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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

老いて枯れゆく花の美しさ哉

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それは圧倒的な存在感でした。今日撮ったどの花よりも美しかった。

 

 

 

老いるということ

老いは恐れを伴うなあ、と思ったのはつい先日。

私たちは老いることから逃れることができません。老いは人から自信を奪い、美しさを奪い、経済力や体力や気力を奪います。エイジズムによって社会の隅に追いやられていく。

老いは生まれたときから始まります。生まれることこそが、老いにおけるもっともハイリスクな因子です。生まれなければ老いる恐怖に打ち克つことができるでしょう。もっとも、生まれなければ恐怖に打ち克つ必要などないのですが。

 

私たちは時間を過ごせば確実に老いていきます。20、30代まではそれを成長と捉えるのでしょうが、それでも死に向かって老いてはいるのです。それは予期しうる死であるか否かに関わらず、誰にも等しく訪れます。

 

わたくし石田衣良の作品が好きでよく読むのですが、彼の作品の中では若い女性はさほど魅力的でなく(私にとって)、年齢を重ね始めた女性はほんとうに美しく描かれています。それは作り話であるからこそという部分も含めてですが、彼が見ている女性性の世界が斯様に美しいのであるから、その片鱗を私たちも享受することができるのでしょう。

このブログは一貫して私のひとり語りであるために自分のことだけお話していきますが、私の価値観と身体的な年齢はいつも不相応であり、幼弱な部分と老成した部分が常に乖離していて大抵の場合苦しんでいます。勿論みなそうった部分は持ち合わせているのでしょうが、中間という部分が存在しないのです。時々、自分の肉体の若さがいやになるのです。なぜって、同士として苦悩を分かち合うことができないではないですか。つんと上を向いた乳房と張りのある尻、瑞々しい肌をもって、「わかる」と頷いたところで誰が納得してくれますか。早く笑い皺が欲しい。苦悩の末の眉間の皺でも、構わない。彼らの苦悩に少しでも近づくことができるのであれば。

 

もちろん私にも若者らしい苦悩はあるのですが、それらは同年代に話すと大抵その若さによって処理されてしまいます。若さという価値観に裁かれてしまい、私がそのずっと先の老いを意識しながら苦しんでいることからは線引きをされ、いまを享楽する者として捉えられることもあるのです。納得がいかない。次第に誰にも苦悩を話すことができなくなりました。それは愚かしい見栄の結果ゆえでもあるのですが。

 

話を戻しましょう、今はそんなくだらないことを語りたいのではなかった。

 

 

 

老いることの美しさ

盛りの花も勿論美しいですが、盛りを過ぎて落ちゆく花もまた美しい。

 

働き始めて、30代40代の知人(友人と呼ばせていただくにはおこがましい)が随分と増えました。二十歳になるかならないかくらいのときに30前後だった友人は、40を手前に色々と人生が動きつつあります。四十不惑とはいうものの、戸惑っていない人たちを私はあまり見ることがありません。勿論、戸惑っているからこそ繋がりができるのでしょうけれども。

 

先人は多かれど、自分の人生のまったく同じ先を生きている人間というのは誰一人いません。手探りで老いていかなければいけない。できれば手放したくない若さを尻目に時間はどんどん進んでいく。

けれど、空が映える花の盛りを手放した先には苔むした地面との調和があり、容色衰えるばかりか老いてなお益々艶やかであるのです。無理をした若作りとも違う、それは時間を経たからこそ滲む愛らしさや凛々しさであるので、我々若者には手に入れようもない。

羨ましくて仕方がありません。なぜって、自分がその年齢になってその利点を手に入れている自信がからきしないからです。

私はまだ、若いと言われてしまう年齢だから、先をいく知人・友人たちを遠くから見守っていたい。敬愛という以外に、なんと表現していいかわからない感情を伴いながら。

 

 

 

若さというレンズを通して老いを見つめる

本日は平日ながら仕事が休みだったので、瑠璃光院に行ってきました。

瑠璃光院の後は、比叡山山頂にある、ガーデンミュージアムへ。

平日のためか、外国人観光客を除けばほとんど全員が高齢者でした(高齢者の定義は65歳以上です)。勿論目視ですからどれくらいの方が実際の高齢者なのかはわかりませんが、最近の前期高齢者はほんとうに元気です。毎日高齢者を(も?)見る仕事をしているのでそのあたりは信じていただきたい。

 

当然私はまだ20代なかばの変な恰好をした若い女性になるわけで、こういう集団にまぎれたときに自分は彼らに何を思い彼らは私に何を思うのか、ちょっと気になります。

 

先ほど述べたように高齢者は元気です。そして、昨今叫ばれる高齢者の低マナー化ともいうべく、彼らも若人のようにはしゃぎます。わたしは一人ですから、はしゃぎようもありません。

ただ、高齢者は静かで控えめであるべき、きびきび動けないのであれば後手に回るべき、というのもまたそれはそれでどうなのだと思う自分がいるのも事実です。なぜそんなことを思いつくのかというと、先日ある人が仰っていた「高齢者と若者で時間の価値は違うのではないか」といった主旨の(勿論もっと複雑なことについて語っていらしたのですが私が受け取れた要点はそこだけです)お話があったから。

実際に高齢者の方々を見ていて(仕事でも日常生活でも)、私にはこれといって不快感はわいてこないのです。不思議なことですが。

 

彼らはいつか死にます。勿論私たちもいつかは死ぬわけですが、相対的な時間として彼らの方が「老い先短く」、かつその金銭も時間もそれを楽しむ健康も、私たちよりずっと持ち物が少ないのです。

私は、それを奪う気にはなれない。

たとえ自分の時間が少し奪われようとも、特に腹が立たないのです。

それはやさしい思いやりの気持ちとかからではなく、そちらの方が俄然双方にとって都合がいいからです。

私は日々病んだ若人と病んだ高齢者を見ていますが、外を歩ける高齢者には是非もっと外を歩いて欲しい。医療による健康維持なんかに金を落とさず、街を歩き野を山を歩き人生の二度目の春を謳歌し、今現在結構苦しい状況に立たされている若者の代わりにばんばん夫婦旅行なんかをしていただきたいと思っています。

高齢者のせいで若者が逼迫されているとは、あまり思いません。それは高齢者のせいというより、主に環境のせいなのです。目の前の高齢者は別にそんなに罪深くないのです。強いて言えば、選挙での一票ぶんくらいの恨みはぶつけてもいいかも知れませんが、そもそも投票する政治家に若者を支援する策を提唱している人がいなければ無効なほどの瑣末な恨みごとです。

 

そんなことを考えながら比叡山の枯れた花を撮って山を下りました。

彼らの目に、若人のわたしはどう映ったろうか。きっと、毎日動けない高齢者の世話をしている女だとは思わなかったでしょう(憶測に過ぎませんが)。

 

瑠璃光院で、老夫婦が互いの写真を撮りあっていました。

ふたりで撮ればいいのに、と思って声をかけようか迷いましたが、やめておきました。

「うん、よし」と頷いた夫と、「お父さん、何がよしなのかわからない」と諦めたようにやさしく呟いた妻の関係を見ていると、なんだか余計なことに思われたので。

 

愛する人の写真を撮るとき、撮る自分も勿論必ずいるのです。見る人がわかればそれでいい。

 

今はもう亡くなった自分の祖父が撮った、祖母の写真を思い出しました。いずれその感動は父が撮った母の写真から得るものになるのでしょうけれども。

老いるのも悪くはないな、と思いつつ一筋縄で老いていくにはまだ早いとも感じる初夏の夕暮れでした。まだ老いるには経験も準備も足りない。