毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

意図を編む

私たちの業界の教育に関するお話し。

 

 

 

縦軸と横軸に関すること

実習による縦軸の教育

働き始めると、実習生がくる。

実習生がくると、1年目だった自分たちよりも時折ずっと深く本人の情報を得ることができ、また本人に必要な計画を綿密に練る時間があることに驚かされる。

そしてそれはなんのためなのか、いやむしろ学生ができることをなぜ1年目だとする余裕がないのか、考える。

 

縦軸とは、なんなのか。

 

学生実習は、(私の学校では)最後の統合実習を除きすべての実習で、実習期間中は学生ひとりでひとりの患者を受け持つというスタイルだった。

それが縦軸。生理機能と病態、それに対する治療をはじめ各発達段階や身体的・精神的特徴を座学で履修したうえで、臨床で実際にそれが起きている統合体としての人間に接し、起きている現象について考察を加えながら徐々に介入方法の模索を行う(非常に乱暴なやり方での学習だったが今思えばそういうことだ)。

 

けど、実習の時から思い返しても、軸は縦だけではなかった。

 

 

時間軸としての横軸

実は実習のときから横軸も存在していたのだけど、気に掛ける余裕はなかった。

横軸①実習生たちの横軸

グループでいくので、何人もの患者の情報を得る。

1対1が幾つも存在して、それぞれの患者の情報を持ち寄るけれども、自分の患者の展開以上に情報を拾うことができなかった。それは何故か。

 

横軸②まずは異常な点のみを見つける

実習をしていたころに足りなかったのは、推測する速度と、正常値・異常値の重要度を振り分ける能力かもしれないと思う。

正常な部分に働きかけるのは介入の時点であって、まあ学生なのでまずは正常がなぜそのように保たれているかも含めて考察していく必要があるから、他人のまで考える余裕がない。だからカンファレンスを通して情報を共有するのだろうけども。

 

横軸③人員配置とペース配分

けど、結局毎日の実習を通して人間としてはかかわりができるわけで、時間軸でいうと横軸がそこで出来上がっている。ケアの時間調整、メンバーの人員配分など考えているとそれは確かに横軸であったなと今思う。誰も教えてはくれなかったが。つまり「教えてない、言語化していないものを実習中に含める」のは私個人としてはどうかと思うが、私の受けた実習とはそのようなものであった。

そして私はそれがとても苦手だった。苦手だということを自覚することはできた。

 

 

 

1年目で縦軸をいちど放り投げる

放り投げるといっては人聞きが悪いかもしれない。

縦軸の完成度を保ったままでは現場は済ましてくれなかった。

縦軸の習熟を待ちながら、限界を超えてどんどん横軸を拡張していく。無理なことまで、つまり『忙しくてもう無理』なことをどんどんやる。

それが誰にとってメリットとか、適切かどうかとかはともかく、私にとっての1年目は確実にそうだった。

 

自分自身の健康を保ちながらスキルの確実な習得と最低限のハードルをクリアするにあたって、では横軸とは一体なんなのか。まあ単純な話が時間の計算とリソースの配分、自分の力量を自覚することだと思う。

自分ひとりの力や判断でできることは、この世界にはほとんどない。毎日のようにそれを実感している。だから、横軸の意識をしながら適宜周囲の力を借りつつ自分自身の縦軸の考察を深めていくことになるんだろうな、となんとなく先行きの予感もある。

 

 

 

縦の糸と横の糸の編み直し

先の項で縦と横の話をしたけれども、縦でもだけでも横だけでも布はできない。

結局は縦糸、横糸をそれぞれ強靭にし、染め直し、織りなおすことを繰り返していかなければならないのだと思う。けどそれは時として人に非常な努力というか自己分析力を強いる。

縦の糸と横の糸の自覚は難しい。私はずっと横の糸を苦手としてきたけど、横の糸をようやっとひと段落それらしいものにしたら、縦の糸の脆弱さが目立ってくる。

しかも、一度職業人として歩みだしてしまうとなかなか立ち止まることができない。つまり布をばらばらに解して編み直すことができず、継ぎ接ぎのままどんどん拡げていかなければならなくなってくる。

これが非常に窮屈に感じられるし、不安も伴う。

 

できる範囲で継ぎ目を強固にするくらいしか、今していけることはない。

布がある程度広がって、綺麗な織物ができたくらいの段階で、一度全部解いて織り直したいような気もする。

 

 

 

自分自身や他人を見ていて思う、専門職教育に関する所感でした。