まとまった文章を書きたくなったのでこちらに。
さいきん、人のことを『成熟しているなあ』と思うことが増えた。この成熟と、未成熟とはなにかについて考えたい。
まず、実年齢はたいして関係ない。いい意味でも悪い意味でも、未成熟なところを残したまま生きている人はたくさんいる。それも、そのまま年老いていく人だって数え切れないほどいるのだ。そういう人と出会った時には、わたしは思う。「この人が成熟するために必要な要素は、生きてきた時間や環境のなかでは与えられなかったのだ」と。
愚痴になってしまった。
人格や成長発達に起因する精神疾患と精神の成熟について
ひとつ、自分が随分昔から気にしていたセンテンスがある。
「精神的に未熟なために問題に対処することができず」のようなくだり。自分がまだ気分障害をコントロールできず、苦しみのなかに閉じこめられていたころ、2回ほどこの記述をみかけた。いずれも精神科の医師の手によるものであった(引用はあえて避ける)。
未熟であるためにストレスコーピングを誤ったり、不適切な処理をしてしまうというのは、一体どういうことであるのか。そこでいう「成熟」とはなにか。
服薬を必要としなくなり安定的に社会生活に戻り、また私生活においてもさほどの気苦労を感じなくなったころ、この「成熟」について考えることができるようになった。
自分の場合は、「外部化」であった。
なぜそれがきっかけになったかというと、「成長の過程で問題となった点がなにか」を語ることによりストレスの認知から社会適応までに至るまでに発生している問題構造が見えやすくなったからであると思う。
そしてまったく関係のない世界の知識を獲得することにより、「客観性」を、自身の内省のために用いなくなったことであろうか。多くの人は自我の発達に先立ってこれが進む(ないしそこまで内省を深化させないために)ためにここでは躓かないのであろうとも思った、別にエビデンスはない。感覚的なことを言語化したいだけのことで、この理由で私のようになってしまう人がどれだけの人数いるのかもよくわからない。
と、いうわけで、内的な「成熟」とは人によって内容が異なるのではないかという(至極当然なのだが)結論になった。
エリクソンもハヴィガーストも発達段階において提唱しているのはライフサイクルにおける標準的な危機であり、「社会におけるふるまい」と「ある自己の内面(精神)」の相互作用においてどのような危機が生じるかは論じてはいない。けれど、ある性格要素を兼ね備えていた場合に(本人にとっての)高ストレス下に長く人を置き続けた場合に何らかの疾患や障害にいたるリスクは他に較べて上昇するであろうことが予想される。
そもそも障害という概念も複雑なものである。
斯様に複雑化・高度化した技術に覆われた世界についていけない人間が社会に適応できなくなったとして、それはやはり「今」の文脈においての障害でしかない。
が、遡れば赤子殺しや私宅監置などの暗い側面(それが暗いかどうかも時代の倫理に依存する)をもつ人間社会ゆえ、なにがよいかは横に置いておくとしよう。
以上の思考を巡らせてみたうえで、成熟も未成熟も「他人と較べて」というよりは、結局「その人の内部において」という結論をひとまず据える。
未熟な魅力、未成熟な魅力
未熟や未成熟、と「幼稚」「被支配的」「無垢」はここでは分けて考える。
ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」やルシール・アザリロヴィック「ecole(原題:innocence)」のような、定性化されたものではなく、不器用さ、「曖昧」の拒否、剛直(ないし愚直)、といった意味での未熟。
成熟するということは「是」はされるが、必ずしも無理に促進されるべきものでもないと思う。
ここで日付が変わってしまったのでちょっと語調が変わります。お許しください。
そういえば自分は「うらない」というものはあまり信用していませんが、タロットカードについてはその意匠や意味が好きです。あれは対面でやるものなので、基本的にはカウンセリングのような意味あいも持っており、特に過去ー現在ー未来についてのカードを出すときなどは解釈はそのときによって占をするものに任されるそうな。
このタロットの大アルカナは0番から21番まで22枚あり、人間の発達段階になぞらえてあるという解釈を読んだことがあります(どこに書いてあったか忘れてしまったのですが)。
0番「愚者」から、10番「運命の輪」ー13番「死神」までは具体的に発達段階を考えさせるような意味あいのカードが続くのですが、そのあとは結構抽象的というか曖昧な表現になっていくように自分は感じます。
そのようなもので、「未熟さ」には定義があるけれども「成熟」について明確な定義はあまりないようにも思えるのです。
「月」「星」「太陽」「塔」あたりは正位置も逆位置もやや曖昧な表現であり、解釈が困難です。塔に限ってはいずれもあまりいい意味を示しません。
ここで成人の発達理論に戻ってきたとき、エリクソンが示した老年期の発達において課題を達成したときに得られるものとして「叡智」ないしそれに失敗したときに「絶望」を示します。ただ、「叡智」「絶望」のワードはともかく、発達課題は「クリアする」ものではなくあくまで「直面する」だけのものであり、そもそも直面することを避けたり絶望に浸ることそのものを避ける状況もあるであろうなという解釈です。
愚者について
愚か者という意味ではなくて、「まだ何者にでもなれるもの」という意味で愚者をとらえたとき、そこは可能性の宝庫であると思います。可用性でもいいです。
現状持ち得る知識・財・立場、なんでもいいです(なくてもいいのです)が、それをいかようにも変化されることがまだ可能な段階を「未熟」「未成熟」とするならば、「成熟」はむしろ不自由をしている難儀な状態です。勿論悩む必要はないのでそこは精神のエネルギーを節約できるでしょうけれども、持て余したエネルギーの大きさというものはどうあれ肯定的にとらえたいなと自分は思います。というか、肯定的にとらえた方が結果がよいからです。否定してなにか得るものがあればもちろんそうすることもあるでしょうが、多くの場合そういった経験は既に他からもたらされているからです。
ここまで行為の主語をはっきりさせずにどんどん曖昧な方向に進みつつありますが、もういい加減筆をおくとしましょう。
未成熟で不安定なエネルギーをみていると自分はとても安心します。もう少し自分もこうやって不安定で曖昧なエネルギーを使っていてもいいのではないかと。