毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破 4周目(41-50)

1.解明される意識(ダニエル・デネット

解明される意識

解明される意識

 

解明される宗教、思考の技法ときて3冊目のデネット氏の本です。確かにチューリングチョムスキーに影響を受けていそうなと思われる機能主義・言語学的(いや機械言語的?)な思考の展開で、読んでいて飽きないといえば飽きません。これを読んで楽しいのは、むしろ理学系の人かなあという印象がありますが、文系の自分が理論を通して理学的なものの考え方に興味を持つことができるのもまた嬉しい話です。ただ、前提となる知識が認知科学全般とコンピュータ科学になってくるので読むには心して挑まねばなりません。

満を持して挑んだだけあって楽しかったです。難しいですが。1年以上前から読みたいとは思っていましたが、あの頃に読んでももっとわからなかったでしょう。心の哲学のなかでもハードプロブレムに切り込んでいるのが7-8章にかけてだったんですけど、クオリアは意識の付帯現象であるという説明がなされていました。

神経科学的アプローチという意味ではチャーチランドの「物質と意識」があるんですけど、正直あれに関しては私はちょっとまだ理解が及ばなかったところがあります。デネットは多元的草稿モデル(感覚の入出力が常に編集され続ける)ことを唱えて、カルテジアン劇場という争論に決着をつけます。ヘテロ現象学に関しては主観にすべてを依拠することを廃した現象学、という印象を持ちました。訳者あとがきに書かれていたのですが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を再編したような感じだと書かれていて大変うれしくなりました。まあそこまで比較できるほど他を知らないんですけど

あと認知言語学的にアツいのは、「入力された言語の処理」は機械も人間も解析が進んでいるのに、「どうやって出力していくか?」には焦点があてられていないのでは、という問いでした。つまり思いが言葉になり、言葉(道具)になった概念を再獲得することでさらに思考を進めるという過程ですね。このあたりは確かに今までに読んだ言語学の本にも哲学の本にも神経科学の本にもなかったような気がします。もしかしたら難しそうだから私が意図的に避けていただけかも知れませんが。

デネットはさかんに生物学者リチャード・ドーキンスの引用をしますが、ドーキンスを引用することで斥けられるのは哲学のうちの「ナンセンスな議論」だけだと思っています。デネットは「解明される宗教」で、ドーキンス以上にずっと前向きな宗教の覚知を進めていて、それはドーキンスの半ば過激ともいえる無神論と相容れません。進化生物学、進化心理学は勿論「道具」として用いてはいますがそこに本義があるわけではないので、そこから導き出される新しい議論に関してもあくまでデネットが授けてくれているのはまさに「思考の技法」(=道具)なんだなあと思うなどしました。

 

2.有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論(カンタン・メイヤスー)

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

 

哲学とはつねに、その分身である詭弁――曖昧であり、構造的でもある分身――すれすれのところで、奇妙な議論を発明することである。哲学することはつねに、オリジナルな論証の領域を必要とする、ある観念の展開である

 

(中略)その観念を擁護し探究するには、オリジナルな論証の領域が必要なのであり、その論証のモデルは、実証科学にも――そして論理学にも――これまで想定されてきた正しい推論の技術にもないのである。だから哲学にとって推論を統御する内的方法を生みだすことは本質的なことである。さまざまな測量標や批判が、全体として新たに構成されたその領域に、その内部において合法な/不法な言明を分かつ諸限界を導入するのである。ーカンタン・メイヤスー

 

もはや神秘的なものは存在しない。それは、問題が存在しないからではなく、もはや理由が存在しないからである。ーカンタン・メイヤスー

 

米森氏の「アブダクション 仮説と発見の論理」が科学に関する哲学だとしたら、この本は哲学に関する科学(ではないのだが)のようでした。分析哲学現象学(を含む大陸哲学)を再検討するにあたり、数学的(または弁証法的)矛盾と、その矛盾の論理的許容を用いる。もっとも私にはよくわかりませんが。

惜しむらくは私自身がヒュームの言説というものをよくわかっていないし読んだこともないということなのですが、4章(本書は5章だてである)をひとつまるまる割いて検討しているにもかかわらずなにをいっているのかさっぱりわからん状態が発生したので、折角だしヒューム読むかーという気持ちです。

科学哲学、結構入口が難しいなと思っていましたが現代の哲学者がこういう考え方をしておられるなら悪くないな、もっと読みたいなという気がします ウィリアム・フィッシュ「知覚の哲学入門」も今度もう一度読書会で取り組む予定なので楽しく読めたらいいなと思うなどしました。

あとこの本を翻訳した主訳者が千葉雅也氏(「勉強の哲学」の著者)なのですが、千葉氏による生成変化についての試論「動きすぎてはいけない」を前読んだときさっぱりわからずついていけなかったのを思い出しました ドゥルーズを読み始めたころだったのでそらそうなるやろという感じですが・・・現代の数学(というか計算機科学)の領域を概観する哲学、というか哲学が科学に概観されているのかも知れませんが、いいレベルにいるのだなと思います。哲学は科学の発展に伴って観念を絶えず変化させることができるし、そのスピードがあがれば哲学は「勝手に考える」。走らせるのは人間ですが


3.道徳感情論(アダム・スミス

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

 

日経BPの訳、読みやすかったのでお勧めです。

いい文章が本当に多くて、引用が多いのをお許しください。

隠棲して思索に耽り悲嘆や怨恨を深く内省するような人は、慈悲心に満ち、寛大で、道義心に秀でることが多いかもしれないが、世慣れた人にごくふつうにみられる安定した気分はめったに持ち合わせていない。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

言葉が引き起こした苦悩は、言葉とともに消えてはくれない。私たちを何よりも悩ませるのは、感覚の対象物ではなくて、想像が生む観念なのである。不安を引き起こすのが観念である以上、時が経ち、新たな出来事が起きて記憶からいくらか拭い去られるまでは、想像力はいつまでもその観念を思い出させ、心を苦しめ疼かせる。ーアダム・スミス道徳感情論」より第2篇「さまざまな情念が適切とみなされる度合いについて」

 

徳は愛し報いるべきものであり、言い換えれば愛され報われるにふさやしいという顕著な特徴を備えている。逆に悪徳は、嫌われ罰されるにふさわしいという特徴を持つ。だがこれらの特徴はどれも、他人の感情を直接の拠りどころにしている。徳が愛し報いるべきなのは、それ自体が愛や感謝の対象だからではなく、他人に愛や感謝をかき立てるからだ。徳がこのように好まれると知っているからこそ、徳の実践は心の平穏や自分に対する満足感を伴う。逆に悪徳が嫌われると知っているからこそ、悪徳は苦悩を伴う。愛されることほど、そして愛されることにふさわしいと感じることほど、しあわせなことはあるまい。また、憎まれること、そして憎まれて当然だと感じることほど、ふしあわせなことはあるまい。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

慈悲心に満ちてはいるがほとんど自制心を持ち合わせていない人が世の中には大勢いる。この人たちは無気力で優柔不断であり、困難や危険に遭遇すると、名誉ある使命の遂行中でもあっさり挫けてしまう。その一方で、完璧な自制心を備え、いかなる困難や危険にもけっしてひるまず取り乱さない人間もいる。この人たちはどれほど大胆不敵で無謀な企てにも乗り出す気構えはあるが、しかし正義や慈悲といったものはすこしも感じないように見受けられる。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

思慮深い人は、必ずしもとびきり繊細な感受性の持ち主ではないが、つねに友情には篤い。ただしこの友情は、未熟な若い人の無邪気な心を魅了するような熱烈で移ろいやすい感情ではなく、試練を経て選び抜かれた少数の友人への揺るぎない誠実な愛情である。こうした友人は、輝かしい業績に対する軽々しい感嘆からではなく、謙虚、分別、善行に対する冷静な敬意に基づいて選ばれる。ただし、思慮深い人が友情を結べるとしても、一般的な意味での社交性に富むとは限らない。陽気で快活な会話の飛び交うはなやかな社交界に顔を出すことはめったになく、主役を演じることはさらに稀である。社交界のような場は日頃の几帳面な節制を妨げ、不断の努力を邪魔し、厳格な倹約に反することがあまりに多いせいだろう。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

この日経版、アマルティア・センが序文を書いているのですが、アダムスミスの著書でより有名な「国富論」に優りこちらが読まれるべき理由として彼(セン)の功績以上に説明になるものはないと思います。

デカルトの情念論よりもさらに社会における人間の心理に踏み込んでいます。今読まれるべき本だなあと本当に思いますし、これは人にお勧めできますね・・・

 

4.インド思想史(J.ゴンダ)

インド思想史 (岩波文庫)

インド思想史 (岩波文庫)

 

印哲きになる!というてたら、Twitterの方がお勧めくださった2冊のうち2冊目。ちなみに1冊めは、中村元の「慈悲」。あれもよかったです。デカルト読んだ後に本書(インド思想史のほう)を読むと、ウパニシャッド哲学はよく似た捉え方してへんかと思ったりします。意識と対象の捉え方とか。西洋哲学読み慣れた人にも読めるというか、仏教の教義についてというよりその先駆となるインドの自然哲学の連綿を繙いてくれます。しかもすっきりと読めて中庸である。これは素晴らしい

ナーガールジュナちょっと読んでみたいなあと思いました。

 

5.6.微生物の狩人 上・下(ポール・ド・クライフ)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

 

 

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

 

 出てくる人の頭がそろいもそろっておかしい。おすすめです。

道学者先生たちはーーその中にはなんた医者も大勢いたのであるーーこのメチニコフの実験に対して喧々囂々の非難を浴びせかけた。「こんなに容易な、しかも完全な予防が広がるようになればーーまるで不道徳に対する刑罰をなくしてしまうようなものだ!」と、彼らはいった。しかし、メチニコフはこう答えただけであった。「この病気の蔓延を防ごうという試みは不道徳として反対されている。しかしいくら道徳的だといっても、梅毒の恐ろしい蔓延や、罪のない者までを巻添えにしてしまうことに対してすべての予防策が何の役にもたたぬとなってみれば、この業病と闘うにあたって幾らかでも有用な方策があるとした場合、これを差し控えることこそが不道徳ではないか。」ーポール・ド・クライフ「微生物の狩人」

 

サルバルサンを成功させたところで終わりでした。いやーほとんど全員がマジキチ(褒め言葉)なので非常に面白かったです。内科的治療というのはかくあらねばならぬ…(「病の皇帝」同様、病態の解明と薬品の開発・治験というのはもはや狂気じみた情熱と隣り合わせなのがとてもよいです)岩波文庫なので心して取り組んだのですがなんのことはなく、とても躍動感ある読みやすい文章でした。軽率に殺されるウシ・ウマ・サル・ヒツジ・モルモット・ネズミ・イヌ…動物愛護団体が聴いたら発狂しそう。

微生物学というか感染症にまつわる研究というのは常に公衆衛生上の問題解決を導くものですが、本書はそれをあえて傍流とし、それを惹き起こした人々の業績と行為、その絡み合いについて詳細に述べています。このあたりが病の皇帝との違いだろうか。農耕を中心とした世界史、化学(レーウェンフックの時代にあってはまだ科学全般も揺籃の時期であったわけですが)、生物学などと密接に関わりあるのが微生物の世界なので、めっちょ面白いのですよ。高校生くらいで読んだらこれはもう確実に大学生活をエンジョイできるやつだ。

 

7.8.孤独な群衆 上・下(デイヴィッド・リースマン)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

 
孤独な群衆 下 (始まりの本)

孤独な群衆 下 (始まりの本)

 

他人指向的な人間にとっては社交性の欠如は社交性の過剰よりもはるかに深刻な問題なのだ。じぶんを指導し、かつ認めてくれる「他人たち」が存在していることこそ、かれの同調性と自己合理化のためのもっとも重要な要素なのである。かれの性格そのものが社交性を要望しているのである。かれから社交性をうばってしまったらかれは自律的にはなりえない。かれはアノミー型になるだけである。アルコール中毒や薬品中毒の患者からとつぜん酒なり薬品なりをとりあげたらたいへんなことになる。それとおなじように、他人指向型の人間から突然社交性をうばうということは不可能だ。しかも、他人指向型の人間が自律性を求めることは独力で達成することができないのである。かれはつねに友人を必要としている。-デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』

この本のバックグラウンドをあまり知らずに読んだのですが、アメリカ版『菊と刀』という感じです(実際版を重ねた訳者あとがきにもそのことが書いてあった)。イェール大学からのペーパーバックとして出版されたらしい。一般人が読める専門書という位置づけですかね。下巻前半部では、社会的個人がいかにして政治に向き合うか、といったことが話題になります。このあたりはJ.S.ミルの『自由論』やエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』に負うところが多い印象を受けました。後半部の階層化社会に関しては、それブルデューでいいのでは・・・という気もしましたが『孤独な群衆』の素晴らしいところは、メディアと個人との関係を詳らかにしたことにあると思います。全編通じて、マスメディアが個人と社会の関係や社会的個人の考え方・行動に与えた影響をよく論じています。マクルーハンの『メディア論』よりも前だというならなおのこと価値がある。この本は社会学としてというより公共哲学の本で確かよく取り上げられていたんですよね。なるほど確かに公共哲学といえばかなりしっくりきます(まあだからなんだと言われるとそれまでなんですが)。社会学としては今から振り返ると観念論っぽいです。

 

本の内容自体は社会心理学的な社会学、といった風合いです。これはいかにも現代的な書き方ですが、社会心理学というものが「社会で生活する”個人についての”心理学」というような解釈だと思っていただければ幸いです。大衆の行動傾向について論じるものではありません。本文中でも触れられていますが、フロイトによる精神分析の煽りを社会学も大いに受けており、小児の発達の解釈にに心理学・精神医学が繁用されていたバックグラウンドがあります。これに対して、リースマンは社会の様相の変化が個人の発達様式や教育の在り方に影響していると指摘しています。

内部指向型と外部指向型(対人関係を重視する)発達の違い(そして何がそれをもたらしたか)にマス・メディアによる教育効果を挙げたのは恐らく彼の功績なのだろうと思います。内部指向型の人間、なるほど今の団塊の世代に多いなと思いました。彼らはバイブル、ないしバイブルになる理想の人間像を持っている。私が先日ご飯どころで押し付けがましくフロムの「自由からの逃走」について語られたのも、それを重視する教育の志向性からでしょうか。

なお高度に教育された内的志向型の人間は(たとえば)サラリーマンなどの生産的なことに価値を見出さない傾向にあり、研究的な事物に執心するとありましたが、現代においてはそもそもサラリーマンになることすら難しく、かくも社会が研究を尊重しない時代ですので現代社会のYAMIを感じます。

 

まあそんな話はいいとして、外的指向型の人間は他者からはみ出ることよりもある程度他人と足並みをそろえることを望む傾向にある、みたいなのを読むとこれはメディアの発達に伴ってさらに加速しているなあと思わざるを得ません。このへんは書いてあることではなく自分が読みながら考えていたことなのですが、現代においては発達段階で個性(秀でた部分にしろ劣った部分にしろ)をそのままにしておくのはとても難しくなってきているなあと感じます。個人を点、社会的な繋がりを線とするなら、線を大事にするあまり点としての自分を見失ったり、点として際立てば線を失ってしまったり。それを学校教育でなんとかするのも、家庭の教育でなんとかするのももう無理が嵩んでいると感じます。公教育においてはバックグラウンドがより多様化しつつあるため、表層の問題を解決するだけでは何度も同じケースを(より深刻な形で)教育者が経験することになるでしょうし、家庭の教育に依存した場合、核家族は内部志向型よりさらに昔の伝統志向型教育を失っているので、文化資本社会関係資本という「個人を育てるために必要な社会資源」を持たざる者はより孤立するという状況に陥るのでしょう。「何かしても貧しいが、何もしなければさらに貧しくなる」苦しみがやってくる。

じゃあ点としての個人の教育はどうやって救われるだろうかと思ったときに、自分は前ならサードプレイスとして、都市における公共空間がある程度教育的であることを目指せるかと思っていたのですが、リースマンはメディアの可能性を指摘していましたね。まあ今や惨憺たる有様ですがそれでもメディアというものを広く捉えた場合に、確かにないよりはあったほうがいいメディアというものがたくさんあるんですよね。それだけに頼ることはもちろん不可能でしょうが、線を利用して点を豊かにすることに関しては期待できる分野がいくつもありますね。

 

9.重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)

 

 頭痛に襲われて痛みがひどくなる途上で、ただしいまだ最悪の状態には達していないときに、だれかの額のきっかりおなじ箇所を殴って、その人を苦しめてやりたいという烈しい願望をつのらせたことがあるのを、忘れてはならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

みずからの根を断たねばならない。樹木を切り倒し、それで十字架を作り、日々、この十字架を担わねばならない。社会的にも植物としても自身の根を断つこと。(中略)だが自身の根を断つときは、より多くの実在を求めているのだ。(中略)都市はわが家にいる感覚をもつこと。(中略)不幸にも、根づきを変容させる手掛かりも得られぬままに根を失ってしまうなら、いかなる希望が残されているというのか。ーシモーヌ・ヴェイユ

 

精神の領域において、想像上のものと実在的なものをいかにして区別するのか。想像上の楽園よりも実在の地獄のほうを選ばねばならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

貴重なものが傷つきやすいのは美しい。傷つきやすいのは存在の徴だから。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

 追求する対象のまえで一歩退くこと。迂回のみが功を奏する。まずは後退しなければ、なにも始まらない。梃子、船舶、労働全般。葡萄の房をむりに引っぱると粒が地面に落ちてしまう。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

執筆とは出産である。もう限界だと思える努力をせずにはいられない。だが行動もおなじだ。もう限界だと思える努力をしていないのではと危惧する必要はない。自己に嘘をつかず、注意をこらしていればよい。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

われわれは他者を読み、同時に他者から読まれてもいる。複数の読みの相互干渉。われわれの読みどおりにおまえ自身を読めと他者に強いる(隷従)。われわれ自身についての読みどおりにわれわれを読めと他者に強いる(征服)。(中略)他者というものは、当人をまえにして(あるいは当人を思いうかべて)われわれが読みとるものとは別物たりうることを、いつでもすみやかに認める心構えでいなければならない。あるいはむしろ、他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である、それどころか似ても似つかぬ代物であることを、他者のうちに読みとらねばならない。だれもが自分にたいする別様の読みを求めて沈黙の叫びをあげている。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

隣りあう独房にいるふたりの囚徒は、壁を叩いて意志を伝えあう。壁はふたりを隔てるが、意志の疎通を可能にもする。われわれと神も然り。あらゆる隔離は一種の絆である。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

カイエ(雑記帳)の一部である本書は、全編を通して散文形式の短い節の連なりで作られます。短い評論(評論としてはあまりにシンプルだけど)に近い。最早Twitterかと。彼女がいかに多くの本を読み、それについてそれぞれ深い洞察があり、自分なりの解釈をしていたか感じられる文章です。

ボーヴォワールを彷彿とさせるけれど、彼女が敢然とペンを揮うひとであったのに対して、ヴェイユはとても慎ましく、内気で繊細な文章を書く。なにかに否定的でも、口撃することのなさそうな。

重力とは往時の生活における(彼女の生を全部に渡って支配していた)時代の要請による暴力や抑圧を指し、恩寵はその名の通り神による救済を指すようだけれど、これ自体を論じた篇は私はあまり得心がいきませんでした。神に祈るということをあまりしたことがないからかも知れないけど

ヴェイユの博学は大陸哲学や神学のみに留まらず、数学や言語哲学、東洋哲学に及んでいた。この辺りが、20世紀初頭で信仰と科学に挟まれる理由かとも思う。彼女自身は短い生涯のほとんどすべてを、神経性食欲不振に悩まされたらしい(エピソードとしては乳児の頃からあるようだ…)二階堂奥歯の「八本脚の蝶」や、「この世界の片隅に」をなぜか思い出しました。あと、「ヴィオレット ある作家の肖像」も。後者2つは映画ですが、なんというか、時代背景を考慮すると面白く読める文章であるように思います。

 

10.プラグマティズムを学ぶ人のために(加賀 裕郎)

プラグマティズムを学ぶ人のために

プラグマティズムを学ぶ人のために

 

パース、クワインといった分析哲学の基礎となる領域にいまいち突っ込みあぐねていたので本書に概説をお願いしてみましたが、さっくりとまとまっていて、かつ古典的プラグマティズムからネオ・プラグマティズム、応用倫理学や教育指針への適用など網羅的に書かれていてよかったです。

100冊読破 4周目(31-40)

1.ヘーゲル現代思想(寄川条路)

ヘーゲルと現代思想

ヘーゲルと現代思想

 

短い本だったけど面白かった。哲学のことをなにも知らなくても、何冊か読めば必ずヘーゲルの名前は出てくる。カントもそうだけど。もっと先代ならまだしも、時代がくだってもこんなにひろく影響しているといのは「影響」の仕方に関してだけでも本になるし知れば面白い。

 


2.社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた(スディール・ヴェンカテッシュ)

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

 

面白かったです!こういう調査型の社会学者を追っていなかったなあ、と思いました。大都市の地下がどうなっているか、その「文化のコード」の変遷とつながりの変容を書きあらわした本。しかしめっちゃ小説っぽい書き口です(最近こういうの多いのだろうか)。

ドラッグの売人の親玉とか売春婦を斡旋する人たちの協力を得て調査を進めるのですが、彼自身の話も勿論ここには書き表されていて非常に読み物として優れています。勿論論文などの実績も出されている方です(書き口が軽妙すぎて忘れそうになります)。

 

3.変態する世界(ウルリッヒ・ベック

変態する世界

変態する世界

 

 

概念論過ぎるし、語るには根拠がなさ過ぎる。完全なる印象操作によるものと言わざるを得ない。だったらもっと地道でミクロな社会学か、経済学か、はたまた公共哲学になるべきだった。さっき読んだヴェンカテッシュの「社会学者がニューヨークの〜」では、たしかに都市の紐帯の変容と文化の衝突にきちんと触れている。それがたしかに変わったのだと、記述できている。でもこれは違う。災害や気候変動を盾に、そのときどにでいいようにグローバリズムを持ち出したに過ぎない。たしかに電子化によって都市は変わりつつある、グローバリゼーションは資本主義による格差の助長を食い止められていない。でも正しい記述もしていないし正しい展望を述べているとも感じない。もっと現実に忠実な書籍は大量にある。ルーマンブルデューに言及するに及ばずだ。

・・・というけちょんけちょんな感想を残していますが、正直理解できなかっただけといわれればそうかもしれません。ただ再読する気にはなれない。

 

4.徴候・記憶・外傷(中井久夫

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

思ったより読みやすかったです。中井久夫氏の本は結構好き。最後の方に鷲田清一氏との対談がありましたね・・・

この方は精神科医で、長く診療に携わりながら恐らく教育分野でも哲学(思想)の分野でも秀でた方なのですが、患者さんの解釈がとてもやさしいんですよね。精神分析というとどうしても患者そのものをみないイメージがあって忌避的になりがちなんですが、こうやって物語に沿うように解釈されたらとても気持ちがいいだろうなあと思うんですよ。

 

5.ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造(カール・ハート)

ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造

ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造

 

ずっと気になっていたのですがようやく手に取ることができました。昨日の「社会学者がニューヨークの〜」と、ある意味で見ている分野は同じだなあと感じますが、結構自分の薬物に対する見方の誤りに気づきましたね。それから、ハームリダクションについて概念や存在は知っていてもその運用方法は知らんかったなあと思います。今回のことでスポットライトがあてられたのは支持的な社会的紐帯の薄さについてですが、昨日読んだ本は新たなネットワークの技法にも触れています。なんというか、両方読んでみてちょうどいい感じがしますが、強いて言えば本書のほうがより真面目で、希望がありますね。どんなに世知辛くても。そして学びがある。人にどちらか一冊を勧めろと言われたら、私はこっちを勧めるかな。

 

6.質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学(岸政彦)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

 

以前から読もうかとは思っていましたが、有斐閣フェアでも見かけたのでやはり一度読むべきやなと思って借りてきました。結論としては…うーむ、やっぱり自分はまだまだ社会学(とくに現代の社会問題のミクロな部分)には切り込めないなあという印象を受けました。それと同時に、診療科を精神科・内科・外科と分けたとき、多分それぞれ介入の方法などに違いはあれど、恐らくこういった生活史の聴き取りや生活の再編(慢性疾患領域ではよく扱う概念ですが)に携わっているなあと思うなどしました。臨床はいいフィールドだと思います。社会調査のなかでも、個人への聴き取りが必要な質的研究は相当難しいし骨が折れるという印象です。我々はその点、場所はすでに固定されますが、フィールドが既に与えられた状態なんですよね…。

 

7.侵入者―いま〈生命〉はどこに?(ジャン=リュック・ナンシー

なんというか興味深い本でした。さらりと書かれているのに免疫抑制と易感染性の関係などに触れているし、ことさら先に現代の医学をかじるとこういう視点は新鮮です。あと文章がうつくしい。これはデリダのときにも思いました。

ナンシーは50歳のとき(1991年)に心臓移植を受けています。そのことをデリダが「触覚、」で考察しているのですが、本書はナンシー自身の移植にまつわる身体知覚の変容について書かれています。勿論移植に限らず、病の体験というのは人になにか語らせる力があります。それでも、病を得る前から書いたり読んだり、考えたりする訓練をじゅうぶん受けてきた人の体験というものは他の人のそれとやや異なるなと思うことがあります。勿論はじめから、ほとんど障害を病とともに過ごす人もいるわけですが。

 

8.意識をめぐる冒険(クリストフ・コッホ)

意識をめぐる冒険

意識をめぐる冒険

 

われわれは日々臨床のなかで「知覚」としての意識にも、覚醒状態としての意識にも触れることができる。恒常性の破綻とも、その回復とも、永遠に失われる過程も見ることができる。だから意識状態の変容には(知識の有無は別にしても)客観する体験として知っているんだが。そうじゃない人にはどうなんだろうか、と思う。私たちが意識のない人間を丁重にケアするのは、家族のようになにかを期待しているからだけではない。倫理的観点や職業意識からだけでもない。昏睡状態における最小意識について少し知識があるからというだけでもない。難しいなこれは

 

アントニオ・ダマシオの「自己が心にやってくる」、スタニスラス・ドゥアンヌの「意識と脳」もとてと面白かったのですが、この本は格別だと思います。真の意味で科学哲学に挑んだ本かなあと思う。あと、物理学とか心理学の基礎的な知識があればもっと理解が深まって楽しいと思います。

 

9.カンギレムと経験の統一性: 判断することと行動すること 1926–1939年(グザヴィエ・ロート)

生とは単に環境に従属するだけでなく、自らに固有の環境を設定するのである。ージョルジュ・カンギレム

カンギレムはそこで、生き物の特性とは環境を甘受することにあるのではなく、「自分の環境をつくること、自分の環境を構成すること」なのだと再度主張する。(グザヴィエ・ロート)

 

人間とは、世界のうちに存在するのではなく、世界に対立して存在するージョルジュ・カンギレム

 

カンギレム本人の位置づけがイマイチよくわかっていなかったのでカンギレム本を読みたいなあと思って探していたところ、『正常と病理』に至るまでの著作についてそれぞれ概念の解説と誰の思想の影響を受けたか、という注釈のついた本があったので読んでみました。かのピエール・ブルデューに影響を与えた、大陸における科学哲学(分析哲学のようなものではなく、「具体的・具象的」な現代における大陸哲学)の草分け的存在のように感じます。ベルクソンの潮流からドゥルーズに至るまでに橋渡しができたような感じです。勿論それだけではないのですが。ごめんなさいブルデュー社会学者なんですけど、1930年代を理解するうえでカンギレムの位置づけってめちゃくちゃ大事なんやなあという感じです もうちょっとカンギレム読めたいです。あとラニョーとかアランを全然知らないので前後関係がまったくわかりません。

 

10.「誤読」の哲学 ドゥルーズフーコーから中世哲学へ(山内志朗

これ面白かったです。いやほとんどおすすめはできないんですけど、でもとても面白かった。本の構成が何よりいい。とっつきにくい中世の哲学への扉をこじ開けてくれる。著者自身のおはなしがところどころに出てくるのですが、最初はジル・ドゥルーズミシェル・フーコーが使っている用語の定義や概念について「これ誤解やんけ」みたいなツッコミを繰り返してしまうことから、どんどん概念を遡る旅をしていきます。カンギレムが科学史であるとしたらこの本は観念史みたいな感じですね。カント、もっとうえ、デカルト、もっとうえ!オッカム、スコトゥス、アウレオリ…と。彼らがどのように「読みを間違え」ることで観念を先に進めてきたかが書かれています、が、内容はめっちゃ専門的で難しい

しかしなにより言葉がうつくしい。著者は章末でよく「線香をあげて」います。神学的解釈を詳細に書いたあとで、この「線香をあげ」るの、めっちゃ面白いなと思いました。なんというか、読ませる文章ですね。「中動態の世界」のあの書き方が好きな人なら、きっと読めるのではないでしょうか。ただし扱っているものが具体的でない以上、あれより読むのはずっと難しいと思ってよいと思います。中世の哲学に食らいつきたいけどかじりどころがわからない自分にはとても面白く感じられました。

100冊読破 4周目(21-30)

 1.隷従への道ー全体主義と自由(フリードリヒ・ハイエク

隷従への道―全体主義と自由

隷従への道―全体主義と自由

 

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境(山中優)

ハイエクの経済思想: 自由な社会の未来像(吉野 裕介)

いずれも勁草書房から出版の上記2冊を読んだあと初めてハイエク氏本人の本を読んだのですが、まあタイトルの通りというか時代的に経済の本というよりは全体主義によって焼き尽くされた自由を再考するといった風合いです。風合いとかいうまでもなく名の知れた名著なので読んでおかねばと思い読みました。経済学的見地ではハイエクケインズと深い対立構造を築いていたとののとですが、哲学的姿勢(つまり全体主義への批判的姿勢)においてはハイエクの思想をケインズが全面的に支援する書簡を送っているとのこと。1944年3月初刊ですが、日本で初めて訳本が出たのは1954年。時代のことを考えれば致し方のないことかと思いますが、ミルの自由論に少し追うところはあるものの全体主義へ至る道についての話なんかは確かにひじょうに社会学的です。アーレントの「全体主義の起源」などに先立ってこれを発表したとなると、ほんとうにタイムリーな著作です。

ハイエクの政治的思想として、経済に対してどちらかといえば介入を最小限にする手段を選んでいます。そして労働者の権利の確保に関していくつか(この著書ではない別の本で)述べており、そういうところがどこか厚生経済学的な側面をもつのかなあと思ったりしますが、経済史全体をまだまだ俯瞰できていないようにも思えます。名著読破、とりあえずできてよかったです。

 

2.文化的再生産の社会学ブルデュー理論からの展開〕(宮島喬

〈増補新版〉文化的再生産の社会学  〔ブルデュー理論からの展開〕

〈増補新版〉文化的再生産の社会学 〔ブルデュー理論からの展開〕

 

以前読んだ「差異と欲望」のように、ブルデューを読解して日本社会に適用していくというもの。本人の著書、「介入」とか「ディスタンクシオン」をそろそろ読んでみようかと思っているのですが、もし本体があまりに難しかったらやはりこっちだけでもかなり正確にブルデューの理論を追えるような気がします。

 

3.アマルティア・センー経済学と倫理学(鈴村興太郎)

アマルティア・セン―経済学と倫理学

アマルティア・セン―経済学と倫理学

 

タイトルだけで調べていたら目的と違う本を借りてしまった(私が読みたかったのは2013年ちくま学芸文庫の講義録のほう)のですが、これもいい本だったので普通に全部読みました。前半がセンの経済学的な功績についての説明と考え方についての展開、後半が倫理における応用といった感じです。数式(記号?)が前半に出てきまくるので心が折れそうになるのですが、ひとつひとつその式が何を表しているかについても説明書きが足されているのでドロップアウトせずに済みました。厚生経済学における「効用」の捉え方、結構面白いなあと思います 学ぶところが多いです

曰く福祉における効用は受けとり手によって効果が違うので個体の数だけ、考えうる条件だけ多くのパターンが存在すると。この辺りは医療の考え方ではお馴染みですが、確かに(特にマクロの)経済学ではおざなりにされてきた見方だと思います まあケインズとかざっと読んだ感想ですけども。ヌスバウムと共同で研究していたこともあるくらい哲学には近いセンですが、ノーベル賞受賞の理由は経済学における功績に対してであったりします なかなか私にはついていききれないところもありましたが・・・

アダム・スミス、カント、ノージックロールズなどの論じる共同体の倫理に触れるとともに、ベンサムやミル、バーリンの提示する「個人の自由」を検討しているのが大変嬉しいところです。

 

4.徳について〈2〉徳と愛1(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ)

徳について〈2〉徳と愛1

徳について〈2〉徳と愛1

 

1巻「意向の真剣さ」を読む前に読んでしまいました。

不幸のどん底に触れる者は、そのことによって、もはやなにも失うものはない。というのは、どん底より深く落ちることはないからだ。そして、絶頂は、凋落の不安定な始まりであり、絶望の極みは、また、再生の始まりでもありうる。暁は、もっとも暗い夜に準備され、春は、冬のもっとも長い夜に準備されるのではないだろうか。

徳に関しては結構宗教的要素が入るので理解しづらいのですが、「真摯さ」について述べているときの決定木みたいな割り振り方は結構好きです。モチーフに音楽が用いられることが多いのは彼自身がピアニストでもあったからのようですけれど、論理学的な側面は実は音楽の(特に楽譜の)中にも多分にあります。しかしジャンケレヴィッチから徳を学ぶのは私には早すぎたような気がします。

 

5.アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障(アマルティア・セン

アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障 (ちくま学芸文庫)

アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障 (ちくま学芸文庫)

 

 

飢餓は、悪魔と同じく、最後尾にいるものをつかまえます。

グローバリズムは別に人間を貧困にしないし格差を必ず拡大するとは限らんよ、っていうセン教授の東大での講義録です。今の日本の窮状をみるにいささか持ち上げられすぎている感はありますが、果たして文明の衝突を乗り越えてグローバリゼーションは人間を豊かにするか?という問いに答えます。しかし答えというよりは、グローバリゼーションはなにも今にはじまったことではなくかねてよりあったことだと続く。問題はそれがどのように為されるかにかかっているという観点で話は進みます。こないだ私が「エシカルコーヒー」にブーたれていた件にも触れられていました。薄いです。読める。読めるぞぉ

 

6.構造と実践―ブルデュー自身によるブルデューピエール・ブルデュー

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー (ブルデューライブラリー)

 

なるほど、シミュレーション・モデルが、それで可能な作用様態を想像することが可能になるという、発見的機能を持つこともあるでしょう。しかし、そうしたモデルを構築する者たちは、すでにカントが数学者たちの悪弊として告発していた、現実というもののモデルからモデルの現実性にとび移ってしまうという教理的誘惑に、しばしば負けてしまうのです。

ブルデューは結構手厳しく分類に固執することを批判しています。これはブルデュー自身がそこで現れている構造よりもその構造をもたらす志向性と内在する実践に着目していたからであろうと思うのだけど、フッサールハイデガーメルロ=ポンティには影響を受けたといっていてなるほど感あります。

 

7.ヘーゲル初期論文集成()

ヘーゲル初期論文集成

ヘーゲル初期論文集成

 

直観はたしかに理性によって要請されるものではあるが、制限されたものとしてではなく、反省の作品の一面性を補完するために要請される。つまり、直観と反省はたがいに対立したままではなく、〈ひとつ〉になることが要請されているのである。

こうして自我=自我は思弁からは見棄てられ、反省にゆだねられてしまう。純粋意識はもはや絶対的同一性としては登場せず、どうがんばっても経験的意識に対立する。

 

徳が律法への服従の補完であるように、愛は徳の補完である、徳のあらゆる一面性、あらゆる排他性、あらゆる限界は愛によって廃棄されている。もはや有徳の罪、罪深い徳はない。というのも、愛はありとしあらゆるものの生きいきとした関係だからである。

ヘーゲルの文章というものをはじめて読みました(勿論訳本ですが)。

精神現象学、法の哲学、宗教哲学講義など西洋哲学の中ではカントやハイデガーと並んで重要な位置をしめていますが、この本に関しては法の哲学・宗教哲学としての要素が色濃くでているように思います。

 

7.悲鳴をあげる身体(鷲田清一

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 

わかりやすい丁寧な文章で現代社会と人間の身体知覚の関係、自己肯定と社会性の保持をどう織り成しているかというのを新旧問わず哲学・文学の引用とともに説明するものです。短いし読みやすいですしなによりやはり得心がいく。

鷲田氏は臨床哲学だけでなくファッション…から皮膚までの身体知覚や空間の知覚、はてはコミュニケーションの場の状態を詳細に書き表して説明することに関しては他に類を見ないくらい簡潔です(私が慣れているだけかも知れませんが)哲学というと野矢先生とか出てきがちですが、臨床にいる人には、とくにケアワーカーには私は間違いなく鷲田清一氏を先に読んでいただきたいと思ってしまいます。その、考えることが難しいことではないということを知ってもらうために。いつでもあなたがたの手は、皮膚は、感覚は考えているのだとわかってもらいたいので。

 

9.開かれ―人間と動物(ジョルジョ・アガンベン

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

 

アガンベンは「裸性」を読んだ時にいいなって思って、主要概念の解説書である「ホモ・サケル」を読んだのでした。今回は政治哲学を巡る個人の話というよりは、人間と動物を分かつものはなにかとかそれが意思決定に作用できるかという話だったように思います ハイデガーの概念の応用が多いので難しい。結構ポストモダンかぶいたひとたちからの引用が多いし言葉の使い方も難解なんですが、この主要概念めっちゃ好きなんですよね。なぜかっていうと政治における主体の単位を個人の、特に肉体の主権に着目しているから。それはわりと攻殻機動隊の世界観に似ていると思う

 

10.赦すこと: 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの(ジャック・デリダ

薄い本、というか持ち帰るのに軽い本というだけの理由で借りてしまったのだが中身はなんとジャンケレヴィッチに関する話題でござった。ジャンケレヴィッチとデリダ、なんとなく相性が悪く感じたのだが。というのもデリダはあくまで書字に拘り、ジャンケレヴィッチは概念の整理に拘っているように見える。「徳と愛」でジャンケレヴィッチの説明した「誠実さ」に関する分析はまさに書字(文法)というよりは論理的・記号的なものであり、意思決定のツリーのような分類法だったので。ジャンケレヴィッチのほうがデリダよりずっと難解で掴み所なく感じるし、デリダに言語化されると意味がわからん。

まあ意味わからんで終わってしまったらそれまでなのでそんなことで諦めるわけにはいかないのだが、本書は恩赦(恩寵)や人が人を裁くときの「赦さぬ」とはどういうことかについて論じている。和解、妥結、といった止揚の概念にやや近いものを持ち出した上で。「赦」と「許」の違いは、後者が比較的個人的・法的なものであるのに対して前者は超法規的・宗教的要素があることかなと思う(辞書的にもそうだけど)。恩赦というのも不思議な概念だけど。ハームリダクションが必要とされて以来、罪の与え方は変わっただろうけど、当時の贖罪の変遷はどうなっていたんだろうか。

読書についてーわたしの本の歩き方

100冊読破というチャレンジをはじめて1年半になりました。冊数を目標としているわけではないのですが、やはり始める前と後では随分思考の様式が多彩になったし、学問を面白いと感じられるようになったと思います(そういう本を選んで読んでいるからですが)。

さてこのカッコ書きのなか。そういう本を選ぶということはどういうことか、振り返りながら自分の獲得方法を考えようかと思います。

 

ちなみにコンセプトは、下記の100冊読み終わった時点で書いたブログに書かれています。こちらも気分とノリで書いてしまったので厳密でない表現を多く用いていますが、ただの日記なのでご寛恕いただきたい。

streptococcus.hatenablog.com

 

ちなみに現在読んだ本はもうすぐ1000冊のうち1/3ほどになります。今年度読んだ本は100冊弱ほどになりました。

本は冊数ではないというのはどういうことかも含めて、自分の本の選び方の基準を今気づける範囲内で書きだしていこうと思います。

 

ちなみに、「本をたくさん読んだことはないけど勉強していきたいことがある!」という方は私のブログなんて読まなくても千葉雅也氏の「勉強の哲学」という本がおすすめです。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

あくまでわたしはわたしの出会い方を書いていくだけなので、万人の勉強(の基礎・導入)の参考にはならないものと思ってください。

ちなみに私の立場としては、「読書」は「勉強」とはいわないと考えております。

最初に明らかにしておかないと各位からツッコミがきそうなので。

 

初期の出会いをどうするか

1.気になる分野がすでにある

自分にはすでに職があり、その職は専門業務に関する修練を常に必要とするものです。

手技や最新の論説を理解することも勿論大切でしょうけれど、わたしはそれとはまた別に「あなたはだれ?」「世界はどこからきた?」という2つの問いに応えうるものを探していました。ちなみにこの問いはヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」の冒頭です。

それは前者において哲学であり、宗教学であり、認知科学・心理学であり、後者においては経済学、経営学社会学、人類学、物理学・情報科学のような分野で自分の求めている答えが多く出ている印象をもちました。ので、その関連文献を漁ることからはじまります。

なお、認知科学はそこから「知覚」への興味へと延長し、デザイン・建築・芸術関連の書籍へと枝葉を出します。そして余談ですが、「初期の出会い」という用語は私の専門分野であるところの看護理論においてジョイス・トラベルビーが提唱した、「人間対人間の看護」からの流用です。

 

2.最初は出会い方がわからない

いやもう本当に暗中模索からはじまりました。初期に読んでいた本をざっとみると、学術系(総合本を含む)では

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子」☆

②シッダールタ・ムカジー「病の皇帝『がん』に挑む」★☆

ピーター・ドラッカー「マネジメント」(エッセンシャル版)★☆

④フェルディナンド・ソシュール「一般言語学講義:コンスタンタンのノート」

⑤ニコル・サリンジャーガルブレイス 現代経済入門」

ドナルド・ノーマン「誰のためのデザイン?」★

⑦モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学

スティーブン・ピンカー「暴力の人類史」☆

⑨ニール・スミス「ジェントリフィケーションと報復都市」

ウンベルト・エーコ,ジャン・クロード=カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」★

・・・のように「それ最初に読む本とちゃう」というツッコミが入りそうなものをたくさん読んでいます。実際今でも内容が理解できていない本はたくさんあると思います。

ちなみに★をつけたのは、門外漢でもまずまず楽しく読めるというものです。☆は総合本です。

興味のあるものをなんとなく手あたり次第に読んでいくと、時々「読むことすらできない」本が出てきます。「初期の出会い」として不適切すぎる場合には、ぺらぺらめくってギブアップしてみてもよいのではないかというのが現在の自分の見解です。

ちなみに物理的な「本(実体)との出会い」をどのようにセッティングしていたかは100冊読了記のブログ記事の中に書いてあります。本屋にいって気になるタイトル・著者のものを手にとったりしていました。

 

出会うべきものと出会うにはどうすればよいのか

1.本との出会いが本を呼ぶ

これは本当にそうです。1冊よい本と出会うと、必ずその中には引用文献があり、その引用文献には著者がいます。ただ引用といってもあまりに数が多いので、

①どのように引用されていたのか(批判的だったのか、賛同の引用だったのか)

②引用を含めて書かれた文章は自分にとって理解可能だったか

③いくつかの関連書籍を読んでみて、何度もその文献(またその著者)は引用元になっていたか

論文を読み慣れている人にはこのあたりはお伝えする必要はないでしょうが、なにせ私は成書でさえそれほど読んでいないのでこういうところから考える必要がありました。

例を挙げるならば、哲学の本を読むとき、「デカルト」「スピノザ」「カント」・・・といった名前は非常によく出てきますよね。彼らが執筆活動をしていた時代を考えれば明らかなのですが、被引用が多ければ多いほどやはりその領域においてのちに与えた影響は大きいのです。つまり「読んでおいて少なくとも損はしない」ということになります。

ちなみに私はこの慣例に則ってスピノザの「エチカ」を読みはじめ、1年以上経った今も読み終えることができずにおります。

 

2.概説本はどうか?

日本語で読むことさえ難しい本になればなるほど、「著者についての概説本」や「本そのものについての概説本」がたくさん出ています。勿論それを読むのもありですが、あくまでさる研究者(ひいては忠実な読者)が読解した内容なので、「孫引き」といっても差し支えないかもしれません。読めない本を読んでみるというのもそれはそれで楽しいものです。誤読の危険性については、まだ私からはっきりとその功罪を述べることができませんが。

最初から本人の訳書を読んで心が砕けるよりは、概説本から興味をもつというのもアリだなあというのが最近の自分の考えです。

 

出会うべきでない本について

先述言及した千葉雅也氏の「勉強の哲学」にもありますが、「次なる興味を与えない本」「読み返す価値のない本」というのが、自分の中では学術の本として失格だと思っています。つまり、まだ勉強していない人に対して安易な答えを与える本は、読む意味がないということです。

次なる考えを滾々と湧きあがらせるもの、問答させるもの、新たな問いを立てるものが次なる読書へと誘うわけです。

 

現実世界との交錯/小説とそのほか芸術作品について

たとえば、哲学の中には文学からの影響を受けたり、引用するものが多くあります。バルザックプルーストセリーヌシモーヌ・ヴェイユボードレールボードリヤールジャン・ジュネ・・・芸術作品では、画家(絵)や音楽家(音楽)など。市井や大衆を論じる哲学があるので当たり前なのですが、読書「だけ」していても楽しくはないと思います。実体験があるからこそ読書の価値が高まるのです。

そういう意味で、小説は(大衆小説にしても)価値があると自分は思っていて、息抜き以外にも大きな影響を与えてくれます。小説に関しては書店などもフェアをよくだしますし、新刊も大きく出ますから、質のいい入門用学術本を探すよりずっと簡単です。他人の読書感想も参考になるでしょう。

 

それから個人の感想ですが(むしろ最初から全編にわたって個人の感想でしかないのですが)、読書以外の体験は貴重です。体験の豊富さが読書に再び還元されるような感覚に近いです。そういうと純粋な哲学の徒が殴りかかってきそうですが、専門に学ぶのでなければそれでもよい(楽しいのがいちばん)と思っております。

自分の引き出しがどんどん増えて、多様な学術分野に所属する人たちについて思いをはせることができるようになるのはとても楽しいことです。

 

 

特になにかのために書いた文章ではないので締めの言葉もオチもまとめもないのですが、現状自分の本の渡り歩きはこんな感じで進んでおります。

下半期のことと最近考えていること

夏は本ばっかり読んでいました。詳しい数字は見ていないのでわかりませんが、試験が終わってからの2か月で30~40冊くらい。仕事はもちろんずっとしていますが、精神の夏休みでした。遊びに行ったりも少しできましたし。

 

 

下半期やること(やれそうなこと)と動機とその展望について

1.放送大学1年目2学期(編入なので3年生後期にあたります)

後半にきました。とった授業がなんだったのかも忘れましたが、

心理学概論(’12)

人格心理学(’15)

社会統計学入門(’12)

心理学研究法(’14)

交通心理学(’17)

産業とデザイン(’12)

情報社会のユニバーサルデザイン(’14)

色と形を探究する(’17)

音を追究する(’16)

心理学実験3(面接授業)

でした。面接授業に関しては、まる2日間学習センターに出向きます(そのために仕事休みとりました)。

授業の内訳としては、

心理学概論(’12)人格心理学(’15)

心理と教育コースの導入科目(専門コースの基盤となる知識を身に着ける段階)。

なぜか前期では概論を受けていなかったので、認定心理士が欲しければこれを履修しなければならないようです・・・。この2科目に関しては受ける前から、本だけ読んで受ける気満々です(すみません)。

心理学研究法(’14)交通心理学(’17)

この2科目は心理と教育コースの専門科目です。心理学研究法も認定心理士取得したい場合は必修。交通心理学は認知心理学的観点から面白いかなあと思ってとりました。

社会統計学入門(’12)

社会と産業コースの導入科目。導入といえど恐らく今回の自分の最難関。社会数学・社会探究を将来的にとりたいのでいれました。あと、たしか認定心理士の認定単位に換算することが可能です(1単位としてですが)。このあたりは認定心理士の要綱と絡むので説明が大変ですから、ちょいと端折ります。

産業とデザイン(’12)情報社会のユニバーサルデザイン(’14)

産業とデザインは社会と産業コースの専門科目(かつ、後述の「人にやさしいメディアデザイン」の選択必修科目)、情報社会のユニバーサルデザインは情報コースの専門科目(かつ、「人にやさしいメディアデザイン」の必修科目)です。もともとデザインの視認性に興味があったので。あと、受けたい授業のうち試験日程があっていたからという悲しい社会人の性も影響しております。

色と形を探究する(’17)音を追究する(’16)

いずれも統合分野。つまり色んな授業を受けてからのほうがよいのですが、これも試験日程的にry

 

あと、認定心理士取得要件を満たしながら「心理と教育コース」を卒業するにあたって来期でほとんど要件を満たすことになります(面接授業以外は)。

なので、認知心理学+経済学(の中でもより厚生・行動・ミクロ・医療に近い分野)/社会学(貧困問題)、哲学、メディアデザイン・ICTに近い分野をやりたい身としては自分のコースだけでなく他コースの授業を取ろうともともと思っていました。

現在放送大学には10年ほど前から科目群履修認証制度(エキスパートプラン)なるものがあるので、そちらを利用しますと、既習や「心理と教育コース」で受講する予定のものに加えて以下の授業(自分がとりたいものを選びましたが)を選択することで体系的に学ぶことができそうです。仕事の都合で、順序は結構まちまちになってしまうんですが・・・

 

「人にやさしいメディアデザイン」

ユーザ調査法 ('16)

CG と画像合成の基礎 ('16)or日常生活のデジタルメディア ('14)

身近な統計 ('12)

情報のセキュリティと倫理 ('14)or情報社会の法と倫理 ('14)

 

「社会探究」

社会調査の基礎 ('15)

都市社会の社会学 ('12)

経済学入門 ('13)

移動と定住の社会学 ('16)

現代経済学 ('13)

社会学入門 ('16)

 

このあたりをやると、既習単位・取得予定単位に加えて卒業要件である62単位がほぼ埋まります(概算ですが)。

あと自分のやりたい分野に進もうと思うと「社会数学」プランもかなりの単位が既習になるのですが、「入門微積」「入門線形代数」が必須なので、下記のTOEICがある程度の水準に達して安心できるようになってから選択科目履修でまったりじっくりやりたいと思います。文化人類学や哲学、記号論理学の授業もいずれ取りたいですがいつになることやら。

 

2.語学学校入学しました

まだ入学するのかという声がどこかから聞こえてきそうですが、前期の授業を受けてみて教科書を読んでまとめるスタイルで適応できそうだったので、負荷をかけてみることにしました。というか、いつやり始めるかなあと思ってぶらぶら語学学校をいくつか見学していたら、もう入ることになりました(騙されやすい)。

いえ、まあもうすでに始めていないと遅いくらいなので構わないのですが。

英語の試験なんていうものは多分最後に受けたのが専門学校の入学くらいで、それも簡単な英語だったので、本気で英語を「学習」していたといえるのは高校生が最後です。得意科目というわけでもなかったので、高校1年生くらいのときにとった英検準2級が自分の持っている唯一の語学関係の資格です。

10年経って抜き打ちで語学学校入学時のレベル判定を受けたら、TOEIC400程度、英検でいうと準2-2級レベルと出たので(少なくとも下がってはいなくて)安心するとともに、自分は本当に医療の臨床以外なにもできないのだなあと悔しく思いました。

 

なにも自分の目的に対して資格対策が必要なわけではないのですが、今後を見据えたときに「論文(文献)が少なくとも英語で読めること(それも的確に、かなり速く)」と「英語で専門分野のコミュニケーションがとれること(可能であればディスカッションのレベルで)」が必要とされるので、資格も含めてとっておいて損はないだろうという理由です。それに関しては本当はTOEICよりもTOEFLのほうが適切なのですが、長期留学(向こうでの学位取得)などを目標としていないことから、TOEICの点数を挙げながら対話は基礎固めをした方が楽しそうだなあということでTOEIC対策基礎みたいなコースに入ることになりました。なお私のようなシフト労働者にやさしいシステムを採用している学校を選んでおります。

 

 

いま考えていることのうちいくつか

1.いま必要とされている、(受動的な)教育はなにか?

今の時点で体系的に学ぶ必要性を感じているひと、自ら学ぶ人にはあまり必要のない分野のことだとは思いますが、メディアリテラシーや貧困の回避について考えれば考えるほど中等教育の必要性を痛感します。

勿論誰かが施してくれるのではなく、自らが親世代になった気持ちとして今の子どもに何を学んでほしいか、何をおさえておけば後々の学びが楽に・楽しくなるかを考えていることが多いです。

世界市民」なる言説が哲学・現代思想やその他の分野でも徐々に芽生えつつありますが、それに至るには深い知見と洞察、それから他者(異文化・異業種・他言語とそれに基づくコミュニケーションのずれ)に対する寛容性が求められます。それに至るための知識というのは、どうにも学校教育や家庭・地域の教育では不十分であるように思えてなりません。勿論それらを欠くべきだとも思いませんが。

 

現行の教育制度を利用するのであれば、より教育に投資できる財を持っているほうが有利にその情報にアクセスできてしまうことを憂慮します。格差を縮めたいというわけではなく、情報にアクセスできないがために必要な支援を受けられずに社会からドロップアウトしていく(させられてしまう)個人をなんとか支援にアクセスさせたいのです。

 

2.現代社会はほんとうにユーザビリティ特化しているといえるか?

待ち合わせにスマホがないとできないとか、学生に論文が書けないとか、現代の(とくに若年層)を差して指摘する言説は数多くあります。自分は自分自身が社会で生活している中で一度不適応を起こしたことがあるのでなんとなくそのあたりには寛容にならざるを得なくなったのですが、それらは適切な指摘といえるかどうかは今なお議論の残るところであると思います。賛成とか反対とかいう二元論ではなく、検討すべき要素が足りないのではないかという疑念もあります。

 

実際に生身を伴い都市で生活するには多くの労苦が必要です。何より適切な注意の選択と、持続的な集中力を必要とすることが大きな課題であると思います。発達障害の診断基準をみていても境界域に該当する人はまさにそうだと思うことがある。それほど、現代社会に「適応」できる人は限定されているようにも思うし、それでもなんとかぎりぎりのところで(稼得を十分に得るまでにいかないにせよ)生活している人の多さも実感します。

そういう人の足切りをするためではなく、むしろすくいあげるために、1.のような受動的教育があってもよいのではないかと考えることが増えました。勿論教育の臨床というものには私は携わったことがないのですが、十分な学校教育を受けていてもそうでなくても倫理的な素養を持ち合わせている人もいればそうでない人も互いにたくさんいるのです。もちろん、それを自分の中で明確な言語として表現できるかどうかという問題はありますが。このあたりの考えを一体どこから引っ張ってきたのかと思いめぐらすと、社会学ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」という概念、それからアマルティア・センの「潜在能力」などからですね。勿論他にも影響を受けた言説はあると思いますが。

 

なにごとも言語化できたほうが有利ですし、稼得に繋がる場合も多くあるとは思います。ただ、「うまくやっていけなくても苦しくはない、どちらかといえば楽しい」状態で生きていけるというのもゴールのひとつかな、とよく思います。

 

ところで放送大学の荷物がまだ届きません。

100冊読破 4周目(11-20)

1.人にやさしい医療の経済学 ―医療を市場メカニズムにゆだねてよいか(森宏一朗)

人にやさしい医療の経済学 ―医療を市場メカニズムにゆだねてよいか (現代選書24)

人にやさしい医療の経済学 ―医療を市場メカニズムにゆだねてよいか (現代選書24)

 

ええと、勉強がてらになってはしまいますがこういう本も読み深めていかねばならないので(将来的にこのあたりも専門になりますかね)読みました。

著者による結論からいうと、副題の「医療を市場メカニズムにゆだねてよいか」は「基本的にダメ」で、「慎重な倫理の審査により一部混合診療というかたちでokされる」というものです。

ちなみに著者は「(とくに)生命倫理方面には明るくないので」と前置きしていながらも、市場経済システムが医療システムに合致していないことをかなりわかりやすく指摘しています。良書だと思います。臨床の人こそこういう本を読んでおくべきだと思う。決して冷淡な答えではないですし、今まさにもう後退できないほど医療費が逼迫しているので・・・

 

2.あなたはなぜチェックリストを使わないのか?(アトゥール・ガワンデ)

アナタはなぜチェックリストを使わないのか?【ミスを最大限に減らしベストの決断力を持つ!】

アナタはなぜチェックリストを使わないのか?【ミスを最大限に減らしベストの決断力を持つ!】

 

外科医かつ安全管理のプロフェッショナルでもあるガワンデ氏の著書。ビジネスマンほいほいみたいなちゃんちゃらおかしいタイトルがつけられていますが、真面目な本です。

人は間違えるしうっかりミスもする、なおかつ自分を過信する。リスクマネジメントについて実際に具体的な手法を、航空・建設・調理の業界からも集めた本。外科のことなので具体例はかなり身につまされる臨床の話がゴロゴロ出てきます。そして大事なことですが、アサーションスキルについても触れられていました。なかなかやりにくいですよねアレ。ちなみにチェックリスト作成については実際の方法論にも触れられていて、結構難しそうです。シンプル、場に適切なこと、毎回実施できることって難しいものです。

 

3.共同体の基礎理論(大塚久雄

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

共同体の基礎理論 (岩波現代文庫―学術)

 

共同体、分業と土地で区切られた小経済区域っていうのめちゃくちゃ単純でいい。共同体について考えることは社会学の基礎でもあるし公共の哲学でも外せない領域であると思います。なぜなら、そもそも「共同体」の定義が時代によって変遷するから。ぺらっちい本なのですが、明朗な文章で書かれていてなんともよいです。

 

4.人間についてシモーヌ・ド・ボーヴォワール

人間について (新潮文庫)

人間について (新潮文庫)

 

(前略)世界は人手に不足しているのです。青年はこうした空席の一つの中に滑り込むことができます。ところが、自分にうってつけに作られた空席など一つだってないのです。青年は、人々が待っているようなあの新しい人間たちの一人になることができます。

(中略)ところが、人々が待っていた新しい人間は、"彼"ではなかったのです。どうせ他の男でけっこう間に合ったことでしょうから。各人が占めている座席は、つねに無縁の座席なのです。自分の食べているパンは、つねに他人のパンなのです。

映画「ヴィオレット ある作家の肖像」を観てからボーヴォワールにつよく惹かれたので、取り敢えず最初の一冊として読みました。彼女は哲学とか社会学という側面はありましょうが、これを読む限りは「ものすごく頭脳明晰なエッセイスト」という感じです。つまりは文学の人。心の動きに、とくに人の心の動きに聡いひとなのではないかと思わせる文章でした。サルトルの引用が多いのも、彼女の心を少し覗くような気分がして(まあ覗くことはできないわけですが)少し楽しい。「老い」とか「第二の性」も読んでみたいものです。

 

5.自己言及性について(ニクラス・ルーマン

自己言及性について (ちくま学芸文庫)

自己言及性について (ちくま学芸文庫)

 

社会システム理論がかなり分厚くて読みづらかったのもあって、さっくり書かれた本はないかなあと思っていた時に見つけた文庫本。ちくま学芸文庫講談社学術文庫にはかなりお世話になっている気がします。基本的には社会システム理論の収拾をつけるような感じです。オートポイエーシスについておさらいするのと、構造主義とシステム理論が袂を分かつ理由、それからシンボリック相互作用との違いについても指摘されているので、概観だけ理解できるのであれば「社会システム理論」読まんでもええんちゃうかという気がします(とっつきにくさはありますが)。

 

6.デリダ 脱構築と正義(高橋哲哉

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

 

デリダ難しいなあと思いながら何冊か読んで(「プシュケー 他なるものの発明」「精神について ハイデッガーと問い」「触覚、 ジャン=リュック・ナンシーにふれる」)きたのですが、デリダについての本を読んだことがないなあと思って読んでみました。真面目な本で驚きましたです。アルジェリア生まれのユダヤ人という不思議な生育歴と「不良少年」としての過去など気になる部分がありますが、実はアルジェリアを調査したことのある社会学ピエール・ブルデューから激烈に批判されていたような気がします。確かにデリダには文学的側面があるにはある。

今西洋哲学を手当たり次第に読んでいて思うのは、「思惟すること」についてあまりにも自己の殻(身体、もっといえば脳)を超えないなあと思うことです。デリダはそれにきちんと答えを出しているようです(「エクリチュールと差異」は未読ですが)。曰く、ソクラテス(著者は勿論プラトンですが)を読んでパロール(言語活動)がエクリチュールに先立つ理由について、エクリチュールのもつ「正当でなさ」を持ち出してこれを論じるようです。言語活動がもつコミュニケーションについての説明がこれまた私はとても好きで、レヴィナス(他者の倫理性について論じたフランスの哲学者)を引き合いに出しながら、「パロール(≒コミュニケーション)に応じる時点で既にそこにはウィ(フランス語の「はい」、肯定)が存在する」と述べるのです。コミュニケーションは始まった時点で既にコミュニケーションに対する了解がある。

続いて、彼は言語というものの暴力性(暴力というか、権力のありか)についても語るようです。「どこに」強制力があるかというと、特殊なコミュニケーションの形態によってでなく、言語そのものに既にある程度それがあるのだと…まあこれは構造主義に対する批判なので、私にはちょっと難しかったです。彼が述べる主要概念、「脱構築(deconstruation)」というものについては、彼自身が「適切な用語がみあたらない」としているようです。確かに構造主義に対する批判のようにもみえますが、「なんとか対立構造を作ろうとすることからの脱却」…のように解釈しました。そうして言葉をひとつひとつ捉えていくと、まったく文学的ではないし、象徴に任せきりというよりはむしろ言語に対する誠実さ、言語の認識に対する再検討を丁寧に加えているように思えます。それはまさに哲学といえるように私には思える。

あとがきで、著者の高橋氏はこの解説書について「政治的な捉え方をしているとの批判もある」と仰っていますが、なんのことはなく、時代背景なしに彼の思考が生み出されなかったことを考慮すれば仕方のないことなのだと思いました。そしていつも思う、「なぜ何度も後の時代に前時代の哲学者を繙かねばならないのか?」という問いについての答えがここにあります。その時代の様相(常識、社会情勢、科学が立証してきたこと)を加味してもう一度読み直すことは、ひとえに今生きる人にとって再び意味をもたらすのだと思う。

 

7.生成文法の企て(ノーム・チョムスキー

生成文法の企て (岩波現代文庫)

生成文法の企て (岩波現代文庫)

 

ぶっちゃけチョムスキーの理論を何も知らずにこれを読んでしまい完全に後悔しております いや中身はチョムスキー氏へのインタビュー形式で話が展開されるので日本語が読めないという事態にはならないのですが、かれの理論を体系的に学ばずして中身を十全に愉しむことはできない本です。言語学の本、といえるようなものは「ソシュール 一般言語学講義―コンスタンタンのノートから」を読んで以来、「ことばの認知プロセス」までずっと読んでいなかったと思っていました、が、言葉というものから人間が逃れることができない以上彼の理念にはそこかしこで触れていたようです。

例えばダニエル・デネット「思考の技法 直観ポンプと77の思考術」とかもそうです。ヴィトゲンシュタインについては言語学というよりは論理学の先駆けだと思っているので、確かに参考にはなるでしょうが同じとはまったくいえません。チョムスキーのなんたるかについて知る必要がありそうです。

拙い知識をかき集めてみると彼はかなり早期から言語学の文法構成や歴史・音韻などから離れてその要素や認知の様式に着目しており、ここから生まれた理論がいわゆる今の認知言語学、もっと広くするなら認知科学の前提としても扱われているようです。分析哲学を知る上でも外せないでしょう。ポパーについては本書の中で彼は「少し一般化しすぎてしまっている」と訴えています。読まねばなあと思っているパースの記号論に肯定的に触れられていました。いっぽうで、レヴィ=ストロースヴェイユにも触れています。中身をきちんと知らねばここから先はうまく理解はできんでしょうけれども、チョムスキーから影響を受けたという先述のデネットの「思考の技法」を思い返すと、要素の抽出や分析ではなく先に構造を決定して、パターンを明らかにせねば結局メタ認知にしろ認知にしろそのプロセスについて論ずることができないからではないのかなあと思ったりしました。

 

8.なるほど! 心理学研究法(三浦麻子)

なるほど! 心理学研究法 (心理学ベーシック 第 1巻)

なるほど! 心理学研究法 (心理学ベーシック 第 1巻)

 

来期心理実験の面接授業があるのと、心理学研究法をとるので不安になっていたところに「超やさしい」「でも真面目な」入門書があったので借りてきました。でも研究そのものについては後半からなので、前半は心理学の概説です。知っている人にはつまらないかも。「よくわかる心理統計」が途中でとまっていて、放送大学の「心理統計法」は難しく、数学ガールの「やさしい統計」だけなんとか読み切った勢としては有り難かったです が、これ読んで統計の知識が深まるわけではない…研究の手法概説といった感じですかね。あと、最後に2章分の大幅なスペースを使って研究の倫理について書かれていたのがよかったです。

 

9.「いき」の構造(九鬼周造

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

 

…渋味が「いき」の様態化であることを認めている訳である。そうしてまた、この直線的関係について「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考えうる。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。

薄いから購入したシリーズ第三段。これがパリで書かれたというの、よくわかる気がします。言葉、建築、衣食に内包されるその質の違いはむしろ異色の場所に来てはじめてはっきりと自覚されるような気がする。私が奈良から京都に移り住んだだけでも感じて、東京に遊びにいくと思うことでもありますが。いきの内包について。鷲田清一は著書で「とある就活生がただのリクルートスーツに見える上着を着るが、実はギャルソンのスーツで裏地が…」みたいな話をする。あれの中にあるような、「本人の意識状態がもたらすもの」というのはいきに対して大いなる影響があり、また本質でもあると思う。「においの違うところ」にくると、われわれがなんとなく「これぞいや良し」としていたものがなんなのかはっきりと立ち現れてくることになる。むしろ日本国外において日本文化がもつ特殊性に気がつき、それを洗練させる機会が与えられるのは至極真っ当であるように感じる。

 

10.社会学社会学ピエール・ブルデュー

社会学の社会学 (ブルデューライブラリー)

社会学の社会学 (ブルデューライブラリー)

 

私が思うに、政治にとっても学問にとっても重要なことは、社会的世界の表象を生産している二つの競争する生産様式が平等に市民権をもつということであり、しかも学問が政治を前にして、とにかく短絡的な純粋主義をテロリズムによって増幅するようなかたちで譲歩してしまわないということです。

ブルデューに対談形式で問う本書、意外とブルデュー氏へのあたりがきつい(そしてブルデュー本人もしっかりと答えている)のでびっくりしました。

ちょうど上記の引用が、いまの学問領域全体に対する日本政府のありかたに対する批判のようでよかったです(後半に関しては温度差がありますが)。

 

100冊読破 4周目(1-10)

1.京都の平熱―哲学者の都市案内(鷲田清一

鷲田教授、京都の都市解説ときけば読まざるを得ない。

京都市バス206号系統(東大路を北上、ぐるりと4大大路をまわって京都駅に戻るバス)に沿って「まちあるき」をする。特別な、拝観料のいるような観光地ははぶく。お茶の家元、花街文化、大学(これだけは禁をやぶっていたけれど)・・・には触れない。

 

京都に就職して実際に住むことになったあの3.30のことを思い出しました。町のもつ違和感について。それは様々な箇所で、次元で蓄積されていまも楽しませてくれる。京都は、歴史が深いからよいのではないー というの、得心がいく。そして何人かの京都人を思い出した。なるほど。

新しいもん好き、ちょっと人との距離があって、「間合い」をとてもじょうずに使う。それは決してきれいなものばかりではなく、汚い、ばっちいところもたくさんある。そういう京都。「こわい」京都じゃなくて、「素っ気ない」さっぱりした裏の京都について。

 

中高年による「昔は良かった」にはなんの価値もないけど、ここには昔の良さの上に今の良さ、どう乗せていこうね、という問いがあってよい。いや、基本的には皮肉と諧謔で彩られているのだけども、それすらも徹底していればなるほどそれは芸かとすらおもう(九鬼周造に弱すぎでは?

 

2.自由論(ジョン・スチュアート・ミル

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

とうとう読めました。ベンサムがここまで個人の幸福と法と経済のもとに持ちうる自由について言及していたかどうかわからないんだけど、確かに異色だった。先にバーリンの自由論を読んでいて、バーリンがその論の多くをミルに負っていた理由がよくわかる。経済が(今なら既に)解き明かした多くのことについて、まだ説明されていないときに、公的教育を一切受けていない彼が公教育の重要性を説いたのは特筆すべき点やなあと思います。サンクションが個人に負わせる責任の限界についてもはっきり書いている。

信仰は、精神の外部にとどまって、人間性の大事な部分を外部の影響から防ぐべく、精神を厚い壁で覆い、精神を硬直させる。現代社会では、こういうありさまがかなり一般化し、日常化している。信仰は、新しくて生き生きとした確信が入り込むのを許さないことで、その力を示す。しかし、信仰そのものは頭や心に何ももたらさない。信仰は、頭や心が空っぽのままであるように見張りをつとめるにすぎない。ージョン・スチュアート・ミル「自由論」p100

 

現代人が自分に問いかけるのは、つぎのようなことである。すなわち、自分の地位には何がふさわしいのか。自分と同じ身分、同じ収入のひとびとは、何をするのがふつうだろうか。(あるいはもっと下品な問いだが)自分よりも身分も高く、収入も多いひとびとは、なにをするのがふつうだろうか。私がここで言いたいのは、現代人は自分の好みよりも世間の慣習のほうを大事にするということではない。現代人は、世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっているのである。ージョン・スチュアート・ミル「自由論」p148-149

 

ふたつめの引用は身につまされるものがあります。マクルーハンの『メディア論』みたいですね。

 

3.4.社会システム理論 上・下(ニクラス・ルーマン

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

 

  

社会システム理論〈下〉

社会システム理論〈下〉

 

知覚とコミュニケーションのこのように素早く具体的な連携は、狭い空間においてしか生じえない。いうまでもなく、そうした連携は、知覚可能なものの範囲内でしかおこなわれない。

 

時間は矛盾の効果を強化する装置である。しかし同時にやはり時間は矛盾を緩和させるように作用したり、矛盾を解消させたりしている。

 

ルーマンのいうダブル・コンティンジェンシーとハッチその他が述べるシンボリック相互作用の違いは、おそらく前者は必ず「相手」という対象を求めるのに対し後者はむしろ作用の起こる「場」、つまり間主観性を求めるところにあるのではないかと思ったりした。完全に感想だけど。・・・というのを最初は考えたんですが、社会システムのもつ「自己再生産性(オートポイエーシス)」を特徴づけるものは決してそういう様態を指すわけではないんですよね。うーんなんというかまだまだ理解が足りないので、注釈本とか読みたいです。

システムに意味が賦与されていることに関しては完全に同意。賦与された意味によってシステムが持ちうるエネルギーというか作用はまったく異なる。「システム」と大きく括ってしまうのでものすごくわかりにくいのだけど、社会で作用をなしているすべてのことを「構造と機能をもつもの」として捉えたら近いだろうか。いやー誤読である可能性は否めないけど。つまり社会におけるダイナミクスみたいなものですかね。

というかこれを読んでいてつよく思うのは、現在いわれている社会学って構造的解釈というより心理学に寄りすぎちゃう?ということ。なかで動く人間に注目しすぎて、構成の部分にあまり着目されていないというか。随分その辺りは変わりつつあるし、是非やってほしいのだけど…見つけてないだけか

 

5.社会学の考え方(ジグムント・バウマン

社会学の考え方〔第2版〕 (ちくま学芸文庫)

社会学の考え方〔第2版〕 (ちくま学芸文庫)

 

 これめっちゃおすすめできます!社会学の真面目な本でどれ読んだらいいか訊かれたら(ジャンルを細かく指定されなければ)これをまず推してもいいくらいだと思います 少なくとも本を読み慣れているひとになら安心してお勧めできる。

社会学の系譜も追いつつ、社会学が隣接する学問領域からどのように思想を譲り受けてきたか(ex.ハイエクミルグラムデリダフーコー…)基本的には1900年代以降に絞っているのも的がわかりやすくてありがたい。

 

6.行動経済学の逆襲(リチャード・セイラー)

行動経済学の逆襲

行動経済学の逆襲

 

ダニエル・カーネマン、エイモス・トヴェルスキーと共同研究していた経済学者による行動経済学略歴のような本。1970年代の合理的意思決定モデルからの転換を面白く書き出しています。認知心理学に興味があって、かつ投資に興味があればさらに楽しめるはず。わたしは資産運用とか個人の株売買にあまり興味がないし知識も浅いんで、この本の20-28章あたりはかなり難しかったです。が、29.30あたりのドラフトの余剰価値とかは結構野球好きな人とか面白いんちゃうかと思いました…!

そしてそして終章に書かれている、「行動マクロ経済学を待ち望む」の言はまさに先見の明やなあと思います。貧困の経済学、社会学、教育や福祉に携わるにあたり人間の非合理的な行動を熟知していることと、それをリバタリアニズム的なパターナリズムによって損失を最小限にとどめることは急務やと。そうそう、アノマリーを観察することが行動経済学では大事ですよ!っていうのもとても面白いなと思いました(ちなみに心理学では今も昔も、観察が基本の基本だと思う)

あとはノーマンの「誰のためのデザイン?」にも触れられていたのでやっぱりあの本も名著中の名著なんやなと思うなどしました。アトゥール・ガワンデ「なぜあなたはチェックリストを使わないのか?」なんかもありましたね(こちらは未読です)。

 

7.あなたへの社会構成主義(ケネス・ガーゲン)

あなたへの社会構成主義

あなたへの社会構成主義

 

 思ったよりずっとずっと面白かったです!

むかしむかしに構造主義構成主義の違いについてさる人に問うたことがあるのですが、結局そのときはまだなんにもしらなくて一年半以上経ったいまようやく知るところとなった。構成主義の主要要素は個人を「自己」からなるものではなく「関係性をもつもの」として捉えることからはじまると思うのですが、ガーゲン自身も述べているようにシミュラークルではなく実践によってそれはありありと姿のたちあらわれるものであるというもの。以前、「社会構成主義の理論と実践」を読んだのですがめっちゃ難しくてついていけなかったのです。なるほど、ドラマツルギー現象学と理念が近いわけだな、と思います。理念が「ただしい」とかいうものではなく、これはなにかを実践する際の道具みたいなものであると思います。姿勢といってもいいですが。

 

8.データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則(矢野和男)

確かに人間の行動によるデータを出力したり、人間関係や会話量と実績の相関関係を出すのはいいと思うんですが原因と結果を逆転させたマネジメントに繋がりそうな本だったので、完全に読み物程度。これ、認知心理学とか認知神経科学分野からぶったたかれそうな本ですけど、どうなんでしょ。

 

9.気になるガウディ(磯崎新

気になるガウディ (とんぼの本)

気になるガウディ (とんぼの本)

 

ガウディが気になったので読みました。

写真集が3冊くらいあったのですが、磯崎氏が解説ということで嬉しくなってこれにしました。ちなみに一番気に入ったサグラダファミリアの内部天井の写真はなしです(観たければ別のを買うかネットで探すしかない・・・!)

Twitterのひとがスペイン旅行中にガウディの建築を何枚か撮られていて、それまであまり興味なかったのに内部構造めちゃくちゃ素晴らしいじゃないか・・・!と気になったのです。実際に本を読むと、釣鐘式(逆さづりのシミュレーション)をして重力に耐えられるの構造を分析したりと先進的なことをやっているんですよね。家のリノベーションとかも面白かったです。

 

10.電子メディア論―身体のメディア的変容(大澤真幸

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)

 

さきほどの「データの見えざる手」もそうでしたが、名著をもじったタイトルが多くて面白いですね。電子メディア論、はマクルーハンのメディア論のもじり。データの見えざる手、はアダム・スミスの「神の見えざる手」(あれは著書ではなく概念ですが)のもじり。

なんというか、メディアの敷衍によるコミュニケーションの様相の変化を追う感じですね。表象文化論に近いものがあるかもしれませんが、どちらかというともっと心理学的・社会学的だと思います。うしろの方に付記として「オタク」について語るところが面白かった。私は東浩紀の「網状原論」とかよりよほどこちらのほうが面白いと思う。