毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

200件目の記事・ふつうの日記

書きたいこともないけどそわそわするので日記を書く。

 

 

梅雨は調子が悪い

毎年そうだが今年はいよいよ悪い。IBS過敏性腸症候群)を高校生くらいからもっているのだが年々悪化している。症状のコントロールは比較的容易なのだけど、梅雨やごく一時的な精神的負荷により本当に簡単に悪化する。具体的に言うとゼミの研究会の直前とか。毎回楽しんでいるけどマジで始まるまでお腹痛いです。

精神が落ち着くのでコーヒー飲むんだけどお腹にとっては余計に悪い。

食べても太らないのは多分こういう理由があるんだろうとおもう。嬉しくはない。

 

 

 

レッスンに行った

チェロをする(している)話

このブログに書くことはあまりないけど、実はチェロを弾いている。高校生のときに始めたから、およそ半生近くになるらしい。もっとも高校以降は特定の楽団には所属しておらずレッスンもおざなりなので、年数のわりにまったく弾けない。

ウィルス禍で遠方の先生を訪ねるのは気が引けてなかなかレッスンにも通えないので、腹を括って近所に別の先生を探すことにした。

 

 

先生とのマッチング

最近は便利なもので、ゼヒトモ【Zehitomo】| あなたの毎日に、プロからのアイディアを。というイカしたマッチングサービスがあるらしい。マッチングサービスは恋愛(等)にとどまらず様々な需要をもつ。

これを利用しておおよそ自分の希望や経験を入力すると、面倒を見てくれそうな先生が連絡を下さるという仕組みだ。自分側にもリストアップされる。

web上での動画を通じてのレッスンでも構わなかったが、結局対面での先生に辿り着いた。

 

実はこの先生は、私が知っていた人であった。知っていたといっても、場所とレッスンをしているという事実しか知らない。前の前の前の住居(近場で引越ししすぎ)の近所で、職場の近くだったので、外に貼り出している生徒募集の貼り紙が目に入ったことがあるのだ。しかも自分はそのチラシを持って帰ったこともある。

当時お世話にならなかったのは、まだ自前の楽器を買っていなかったこととか、楽器を始めた時からお世話になっている先生の元へ通っていたからという理由があった。

 

 

音楽界隈の特殊な話: 個人レッスンの文化

与太話の日記なので与太話をする。

 

個人レッスンとは若干特殊な世界だ(わたしは慣れてしまったのであまり何も感じないが)。

ヤ◯ハとかカワ◯のような大手の音楽教室が開催しているわけではない、個人レッスンというものがある。管楽器や打楽器もそうではあるのだが、弦楽器は特に「誰から教わったか」が強く表に出る世界だ(と思う)。たとえプロになっても、幼少期から師事した先生をずらりと書き連ねるのが一種の習わしとなっている。いわば「学校歴」の代替となるような代物でもある。

管楽器や打楽器は吹奏楽のような合奏から楽器を始める人口が多いためか、この傾向はアマチュアだと比較的薄い。とはいえ、「比較的」であって皆無ではない。特にクラシックになればなるほど、おそらくこの色合いは強まるだろう。

 

さて、この個人レッスンにおいて、「先生が変わる」というのはどういうものなのだろう。自分もはっきりとどこかで確認したことはないのだが、「巣立ち」というポジティブなイメージというよりは、「鞍替え」「謀叛」のようなどこか後ろめたいイメージがあった。もちろん、楽団への入団を機会とした変更などはよくあることとは思う。

しかし自分がチェロを始めるきっかけとなった先生はそういったことに非常に寛容な方で、まあ多分大丈夫だろうという予感があった。というわけで、楽器を始めてから15年目にして違う先生に師事することとなった。

 

 

レッスンへ

レッスン自体は今までに受けてきたものと同じで、楽器が弾けるようなそこそこのスペースがある場所(大体は先生のご自宅などである)に赴く。ちょこちょことお話をしながら楽器を用意して、調弦などをして弾ける準備ができたら適当に(?)指の練習などをして、それを聴いてもらうという形だ。

個人的に好きなのは、「先生が別室に準備のために退室しつつ聞くともなしに聞いていて、自分が弾いていたらどこからともなく帰ってきてコメントをくれる」という瞬間なのだが、ありがたいことに今回もその機会があった。

 

「随分長くまともに弾いていないので、フォームなどから見直したい」と言ったらまず楽器の構え方をみてくれた。私は直立(チェロは座って弾くので「直座」?)不動でがっつりと膝で楽器を固定するよう教わってきたが、それだと右手(弓を持つ手)の自由度が下がり十分に弓を使えないので、楽器ごとやや左に構えてしまうというものだった。不安定で非常に不安になるが、チェロは小柄な体格の日本人や女性にはやや大きな楽器であり、なおかつ体格が演奏スタイルに大きく影響するので、合理的な解決策ではある。

 

そういえば、15年前よりわたしは随分「合理的な」ものが好きになったと思う。

 

小指を曲げる話

弓の持ち方も左指の使い方も、なんだかんだで何年経っても課題は多いもので、以前お世話になっていた先生のところでも困るたびに見てもらっていたのだが、今回は左指の小指の第二関節を曲げることになった。何を言っているのかわからないが説明しよう。

弦楽器というものは、当然弦を張ってある(何言ってんだこいつ)。楽器が大きくなればなるほど張力が大きくなり弦は太くなるうえに、張られている高さ(指板から駒までの距離)がでる。つまり強い力で押さえる必要がある。

対して、音階は絶対に場所を変えてくれないので、当然小指などは遠い位置を触ることになる。無理をする癖がついていて、指を伸ばしていたのだが、伸ばしたら伸ばしたで今度は別の問題が出る。移弦(先ほどまで弾いていた弦から違う弦に移るとき)にノイズが入るため、それを嫌って無意識に音が途切れるのだ。これがよろしくない。

自分が好きなのはバッハの無伴奏チェロ組曲というチェロ奏者にとってのバイブルのような一連の曲なのだけども、丁寧な運弓を要求する曲なので、誤魔化しが利かない。折角楽器をやっているからには丁寧に仕上げたいし、とまた取り組むことになった。

 

死ぬまでに第6番まで完成するんだろうか。するといいな。

 

 

あと、レッスンの帰りに、以前行きつけだった居酒屋の様子を見に行った。ちゃんと開いていたし、政府に反駁して酒類を提供したりはしていなかった。反骨精神が有り余っている店主なのでやりかねないと思っていたが、地域柄取り締まりも活発なのだそうだ。

変わらない味で迎えてくれたが、飲食でしか貢献できないのはなんとも悲しいものだと思う。

 

クラウドファンディングはご本人がやらなさそうなので、賽銭箱とかそういうの、設置していただけないだろうか。(???)

 

 

チェロの話終わり

楽器の話ばかりになってしまった。楽器の話しかすることがないというのはある。院生生活は別の記事にしているし、読書は読書だし。

 

「考えていること」を日記にしたためるのが随分と苦手になった。おおよそTwitterに書きすぎであることは認める。

 

たまには落ち着いて長い文章を書くべき、とも思う。

 

この前まで参加していた「トラウマケア研究会」の話でも書けたらよいのだが、いかんせんやる気が足りない。また今度書きます(と言って逃げ回る)。