へ

【新版】組織行動のマネジメント―入門から実践へ

 

これ非常に面白かった。ドラッカーの『マネジメント』は経営そのものに関する話なので結構人間のダイナミズムからは遠いと感じたけれどもこれは組織における人間のふるまいそのものに着目して展開されるため終始楽しんで読める。臨床の人に是非おすすめである 経営管理とか興味なくても経営には参画しているし、感情を極力建て前だけにしたとしても建て前の感情の揺れ動きもあれば裏側の感情の揺れ動きもある。別に自分も興味があるわけではないのだが『なぜうまくいくのか/いかないのか』とかがちょっとわかる

 

5.心という難問 空間・身体・意味(野矢茂樹

心という難問 空間・身体・意味

心という難問 空間・身体・意味

 

メルロ=ポンティの『知覚の現象学』が現象学扱いだとするならばこの本は知覚そのものを取り扱う つまり知覚という前提そのものを問い質すことからはじまる。うーんしかしこれ1冊で何かわかるかというと微妙だな。『対象・空間・身体・意味』っていう知覚の4要素はすごくいい概念、わかりやすい。現代版『知覚の現象学』かもしれない、とは思う。知覚イメージの話はベルクソンの『物質と意識』を髣髴とさせる。ただ、あえて本書を読む必要があるのは恐らく他人と自分の知覚の違いや世界の知覚の様式、物質の形質について悩んだり問題にいきあたったことがない人だ。幻覚や錯覚は知覚イメージではない、っていうくだりがすごくよかった。本人にとっては現実なの。あまりに荒唐無稽でも、無視できるようになったとしても、薬でコントロールできるようになったとしても、それは本人にとって現実の世界での出来事だと忘れちゃいけないなあとふと思い返した。

 

6.戦後東京と闇市:新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織(石榑督和)

戦後東京と闇市:新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織

戦後東京と闇市:新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織

 

東京の地理に詳しくないと読めない本。お住まいの方には是非手に取っていただきたい。

都市のメタボリズムとはよくいったもので、本当に時期によって代謝するように中身がゆっくりと入れ替わる。面白いことに焼け跡の東京は、蛤御門の変の後の京都のように政治主導ではなく取引の場として何回も代謝を繰り返したことがわかる。そういうのが都市の年輪として身に刻まれているから、もともと東京に住んでいる人はあまり気負いがないのかも知れない。自分には点としての東京、それもいまの副都心しかわからないので代謝の過程を楽しむ余裕がないのかもしれない 下町としての東京にもあまり魅力は感じていないしな

自分が好きなのはマイナーチェンジを繰り返すことそのものの回数が多過ぎてまるでがん細胞のように増殖と崩壊を繰り返す化け物じみた虚構的側面であるから、こういう素顔を見ると不思議な気持ちになる。古代ローマの遺構の上に中世の建物があり、その上に近代建築があるようなものなのかも知れない

 

7.読書について(アルトゥール・ショーペンハウアー

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 …創造的精神に導かれる者、すなわち自ら自発的に正しく考える者は、ただしき道を見出す羅針盤をもっている。だから読書は、自分の思索の泉がこんこんと湧き出てこない場合のみ行うべきで、これはきわめてすぐれた頭脳の持ち主にも、しばしば見受けられる。

考えがいま頭の中にあるということは、恋人が目の前にいるようなものだ。私たちは、この思索を忘れることなど決してない、この恋人がつれなくなることなど決してない、と考える。だが、…どんなに素晴らしい考えも、書きとめておかないと、忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。

食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。

終始心惹かれる文章でした。短い本ですがぎゅっと中身が詰まっているというか読む価値がある。往時の言語に関する意識やその崩壊過程に対するショーペンハウアー自信の熱意もある。

哲学の本を読んでいてわくわくすることってそう多くはないのですが、この本はわくわくします。本を読む人にほどお勧めしたいし、本を読まない人にもお勧めしたい。

 

8.ケアの本質―生きることの意味(ミルトン・メイヤロフ)

ケアの本質―生きることの意味

ケアの本質―生きることの意味

 

 メイヤロフが哲学畑のひとであることを知らなかった。臨床哲学って感じの本だけど、しかし私はあまり口には合わなかった。言葉は平易で非常に読みやすい。新しい訳ではないけど十分に取り組める。看護師ではなく看護学生や福祉の学生に是非おすすめしたい。なぜ口に合わないかというと、『臨床』にいる人間にとって、特に考えずにいられない人間にとって、臨床の哲学とは常に後追いに過ぎず、臨床にある壁は臨床哲学によって解決し得ないからだ。私の問いに答えてくれる本ではなかった。臨床にすでにいる人にはもっと他におすすめできる本がある。ガワンデの『死すべき定め』、フロムの『愛するということ』など。これは学生で読んでもいいと思う。なぜそんなにメイヤロフがちやほやされるのか私にはわからん。学生の頃からメイヤロフは名前とこの本の名前だけは知っていたんだが。ケアそのものについてのこういう解釈はあまり好きじゃない。『場』のことについて述べているが、そこに具体性がないからかもしれない。ケアそのものについてもはっきりとした定義はないままに進む。臨床側から見ても哲学側から見てもこの本は不十分なように思えてしまう。いや、臨床であまり哲学に触れずにきた人にとっては勿論良書なのだろう。

 

9.空間 建築 身体(矢萩喜従郎)

空間 建築 身体

空間 建築 身体

 

 閾が面白い。人間の触視知について、つまり視覚による先験的な触覚の知覚について。人間という個体にそれぞれの、クッションとなる領域の空間があって、それを突き破り侵入する知覚については不快を覚えるというもの。パーソナルスペースに似ている。この閾の感覚が敏感な人と鈍感な人がいる。広い人も狭い人もいる。

なるほど空間における認知とか心理学ってこういうふうにとらえることができるのかーという感じでした でも後半にいけばいくほど読むのは大変になりますな。

 

10.野生の思考(クロード・レヴィ=ストロース

野生の思考

野生の思考

 

ジャパリパークが流行っているので読みました。

私は、『実践』と慣習的行動の間には常に媒介項があると信じている。その媒介項が概念の図式なのであって、その操作によって、互いに独立しては存在しえない物質と形態が、構造として、すなわち経験的でかつ解明可能な存在として実現されるのである。

日本でいうと柳田國男の『遠野物語』にも似た各地各民族にわたる透徹した比較。

構造主義の祖とはいわれていますが、どちらかというと構造主義を拓いたことよりもそれによって民族間・種族間の差別感情のいっさいを排除してそれらをすべて要素化した点に功があるのだろうなあと思いました。勿論人類学も進みましたから今ではもっと発達した理論がそれぞれあるのでしょうが、それを所謂白人世界の人間がやることに意味があるのかもしれません。当時は風あたりの強かったことでしょうし。あと、最初の文が『メルロー=ポンティの思い出に』だったのでびっくりしました。そういう繋がりだったことを知らなかったもので。

 

100冊読破 2周目(91-100)

読書

1.いのちの生成とケアリング:ケアのケアを考える(丹木博一

 

いのちの生成とケアリング: ケアのケアを考える

いのちの生成とケアリング: ケアのケアを考える

 

ケアワーカー、それも学生向けの1冊。あるいは臨床一本でやってきたひとの振り返りになるような臨床哲学の入り口のような本。

わたしには易しかったというか、ちょっともう読んでしまった感はありましたがおすすめはできるかなと思います。

 

2.教養としての認知科学鈴木宏昭)

教養としての認知科学

教養としての認知科学

 

認知心理学とかでなく、科学。

哲学も含めて認知に対するあらゆるアプローチをざっと概説したような本でした。読みやすいし偏りもなくて、意識とか認知とかその辺りの本を読んだ限りではこれとダマシオの『自己が心にやってくる』 が1番のおすすめのような気がします。

 

3.人工知能 人類最悪にして最後の発明(ジェイムズ・バラット)

人工知能 人類最悪にして最後の発明

人工知能 人類最悪にして最後の発明

 

うーんこれは…っていう本でした。今時二束三文のディストピア系SFでもこんなん書かへんわ

 

4.不平等の再検討ー潜在能力と自由(アマルティア・セン

不平等の再検討―潜在能力と自由

不平等の再検討―潜在能力と自由

 

豊かな社会で貧しいことは、それ自体が潜在能力の障害となる。所得で測った相対的な貧困は、潜在能力における絶対的な貧困をもたらすことがある。豊かな国において、同じ社会的機能(例えば、人前に恥をかかずに出られること)を実現するために十分な財を購入するには、より多くの所得を必要とするかよしれない。同じことは『コミュニティーで暮らしていける能力』についても言える。ーアマルティア・セン

 

引用は結構名言というか今では知られた概念ですよね。長期化する不景気というか経済成長の鈍化と高齢化に伴う弊害という形で貧困が慢性化する。法や福祉の観点を含みつつあくまで経済学的批判が加えられているのが本件の優れている点かなあという気がします(個人的観測の範囲内では遊びで経済やっている人、困窮に対して無理解極まりない方が多かったので)

 

5.質感の科学ー知覚・認知メカニズムと分析・表現の技術ー(小松英彦)

質感の科学 ―知覚・認知メカニズムと分析・表現の技術―

質感の科学 ―知覚・認知メカニズムと分析・表現の技術―

 

これは面白かったです!!

CGみたいな情報工学的な部分から基礎の基礎、物理の部分まで含めて質感についていろんな分野から掘り下げます。果ては言語にまで突っ込んでいって、オノマトペの統計とったら勿論認知心理学とかにも及びます。

誰におすすめというとイマイチお伝えしづらいですが、デザインに興味のある方には是非一度手に取っていただきたい。

 

6.エゴン・シーレードローイング水彩画作品集(ジェーン・カリアー)

エゴン・シーレ―ドローイング水彩画作品集

エゴン・シーレ―ドローイング水彩画作品集

 

エゴンシーレの映画を観に行ったので読んでみたくなって手に取りました。生育歴自体は映画が忠実だったので絵に集中できたのですが、シーレの色遣い苦手なのに目の強さと構図のダイナミズムは凄く好きです。映画ぜひ見て欲しい。

 

7.グスタフ・クリムトードローイング水彩画作品集(ライナー・メッツガー)

グスタフ・クリムト―ドローイング水彩画作品集

グスタフ・クリムト―ドローイング水彩画作品集

 

上の映画で出てきたクリムトクリムト自身も好きなのでぱらぱらと。クリムトの方が時期が古いのもありやや古典的ですが、色遣いは明らかに現代人の感性に近いなあと思ったりします。モチーフが実に女性的ながら、視点は男性のものなのでそのアンマッチ感が妙に不安にさせます…好きだけど。ドローイングはシーレの方が好き。

 

8.まなざしの記憶ーだれかの傍らで(鷲田清一) 

心が疲れると鷲田教授の本を読む。これにも臨床哲学のはなしが出てきます おすすめです。世話をしてきた、されてきたすべての人へ。

 

9.コモナリティーズ ふるまいの生産(アトリエ・ワン) 

アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産

アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産

 

日本におけるヤン・ゲール『人間の街』という感じ。人間の街でいいと思う。

 

10.シェアをデザインする:変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場(猪熊純)

シェアをデザインする: 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場

シェアをデザインする: 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場

  • 作者: 猪熊純,成瀬友梨,布山陽介,林千晶,馬場正尊,三浦展,小林弘人,門脇耕三,萩原修,安藤美冬,島原万丈,関口正人,中村真広,田中陽明,ドミニク・チェン,中村航,浜田晶則
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2013/12/15
  • メディア: 単行本
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タイトルからしていささか香ばしいですが香ばしい本でした。いやたまには夢みるのもいいかと思って。タイトル通り、基本はノマドワーカーのシェアリング(空間もビジネスそのものも)についての形態のお話。面白くはありますがこれ読んでためになるかといえば別にならない。面白いけど。