ふたつのことについてお話しようかと思いますが、相変わらず頭の中がとっちらかっているのでうまく文章にできる自信がない。
アングラコンテンツについて考えるきっかけになったもの
観てきました、先日。良かったです。
実はまったくこの方のことは存じ上げず、複数名の人からこの山口小夜子氏に似ていると言われて気になっていたからです。
彼女の生きざまが途中から所謂「アングラ」に属する界に近くなっていくのを見て、それはなんだろう?と少し思ったのです。
身体表現とか、ちょっと退廃的な世界観とずっと触れながらも自分が足を踏み入れていないその場所はなんなのだろうと思って。
ちなみに私自身はたとえばゴスファッションに身を包んだこともなければ、演劇に身を窶したこともなく、至って地味な人生を歩んでいるのですが。
それでも『日本蒸奇博覧会』に2年連続足を運んだり、かの有名なサブカル雑誌『夜想』をいくつも読んでいたり(どちらかといえばきょうだいが好きなので全部プレゼントとして渡したものを読ませてもらっているだけですが)、その世界への興味はどこから湧いてきてそして線引きはどこにあるのか、いつも気になっています。
日本蒸奇博覧会
そして先日、劇団どくんごの公演を観に行ってきました。いや、こちらは誘われていったのですが、ああいう世界ってなんなのだろうなと思いまして。
キーワード①『詩と朗読』
どくんごの公演『愛より速く』も、山口小夜子の晩年も『朗読』がなんとなくキーワードになっているような気がします。それも、意味や繋がりが一見してわかるようなものではなく、繋がりは観るものが勝手に作れといった風体で。
映画やオペラにはストーリーがありますが、詩にはそんなにストーリーはない。でも意味の繋がりみたいなものは存在している。それをあえて文字以外の表現にするとこうなるのかなといった感じです。
いわゆるアングラっぽさないしサブカルっぽさというものは演出がすべてを握っているのかも知れません。というかそうなのでしょう。
キーワード②『身体を動かす』
ダンス、というほどの何かがなくても体を動かしてもいいのかもしれない。
生憎と私自身は騒音が苦手で、しかも熱狂的な人たちを見るのも囲まれるのも苦手で、大がかりライブというものに行ったことがありません。
けど、小さなライブやコンサートホールでのそれには足を運ぶことがあって、かねてより身体の芸術性はそういうところに求めてきました。それがサブカルやアングラに傾くゆえんかも知れない。この前「ライブとか行かんの?」と訊かれましたが、普通の(所謂メイン・或いは一部のサブカルチャー)に属するひとたちはそういうところで芸術性への欲求を満たすように思われました。
晩年の山口小夜子は身体表現の世界へ傾倒(という表現はあまり好かないのですが)していき、それを引き留めようとする人間も称賛する人間も出てくるといった風になるのですが、まさしく身体表現とはアングラ的世界観と違和感なく癒合してしまうものなのかも知れません。
あああと色々考えたかったのですがとりあえずもうこの辺りで筆を置きます