これらは評論でもなく、紹介でもなく、考えさせられたことの書き留めに過ぎません。
時にネタバレのような要素を含むかも知れませんし含まないかも知れません。
『ヴィオレット』-ある作家の肖像-
http://unifrance.jp/festival/2015/films/film08
今日観てきました。
まず恥ずかしながらわたくし浅学にして彼女の作品を読んだことがないのですが、まあそんな難しいことはええやみたけりゃみりゃええねんと突っ込んできました。
▼最初に抱いた印象:同性愛者多い
出てくる人出てくる人同性愛者または両性愛者でなんかびっくりしました。さすがフランス。さすが...というべきなのかどうかはわかりませんが。
愛されたいヴィオレッタの慟哭を聴いていると、彼女は愛されていればそれでよい、つまり性別は問わないのやなあと思います。
ボーヴォワールの言葉が蘇ります。『彼女との間に友情は成立しない』。
友情も友情で素敵な愛の形だとは思うのですが、つまり独占欲や支配欲に負けるということですね。博愛の反対が偏愛だとしたら、偏愛に偏重しているのでしょう。
性別がどうこうの前に、愛し方、慈しみ方を教えてもらえていない人はとても苦労しなければならない。
▼フェミニズムに巻き込まれることについて
ボーヴォワールが好きすぎたので彼女について書こうと思います。
作中、『ヤツはインテリ女だから』などとジュネに評されるシーンがありますが、その通り彼女は作家でありながら哲学者でもあります。
ここに悲劇の一端があるような気がする。
ボーヴォワールについて、名前くらいは聴いたことがありますが、著書も知らなければ略歴も業績も知らないので、映画のあとに追加で少しだけ調べました。
作中においてもなかなか情熱的な女性で、当時の女性としては異例ともいうべき有能な女性です。まあ勿論どの学術分野でも秀でた女性というのはいたのですが、彼女は哲学の分野で実存主義を展開していく傍らフェミニストとしても活動した人でありました。
その彼女が、ヴィオレットという破天荒な女性に手を焼きつつも心惹かれる要素はあったように思う。ボーヴォワールは聡明な女性です。語る以外にも学問を紐解く術を持ち、自分の見せ方を知っている。自分の価値もよくわかっている。反対に、ヴィオレットは自分の価値を全否定し、語ることのみが彼女のよすがです。そしてそれを見抜いたが故に彼女を叱咤し、支持する。それがヴィオレットを時に傷つけ破滅的状況に追いやるとしても、彼女を社会の前に掲げることを躊躇しない。
そういう人でなしなところが、いや優しい人なんですけれど、理想の実現のためならば手段を問わないところがたまらなく好きでした。姉貴一生ついていきます(まず本を読めよ)。
▼界隈の交わりについて
ゲランがいきなり出てきてびっくりします。たまたまゲランの口紅つけて映画観に行っていたので。
ボーヴォワールはサルトルと、ジャン・ジュネはゲランやコクトーと。
まるで若かりし日の美輪明宏氏が銀巴里で文壇の重鎮と交わったように、芸術が交わるシーンって魅力的なんですよね。ココ・シャネルの映画でもそんなシーンがあったように思うのですが。
サルトルの『弁証法的理性批判』、『存在と無』、『嘔吐』くらいはさすがに私でも聴いたことがあるのですけど、読んでいたらもっと面白かったのかも知れません。
なお上記2名に関しては『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』という別の映画があるそうな。
コクトーの項目を繰るとココ・シャネル、サティ、ピカソ、まあそこはわかるとしてディアギレフを通じてニジンスキーにまで人脈が広がっていたことがわかります。
この時期の社交界というか芸術界、実に狭くて、今もきっと狭いのでしょうが、こうも知った名ばかりが連なると驚きます。ちなみにコクトーはストラヴィンスキーにも出会っているようです。世間狭い。まあロシア人はフランス大好きですからね仕方ありませんね
▼哲学と文学の差異について
哲学というのは特に滅びの美学を含まない、という前提です。そもそも美学ではないので。
哲学は学問だが文学は芸術の一部という見方をしています。
あくまで文学の立場にいるヴィオレットと、哲学の立場にいるボーヴォワールではそもそも立脚点が違うのです。
▼ヴィオレットについて
一貫してヴィオレットは実に行動が荒っぽい。自暴自棄です。演出上の問題でしょうが、足音は大きいし扉を閉める音もガチャンバタンとうるさいものです。
ただのうるさい女だと思うひともいれば、ああ彼女の気持ちわかるなあという方もおられることでしょう。
私は彼女を見ていて、親友を思い出しました。今どこで何をしているかもわからぬ親友です。彼女はある時、そうですね、大学生くらいのときに言いました。『なんでもできていいねって言われるのすごく腹が立つ。絵なんか描かなくていいなら、とっくにそうしてる』と。彼女は美大生でした。いや今もどこかで美術を学んでいます。多分。
芸術をやるということはそう簡単なことではないのです。文字を書くということもまた、私的な文章であればあるほど、身を裂くような作業であることでしょう。ヴィオレットの作品に大幅な削除が入るとき、『私がばらばらにされる』と表現しましたが、まさにそのようなものです。
で、私はボーヴォワールが好きすぎるので、そんなヴィオレットを支えるボーヴォワールの役回りが本当に美味しいなあと思わざるを得ません。
映画『アマデウス』に出てくるアントニオ・サリエリのように、いやボーヴォワールは成功者でしたけれども、同時にヴィオレットのよき理解者・評論家であったのです。破天荒な人間の理解者・評論家であり続けることは並大抵のことではありませんから。
▼書くことについて
これは映画の感想ではなくあくまで考えたことであるので、徐々に思考が自分の側へ引きずられていくことをお許しください。
『書く』ということは、それだけで苦しみも生むし救済もします。それくらい言葉の呪は実感を伴ってやってきます。
Twitterをするずっと前から、はてなブログなんかをするずっと前から、物書きをしてきました。何度も何度も。もう残っているものはほとんどありませんが。
それは誰のために書いていたわけでもなく、多分自分のために書いていたんでしょう。
『書くのよ。あなた自身のために』と作中何度もボーヴォワールが言うのですが、まさにその意志に駆り立てられるように様々な物事を書き留めてきました。今もそうです。後から読み返したらきっと意味がわからないでしょうが、今書くことに意味があるのです。
楽器を弾いたり写真を撮ったり、なにか表現をする方法はほかにも持っているのですが、『言葉にしなければならないとき』というのもまたあるのです。たとえ伝わらなくとも。
ごちゃごちゃ考えていたら本当にごちゃごちゃになりました。整理する気も起きません。では。