毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

食い逃げ

じっとテーブルを見ていた。

アイスコーヒーの中の氷が、まだ僅かな茶色に浸かっている。

 

視界の端には伝票がある。

書かれているのは620円と540円。これはマンデリンとカフェ・モカの対価で、僕たちがここにいた時間は30分と少し。

それから540円分の小銭と、汗をかいた空のグラス。こっちは彼女がここを去った痕跡。

ビンタされなかっただけ、よしとしよう。

 

ここはさる施設の併設カフェで、古き良き昭和の香りを漂わせる軽食とデザートのメニューを張り出している。各階、事務所への配達も請け負っているようだ。入り口は施設内部と大通りに開かれており、経営としては悪くなさそうな人の入りだ。

程よい喧騒の中で、さきほどの会話を思い出す。憂鬱がじわじわと背中を這っている。仕方なかったのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

 

しばらく腕組みをしてどこへともなく視線を彷徨わせていると、コーヒーに速やかに反応した僕の膀胱がトイレに行ってくれないかと請う。逆らう理由もないので、当然手洗いを探した。

どうやら店の外、施設の共用部分に行かなければならないようだ。

 

用を済ませて、内側の入り口から入りなおす。僕の席は入り口にいちばん近くて、とても薄暗かった。気分にぴったりだ。やり直せない時間に対する恋慕が黒々と心の中に居場所をつくる。僕には帰る場所さえなくなったのに。

 

3年半いっしょに住んだ家を、きょう、抜け出した。

荷物はもう運んであって、あとはもう僕の体と心が部屋を出るだけ。荷物の帰る場所はある。

僕が今から帰りたい場所がないだけだ。

 

 

 

かといっていつまでもここにいるわけにもいかない。席を立って、携帯を尻ポケットに突っ込んだ。次、座るときに忘れず取り出さないと、この前みたいに粉砕してしまう。

 

どこにも行きたいところはないのに、新緑と鋭い日差しの中にずるずると這い出た。

 

涙も出なかった。

 

誰も悪くないのに、僕は居場所を失い、彼女は信じた未来を失った。彼女はちょっとだけ泣いた。ここに来るまでにたくさん泣いていて、涸れてしまったのかもしれない。それでも涙は渾々と瞳の表面を潤していた。長い睫毛に雫を作るのが、きれいだなと思った。

 

 

駅に向かって歩いて、はたと気付く。

僕は会計を済ませるのを忘れてしまったかもしれない。

慌てて戻ろうとしたが、そもそも僕が店を出るのに誰も声をかけなかった。不思議だ。出口があちこちにあるから、見逃してしまったのかもしれない。

 

緑の覆いを作られた頭上で、羽化するタイミングを間違えた蝉が、一匹だけ鳴いていた。

今鳴いても誰にも出会えないのに。

 

 

暫く立ち止まって蝉の声を聴いていたが、ひとりの客も、店員も出てこなかった。

ただ噴水だけがしゃばしゃばと音を立てて活動していて、他は時が止まったかのような静けさである。

 

彼女といたら、会計なんて忘れることはなかったのにな。

 

少しだけ自棄になって、駅とは反対側に歩き出した。

偶然とはいえ、これは食い逃げだ。もし見咎められて怒られたら、完全に忘れていたといって謝ろう。実際にそうなのだから。

 

 

 

僕が食い逃げしたのは、コーヒーと、彼女の時間と、あと2人分のこころだ。そのとき、やっと涙が出た。新しく帰る場所なんていらないから、居心地が悪くていいから、僕のものがなにひとつないあの部屋に帰りたい。

 

蝉が鳴き続けていて、できるだけ長く生きていてくれますようにと願う。踵を返して、駅に向かった。