毒素感傷文

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個人的なもやもや:放送大学と文化的再生産とメリトクラシー

日記です。誰が何と言おうと。

 

昨日、放送大学の面接授業をひとつ受けてきました(心理学実験のうち認知心理学に属するもの)。それから、語学学校にいま通っています。勿論本業も変わらず続けています。

放送大学の姿勢・授業のチョイス(放送大学エキスパート)を見たり、受講者層を数字で知り、厚生経済学や教育格差による貧困についての本を読んだりしてみて考えていることについていくつか。

 

1.地域差がもたらす小児の時点での学力差

まずはひとつめ。以前みかけた、「日本の小学生」を対象とした調査です。

教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書 [2007年~2008年] │ベネッセ教育総合研究所

調査書全容は非常に長大なので、いくつか要点を挙げておきます。もっと中身は面白いので、ご興味があれば是非本文とデータに目を通してください。

①都市部とそれ以外で学力の獲得に差はある

②ただしその格差を埋める要素として、社会的な交流や学級効果のいくつかの特性を挙げることはできる

③母親の学歴(学校歴ではない)は有意に子どもの国語の能力の自覚に影響する

このあたりはフランスの社会学ピエール・ブルデューの著書「ディスタンクシオン」とその他において文化的再生産がおこなわれることからも説明ができます。つまり今回は日本で改めて証明されたというだけのことで、既に以前からこのようなことが起こりうることはわかっています(3番目に関しては意外でしたが)。

自分が興味深いのはこの調査の第6章においての児玉教授のコメントです。以下に引用します。

「有能な者たち」のための教育は、特定の専門家による独占へと閉ざされている教育である。そこでは、知ることと習熟すること、知ることとできることを結びつけようとする。これに対して、「無能な者たち」のための教育は、誰にでも開かれている教育である。そこでは、知ることと考えることを結びつけ、それによって知の独占性を開放しようとする

 

たとえば、医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること。つまり、職業と結びついた専門的知識や技能を、市民化された批評的知識へと組み替えていくこと。ここに、メリトクラティックな学力観を組み替えていく一つの方向性があるのではないだろうか。

と、子どもの学力格差がそもそも教育をもたらすシステム(家族の教育システム・能力、地域のシステム・能力)に依存していることから、その『学力』のメリトクラティックな価値観の構造転換を促しています。

太字にした部分は、放送大学の理念とかなり似ているといえます。

後述しますが、コレージュ・ド・フランス(一般市民にも開放されたフランスの国立大学)の提言とも一致します。

 

2.リーディングスキルに代表される知の構造の変化について

学力の格差はのちに経済格差や文化的活動の格差につながります。

小児をはなれて(小児も対象にされていますが大人にも適用できるとしています)、リーディングスキルテストについての記事をいくつか読んでみました。

Noriko Arai: Can a robot pass a university entrance exam? | TED Talk

ja.tiny.ted.com

TEDでの発表の全和訳は上記です。本文は動画。

「東ロボくん」はセンター試験で上位20%に位置し、この成績は日本の6割以上の大学に入学できると説明されています。そして、「暗記や演算により解決する問題はAIの方が得意、ただAIはまだ『意味』を読み取ることはできない。人間の得意とする分野を伸ばす教育改革が必要」・・・と提言されています。

ちなみにリーディングスキルテストは、「国語」のスキルを問うものではありません。文章の意味の読み取りが必要という点において、頭の中で文章を再構成して意味を読み取る技術といいかえればよいでしょうか。算数だろうが数学だろうが、物理だろうが化学だろうが文章題である限り必要なスキルであるということです。

詳しくはこちら。

リーディングスキルテストで測る読解力とは国立情報学研究所

 

このTED動画の内容も非常に面白いので(自然言語を演算可能な様式に置換して数学の問題を解くシーンなど見物です・・・!)おすすめです。

 

3.「未来の教育のための提言」コレージュ・ド・フランス(1985年)

全文引用したいくらいなのですが、全部すると結構長いので関係のありそうなところだけ抜粋します。そして自分がそのとき考えた一言をちょっとつけていきます。

1.科学の統一と文化の多様性

調和のとれた教育は、科学的思考に本質的な普遍主義と、生活の様式や、智慧のあり様、文化的感受性の多様性に着目する人間諸科学が教える相対主義との双方を両立させなければならない。

前者は自然科学で後者は人文科学的知識といった感じですね。文系理系で区別してしまえば早いかもしれませんが、のちの文章で示されるように学域横断的な教育であると考えると教育の方法を仕分けるものではないような気がします。

2.優秀さの形態の多様化

達成の多様なあり方をその中の一つのあり方を頂点にして序列化する、「知性」の一元論に対して、教育はすべての手段を用いて戦わなければならないし、社会的に認められる文化的な優秀さのあり方を多様化しなければならない。

これが現在の日本の苦しいところではないでしょうか。知性を序列化する構造はまさしく「学歴社会」ならぬ「学校歴社会」に依存しており、たとえ若い人が放送大学などの開かれた教育の場でいくら頑張ったところで個人の貧困を大きく免れる手段にはなりにくい理由のひとつであると思います。左記のような理由で、放送大学のような存在は、確実に地域の貧困格差の解消によい影響は与えるでしょうが、個人に対して「知識欲を満たす」以上のメリットを与えにくいと考えられます。

ちなみにキャリアアップにつながるシステムとしては教育訓練給付金制度(厚労省HP)というものがありますが、放送大学のカリキュラムについては修士・社会経営コースと臨床心理士養成コースにのみ適用されます。私が行き始めた語学学校にも使えました(お小遣いくらいの額ですが)。

3.機会の複数化

学校的な評決の帰結を可能な限りに緩和し、学校的成功が生涯にわたる聖別、学校的挫折が生涯にわたる断罪の効果をもつことを防ぐために、学科系統を増やし、学科系統間の移動の可能性を増やし、やり直しのきかぬ断絶をどのようなものについても緩和しなければならない。

7.継続的に、そして(職業生活と)交互に行なわれる教育

教育は、生涯にわたって継続して行なわれるべきであり、学校教育の終了と社会生活の開始との間の断絶を埋めるためにあらゆる手立てが講じられなければならない。

このあたりが成人教育の必要性なのですが、今回言及できることはそう多くありません。しいていえば次の文章とあわせて読むと若い人でも、直接賃金に繋がりそうにない生涯学習に踏み込む意義がみられるかと思われます。

9.自治の中でのまた自治を通じての、(学校教育機関の)開放

学校教育機関は、外部の人びとと連携した協議や活動を行ない、文化普及のための他の諸機関の活動との間でその活動の調整を行ない、自主的市民活動のための新たな中心、すなわち、真の意味での市民教育の実践の場とならなければならない。それとともに、(これまで評価が十分ではなかった)教員の役割に、十分な評価を与え、教員の権限を拡大することによって、教員団の自治を強化しなければならない。

ちなみに、学府による公開講座というのは年々増えています。6年前のデータなのでちょっと古いのですが(生涯学習社会の実現に向けて高等教育機関に期待される役割について(文科省))

この資料の22ページに「大学(国・公・私立)公開講座実施状況」があるのですが、20年で倍近くなってはいるのですよね。ただそこにアクセスする手段や、実際に社会生活を営む個人が余暇時間に勉強できるかというと厳しいものがあるのでしょう(その下に、生涯学習に踏み切れない理由が挙げられています)。

放送大学生涯学習を基本とした機関であることは、在籍者の年齢層・職業層(上記リンク19ページ)をみると明らかです。ちなみにフルタイムで働きながら生涯学習<キャリアアップという優先度で通える高等教育機関としては経営大学院などがあるのでしょうけれども、このあたりはなかなかに学費が高いです。ある程度既に優越した状況にある人しかアクセスする手段がないように思えます。

 

4.個人的なもやもや①:格差の結果もたらされた個人の貧困

現在(いくらか教育格差がもたらしたと考えられる、少なくとも相対的な)貧困状態に陥っている個人が、ただ日銭を手にする以上に高等教育によって貧困を脱することはできるのだろうか?

→これに対する現状ひとことでいえてしまう反論

「貧困を脱するために必要なのは、高等教育ではなくむしろ中等教育である。」つまり、「貧困を脱してから高等教育をうけろ」というものです。お説ごもっともです(自分に向かってなにをいっているんだ)。そう、現状の「若いうちに相当の学歴を積み上げなければ満足な収入が得られない」構造を前提とするならば、知にアクセスする手段はまず地固めをしてからにしかならないのです。これは個人における葛藤であるなあと思います。

 

5.個人的なもやもや②:個人への生涯教育の応用について

大学などの教育機関・企業の研究機関に所属していない個人が、系統だった研究活動に従事するようになることは可能になるだろうか?またそれによるメリットはあるだろうか?

・・・これに関しては非常に難しいだろうと思います。

いちばん最初に挙げた「放送大学エキスパートプラン」についても、地域における活動に焦点を当てたものが非常に多いのですが、それによる知識の再生産はごくゆっくりです。というか、世代を超えたものになります。教育格差の是正としてはそれでよいのですが、では現状のために個人は何をすればよいのかという点においてはたと立ち止まります。たとえば自分であれば専門職能人ですから専門教育に従事することも勿論可能ではあるわけですが、教育と研究が実務実践と分断されていて苦労するという構造は企業においてもみられるのではないかと思います。

(比較的)若いひとの生涯学習がこれに寄与する可能性はあるだろうか、と考えますが、そもそも労働者の余暇時間というものが削られに削られている現状では困難なことかもしれません。