毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

100冊読破 5周目(71-80)

1.人間本性論 3 道徳について(デイヴィッド・ヒューム

人間本性論 第3巻: 道徳について

人間本性論 第3巻: 道徳について

 

理性によって道徳は定義できないことの説明からはじまって、いま正義は自然に決定されるものではなく人間の感情に左右されることについて説明されている。正義の人為性についてひとしきり、そのあとで法や経済への信頼性について(ここまで道徳の範疇に含めるのか)。国家への忠誠も限界があり、インセンティブ(そんな言葉は使っていないが)が必要ですよと訴える。

第3部のその他の徳と悪徳、むしろ狭義の道徳における徳と悪徳のいちばんのポイントなんだがようするにお気持ちじゃねえか感がとても強い(現代の機械論的・計算論的な認知神経科学・心理学と相性良さそうだ

なぜかというと行為の合理性は感情によって決定されるからで、帰結主義的な立場からはこれのほうが感情をよく説明するからだ ヒュームの情念論ではヒュームの道徳論は理解できないとわかった。情念論ぜんぜんわからなかった。

精神の有用な性質に徳があるのはその有用性ゆえであることは、大半の人々が進んで認めるであろう。この考え方は自然で、多くの機会に働くので、受け入れるのを躊躇する人はまれであろう。ところが、これがひとたび受け入れられるならば、共感の効力が必然的に認められなければならないのである。徳はある目的に対する手段と考えられる。目的に対する手段に価値がおかれるのは、目的に価値がおかれるかぎりでのみである。しかし、見知らぬ人たちの幸福がわれわれを動かすのは、共感のみによる。それゆえ、徳が社会にとって、あるいは徳を有する当人にとって有用である場合、その徳を検分することから生ずる称賛の心情を、われわれは、その〔共感という〕原理によるものとしなければならない。このような徳が、道徳のもっとも有力な部分をかたちづくるのである。ーディヴィッド・ヒューム

情念論のなかで尊敬と自惚れに結構な幅を割いて説明したのは2部の政治的な部分に踏み込むためとこの徳を説明するためだったかなと思うんだが(つまりヒュームの情念論は知性に関する第1冊と全然接続していないと自分は感じた)、功利主義と完全にコミットしない理由は「そのときに限る」の効果である。「人間社会がそうである限りにおいて」という前提があり、また2部で経済や法・統治への信頼と保証が共有されていることを再三確認した理由はここにあると思う。道徳(倫理)は決して普遍的なことではないことを確認した。ここにおいて自分は功利主義から導かれる動物倫理はひとつ成立しなさを感じる。ヒュームはあくまで共感の合理性、社会的役割と効果については述べたけれども、効用がありとあらゆる生命に適用されるとは述べていない。この辺りが狭義の功利主義とは相反する部分だろうか。

 

2.コンビニ人間村田沙耶香

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

家族に渡されて読んだがあまり好きな部類ではなかった。笑える、という評価をそこかしこでみたが、べつに笑えもしなかった。シニカルであるかと言われると多少そうだが、そういう見方で読みたくもなかった。まじめに読んでしまったのかもしれない。

コンビニの配列や客さばきが「わかる」ときの表現はとても好きだが。

 

3.カフェパウゼで法学をー対話で見つける〈学び方〉(横田明美

カフェパウゼで法学を―対話で見つける〈学び方〉

カフェパウゼで法学を―対話で見つける〈学び方〉

 

面白かったです。

行政法の研究者であるぱうぜセンセ(横田明美氏・千葉大学大学院准教授)が法学の学部生に向けて学部での過ごし方、法学の考え方、さまざまな課題への向き合い方を紹介するためにめちゃくちゃわかりやすく書いた本。ブログがきっかけだそうな。分野外の人でも読めるようにしてあります。

学部→法科大学院修論提出→博士課程、という当時少なかったキャリアを歩んだ理由やそのメリットとデメリットについても触れられている。そしてまあ何より本領であるところの法学部での過ごし方なんですけど、学部全般に通じるところはよくあるかと思います。レポートの書き方とか。最後の方になると実務家と研究者の棲み分けや協働の仕方がでてきます、この辺りはむしろ学部生というより社会人の方が読んでいて楽しいのではないでしょうか。

ぱうぜセンセは大事なことをいいます。「若手研究者を増やすにはどうしたらいいですかね?」ー「尊大な言い方かもしれませんが、先生たち法学研究者が楽しそうにしている姿を見せることではないでしょうか」

「学校を出ても知識を求め続ける姿勢が大切だよ」

私が好きなのは、

「実務家志望だから研究を知らなくていいわけではないんだよ」

ですかね。それらは双方向に助け合う発想なので。

あともうひとつ、とても参考になるのは

「学部の知識は静的だけど実務になると動的なんだよ」

ということですか。これは自分の分野は嫌という程実感しました。静的な知識があってこそ動的な知識に繋がるので、勿論静的な知識の積み上げがあってこそですがね。私は法学の考え方に興味があったので手に取りましたが、他の学部生や他分野の方にもじゅうぶんたのしんでいただける本かと思います。

 

4.医療倫理(トニー・ホープ

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

わたしは自発的原則的安楽死が原則として不正であるという見解を否定する。それは、この議論が論理を転倒させているからである。人を殺すことを不正なものとするのは、死ぬことの害悪であり、その逆ではない。道徳的原則に従った結果として苦しむことになる場合、われわれはその道徳的原則を注意深く検討して、それをあまりに融通の効かない仕方で用いていないかと問うべきである。自発的積極的安楽死が不正だと主張するとき、われわれがしているのはまさにこれである。他人の苦しみの犠牲の上に道徳的純潔感を求めるのは、倒錯している。ートニー・ホープ

著者は精神科医師であり医療倫理の教員を務める方。議論は倫理"原則"からはじまるのではなく、倫理原則との対比の事例からはじまる。臨床で実際に存在したジレンマから判例までを例示し、そこでの結果と、そこに至る意見・思考のみちがどのように分岐していたかを列挙・解説する。先の引用は安楽死の章(つまり冒頭)の結論なのですが、ほかに不妊治療や人工中絶・精神科疾患の患者を拘束(して治療)することの是非など、「結果」と「プロセス」に内在する道徳的判断の志向性が解説されます。たしかにわかりやすい。そして実際に即していて、かつ医療や法に与しすぎない。

あくまで倫理の議論なので、実臨床はこうはいかなかったりもします。「どう考えるか」「"本来なら"どうあるべきか」が示されているのはとてもよい。あとはまあ道徳というのは感情に従っているのが実によくわかりますね…(論理的に正しいものが必ずしも倫理的に正しいわけではないことがよくわかる

 

医療倫理のみならず応用倫理の検討としても使えそうなよい入門書であると思います。

 

5.チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像(カルロ・ギンズブルグ)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

 

16世紀の抑圧された環境における市井の人の、ある特殊なテキスト解釈…というより、宗教的解釈を少し変えたうえで世界の構成をとらえ直す、という感じに近いか。市井の人の言論が残っていない時世での解釈は、異端審問によって残されるというのなんとも皮肉だなあと思います。

 

6.フッサールを学ぶ人のために(新田義弘)

フッサールを学ぶ人のために

フッサールを学ぶ人のために

 

わからん…わからん…といっていたが本気でついていけなかったのは2章くらいのもので、あとは大体楽しく読んだというか刺激されて楽しかった。フッサール現象学そのものの解説、来歴と著作の説明は1.2章にとどまっている。3章からは同時代の思想家や学問の最先端についての説明になり、それらの学者とフッサールの思想の関係になる。「算術の哲学」に代表される初期のフッサール心理主義発達心理学に代表される生理的な心理学)に基づいているが、ブレンターノに影響を受け対象と意識の関係に目をむける。初期のもうひとつの大成である「論理学研究」ではフレーゲとの比較がなされているものの自分はまだフレーゲの著作は完全に未読なので書かれている内容は鵜呑みにするしかない。2章、発生的現象学がまさにフッサール独自の現象学(「イデーン」の解釈)に費やされているのだけどもこれも難しい…

時間意識についてらベルクソンとの対比があり、キネステーゼ(運動感覚)はメルロ=ポンティの「知覚の現象学」に大いに影響を与えた部分があるのでたいぶ比較がしやすいのだけども、フッサールの勘所の捉えにくさが「イデーン」の中に全部詰まっているような気がする…。面白いのは4章で、システム理論と現象学の比較やレヴィナスによるフッサール批判、デリダによるフッサール解釈などその少し後世のフッサール読解と批判がどのようになされたか説明があるところ。フッサールフッサール本人の著作を読んでも心が折れることがわかったのでこういうところから入りたい。

それでは、超越論的主観性の根源的複数性を否定する独我論とは、いったい、どのような状態に導くのであろうか。超越論的独我論は、そのような立場をとった帰結として、最初に規定したあの世界の客観性を否定することになるはずである。世界がわれわれにとっての世界であり、他者によっても共に経験されうるものであるということ、すなわち、わたしと同時にしかも別の視点から同一の世界を経験できるということ、さらには、わたしが経験していないときにも、わたしが死んだ後にも、世界が他者によって経験可能であるということ、これらのことを否定する。それは経験的観念論の立場であろう。経験論的観念論者の世界には、ことによると経験の対象としての他者は存在するかもしれない。しかし、そのような他者は世界と同様に彼の精神の構成物であり、この限りで、彼の死滅によって世界と共に消滅するものという意味しかもちえないであろう。これに対して、超越論的主観性の根源的複数性が認められるならば、わたしを含むあらゆる生物が死に絶えた世界を想定したとしても、その世界を意識している匿名的遂行者としての他者は、依然として機能しうるものという意味をもっている。したがって、そのような想定のもとでも、世界はこの匿名的な主観性に対して客観的なものとして存在し続けるといえるのである。ー飯野由美子

 

7.心はどこにあるのか(ダニエル・デネット

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

 
心はどこにあるのか (サイエンス・マスターズ)

心はどこにあるのか (サイエンス・マスターズ)

 

デネットを読むにあたりほぼ最適な入門書といってもよいのでは(ほかの本はけっこう新しいめの心理学・生物学・医学の知識を必要としたりする

言語的な内容を多分に含む。中高生といっても中学生だとさすがに苦しむだろうし、「ソフィーの世界」くらい時間はかかるかも知れん。逆に言えば時間はかかるが内容は理解できるということだ

進化言語学とメタの知覚を心の哲学に組み込む試み。

 

8.イスラーム建築の世界史(深見奈緒子

イスラーム建築の世界史 (岩波セミナーブックス S11)

イスラーム建築の世界史 (岩波セミナーブックス S11)

 

イスラームから見た『世界史』」(タミム・アンサーリー)という挑戦的な本を読んだことがあるのだが、むしろこちらの方が宗教や歴史からある種解放されて建築という視点から文化や歴史の要素を読み解くことができる本だった気がしてくる。恥ずかしながら自分はさほど建築に詳しくなければ世界史も高校生でつまむ程度にやっただけだからイスラム圏のことはそう詳しく知っているわけではない。ヨーロッパから見るとかつての侵略者だし現在は紛争と政情不安定のイメージが強い。でもイスラム圏の指す範囲の広大さは少し知っている。国境以上に信教の敷衍による文化交流の要素がとても多い。西はスペイン・ポルトガル、西アフリカでマリから東はインドネシアまで幅広く、また信者数も多いことからその信仰の象徴となるモスク他建築物が土着の建築様式・時代の流行と溶け合っているのはおもしろい。夢枕獏シナン」はオスマン帝国時代の建築家の話なんですが、途中にヨーロッパの建築家との交流がでてきたりしたんですよね あとアヤ・ソフィアで衝撃を受けて、偶像に頼らず信仰を身を以って行うことについて考えを巡らすシーンもあるんですがたしかに建築空間そのものが宗教の観念と一体化している。

 

9.人間の将来とバイオエシックス(ユルゲン・ハーバーマス

人間の将来とバイオエシックス (叢書・ウニベルシタス)

人間の将来とバイオエシックス (叢書・ウニベルシタス)

 

他者への依存があるからこそ、他の人によって傷つくという事態が説明できるのである。人格は、自己のアイデンティティの展開と、全一性の維持のために一番必要としている関係においてこそ、最も守られておらず、傷つきやすいのだーユルゲン・ハーバーマス

訳者あとがきでうなずき過ぎて首もげた(キルケゴールいきなり引き合いにだされてズッこける

デリダの死を悼んで、という言葉が日付の冒頭に書き加えられていた。

 

関係性のうえに表現され、社会的に個人が位置付けられてこそ生命がDNA配列を超えて社会的個人と認証されるという考えらしい いかにもハーバーマスらしい。

 

10.「志向姿勢」の哲学ー人は人の心を読めるのか?(ダニエル・デネット

「志向姿勢」の哲学―人は人の行動を読めるのか?

「志向姿勢」の哲学―人は人の行動を読めるのか?

 

デネットの本の初邦訳だそうです(知らずに読みました)。

志向姿勢の哲学はあくまでデネットの論理を詳説するための書籍であり、特に知覚の哲学(の中の特に信念獲得説)など思考に関する議論(何が人間的で何がそうでないか?)に応えるものとなっています。だまし行為や欲求における人間の思考のエンジン・フレーミングについては行動主義心理学(またはより広い範囲において単なる行動主義とする)と通俗(素朴)心理学を比較したうえでそれらの上位にサブパーソナル心理学を説明し、態度の読みが機能していることに序盤が費やされます。

デネット本人の論理は他者との比較によって展開されるから見えづらいですがこういうので引用されていてなるほどと思いました

 

多義的な振舞の解釈における振舞抽象化戦略

http://www.ii.is.kit.ac.jp/hai2011/proceedings/HAI2009/pdf/2a-1.pdf

 

日常心理学と科学的心理学

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/28/2/28_2_67/_pdf

 

5章「信念を超えて」が本書におけるひとつの終着点で、手段的な言葉と志向性をもつ言葉についての議論を概説したあとに命題態度(様相実在論とか出てきて難しい)と文態度、概念態度(ここまでくるとカーネマンとトヴェルスキーの名前が出てきます、ちょっとわかりやすくなる)の仕組みとその内容を各人がどのように説明するかと何が採用されるべきかが話されます。問いの立て方を問われる章ですし、その後に機械に可能なこととそうでないこと・なにを心と見立てるかといった議論にも進みます。ただどちゃくそ重たいしわかりづらいです、20世紀前半の分析哲学全般の知識が必要…

あと当然のように言語学の用語が出てくるので最低限統語論と意味論の比較は頭に入ったうえでどうぞみたいな初見殺しでした。それのうえに文態度と命題態度の比較や他者の批判に応えるのでそれはそうなんですが前提の要求が高い。それに加えて書籍そのものは1980年代のものを1990年代に翻訳されているし計算機に関する理論も古いものを引用しているのでいまいち参考にならない(既に最新版を読むべき)場面がちょこちょこありました。1960-70年代に考えられてきたことのまとめと批判として読んだ方がいいのかもしれない(細かいところに拘泥しているとまったく先に進めない。今ちょうど読書会でフィッシュの「知覚の哲学入門」の中の4.信念獲得説 をやっていたので「信念を超えて」の項はきっちり読もうと思って読んだわけなんですが信念獲得説どころではなかったです(疲弊した