毒素感傷文

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魔都歩き、数個のプラトー

歩いて考えたことを全部ぶちまけていく。あまり人に伝わるように書く気がないのと、ひとまず自分を鎮めるためのものなので、読むつもりでいてくださるなら先にお伝えしておかねば。読みにくい文章ですみません。最近デザインについての本をよく読んでいるので、デザイン関連の話題がたくさん出てくると思います。

 

 

 

人間があふれ、零れ落ちることを前提とした都市

品川のアクアパークで思ったこと。

人々は狭いスペースに対してあまり違和感がなさそうだということ。デザインが、そもそも、人を許容するようにできていないのですね。あふれることを前提として造られている。というのが、前日は名古屋に、当日に東京という街に来て思ったことでした。私が住んでいる京都は観光地です。数か月の滞在をなさる人もいるでしょうが、多くは数時間~数日の滞在でいなくなる存在です。何より観光都市ですから、空間は売り物です。

ところが東京は違う。その都市圏に住んでいる人たちがやってくる場所です。けれど、あふれるようにできている。不思議だ。まるであふれてもいいみたいだし、最初からあふれる計算であるようだし、それはなんとなく『三角形の底辺の落伍を前提とした都市』であることの象徴みたいだった。面白かった。

 

でも東京という都市圏に住んでいる人がみんないうには、そこで生まれ育っているので違和感がないのですよ。その狭さに。

 

 

テクノロジーの甘受について

アクアパーク品川でものすごくびっくりしました。

タッチパネルを水槽に応用したものがあって、水槽に触ると視覚エフェクトが出てくるんです。子どもも大人も普通に触っていて。何にびっくりしたかというと、意匠を有難がらずに当たり前のこととして受け入れていることにびっくりしました。

京都でもよくアート関連のイベントは開催されているんです。チームラボのプロジェクションマッピング作品の展示だとか。でも、東京ってすでにそういうものが公共施設や商業施設の中に生活の一部として組み込まれているんだなと思って。いや実際はどうか知りません。東京はそういう意味では人間が多くいますし、『デザインの実験』をできるところ、というかやりやすいところなのかなぁと思いました。

デザインの本義は、その内容を言語の理解とかではなく体験として落とし込めることにあると思っているのですが、その『言語化できないもの』への技術の翻訳がデザイン力だとするなら、そこにどんな技術があったとしてそれを理解していなくとも、提示されるものだけを美味しくいただくことができるのですね。勿論試されたり搾取されたりもする結果がひとつ前の『あふれることを前提とした都市』たりうる証左なのかも知れませんが。

いやもう田舎もんだもん。びっくりしちゃいますよ。

 

 

 

都市の魂の在処と自己知覚の範囲の拡張

渋谷から新宿にかけて歩きながら、自分はなぜこうして建物や街の雰囲気を撮ることにこだわるのだろうなあと思っていました。ずっと昔からこだわりはあったのでしょうが、いつの間にかどんどんそれは色を濃くしていって、都市論の本を読むことや構造物のデザインについて考えること、写真を撮り歩くことに発展していきました。

 

歩きながら考えて、考えながら人と話をしていて、ふと思い出しました。時間帯は夕暮れになりあたりは少し薄暗くなりはじめ、ビル風が歩いて温まった体を冷やすくらいのころに。

自分は9年前のこれくらいの時期にはすでにもう深く病んでいたのですが、まだ通院をしたり服薬をしたり、治療をしていない段階でした。家に帰るまでが5分しかない学校に通っていて、その5分しかひとりでいる時間はないのに、街が見渡せる丘を通ると必ずと言っていいほど苦しくて涙が出たことを。

それはどういう悲しみだったか思い出しました。暖かい家で羨ましいとかそんなではなくて、そこのひとつひとつ灯る明かりすべてにひとの生活があることの重さに耐えきれなかったのです。そのくらいから教室に通うこともできなくなりました。人間と一緒にいると、なんだかその人の持っている心の中の苦しい部分が自分の中に入ってくるような気がしました。決してそんなことはないとわかっているのに、いてもたってもいられなくなって、とにかく存在を知覚できる人間がそばにいたり、その存在が目の中に入ることが耐えがたかったのです。

部屋から一歩もでない引きこもりになったことはありませんでしたが、そうやって外に出ると泣いてしまうので、近所でさえ出ることができず、学校の教室にも通えないのをまる1年ほどやりました。

 

ホッブズは『リヴァイアサン』という本を書いていますが(残念ながらまだ未読)、自分はリヴァイアサン――つまり怪物とは、国家ではなく都市であると思っています。都市の集合体が国家なのでは、といわれればそれまでなのかも知れませんが、東京というものは自分が知覚できるなかで最大の都市圏なのです。上述のように崩れ落ちるものを前提として、新しいものが生み出されどんどんメタボリズムが起こる場所。

 

渋谷のスクランブル交差点。

都庁の屋上から見える、間断なく続いていく都市。終わりの見えない都市圏。

そういうものを見ていると、自分という肉体の終わりがなくなるような気がします。もちろん個体としての肉体はひとつしかないのですが、他人の手を借りて、目を借りて、知覚する脳を借りて、他人の感覚が自分の感覚の先に地続きにあるような感じに襲われることがあります。

昔はその重さに耐えきれずただ苦しくなり涙を流すしかありませんでしたが、今はその正体について言葉だけでなく写真を撮ることもできるし、ただ黙ってそのよくわからない重圧に耐えなくてもよくなりました。

過度に内省的な自分が社会と繋がる唯一の接点は恐らく、『都市』という枠組みを通してだと思います。そういう都市というワンクッションがあって初めて、他人の文化や他人の文脈、そして個のかかわりを超えた場合のコミュニケーションに及ぶことができるのです。メディアがどんなにコミュニケーションを促進したとしても、都市に立ちそこを歩くことを超えたコミュニケーションというかインタラクションは存在しないように思えます。

 

 

 

デザインはデザインという営為でしかなく、目的ではない

『デザイン』そのものをやろうとすると、デザインする人間にはなれないのだな。と、自分の半生を振り返りつつ、かつ『デザインの解剖展』も見ながら思いました。

デザイン、というものがどういう要素でできているかを分解していくと、それらは技術の集合であり知識の集合で、かつ確立したものはなく、つまり対象により・また目的により変化するものです。絶対ということは絶対にありえない。相対的に100%に近い、ということはあるかもしれませんが。

なにがしかの技術をもってデザインするという行為にもっとも近づくことはできると思います。そしてそれは『デザイン』そのものを学ぶことでは、まったくなかったのだとも改めて思います。

 

ひとが何かを理解するとき、『想像し』『考えて』理解することはよくあります。

けれどデザインは、それによる負荷を軽々と超えていきます。想像できないこと、想像できないゆえに考えが及ばないことを可視化するもの。それがデザインというか、意匠のように思えるのです。

自分は言葉を書くのが苦手です。言葉を書くのも、読むのも、理解するのも下手だし、人に話して何か伝えるのも、人から何か感じ取るのも、全部全部へたくそです。何一つうまくいきません。

でもデザインはそういうことを全部飛び越えさせてくれます。それがデザインの力によって自分の負荷を和らげてくれていることに気づくことはあります。

 

デザインの解剖展がそんな展示内容であったかというとまったくそうではないんですが、自分はデザインというものを構成している要素を見るにつけとても安心してしまうんです。自分の頭の中や心の中で起こっているけれど他人に決して伝えることのできないものが、それを通してやすやすと伝播していくような気がするのです。

 

それはもしかしたら、都市のことを考えていた時にむかし抱いた恐怖感である『他人の知覚が自分のなかに流入してしまう』ことへの恐れからの解放かもしれません。デザインという営為を通せば、自分は自分で抱えきることのできないこの感覚を共通感覚に落としこむことができると思っているのかも知れない。

だから写真を撮るしヌードもやるし楽器も弾くのかも知れないけれど、まあ、日頃そんな難しいことは考えていません。愉しいからやっているだけ。

 

デザインってそういうものかも知れません。

 

魔都トーキョーさっくりと振り返る。あの街まだまだ歩き足りません。