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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

私たちにとっての、象徴としての『がん』について

 

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 上

 

 

 

病の皇帝「がん」に挑む ―  人類4000年の苦闘 下

病の皇帝「がん」に挑む ― 人類4000年の苦闘 下

 

 ええと、読み終わりました。

実は数日前にハヤカワSFから文庫本が出たそうです。それに便乗したともいえないのですが、いや大判で読んでもよかったです。

 

 

一応感想文らしいものから入る

粗筋は私のようなへっぽこが書いたところで少しも物語の面白さを損なわないでしょうからネタがバレても問題はないでしょう。というかネタはがんの歴史そのものなのだから、最初からバレているのです。私のような素人がかみ砕いて書いてしまうことで、面白さを損なわないかだけが心配です。

 

まあ、まず舌を捲くのは筆者が読者の心を掴むその手法の鮮やかさですよ。筆者は医師であり医学研究者でもあるため、日々の患者の診療に――つまり臨床にも携わっていて、ある患者の治療の話から始まります。身近な、ありふれた病として。

そして「がん」というやまいそのものについて、いつ「がん」が識別されたのか、その頃にはどういう絶望を(患者と医療者の両方に)もたらしていたかという話が出てくる。がんを識別するには白血病のような非固形のがんと固形のがんがありますが、その両方をまず前に出す。本質はいずれも同じものですが、19世紀半ばほどになるまでがんというそれそのものがあまり医学における時代の主流ではなかった。それまでにはずっと、人間の敵は感染症、つまり外来生物であったわけですから。

 

「がん」を「がん」として識別することから戦いが始まるわけですが、めくらめっぽうにも見えるその暗中模索のひとつひとつが隔世遺伝的に後の発見につながっていてとても面白いです。

 

 

 

がんという言葉のもつ威力

かつてはがんという言葉は、致死的な病を意味し、つまりそれだけで激しい苦しみの末の死を予告するものでした。がんが必ずしも死ぬ病ではなくなったのはつい最近のことで、そもそも結核が死ぬ病ではなくなったのも100年単位でみるとつい最近のことなのを思えばがんの治療の歴史はまるで長い長い感染症との戦いを凝縮したもののようにも思えます。

 

感染症を次々と見つけていた時代においても、がんは沈黙の疾患であり続けたという記述が良かったのです。我々の時代にはがんは治る病気になったけれど、それでもかつて社会が与えたスティグマも、宣告によって本人の受けるダメージも他の疾患とは違う。かつての日本における結核や、癩病(ハンセン氏病)のようなものかも知れません。

本文中では、無菌操作が確立する前の手術療法、炎症性乳がんが与える視覚的恐怖、急性骨髄性白血病の展開の速さ、と病の不穏な影がちらつきます。
なお、がんの歴史は上巻の1/3を超えてもまだ20世紀に入りません。

 

 

 

手術療法もアツいが化学療法はもっとアツかった

私が学生を始めたときには既に、化学療法は素人の耳にも決して「切れなかったからやるもの」ではなくなっていました。1990年代には、固形がんが切れなかったら絶望の二文字が待ち受けていて、たまに見ている2時間ドラマなんかで出てくるがんの姿も大概そんな印象でした。

 

ハルステッドの拡大(根治的)乳房切除もなかなかの狂気を感じましたが、どちらかというとそれ以前の(つまり化学療法が登場する前の)実験じみた剖検を含む麻酔の開発前後の手術療法の方が私の目には鮮やかに写りました。

手術、つまり外科的治療はあらゆる疾患に施されます。機械的な侵襲、目に見える変化というものはむしろ血管外科(三大疾病でいうところの心臓病、脳卒中)でも活躍するので『がん』そのものの治療としては限局的なのですよね。

どちらかといえば無菌操作技術の確立や初期に麻酔が導入されたときの書き込みがちらりとあったことの方がよかったです。つまり手術療法には手術療法という、他にはないノンフィクションと歴史があるのです。古代エジプト文明だかマヤ文明だかで既に穿頭術があったやらという話から始まるドラマが。

 

さて、化学療法の話は象徴的に現れた白血病の小児に対する化学療法が最初。

がん自体は今でこそ細胞の老化が強く関係していると知られています。そんな中でやはりあるべき寿命がごっそりもっていかれる小児の白血病は悲惨さでも進行の速さでも群を抜いています。

まあそもそも血液のがんをがんと見抜くまでに紆余曲折があるんですが(それもめっちゃ面白い)、葉酸代謝拮抗薬を作り、植物性アルカロイド薬を作り、それらを併用しだすときが研究者としての熱意と狂気に満ちていてすごくいい。何がいいかっていうと、それまで打ちひしがれるしかなかった病の対象に、患者のQOLとか度外視してとにかく叩き潰してやりたい、今まで負けていたものに負けたくないという意思を感じるのがいい。

かつての、治療よりも悲惨だった『副作用』の恐怖の元型がそこにあります。

 

 

がんのキャンペーンとがんの予防のキャンペーン、そしてHIV

でまあがんを取り巻く社会情勢も勿論間に挟まってくるのですが、がんがそもそも人知れず広まった疾患であり研究としてもまったくメジャーでなかったときから、それを周知できるようになるには臨床家や一握りの研究者の力ではなし得なかったというくだりが非常によかった。

政治活動に明るい人物の協力やマスメディアに訴える広告を経てがんそのものが広く知られるようになり、そして喫煙や放射線が関連因子であることが明らかになる。喫煙を防止するための活動のくだりも実に興味深いです。なんかもう自分の言葉が足りないお陰で興味深いとしか言えませんが。

舞台はほとんどがアメリカなので、下巻になるとHIVを取り巻く社会情勢なんかも出てきます。それはきっと他の本でもっと詳しいのだろうけど、レトロウィルスや免疫不全といった状態について書かれているのがちょっと良かった。

 

 

 

上巻だけ読んで思ったこと

①人生の操縦桿を握ることについて

がんを放置せよという論を展開した人が日本人にいます。彼は医師でありながらがん治療について根本から否定し、化学療法も手術療法も否定しました。

がんという疾患は言われてみれば確かに確かに慢紛うことなき慢性の、全身性の、消耗性の疾患で、どんな治療をしても転移や再発をすることはあります。全身状態がそれ以上の侵襲的治療を許さないこともあります。
ただ死なない人間は誰ひとりとしておらず、その死までの道をあくまでコントロールされた疾患と共に歩むのであれば、その生は十全に補われたといえる域に今の人々は達しているようにも思えます。

そんなコントロール可能な疾患を放置するというのは、かつて治療法が確立されていないときに選択されていたもので、生きたいと願う気持ちとありのままでいたいという現実の否認をしたい気持ちを上手く汲み取ったある種の宗教的活動といえるように思うのですよ。

人間は死ぬことに対してそこまでの自らの生を選択できる段階に達しているにも関わらず、そのコントロール方法についていきなり操縦桿を渡されてもそれを握りしめることに対して恐怖を感じている状態なのかも知れないなあと考えさせられます。今までは医療者が握っていた操縦桿を、いきなりどうにでもできる、お勧めはあるが決定権はあなたにあると言われて戸惑ってしまう。正しい選択肢を選びたいのに、そのために参考にする情報にアクセスするだけの知恵がない。

 

上巻だけ読んで思ったこと

②医療否定派と、現代の科学に追いつかない宗教の狭間に

2014年12月、アメリカの某ランドで麻疹が集団発生しました。麻疹そのものはワクチンが開発され、既に公衆衛生の向上によって制圧されつつある疾患です。

ただワクチンを打たなければ特定の抗体を持つことができませんから、勿論かかります。
それはかつて西洋世界が持ち込み、アメリカの先住民を根こそぎ殺した天然痘の歴史のように。
なお、ご存知の通り天然痘はワクチンの普及によって駆逐され、今は研究所に保管されるのみとなりました。
今、天然痘の他に駆逐された病原体は他になかったように思います。ちなみにウィキペディアの日本住血吸虫の項目を読むとめちゃくちゃ滾ります。住民と医師と行政の戦いがよい。まあウィキペディアなので読み物程度ですが。

 

がんと双璧をなすのが各種感染症だと思っているのですが、その辺りは『銃・病原菌・鉄』もなかなかいい本です。

医療否定をしてしまうのって結局、他のものが制圧され過ぎてしまったからなんですよね。感染症が制圧されると感染症の予防に鈍感になるし、がんが人知れず進行する病気でなくなったからこそ治療に鈍感になる。彼らは恐らく歴史にアクセスする知恵や、アクセスしたとしてもそこからエッセンスを吸収する機知に富んでいなかったからなのではないかなと思います。

だからというわけではないのですが、私はあまり無知を責める気にはなれんのですよ。知らないなら根気強く教えるしかないのです。

 

 

下巻も読んでいま考えていること

①結局わたしたちはその成果が身体化したものを扱っているに過ぎない

医学の目まぐるしさに対して、私たちの業界は一見実に緩慢なように思えます。それは何かが「発見」されるようなものではなく、社会情勢と共に、医学の進歩と共に、人間の発達と共にあるからなのかなあと思ってやみません。

いつの時代も(少なくともかのナイチンゲールが根本を覆して以来)やっていることはそこまで大きく変わっていないように思います。必要なことを、適切なときに、正しい方法で行うというただそれだけです。ただそれだけのことですが、対象が変化するにつれて私たちが行うことも当然変わります。それが科学と呼ばれるのかどうか、私にはまだわかりません。

ただ、治療が変わっても時代が変わっても私たちが相手にしているのはいつも「にんげん」なのです。たとえばがんの治療が最初は「黒い胆汁」、そしてがんという固形物あるいは細胞、そして今や分子レベルになったとしても、その侵襲的介入に身も心も苦しむ「にんげん」という存在が何か大きく変わるわけではないのです。強いて言えば、支え方は少しずつ変わっていくのでしょうけれど。

目覚ましい発見と進歩に伴って最終的に出てきた表現型として、あるいは結果としての「にんげん」を支えているのが自分たちなのです。ああそりゃあある程度相容れないところもあるかもしれないし、相容れるとしたらそれは領分の取り合いではなくて恐らく受け取った治療のバトンをにんげんの生活に組み込むことなのであろうなとなんとなく思いました。

 

②キャンペーンすることの大切さ

なんであれ、人に知られなければ意味がないなと前々から思っていました。

がんは他の疾患が制圧されることでおのずから頭角を現し、そして臨床家と患者の苦しみは啓蒙されることで広まりました。そうしなければ注目されることもなく、それについての誤解もとけなければ理解も得られないのだなと。いや当たり前のことなんですけれどねなんとなく。

 

今の日本でいうならば保育士介護士の低賃金であるとか、女性やら若者の貧困だとかまあなんでもいいんですけど、必要な機関の助力を得るための効果的なキャンペーンはいつでも大事なんですよねえ。非効果的であってはならない。それは余計な誤解を招くから。ただ適切であるということはとても難しいし、最初は手あたり次第に手をつけなければならないのだけど。

 

力が欲しければ発言力のある人を味方につけるしかない、というのはなんとも非合理的で面白いですが、社会ってまあそんなもんやねんなと思い直すのも心なしか楽しい作業でした。

いま私はすべての疾患の中でもわりと希少な疾患を扱う科にいますが、きっとそれも他の疾患の治療がある程度成熟したいま、いずれもっとスポットがあたるだろうと思わざるを得ません。今はまだ解明されていないことが、道が拓けたように理路整然と説明され、今までの治療やケアがまるでナンセンスだったことが証明される日がくるのを楽しみにしています。もっとも証明するにはナンセンスな治療やケアが必要で、やまいに倒れる何万人もの命が必要で、それに携わる限りない人の手とお金が必要なんだなあと途方に暮れたりもしますが。

 

死ぬのもわるかないです。でもできるだけいい生であったといえるように戦う、多分いまの慢性疾患や終末期に対する治療・ケアのスタンスってそんなところじゃないでしょうか。いやわかりません。私だけかもしれません。

 

全然話は違うところに着地しましたが、もともと感想文を書く気はさらさらなかったのでこれくらいで筆をおくことにします。本当はもっといろいろ書きたかったのですが。