新体系の看護理論 看護学矛盾論−unification− 第2版
- 作者: 三瓶眞貴子
- 出版社/メーカー: 金芳堂
- 発売日: 2012/03/20
- メディア: 単行本
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先日梅田に行った際に『看護学矛盾論』という本を買いまして
それほど看護の本が欲しかったわけではないのですが、タイトルに惹かれてジャケ買いしてしまいました。
国試系の本はそれほど興味がない(今の段階ではまだ理論をやっていたい)し、技術系の本は買うより学校で漁った方が早いし。
でも、看護理論系というのは学校は充実していないんですよ。
海外の古典といってもいいレベルのものばかり習ってきて、いつも不思議だったのが、「日本人は理論を作らなかったか?」ということです。
原点が海外にある以上海外に古典があるのは当然ですが、何故こんなにも時が経って日本国内で適用しやすい理論がないのかなぁと。
文化的ケアなんて理論があるくらいなのに、看護は看護それ自体で文化的な土壌を形成しなかったのかなと。
そしたらつい10年前くらいに第1版が刊行されていたようで、これはきっと学校にもないし近所の本屋にもないだろうと思って買ってしまったのです。
矛盾という言葉、最近よく自分でも使うといいますか、以前は「対立する二項」を表すために使っていたのが最近は「同じ次元に並列し得る、しかし本質的には対立する二項」として扱うことが多くなっていました。
そこにこの本を読んで、同じようなことが書いてありました。
矛盾とは、理論的には「異なる性質を持つもの」だそうです。
即ち対立する矛盾もあれば調和する矛盾もあるのだと。
看護における矛盾の話はもっと煮詰めて自分で使うので、ここにはそれ以外の話を。
LINEで「平等は実現するか」とか、「精神病の解決は実現するか」という話で盛り上がっていて、頭の中にもやもやとこの『矛盾論』が出てきました。
真っ向から対立する意見など、そうそうあるものではありません。
昔、看護関係でレポートを書いた時、「無償の愛を(入院費⇔賃金という形で)有償で提供するのは矛盾」と書いたんですよね。
あの頃からなんにも本質は変わっていなかったなぁ、と思いました。
平等を希求することをやめるわけにはいかないんですよね、恐らく。
福祉も医療も、資本主義経済の中にあっては不自然な機能でしかありません。
何故ならそれらの本質にあるものが「平等」であるから。
けれど日本の医療保険が「傷病により労働できなくなるのを回避する」ためのものである以上、やはり制度から見た医療も平等ではない。
具体例を挙げると、がんの先進医療である重粒子線治療とか。椎間板ヘルニアのレーザー治療とか。
これらは全て自費診療で行われるのですが、つまりお金のある人しか受けられない治療なのです。
治療方法が選択できるのはお金がある人だけ。
まして、そんな治療法があるとネットなんかで調べられるのも、知識のある人だけ。医療サイドは情報提供しますが、ひとりひとりに自費診療の情報まではほとんど提供していないのが現実です。
高額医療費助成制度も、知らなければ、或いは申請しなければ受けられない。
ちなみに民間保険では先端医療に対する保障を売りにしているものもありますが、民間保険はお金がお金を呼ぶシステム。お金がなければ入れませんよね。
今後は益々先端医療を受けられる人と受けられない人の差が拡がるのでしょう。先端医療は「価値」だからです。
しかしながらあくまで「平等」を目指しながら医療の開発を進め制度を整えるのと、「不平等」を目指すのとでは方向性が違ってくる。どんなに平等でなくともどんなに平等から遠くとも、それは目標として設定しておかねばあらぬ方向へ進んでしまうのです。
続いて精神病の解決ですが、これも難しいかなぁと思いました。
そこに有機物が「ある」以上、「病み」は続くように思えて。
意識が電気信号の集合体であるとしたら、電気信号のコントロールをすれば解決可能かといえば、今度はコントロールの機微が問題になり「病み」の症状に振り回されることになりそうです。
「病み」と「そうでない」状態が調和する矛盾であった場合、「病み」にはそれに応じた生活があります。
一生を病み抜くことになりますが、適応して生活できる可能性はある。
病んでいながらにしてそれに応じた生活を可能にする、というのが現状抱ける最高の目標であると思われます。
語り合っていた内容はもっと超次元的なもので、あくまで命題は「志向性として」「未来に」期待するもの、目標としてもつものでした。
我々が知覚できる範囲の年代にこの問題が解決の兆しを見せることはないでしょう。
けれど、これも誰かの意見だったような気がするのですが、予想できない未来において人間が同じ性質を持ち続けるなどという保障はできんのです。変わっていくのです。
そうなったらもう、今度は精神病や平等といった概念の問題も絡んでくるので、ここで語られるべきことではないのかも知れません。