SNSでは大概人の思考を借りる。正確には人から思考の題材を借りて自分でこねこねするんだけど、このこねこねだけをしたいときはいつも題材を借りてくる。
けどたまに思索していると自分から題材が出てくることがあって、そういうときは仕方なく自分だけの土俵で独り相撲をする。とても寂しい。
とはいえ私も日頃からそない色々考えているわけではなくて、大体同じテーマの中で認識がすげかわるくらいのことである。仕事と恋愛と、あとほにゃほにゃ。
というわけで先に挙げた順番でマイペースにただの日記を書く。鴨川沿いを歩いた30分の間の考え事。
なんで私たちの業界は、優秀な人ほどギャップに苦しむのか
私の同期が、既に数名この業界を離れている。中には優秀な人もいた。優秀、というのを何をもって定義するかは難しいけれど、主語を大きくすると「この業界の未来を支えられるであろうと考えられるひと」だ。
そして我々の業界は現場至上主義だから、現場にいないでよそから文句を言うことをあまりよしとしない。病棟は閉鎖社会だ。外の空気との交流がない。これが私にとってはとてもつらいことなのだけど、まあそれはよそにおいておこう。
最初の職の成り立ちが、あまり賢い人のためのものでなかったからなんだろうか。
今でこそどんどん学校はハイレベルになり競争率は上がる一方だけれど、それが優秀な人材を生むだろうか。現場にきて、結局下手なOJTに潰されてしまうのではないだろうか。現場に求められている教育ってなんなのだろうか。そもそも、教育とはなんなのだろう。
今日、たまたま自分の考えていることを口に出して人に伝える機会があって、思った。我々は臨床で起こっている現象について言語化するのが非常に下手だ。だから、それぞれの部門内で起こっている事実は外に漏れない。かつ、文章にも残さないから、同じことが繰り返される。何も発展しない。発展しないまま教育にも携わるから、下を潰す。折角何かを学んできたとしても、無意味だったら学ぶことをやめてしまうだろう。
学ばない方がうまくいくなんてことはあってはならないと思う。培うものがきちんと評価されていく場所であるためには、起こっていることを書き残さねばならんなあと常々考える(勿論こんな駄文ではなくて、世に出しうる形式で)。そうしない限り、開かれた学問になっていくことはできないだろう。と、10分くらい考えた。たぶん。
恋愛、って結局なんなのだろう。
いや、テーマそのものは他人の借り物だ。
SNSをやったり、友人や職場の人と話していたりすると出てくる普遍のテーマ、恋愛。というか、他人と人生の一部期間を密に伴することについて。
好きとか好きじゃないとか、私には未だによくわからない。結婚とかも、いいなあうつくしいなあ素晴らしいなあと思うし自分もやってみたいと思うが、じゃあ実際誰と?どんな生活を?となると、まったく想像がつかない。人間、想像がつかないものはできないものである。例えば私のようにひとりの時間をあまりに愛する人間である場合、他人と居ることは苦痛になってしまうかも知れない。はい、ワンペナルティ。
まず、好きなんていう感情は多分後付けのものだ、ということに仮定している。
私の友人が発した言葉を借りるならば、恋愛なんていうものは「性欲にふりかけをかけたもの」に過ぎない。つまり「好き」という表現は、ふりかけそのものである。
ちなみに私はご飯にふりかけをかけずに食べる。白米はうまいぞ。あ、違う、関係なかった。
何年か付き合って、別れて、すぐに別の人と何年か付き合って、別れた。
その別れた人たちの人生を見ていると、あなたたちにとって私ってなんだったんだろう、役に立てたのかね、と思う。いつも。
その過程が必要だったのも勿論わかるけれど、こうやって人生の一定の時間を人と共に過ごすことに多分意味があるのであって、不必要にしんどい思いをすることはないのかも知れない。誰かが悪いのではなくて、人生の周期がたまたま適切な位置になかっただけという答えもありだ。勿論それ以上に、そもそも一緒に過ごすべき仲ではなかったというのもアリ。
若い男女なのだから、性欲がある。セックスしたいけど、理由が必要で、そのときは同じ未来を志す。でもやっぱり無理だから、別れる。それでもいいんじゃないかという気はする。その言い訳がただ二言、「好き」と「恋愛」だ。これは私の答えであって誰かの答えではないけど、そんなことはどうでもいい。
万が一子を授かったら、まあ、色んなカップルがあるだろうけど、私なら恐らくそのまま産むんだろう。どんな条件でもそのときに産んでおかなければ後で何があるかわからないし、最低限の条件は自分はクリアできていると思うから。最高?望めばキリがないでしょう、そんなの。
と、10分くらい考えた。
あとの10分は内緒のほにゃほにゃだ。以上。決して面倒くさくなったわけではない(言い訳)。