毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

100冊読破 4周目(41-50)

1.解明される意識(ダニエル・デネット

解明される意識

解明される意識

 

解明される宗教、思考の技法ときて3冊目のデネット氏の本です。確かにチューリングチョムスキーに影響を受けていそうなと思われる機能主義・言語学的(いや機械言語的?)な思考の展開で、読んでいて飽きないといえば飽きません。これを読んで楽しいのは、むしろ理学系の人かなあという印象がありますが、文系の自分が理論を通して理学的なものの考え方に興味を持つことができるのもまた嬉しい話です。ただ、前提となる知識が認知科学全般とコンピュータ科学になってくるので読むには心して挑まねばなりません。

満を持して挑んだだけあって楽しかったです。難しいですが。1年以上前から読みたいとは思っていましたが、あの頃に読んでももっとわからなかったでしょう。心の哲学のなかでもハードプロブレムに切り込んでいるのが7-8章にかけてだったんですけど、クオリアは意識の付帯現象であるという説明がなされていました。

神経科学的アプローチという意味ではチャーチランドの「物質と意識」があるんですけど、正直あれに関しては私はちょっとまだ理解が及ばなかったところがあります。デネットは多元的草稿モデル(感覚の入出力が常に編集され続ける)ことを唱えて、カルテジアン劇場という争論に決着をつけます。ヘテロ現象学に関しては主観にすべてを依拠することを廃した現象学、という印象を持ちました。訳者あとがきに書かれていたのですが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を再編したような感じだと書かれていて大変うれしくなりました。まあそこまで比較できるほど他を知らないんですけど

あと認知言語学的にアツいのは、「入力された言語の処理」は機械も人間も解析が進んでいるのに、「どうやって出力していくか?」には焦点があてられていないのでは、という問いでした。つまり思いが言葉になり、言葉(道具)になった概念を再獲得することでさらに思考を進めるという過程ですね。このあたりは確かに今までに読んだ言語学の本にも哲学の本にも神経科学の本にもなかったような気がします。もしかしたら難しそうだから私が意図的に避けていただけかも知れませんが。

デネットはさかんに生物学者リチャード・ドーキンスの引用をしますが、ドーキンスを引用することで斥けられるのは哲学のうちの「ナンセンスな議論」だけだと思っています。デネットは「解明される宗教」で、ドーキンス以上にずっと前向きな宗教の覚知を進めていて、それはドーキンスの半ば過激ともいえる無神論と相容れません。進化生物学、進化心理学は勿論「道具」として用いてはいますがそこに本義があるわけではないので、そこから導き出される新しい議論に関してもあくまでデネットが授けてくれているのはまさに「思考の技法」(=道具)なんだなあと思うなどしました。

 

2.有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論(カンタン・メイヤスー)

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

 

哲学とはつねに、その分身である詭弁――曖昧であり、構造的でもある分身――すれすれのところで、奇妙な議論を発明することである。哲学することはつねに、オリジナルな論証の領域を必要とする、ある観念の展開である

 

(中略)その観念を擁護し探究するには、オリジナルな論証の領域が必要なのであり、その論証のモデルは、実証科学にも――そして論理学にも――これまで想定されてきた正しい推論の技術にもないのである。だから哲学にとって推論を統御する内的方法を生みだすことは本質的なことである。さまざまな測量標や批判が、全体として新たに構成されたその領域に、その内部において合法な/不法な言明を分かつ諸限界を導入するのである。ーカンタン・メイヤスー

 

もはや神秘的なものは存在しない。それは、問題が存在しないからではなく、もはや理由が存在しないからである。ーカンタン・メイヤスー

 

米森氏の「アブダクション 仮説と発見の論理」が科学に関する哲学だとしたら、この本は哲学に関する科学(ではないのだが)のようでした。分析哲学現象学(を含む大陸哲学)を再検討するにあたり、数学的(または弁証法的)矛盾と、その矛盾の論理的許容を用いる。もっとも私にはよくわかりませんが。

惜しむらくは私自身がヒュームの言説というものをよくわかっていないし読んだこともないということなのですが、4章(本書は5章だてである)をひとつまるまる割いて検討しているにもかかわらずなにをいっているのかさっぱりわからん状態が発生したので、折角だしヒューム読むかーという気持ちです。

科学哲学、結構入口が難しいなと思っていましたが現代の哲学者がこういう考え方をしておられるなら悪くないな、もっと読みたいなという気がします ウィリアム・フィッシュ「知覚の哲学入門」も今度もう一度読書会で取り組む予定なので楽しく読めたらいいなと思うなどしました。

あとこの本を翻訳した主訳者が千葉雅也氏(「勉強の哲学」の著者)なのですが、千葉氏による生成変化についての試論「動きすぎてはいけない」を前読んだときさっぱりわからずついていけなかったのを思い出しました ドゥルーズを読み始めたころだったのでそらそうなるやろという感じですが・・・現代の数学(というか計算機科学)の領域を概観する哲学、というか哲学が科学に概観されているのかも知れませんが、いいレベルにいるのだなと思います。哲学は科学の発展に伴って観念を絶えず変化させることができるし、そのスピードがあがれば哲学は「勝手に考える」。走らせるのは人間ですが


3.道徳感情論(アダム・スミス

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

 

日経BPの訳、読みやすかったのでお勧めです。

いい文章が本当に多くて、引用が多いのをお許しください。

隠棲して思索に耽り悲嘆や怨恨を深く内省するような人は、慈悲心に満ち、寛大で、道義心に秀でることが多いかもしれないが、世慣れた人にごくふつうにみられる安定した気分はめったに持ち合わせていない。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

言葉が引き起こした苦悩は、言葉とともに消えてはくれない。私たちを何よりも悩ませるのは、感覚の対象物ではなくて、想像が生む観念なのである。不安を引き起こすのが観念である以上、時が経ち、新たな出来事が起きて記憶からいくらか拭い去られるまでは、想像力はいつまでもその観念を思い出させ、心を苦しめ疼かせる。ーアダム・スミス道徳感情論」より第2篇「さまざまな情念が適切とみなされる度合いについて」

 

徳は愛し報いるべきものであり、言い換えれば愛され報われるにふさやしいという顕著な特徴を備えている。逆に悪徳は、嫌われ罰されるにふさわしいという特徴を持つ。だがこれらの特徴はどれも、他人の感情を直接の拠りどころにしている。徳が愛し報いるべきなのは、それ自体が愛や感謝の対象だからではなく、他人に愛や感謝をかき立てるからだ。徳がこのように好まれると知っているからこそ、徳の実践は心の平穏や自分に対する満足感を伴う。逆に悪徳が嫌われると知っているからこそ、悪徳は苦悩を伴う。愛されることほど、そして愛されることにふさわしいと感じることほど、しあわせなことはあるまい。また、憎まれること、そして憎まれて当然だと感じることほど、ふしあわせなことはあるまい。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

慈悲心に満ちてはいるがほとんど自制心を持ち合わせていない人が世の中には大勢いる。この人たちは無気力で優柔不断であり、困難や危険に遭遇すると、名誉ある使命の遂行中でもあっさり挫けてしまう。その一方で、完璧な自制心を備え、いかなる困難や危険にもけっしてひるまず取り乱さない人間もいる。この人たちはどれほど大胆不敵で無謀な企てにも乗り出す気構えはあるが、しかし正義や慈悲といったものはすこしも感じないように見受けられる。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

思慮深い人は、必ずしもとびきり繊細な感受性の持ち主ではないが、つねに友情には篤い。ただしこの友情は、未熟な若い人の無邪気な心を魅了するような熱烈で移ろいやすい感情ではなく、試練を経て選び抜かれた少数の友人への揺るぎない誠実な愛情である。こうした友人は、輝かしい業績に対する軽々しい感嘆からではなく、謙虚、分別、善行に対する冷静な敬意に基づいて選ばれる。ただし、思慮深い人が友情を結べるとしても、一般的な意味での社交性に富むとは限らない。陽気で快活な会話の飛び交うはなやかな社交界に顔を出すことはめったになく、主役を演じることはさらに稀である。社交界のような場は日頃の几帳面な節制を妨げ、不断の努力を邪魔し、厳格な倹約に反することがあまりに多いせいだろう。ーアダム・スミス道徳感情論」

 

この日経版、アマルティア・センが序文を書いているのですが、アダムスミスの著書でより有名な「国富論」に優りこちらが読まれるべき理由として彼(セン)の功績以上に説明になるものはないと思います。

デカルトの情念論よりもさらに社会における人間の心理に踏み込んでいます。今読まれるべき本だなあと本当に思いますし、これは人にお勧めできますね・・・

 

4.インド思想史(J.ゴンダ)

インド思想史 (岩波文庫)

インド思想史 (岩波文庫)

 

印哲きになる!というてたら、Twitterの方がお勧めくださった2冊のうち2冊目。ちなみに1冊めは、中村元の「慈悲」。あれもよかったです。デカルト読んだ後に本書(インド思想史のほう)を読むと、ウパニシャッド哲学はよく似た捉え方してへんかと思ったりします。意識と対象の捉え方とか。西洋哲学読み慣れた人にも読めるというか、仏教の教義についてというよりその先駆となるインドの自然哲学の連綿を繙いてくれます。しかもすっきりと読めて中庸である。これは素晴らしい

ナーガールジュナちょっと読んでみたいなあと思いました。

 

5.6.微生物の狩人 上・下(ポール・ド・クライフ)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

 

 

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)

 

 出てくる人の頭がそろいもそろっておかしい。おすすめです。

道学者先生たちはーーその中にはなんた医者も大勢いたのであるーーこのメチニコフの実験に対して喧々囂々の非難を浴びせかけた。「こんなに容易な、しかも完全な予防が広がるようになればーーまるで不道徳に対する刑罰をなくしてしまうようなものだ!」と、彼らはいった。しかし、メチニコフはこう答えただけであった。「この病気の蔓延を防ごうという試みは不道徳として反対されている。しかしいくら道徳的だといっても、梅毒の恐ろしい蔓延や、罪のない者までを巻添えにしてしまうことに対してすべての予防策が何の役にもたたぬとなってみれば、この業病と闘うにあたって幾らかでも有用な方策があるとした場合、これを差し控えることこそが不道徳ではないか。」ーポール・ド・クライフ「微生物の狩人」

 

サルバルサンを成功させたところで終わりでした。いやーほとんど全員がマジキチ(褒め言葉)なので非常に面白かったです。内科的治療というのはかくあらねばならぬ…(「病の皇帝」同様、病態の解明と薬品の開発・治験というのはもはや狂気じみた情熱と隣り合わせなのがとてもよいです)岩波文庫なので心して取り組んだのですがなんのことはなく、とても躍動感ある読みやすい文章でした。軽率に殺されるウシ・ウマ・サル・ヒツジ・モルモット・ネズミ・イヌ…動物愛護団体が聴いたら発狂しそう。

微生物学というか感染症にまつわる研究というのは常に公衆衛生上の問題解決を導くものですが、本書はそれをあえて傍流とし、それを惹き起こした人々の業績と行為、その絡み合いについて詳細に述べています。このあたりが病の皇帝との違いだろうか。農耕を中心とした世界史、化学(レーウェンフックの時代にあってはまだ科学全般も揺籃の時期であったわけですが)、生物学などと密接に関わりあるのが微生物の世界なので、めっちょ面白いのですよ。高校生くらいで読んだらこれはもう確実に大学生活をエンジョイできるやつだ。

 

7.8.孤独な群衆 上・下(デイヴィッド・リースマン)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

孤独な群衆 上 (始まりの本)

 
孤独な群衆 下 (始まりの本)

孤独な群衆 下 (始まりの本)

 

他人指向的な人間にとっては社交性の欠如は社交性の過剰よりもはるかに深刻な問題なのだ。じぶんを指導し、かつ認めてくれる「他人たち」が存在していることこそ、かれの同調性と自己合理化のためのもっとも重要な要素なのである。かれの性格そのものが社交性を要望しているのである。かれから社交性をうばってしまったらかれは自律的にはなりえない。かれはアノミー型になるだけである。アルコール中毒や薬品中毒の患者からとつぜん酒なり薬品なりをとりあげたらたいへんなことになる。それとおなじように、他人指向型の人間から突然社交性をうばうということは不可能だ。しかも、他人指向型の人間が自律性を求めることは独力で達成することができないのである。かれはつねに友人を必要としている。-デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』

この本のバックグラウンドをあまり知らずに読んだのですが、アメリカ版『菊と刀』という感じです(実際版を重ねた訳者あとがきにもそのことが書いてあった)。イェール大学からのペーパーバックとして出版されたらしい。一般人が読める専門書という位置づけですかね。下巻前半部では、社会的個人がいかにして政治に向き合うか、といったことが話題になります。このあたりはJ.S.ミルの『自由論』やエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』に負うところが多い印象を受けました。後半部の階層化社会に関しては、それブルデューでいいのでは・・・という気もしましたが『孤独な群衆』の素晴らしいところは、メディアと個人との関係を詳らかにしたことにあると思います。全編通じて、マスメディアが個人と社会の関係や社会的個人の考え方・行動に与えた影響をよく論じています。マクルーハンの『メディア論』よりも前だというならなおのこと価値がある。この本は社会学としてというより公共哲学の本で確かよく取り上げられていたんですよね。なるほど確かに公共哲学といえばかなりしっくりきます(まあだからなんだと言われるとそれまでなんですが)。社会学としては今から振り返ると観念論っぽいです。

 

本の内容自体は社会心理学的な社会学、といった風合いです。これはいかにも現代的な書き方ですが、社会心理学というものが「社会で生活する”個人についての”心理学」というような解釈だと思っていただければ幸いです。大衆の行動傾向について論じるものではありません。本文中でも触れられていますが、フロイトによる精神分析の煽りを社会学も大いに受けており、小児の発達の解釈にに心理学・精神医学が繁用されていたバックグラウンドがあります。これに対して、リースマンは社会の様相の変化が個人の発達様式や教育の在り方に影響していると指摘しています。

内部指向型と外部指向型(対人関係を重視する)発達の違い(そして何がそれをもたらしたか)にマス・メディアによる教育効果を挙げたのは恐らく彼の功績なのだろうと思います。内部指向型の人間、なるほど今の団塊の世代に多いなと思いました。彼らはバイブル、ないしバイブルになる理想の人間像を持っている。私が先日ご飯どころで押し付けがましくフロムの「自由からの逃走」について語られたのも、それを重視する教育の志向性からでしょうか。

なお高度に教育された内的志向型の人間は(たとえば)サラリーマンなどの生産的なことに価値を見出さない傾向にあり、研究的な事物に執心するとありましたが、現代においてはそもそもサラリーマンになることすら難しく、かくも社会が研究を尊重しない時代ですので現代社会のYAMIを感じます。

 

まあそんな話はいいとして、外的指向型の人間は他者からはみ出ることよりもある程度他人と足並みをそろえることを望む傾向にある、みたいなのを読むとこれはメディアの発達に伴ってさらに加速しているなあと思わざるを得ません。このへんは書いてあることではなく自分が読みながら考えていたことなのですが、現代においては発達段階で個性(秀でた部分にしろ劣った部分にしろ)をそのままにしておくのはとても難しくなってきているなあと感じます。個人を点、社会的な繋がりを線とするなら、線を大事にするあまり点としての自分を見失ったり、点として際立てば線を失ってしまったり。それを学校教育でなんとかするのも、家庭の教育でなんとかするのももう無理が嵩んでいると感じます。公教育においてはバックグラウンドがより多様化しつつあるため、表層の問題を解決するだけでは何度も同じケースを(より深刻な形で)教育者が経験することになるでしょうし、家庭の教育に依存した場合、核家族は内部志向型よりさらに昔の伝統志向型教育を失っているので、文化資本社会関係資本という「個人を育てるために必要な社会資源」を持たざる者はより孤立するという状況に陥るのでしょう。「何かしても貧しいが、何もしなければさらに貧しくなる」苦しみがやってくる。

じゃあ点としての個人の教育はどうやって救われるだろうかと思ったときに、自分は前ならサードプレイスとして、都市における公共空間がある程度教育的であることを目指せるかと思っていたのですが、リースマンはメディアの可能性を指摘していましたね。まあ今や惨憺たる有様ですがそれでもメディアというものを広く捉えた場合に、確かにないよりはあったほうがいいメディアというものがたくさんあるんですよね。それだけに頼ることはもちろん不可能でしょうが、線を利用して点を豊かにすることに関しては期待できる分野がいくつもありますね。

 

9.重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ

重力と恩寵 (岩波文庫)

重力と恩寵 (岩波文庫)

 

 頭痛に襲われて痛みがひどくなる途上で、ただしいまだ最悪の状態には達していないときに、だれかの額のきっかりおなじ箇所を殴って、その人を苦しめてやりたいという烈しい願望をつのらせたことがあるのを、忘れてはならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

みずからの根を断たねばならない。樹木を切り倒し、それで十字架を作り、日々、この十字架を担わねばならない。社会的にも植物としても自身の根を断つこと。(中略)だが自身の根を断つときは、より多くの実在を求めているのだ。(中略)都市はわが家にいる感覚をもつこと。(中略)不幸にも、根づきを変容させる手掛かりも得られぬままに根を失ってしまうなら、いかなる希望が残されているというのか。ーシモーヌ・ヴェイユ

 

精神の領域において、想像上のものと実在的なものをいかにして区別するのか。想像上の楽園よりも実在の地獄のほうを選ばねばならない。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

貴重なものが傷つきやすいのは美しい。傷つきやすいのは存在の徴だから。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

 追求する対象のまえで一歩退くこと。迂回のみが功を奏する。まずは後退しなければ、なにも始まらない。梃子、船舶、労働全般。葡萄の房をむりに引っぱると粒が地面に落ちてしまう。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

執筆とは出産である。もう限界だと思える努力をせずにはいられない。だが行動もおなじだ。もう限界だと思える努力をしていないのではと危惧する必要はない。自己に嘘をつかず、注意をこらしていればよい。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

われわれは他者を読み、同時に他者から読まれてもいる。複数の読みの相互干渉。われわれの読みどおりにおまえ自身を読めと他者に強いる(隷従)。われわれ自身についての読みどおりにわれわれを読めと他者に強いる(征服)。(中略)他者というものは、当人をまえにして(あるいは当人を思いうかべて)われわれが読みとるものとは別物たりうることを、いつでもすみやかに認める心構えでいなければならない。あるいはむしろ、他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である、それどころか似ても似つかぬ代物であることを、他者のうちに読みとらねばならない。だれもが自分にたいする別様の読みを求めて沈黙の叫びをあげている。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

隣りあう独房にいるふたりの囚徒は、壁を叩いて意志を伝えあう。壁はふたりを隔てるが、意志の疎通を可能にもする。われわれと神も然り。あらゆる隔離は一種の絆である。ーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 

カイエ(雑記帳)の一部である本書は、全編を通して散文形式の短い節の連なりで作られます。短い評論(評論としてはあまりにシンプルだけど)に近い。最早Twitterかと。彼女がいかに多くの本を読み、それについてそれぞれ深い洞察があり、自分なりの解釈をしていたか感じられる文章です。

ボーヴォワールを彷彿とさせるけれど、彼女が敢然とペンを揮うひとであったのに対して、ヴェイユはとても慎ましく、内気で繊細な文章を書く。なにかに否定的でも、口撃することのなさそうな。

重力とは往時の生活における(彼女の生を全部に渡って支配していた)時代の要請による暴力や抑圧を指し、恩寵はその名の通り神による救済を指すようだけれど、これ自体を論じた篇は私はあまり得心がいきませんでした。神に祈るということをあまりしたことがないからかも知れないけど

ヴェイユの博学は大陸哲学や神学のみに留まらず、数学や言語哲学、東洋哲学に及んでいた。この辺りが、20世紀初頭で信仰と科学に挟まれる理由かとも思う。彼女自身は短い生涯のほとんどすべてを、神経性食欲不振に悩まされたらしい(エピソードとしては乳児の頃からあるようだ…)二階堂奥歯の「八本脚の蝶」や、「この世界の片隅に」をなぜか思い出しました。あと、「ヴィオレット ある作家の肖像」も。後者2つは映画ですが、なんというか、時代背景を考慮すると面白く読める文章であるように思います。

 

10.プラグマティズムを学ぶ人のために(加賀 裕郎)

プラグマティズムを学ぶ人のために

プラグマティズムを学ぶ人のために

 

パース、クワインといった分析哲学の基礎となる領域にいまいち突っ込みあぐねていたので本書に概説をお願いしてみましたが、さっくりとまとまっていて、かつ古典的プラグマティズムからネオ・プラグマティズム、応用倫理学や教育指針への適用など網羅的に書かれていてよかったです。