毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

100冊読破 5周目(11-20)

1.時間の非実在性(ジョン・エリス・マクタガート

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

 

時間論「のみ」をあまり読んだことがないのですが、時間論結構面白いなあと思いました。ちなみに私が好きなベルクソンの「時間とは、空間的なものである」っていう考え方はあんまり取り扱ってもらえていなかった。A系列、つまり固有の時間の点において起こった出来事の後に任意の次の出来事が起こり、それらは不可逆で順序も変えることができずまた一回性のものであるという素朴な考え方における矛盾を明らかにすることによって「時間」の観念を解体するのが目的ですが、自我についての話もちょっと面白かったです。永井均の解説はむしろわかりにくいです(永井氏の文章が苦手なのもある)

ベルクソンの「意識に直接与えられているものについての試論」は、時間論でもあるんですけどどちらかというと覚醒している自我の認識の方に寄っている感じがするんですよね。

 

2.5.老い(上・下)(シモーヌ・ド・ボーヴォワール

もし教養が一度覚えたらそれっきりでやがて忘れられてしまうような無力な知識ではなく、実践的で生きた教養であるならば、そしてこの教養によって個人が自己の環境への把握の手段をもち、この把握をつうじて行なう活動が年月の推移のあいだに成就し更新されてゆくならば、彼はあらゆる年齢において活動的(現役)で有用な市民でありつづけるだろう。ーシモーヌ・ド・ボーヴォワール老い

上巻は老いの生理学的変化、人類学的系譜、当時の先端社会における高齢化とそれに伴う制度・施設における老年期の人びとの扱いについて書かれています。

下巻は、文化における高齢期、高齢期の性、高齢期の芸術的活動や学術的活動の賛否など具体的ケースをあげています。

下巻の前半部分については実存主義的・また心理学的な記述が続くので現在では結構知識が新しくなっている部分もありますが、当時において「老いること」を精密に調査した記録はあまりないのではないでしょうか。現在においても上巻の知識などは有用だといえるでしょう。

また下巻の後半~終章にかけては高齢化社会を迎えるにあたって制度の改革が必要であることを指摘しており、現在の医療の「老年医療化」を支えている自分としては身につまされるものがありました。

 

3.対人恐怖の心理―羞恥と日本人(内沼幸雄)

対人恐怖の心理―羞恥と日本人 (講談社学術文庫)

対人恐怖の心理―羞恥と日本人 (講談社学術文庫)

 

著者が精神科臨床の医師であったのですが、哲学(とくに時代的にニーチェ-サルトルの系譜)引用が多くて自分はうーんとなりました。心理というとこういうものが想像される、その最たるものといいますか。まあ本書がそもそもベネディクトの「恥」と「罪」の概念への反論として立脚しているからでもあるからでしょうけれども。贈与の観念、「あいだ」の恐怖についてはまあさんざ他の本でも論じられているので、という。

関係性の概念は今ではもう使えないものになっています。良くも悪くも今は既にこれよりずっと恥の意識も罪の意識も「他人と交換可能」になりました。これについて考えるにはもう少し言語に触れる必要があると思います。ただ論じているのは「対人恐怖の」なので、その限りにおいて有効な部分もあるかと。

 

4.心の仕組み 下(スティーブン・ピンカー

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

心の仕組み 下 (ちくま学芸文庫)

 

 最後まで読んでわかりましたが、ピンカーの「暴力の人類史」、ドーキンス利己的な遺伝子」、ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄」を読んでデネット「解明される意識」「解明される宗教」を読んでいたら、ほぼこの本は読む必要がありません。優れているのは、各巻末にそれぞれの事象についてのタイトルがついており、参考文献がそこに1つまたは複数ついていること。この本を文章で読む必要がなさそうだと感じたら、こうやってたぐるとよいと思う。意識のイージープロブレムについてはもっと計算機科学・認知哲学寄りの解釈も欲しいので、まあなんや文化人類学進化心理学とわずかに経済学から(認知心理でも扱うけど)の理論を展開するとそういう結論になりますねという感じ。「暴力の人類史」の方が個人的にはオススメです

 

6.7.行動の構造(上・下)(モーリス・メルロ=ポンティ

行動の構造 上 (始まりの本)
 
行動の構造 下 (始まりの本)

行動の構造 下 (始まりの本)

 

「知覚の現象学」と同年に発刊された著書である。こちらのほうがより行動心理、認知心理っぽいといえばそう。知覚の現象学は比較するとすれば神経科学的にみえる(勿論それらはゆるやかにすべて接続していて領域も曖昧なのだが、見方として

知覚の現象学で提出されたのは意識の変容と部分的な意識の取り扱いであったと感じるけれども、行動の構造では当時かなり発展していた発達心理学精神分析といった「心を外から観察する」「心の志向性を分析する」シンプルな行為への前向きな批判にも思えた。ここでみられる議論は現象学というより、行動の観察と分析・還元という経過で奪取された主体性の確保であり、むしろ間主観的ながらも「実存」の存在の尊重や経験による知覚の再編をみていたメルロ=ポンティ独自のものであるように思う(これを語るに私は現象学について無知である)。ハイデガー存在と時間」、ヘーゲル精神現象学」にそろそろ近づいてきたのを感じる。ベルクソンにも多く言及されていたのだけど、「精神のエネルギー」「思考と動くもの」あたりを読んでみないとなんともわからないものかもしれない。フッサールは全然違うなと思う。

あとスピノザのエチカもいい加減ひどい積ん読なので読みたさある。メルロ=ポンティは知覚の哲学というより志向性の哲学であるようにも思えてきた、知覚主体があれば知覚の哲学に還元可能だけど主知主義についてはかなり批判的だ(それが今に至る知覚の哲学のありようかもしれないが

 

8.9.アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上・下)(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 
アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

この2名の手による共著を読むのは千のプラトーを読んでから1年半になる。

ジル・ドゥルーズは、どうにも精神分析との相性はそんなによくなかったのではないかと思うことがある。彼が見ているのは構造の中に生じている「意味」である(今回は欲望機械について焦点があてられている)。文化や経済の流れというものはほとんど目に見えないものであるが、ニクラス・ルーマン社会学にも似たような「システムがシステムそのものを再生産する」ような意味を受け取っていたように見える。

また、人類学の知見に衝撃を受けていたことも「アンチ・オイディプス」というタイトルと論ぜられる内容からわかるように思う。高度に文化的存在であるかれらがオイディプス王の物語とエディプス・コンプレックスという概念から享けていた思考の種をひっくり返すように、先住民の調査報告が舞い込んでいたころと思う。しかしドゥルーズ自身は実際に出向いて、性と欲望について調査をしていたんだろうか...とも思う。資本主義と精神分析はたしかに時代に翻弄されていた人間であれば目にとまる要素であるように思うけど、この著書が「千のプラトー」を超えるように自分には思えなかった。

 

10.科学と表象―「病原菌」の歴史―(田中祐理子) 

科学と表象―「病原菌」の歴史―

科学と表象―「病原菌」の歴史―

 

ポール・ド・クライフ「微生物の狩人」、ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」をうけてこれを読むと面白いです(実際本書の中でも冒頭にその2冊には触れられている)。ド・クライフの「微生物の狩人」がひとりひとりの人生とその功績をめぐる本だったとするならば、この本は「微生物学」が成るまでの彼らの「手法」と「発見された内容が後世に与えた影響」の2点に着目しているようにも思えます。カンギレムの科学史にもよく触れられています。学術が一個の筋道として出来上がるとき、むしろ出来上がった時点から理論に基づいてそれを既に発見していた人物が過去にさかのぼって洗い出されることはよくあります。本書は「如何様にして」ある学問分野が成立したのかを追っていく本です。「微生物の狩人」を面白いと感じた方ならば楽しんで読めるのではないでしょうか。