毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

距離感について

深夜なので記事を書こうと思う。

 

 

私にとって距離感とはなにか

自分は人との距離が遠い。

20歳になる前からSNSMMORPGをしていて人と心の距離が遠いことに慣れていたのもあるかもしれない。そういえば個人のウェブサイトも(流行りで面白そうだったので)やっていた。はたまた、中高生、もっと遡るなら小学生の終わり頃には既に人と隔たりがあることははっきり感じていて、それでもひとりになると困るからなんとか取り繕っていたのも大きいかもしれない。だから、組織行動を必要とされるとき以外は大体ひとりでいたかった。というか、ひとりのときに思索が進むことはよく知っていた。惜しむらくは、その思索のための素材を当時はそう多く持っていなかったことだ。自分の内側には大したことのない芽生えたての自意識くらいしかなかった。

 

対面での人間関係はとても苦手で、寄ると触るとトラブルが起きたりしたし、相手の気持ちを理解することができていたとは思えない。あるいは、予想したとしても相手にとって望ましい行動を取ることが難しかった。

 

あるとき、「◯◯ちゃんは距離感がいいね」と言われて、とても楽になった。とても遠いのだという。

深く関わらず、自らの無力を知り、しかしできたらそこで踏みとどまり、求められれば必ず助けに応じること。言葉には、悩んで答えること。

曖昧なことで申し訳ないが、内面に悩んで他者と会話することさえ憚られてき、またそのまま抑うつ状態を経て「健康なコミュニケーション」をすっかり忘れてしまった自分にはとてもありがたかった。

誰かのためではないから、不適切なことも勿論あったろう。それでも、自分を主体としながらも少しずつ相手の知覚にも軸をおいて関わりたいと思えるようになったのはおそらくその言葉がきっかけだ。

振り返ってそう感じるというだけのことなので、実際はさまざまな人のちょっとした態度に救われてきたのだと思う。

 

 

 

距離の事故について

極端な例を表に出すが、私はときどき、同性に告白される。私自身の性自認は女性であり、男性との性行動を望む。というか結婚している。

 

彼女たちがなにを私に望んでいるのかはよくわからない。でも、(そういったことを望む一般的な)男性がいうような性的な一対一の契約ではないことはなんとなく感じる。私はなにを差し出すことを求められており、何を答えればよいのか、わからなくなる。余計な気がかりではあろうけど、彼女らは私の心に踏み込んでくるので、どこで線引きをしてよいかわからなくなる。とても怖い思いをする。

 

上記のようなことは本当に極端な例だけれど、個人と個人の関係においてもこんなときのような困惑を、多分感じている。それとはわからない程度に、微かに。でも確実に。

とくに、会話をする知人以外の関わりをもつときは、かなり疲れてしまう。役割上、私は何をするべきなのかと。

おおよそ、いつも誤ったふるまいをしていると感じているがゆえの不適切なコーピングなのだとは思う。それで、つまり自分の負担だけでカバーできるときもあるし、そうではないときもある。

 

われわれは他者を読み、同時に他者から読まれてもいる。複数の読みの相互干渉。われわれの読みどおりにおまえ自身を読めと他者に強いる(隷従)。われわれ自身についての読みどおりにわれわれを読めと他者に強いる(征服)。

 

(中略)他者というものは、当人をまえにして(あるいは当人を思いうかべて)われわれが読みとるものとは別物たりうることを、いつでもすみやかに認める心構えでいなければならない。

 

あるいはむしろ、他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である、それどころか似ても似つかぬ代物であることを、他者のうちに読みとらねばならない。

 

シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

誤ったゆえの疲れなのだろうか。

誤りたくないゆえの疲れなのだろうか。

それとも、誤っていると気取られたくないゆえの疲れだろうか?

 

 

 

適切な距離なんてない

しまりのないことを言うけれど、誰かにとって適切な距離なんてものは存在しないと思っている。その人がある距離を口にしていても、実際にはそうでない方が関係がうまくいくこともある。うまくいく、ということが、一定の期間他の人よりも親密で頼りになることなのか、細く長く続くことなのか、それさえも定義されていない。だからこそ適切な距離なんてものは存在しない。あるいは経時的に変わってしまうかもしれないし、完全に離れること、関わりを断つことが適切なこともあろう。

 

それは私が私であり、誰かが誰かであるからだ。

私が主体をもっていなければ、物差しとして客観性を保てるかもしれない。が、個体をやめられない以上、私や相手は互いにとって視認しうる対象であり、なんらかの感情や印象が存在して、距離の前にお互いを認識している。

 

認識を先回りしてコミュニケーションを完成させることはできない。

 

以前、内田樹氏がご自身のブログで「コミュニケーション力とは、壊れてしまったコミュニケーションを修復する能力のことである」と述べていた。その言説がどれくらい妥当かはさておき、当時の自分は納得した。勿論うまくできはしない。でも、コミュニケーション力というビジネス界での用語やコミュニケーション障害といったネットスラングに対して疑問を抱いていた自分には最低限の説明になった。同じ定義を用いている人が多数であるとは思えないが。

彼が読み解いていたエマニュエル・レヴィナスという哲学者の他者論を、私はまだよく知らない。

 

 

 

どう距離をとろうか?

さて、これから新しく人と関わるにあたって大きく方法を変更することは難しい(と思っている)。しかし近頃はとみに、ただ年上の人間のいう新しいことだけでなく、現れた若い人たちの言葉に耳を傾けねばならぬと思う。自分の我を押し付けずに話を聞くことはとても難しい。自分は既に済ませた道で悩む人たちをみると、口出ししたくなるのは悪い癖だ。その人にはその人に適した方法も道も存在するし、なによりみな異なる力を有しており、私なぞより遥かに広い視界が開けるであろうという期待(これは私が若い人全般に抱いている印象であり、特定個人に望むものではない)があるからだ。

 

耳を傾けたいとき、私は仕事以外での方法を未だにあまり知らない。折角なので、読んだ本の引用からそれを学ぼうと思う。

 

もちろん彼に教えたり知らせたりすることは何もない。そのそばではつねに黙って耳を傾ける方がよい思想家の一人に考えさせたり、考えさせようとすることが、どうしてできようか。

 

それゆえ私は、彼に何も言わずに、せめて彼に触れたかったのだ。とは言っても、気配りを欠かさずに、節度ある距離をおいて、しかし、気配りをもって。

 

彼の心を揺さぶることなく彼に触れること。要するに、彼に何も言わずに、あるいは誰が話しているか告げずに、彼に知らせること。彼に知らせること、しかし触れることの問題について彼と何も共有せずに、彼であればこの知らせのなかで彼に触れる何かについて語るであろうように。

 

私の感嘆を示す友愛の証しによって、彼を邪魔したり、うんざりさせたりせずに。ほとんど感じ取れないくらいに、触知できないくらいに。ージャック・デリダ『触覚、 ジャン=リュック・ナンシーに触れる』

 

かくありたいものだが、果たしてできるだろうか。