1.現代社会の存立構造(真木悠介)
2014年に、この本を解読する本が発刊されているようである。社会学と大きくはいうものの、括りとしては資本主義経済と労働と個人の関係性を説明しているように感じる。そしてすごく腑に落ちた部分があるのだけど引用すると長くなるので簡単にまとめると、社会学の記述の手法として、マルクスもそうしたように昨今の複雑化した社会について説明するにあたり『謎』を解くところから入るのではなく、その問題を構成する社会の様相を『解析する』『吟味する』『再構成する』ことはむしろ先行するものだということ。なるほど、と思ったのです。最近でもいっていますが自然科学は謎そのものに関してそれを研究する知識と実践する手法が整っていればすぐにでも取りかかれるかもしれないけれど、社会科学をしたいのであれば様相を読み解く必要はあるだろうなと。まあ他の本にもそんなことは書いてあるのですが。
2.内的時間意識の現象学(エドムント・フッサール)
- 作者: エドムントフッサール,Edmund Husserl,立松弘孝
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1967/04
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最近ちくま学芸文庫から文庫本が出ているのですが、以前『現象学の理念』を読んだ時と同じ訳者の方のものが読みたいのもあってこちらにしました。『現象学の理念』を読んだ頃は多分まだ100冊読破は始めていなかったか、始めていても全然哲学は読んでいなかったときでした。認知心理学あるいは神経科学の本をあれこれ読んでからこれを読むと、意識作用と呼ばれるものはほとんど知覚における作動記憶であるように思えるのですが、感情を生起させる現象と意識作用をはっきりと明確にわけた点が(それまでは同時に扱われることもあったために)わかりやすいなあと感じました
哲学は哲学それだけを知ることができないものですが、こうやって経験や他の学問に置き換えると概念が面白いのでやっぱり哲学は読んで損しないというか、充実しているなあと思うのです。『知覚の現象学』の時間の知覚バージョンという感じがしたといったら失礼なんでしょうかね。
3.自由論(アイザィア・バーリン)
- 作者: アイザィア・バーリン,小川晃一,福田歓一,小池銈,生松敬三
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2000/06/05
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われわれの知性は不完全である。…この「人間の状態」は数えきれないほど多くの諸要因の複雑な相互作用の所産であり、その諸要因のうちの少数しか知られておらず、そのうちのさらに少数はコントロール可能であるが、大部分はほとんどまったく認識されてはいないのである。それゆえ、われわれのなしうることはわずかに、しかるべき謙虚さをもってわれわれの状態を承認することである。われわれはみなひとしく暗闇の中にあり、その中で他よりもより大きな目的にめぐりあうというようなとのはほとんどないのであるから、われわれは理解につとめ仁慈を施すのでなければならない。
最初の方で、20世紀の哲学について、病気やある特性のことを治癒しなければならないものとしてとらえてしまう、結果抑圧してしまうというくだりがあり、その問題は21世紀でもひとびとの頭を悩ませているなあと思いました。20世紀には想像がつかなかった情報通信技術の発達により、それまで大して問題が明らかになっていなかった認知や発達の傾向が如実に現代社会への適応・不適応として現れたのがその証と思っています。けれど幸いなことに、我々はそれを観測する技術も同時にもっている。それを自体を幸か不幸かを論じるのはあまり適切なこととは言えないかも知れませんが、冷笑的にみることはどうしてもできないので、斯様に知覚へのアプローチが可能になった現代であえてこの本を読めることについてはたいへん幸せに思います。
非常に優れた書物だと感じたことは先にも書いたけど、後半のJ.S.ミルに関する文章はなんというか前半とまた違ってひじょうに躍動的だった。本人のことを本人よりも知っているのじゃないかと思うくらいだ
バーリンがすごいのかミルがすごいのかわからなくなってくる。政治哲学という分野にありながら科学への姿勢もすごく同意できる 合理的なことが一元的にすべての言説を支配しかねないことへの警鐘もあってとてもいい。
4.眼と精神(モーリス・メルロ=ポンティ)
最初の自我は、このように自分というものについて何も知らないし、それだけ自分の限界もわかっていないわけですが、それに反して成人の自我は、自分自身の限界を知っておりながら、同時に本当の意味の共感によってそこを超え出る能力をも合わせ持った自我になっていきます。…当初の共感は、〈他人知覚〉よりはむしろ〈自分に対する無知〉にもとづいていたわけですが、成人の共感のほうは「他者」と「他者」との間に起こるものであって、自己と他人との相違が消滅することを前提に成り立つようなものではないからです。ーメルロ=ポンティ『眼と精神』より「幼児の対人関係」
表題である眼と精神そのものについては60頁あまりにまとめられたものであり、わたしは先に『見えるものと見えざるもの』を読んでしまったためにそこから得るものは多くはなかった気がする。ただむしろ、他の講演録がめっちゃよかった。フッサールの解説とか素晴らしい。
哲学者とは、目ざめそして話す人間のことであり、そして人間はみな暗黙裡に哲学のパラドクスを含んでいます。なぜなら、完全に人間となるためには、人間は、人間より少し以上のものであり、また人間より少し以下のものでなければならないからです。ーメルロ=ポンティ『眼と精神』より、哲学をたたえて
5.はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内(野矢茂樹)
はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内 (PHP文庫)
- 作者: 野矢茂樹,植田真
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2004/08/01
- メディア: 文庫
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現代版『ソフィーの世界』という感じだ 哲学版『数学ガール』でもいいか。これ読むと、なんというか、ヴィトゲンシュタインの論考を読み直さなければならないような気持ちになる。哲学の本読みたいけどどう読んでいいかわからない人向けでもあり、哲学の基本に立ち返りたいとき向けでもあり。
「やっぱり言葉を書かないと抽象的なことについて考えることは無理じゃない?」みたいな言説が出てくるのはわたしは大変嬉しかったのです。言葉を書くことは世界を読むことです。
6.ゲンロン0 観光客の哲学(東浩紀)
ストレンジャーの偶然性と『常識』の複数性、という感じがした。あと社会的紐帯についてはこのひとのいう『家族』の概念は完全に私ももっている。それゆえにとてもしんどい。この家族というのはコスモポリタニズム的なものではなくて、もっとゆるい紐帯のことを指しているといっていいと思う。
余談だがわたし奈良で育って京都にいるので、土着の人とストレンジャーとその間、について考える機会は多かった。それが今の都市論や公共性の哲学への興味の源泉にもなっているのだけども。
7.世の初めから隠されていること(ルネ・ジラール)
世の初めから隠されていること (1984年) (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: 小池健男,ルネ・ジラール
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1984/03
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読むのめっちゃ大変やった。対談形式なのでまだ読めるといえば読めるが果たして読む意味はあるのかと思うような苦行になってしまった。が、読んでいけばまあ納得できる部分もありそうでない部分もありといった感想。
第1部では宗教的な暴力(このあたりは同著者『暴力と聖なるもの』に詳しいのだと思うが読む気力はない)に対する構造主義的分類を批判するところ。暴力を象徴的に扱うよりもある固有の文脈において解釈する必要があるであろうという。
第2部は新旧の聖書における暴力性の解釈について。第1部の文化人類学的な解釈を抽象化して模倣対象に仕立て上げてしまったのが聖書における種々の不可解な暴力でないか?という提起。第3部は当時名を馳せたフロイトやラカンを批判する。
つまり、文化人類学的・宗教哲学的観念をもって精神分析を疑い、病跡学的にしてしまうことへの警鐘を鳴らすわけなのだけど、まあいずれにしても原著はいまから70年くらい前の本で、本人は当時の精神科医かつ文芸批評に卓越したひとなので言うてることがまあわからん。
8.勉強の哲学 来たるべきバカのために(千葉雅也)
面白くて一気に読みきってしまった。ドゥルーズ&ガタリが好きなので用語の簡単な解説も兼ねてくれていてなんというかありがたい。『千のプラトー』『差異と反復』の復習みたいな気持ちも込めて読みました
何がいいかというと本の読み方が書いてあること。本を100%理解することは(真面目な本になればなるほど)できない。前半は、「勉強」をどのように進めていったらいいかわからない人向けで、後半はやっていきが出てきた人のための章という感じ。
9.世界のエリートが学んでいる教養としての哲学(小川仁志)
実際にこの本読んでるビジネスマン見たら恥ずかしくて顔から火が出る。
エリート「だから」つまみ読みをするのではなくて、本を大量に読んで処理できるような頭があるからエリートになるというそれだけのことである。ブルデューのディスタンクシオンでも読んでろ、という感じである
10.何も共有していない者たちの共同体(アルフォンソ・リンギス)
この本好きすぎて引用ばかりしてしまう。
苦しみから逃れることができない他者の介抱をする際に、そして、死を待つ他者と共に苦しむために傍に寄り添うときに、人は、世界の時間とは切り離された時間を耐え忍ぶ。死ぬには時間がかかる。
…切迫しているものは、絶対的に手の届かないところにあり、理解不能で、否定することも、相対することも、延期することもできない。切迫しているものは、未知のものであり、不可能なもの、すなわち無としてすら感受することができない。
…死が差し迫ることによって、人は、可能性にたいして自分の力を結集させることによってしか再現したり保持したりできない過去から、切り離されてしまう。人は、最期の瞬間が待っている遠い場所へと歩を進めていくのではない。人は、漂う時間の中に、どこにもたどり着くことなく進みつづけるよう強制されている時間のなかに、自分が宙吊りになっていることに気づく。死は、絶対的に、個人の歴史や人格間関係の歴史の時間の外にあって、無限に、そして遠い昔からやってくる。それは、どこから来るのでもなく、どこに行くのでもない、時間の合間で起こるのだ。ーアルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』より「死の共同体」
またねえこれ最後の文章がいいんですよ・・・
人が出かけていくのは、そこに行くように駆り立てられるからだ。人は、他者が、彼または彼女が、ひとりきりで死んでいくことのないように出かけていくのである。敏感さとやさしさと共に動かされる人の手の動きのすべてが、他者を感受する力によって、その人に向けられた命令を感知する。人は、他者のために、そして他者と共に、苦しまずにはいられない。他者が連れ去られてしまったときに感じる悲しみ、いくのでかる薬も慰めも効かなくなったときに感じる悲しみは、人は悲しまずにはいられないということを知っている悲しみなのである。ーアルフォンソ・リンギス
なにとはいわないが、臨床の人にはほんとうにお勧めしたい1冊であります。