毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読了記

4月から読んだ本が、100冊になった。

実は、100冊読破という試みは私が始めたものではない。Twitterをしていて、知り合いの知り合いがたまたまそんなことを話していて、「おっ面白そうだな」と思ったからやり始めた。確か、『読了に明確な期限は設けない』『いいと思った本を紹介しあえる』ことが前提で、それですごく気軽に始めたんだった。

特に期限を定めなかったから、何年かかることやらと思っていた。実際には1年とかからなかったのだけど。

 

本を読めないからはじめた

家族がわりとみな読書家で、自分はむしろ本を読まないほうだった。

というか、読めないのだった。勿論読むのが遅いというのもあるけど、気に入らない本はびたいち読みたくないというたちで、家にたくさん本はあるけれども年間10冊、多い時でも30冊を超えるか超えないかというくらいだった。ほとんど小説。浅田次郎とか、小川洋子とか、梨木果歩とか。ときどき国内外問わず純文学を読んだくらい。

 

それがあるときを境に、ほとんど小説を読まなくなった。

というより、小説を読むペースはそれほど変わらないけど、あまりにもたくさんのそれ以外の本を読むようになった。多分それがはじまったのが、専門学校に入りなおしたときくらいから。

 

好き嫌いせずに本を読むのは難しい。そして、今回読んだ100冊のうち内容がどれくらい理解できているかといえばわずか数パーセントに過ぎないと思う。哲学の類いを含むからだけれども、誰かが終生の研究対象にするような本をわずか数日で読むのだから、当たり前といえば当たり前だ。ただ、誰かがどこかでいっていたんだけれども「読書するといえるのは再読以降」いうのを自分は信じていて、初回の通読というのはいわば「出会い」に過ぎない。

だから、初回の印象や、「これにまつわるなにかにもっと出会いたい」みたいなふわっとした読書でいいのではないかなと思って肩肘はらずに読み始めたのが今回だった。

パラ読みよりはずっと読み込んだけれど、精読というにはあまりにも拙い。文字通り『通読』くらいの意味しか、それぞれの本には与えられていない。

 

ただ、無学な自分が学問と「とりあえず出会う」にはこれくらいしかしようがなかった。出会いが出会いを呼んでくれるのは、どの本を読んでいても思ったことだ。

 

 

 

なんとなく決めていた自分ルール

・自分が生業としている職業に関する専門書・雑誌は入れない

・過去に読んだ本も入れない

そういったわけで、「25歳の自分がインタラクトしたいと思ったもの」が基本に挙がる。図鑑も、必要に応じて入れた。雑誌は今後入れる可能性があるのかもしれないけれど、おそらく入れないと思う。

オススメの本は、また後程紹介したい。

けれど、読書体験が次の読書体験を欲しがるものなので、「これ一冊」というものはとても難しいのだ。「あれとこれとこれが気に入った人にはこれもオススメ」というのはできるけれども。

 

 

 

読書体験がもたらすもの

小説以外の読書体験は、読書しながら頭の中に対話がいつも飛び交っている。目で字面を追いながら自分の中に問いが立つ。問いに対する答えが返ってきて(それは目の前の文字からであったり自分自身からであったりするのだけど)、ひとりで本を読んでいるのに誰かと喋っているときのような充実感がある。

おそらく、25歳の自分はとても孤独だったのだと思う。

というか今までずっと孤独だったのではないだろうか。いやこれからも恐らく孤独は感じ続けることになるけれども、『感覚の孤独』がいつも自分を包んでいて、感覚が共有されないことに関してとても苦しいと思っている。

それが、読書の間は、文字を通して感覚のやりとりを行うことができる。それも、話し相手は毎回選ぶことができ、気に入った話し相手に関してはほかの著書を選ぶこともできる。生身の人間相手にこれができるだろうか?

読書体験はコミュニケーションとして贅沢なものだった。実に贅沢だった。

 

 

 

本との出会い方

実は本の半分以上は、自分で購入していない。この100冊読破をはじめたとき、これもルールのひとつとして「1か月に1万円まで、専門書でもなんでも好きな本を買っていい」というものを定めた。というか、1か月1万円本をはじめたついでに100冊読破をはじめたのだ。

けれど、気になる本を購入すると1万円はすぐに突破してしまうことに気が付いた。実際、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』なんか8000円するし、買おうものならほかの本が買えなくなってしまうのだ。

というわけで、大学図書館をはじめとする近隣の図書館、スターバックス併設のTSUTAYAで本を眺めて、気になるものを手に取るというのを繰り返した。ちなみにスターバックスでコーヒーを飲んでいる間に未購入にしろ購入済みにしろTSUTAYAの本を読んでいいようだ。まんまと戦略にハマっているけど、家で本を読むのが苦手だったのでそれでも構わなかった。おかげで、近場のスターバックスの店員さんほぼ全員に顔を覚えられ、「いつもありがとうございます」とか、髪を切るたびに「よくお似合いですね」と声をかけられるなど、大変恥ずかしい思いをした。

 

 

 

100冊読破を始める前と後で変わったこと

最後なので好き勝手書いておきたい。以降に関しては自分自身の感覚だから、100冊読破をしたらこれが得られるとは絶対に保証しない。ふつう、100冊読んだところで共有できるものは謎の達成感と共に時間が過ぎたことの自覚だけだ。

 

自分は頭がよくない。

本を読んでいても内容をそれほど理解していない点において、これは自明だと思う。勿論読んだ本について検討する機会がないからというのもあるけれど、100冊程度読んだところではこれはまったく変わらなかった。

 

では変わったこととはなんだろう。

変わったというか、取り戻したものがある。それは空想だ。

空想することを、いっとき自分に禁じていたように思う。夢想したり空想することは、現実的でなく、実現可能性のあることしか考えてはいけないと自分に強いていた。逃げることを許さなかった。そんなことをするのは、夢想のすえに計画することが大抵荒唐無稽だからで、なおかつその計画の頓挫に苦しんだ過去があるからなのだけども。

考えることは自由だ。計画するしないにかかわらず、もっといろんなものを関わりたいと願うことも自由だ。自分の専門領域をある程度確立することで、そこを中心として探索行動を行うのは幼児の行動範囲の拡大にも似ている。怖くなったり、離れすぎたと思ったら、また中心に帰ってこればいい。

というわけで、多分100冊読破を始める前にはそこまで興味をもっていなかった構造物について(写真を撮るのは好きだったけど)もっと好きになったし、音楽や身体知覚についても少し言語化できるようになった。言語化するのはいい。言葉にもできず体の中に鬱滞すると、それ自体が悩みや不安の原因になる。

 

もうひとつ、取り戻しかけているものがある。それは怒り。

怒りは恐らく自分がずっともっているのに抑圧しているもので、抑圧してきたがゆえにたくさんのものを失ってきた。失ってなお、抑圧せざるを得ず、今も自分が感じているたくさんの怒りをきちんと処理できない。

それを、ひとつひとつの本の感情のない様々なシーンで、様々な文脈の違う言葉で語られることで、不満と怒りについて感情を伴わずに説明できるようになった気がする。それは怒りを正確にとらえているとは決していえないだろうけど、元に戻ることが正常とは限らないように、いちど怒りを壊してしまったら違う形で与え直すしかないのかも知れない。

結局は読書体験を通して、自分は自分と向き合い続けているだけなんだろう。

 

 

2週目を迎えるにあたって

1年を俟たずに1週目を終えてしまったので、2週目を迎えるにも自分はまだ25歳のままだ。ただ、色々負担の多かった社会人2年目に100冊読破をやろうと思えたのは結構自分にとってはメリットだったんじゃないか。このままどんどんやっていこう。30歳までに1000冊読めたら楽しいかもしれない。

そんな抱負はごく限られた個人史の文脈でしかないし、これ以上気負うつもりもないのだけど、まあ、100冊読破はいいぞ。少なくとも、悪くはない。

 

101冊目をはやく読みたい。