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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

読書について―1年間の読了記

年度が終わる、まだ本を読んでいる。

 

1年のおわりに

この1年間で読んだ本が200冊を超えた。226冊。厳密にいうなら、あと2-3日ほどの間にもう2冊くらい読む気がするのだけれど、まあ誤差の範囲内ということでかまわないだろう。専門書や雑誌を除いてこの数字なので、よく読んだほうといえばそうなのかもしれない。

なぜこんなに本を読んだのか未だによくわからない。自分は先生が欲しかった。学友が欲しかった。けれどそれが叶わなかったために、ひとまず安価で効率のよい、読書にそれを求めたのだった。なので、読書によって可能なことや、読書行為そのものから得られたエッセンス、はんたいに読書によって不可能なことや、読書の非効率性についての指摘をつらつら書いていこうかと思う。例によってあまりまとまりがない文章になることをお許しいただきたい。

 

読書するという身体行為について

読書というのは自分が現存在する世界をやわらかく拒絶し、本の世界と交流することだと思う。
勿論、声をかけられて目をあげたり、傍らにおいたスマートフォンに目をやれば、いつでもその世界から脱出できる。でも、それまでは、自分の心は本に奪われており、会話は決して脳みそから漏れ出ることがない。
だから、本を読んでいるあいだは「ひとり」でいながらにして、「著者」と交わることができる。これは身体状況と精神状況の前提であって、いまさら私が書くようなことでもない。いろんなひとがこれについて指摘している。

では私の身体状況がどうであったかというと、日々臨床で働きながら、隙間の時間に本を読んだ。でも、無理はしたくなかったので、仕事の休憩時間にはほとんど読んでいない。くたくただったのだ。仕事が終わっても仕事のことがなかなか頭から離れなくて、強制的に心の注意を逸らすために本を読んでいたといっても過言ではない。
本は冊数ではないといえ、その現実逃避のちからたるや苛烈ともいえる勢いだったので、朝から夕方まで働いたあとにスターバックスで3-4冊読んだこともあった。夜勤明けに同じようなことをしたときもある。

京都の夏はとても暑く、冬は寒い。安普請の家に住んでいるとどうしても気温の影響を受けやすく、かつ狭い空間にひとりで長時間いたくなかった。
そして人と時間を過ごすとどうしてもとても気を遣ってしまう自分にとってはあいた時間を誰かと過ごすよりは、ひとりになって静かに本を読むほうがよかった。

そういうわけで、なかば「外に出かけるけど何もしたくないときの口実」としても読書は役に立った。

 

本を読むことによって得られるエッセンスとはなんだろう

226冊、とはいってみてもそれぞれの本にかけた時間はまったく違う。1か月かけて読んだ本もあれば、ものの数十分で読み終えてしまったものもある。
本を読むとは単純に情報を得るのみならず、同時に情報処理を行っているし、さらに並行してイメージングをし、なおかつ本を読むという自分の時間が流れるかたわらで世界の時間も流れているので、晩御飯とか空腹とかコーヒーの飲みすぎについて気にしなければならない。言いたいことがあったらそばのスマートフォンに触りたくなるときもあるかもしれない。

そういった雑多な情報を処理しながら読書をすることで、自分はいったいなにを得ていたのだろう。

まず、1年かける前に、徐々に自分の読書スタイルに気が付いた。
それは速読法のような安直な解ではなく、もともと自分が本に求めていた要素が実際の身体利用と情報処理に適用された結果だとも思う。

わたしが読んでいた本はほとんどが小説ではなかった。し、哲学の本が多く、かつ解説本ではなくたとえばメルロ=ポンティならメルロ=ポンティ自身の著作の訳本を読んでいた。とにかく難解で、正直さっぱりわからなかった。最初からさっぱりわからない本も食わず嫌いせずに読むつもりでいたので当たり前といえばそうなのだが、そういう本のたぐいは、時間をかけて読んでも「わからない」のである。日本語に再構成されているのだから日本語として理解できるのだが、その日本語が何を意味していて、文中にどういう影響を及ぼしているのか本当にさっぱりわからないのだ。
さっぱりわからないことについて拘泥してもあまり意味はないと思い、そのまま読む。そのまま読むと、あ、これについては経験があるぞ、ということやこういうことの言い換えだろうか、と自分の中で理解が生まれてくる。なので、語彙のいくつかを自分の頭の中にヒットさせながらそのまま次の文に進むことであとから前の文章を思い出して解釈したりするのだ。でも、1章まるごと読んでもわからないときもある。むしろジル・ドゥルーズジャック・デリダの本を読んでいると1冊まるごと読み終わると「読んでいる間はとても楽しかったのに、読み終わると何が書いてあったのかさっぱり口からでてこない」みたいなことがとても多かった。わたしがアホである所以かもしれない。

1冊の本を読んでいるとその本の中に大量の引用文献があることに気づく。
すべてを読むことは不可能だし、また趣味の読書なのに苦行をする必要はないので、引用部分について気になる本をさらに探すことになる。こうして無限の読書の広がりを作るわけである。

 

読書によって得られないものはなんだろう

読書によって得られないもの、それは実体験と現実の時間(対話)、あと鍛錬(勉強)だと思う。
旅行が好きなひとの多い職場にいるので、なぜみんな旅行に行くのか、と思う。本を読めば、ほんとうに多くのことを実に効率的に吸収できる。感覚のなかで、渋谷のスクランブル交差点に立つこともできるし、函館の夜景を眺めることもできる。
けど、実際の目で見た感覚というのは、そこに立って、風を感じながら自分の耳で雑踏を聴き、人々の会話を聴き、クラクションを鬱陶しく思い、肩を他人にぶつけられないとわからない。映画を観ればある程度その感覚は手に入れられるかもしれないが、それでも肌の感覚として知覚することができるのはそこに立つときだけだ。
実体験だけは、読書では決して手に入れることができない。

もうひとつの「対話」とは、生きている人間とやりとりすることだ。
本にある言葉はすでに誰かの頭の中で処理された記号であるので、もう誰かの咀嚼を受けたものだ。あとは自分の口にいれて、消化するだけでいい。勿論難消化物であることもあるけれど、すでに咀嚼の必要がなかったりする。
ところが人との対話は、目の前の食材で「何をつくる?」ということからはじまる。だから、著者との対話とちがって「いまここ」を感じることができる。先の実体験の延長みたいなものだ。
わたしはこれについてはいつも臨床でいやというほど取りこぼしているので、読書によって記号化を続けている。読書を唯一無二の趣味にすることをわたしは決しておすすめしないけれど、その理由は「実体験の欠如」がそこに存在するからだ。

最後に勉強。勉強というか、手を動かすことやそれを身体知のレベルにまで落とし込むこと。
これは読書によっては得られなかった(少なくとも私が読むのに選んだような本では)。
なにかを「わかった気になる」のは、前項の対話に欠如するゆえに誤謬を指摘される機会がないため、読書をすることが勉強であるととらえるには無理がある。
ゆえに読書のみを趣味とすることや、本をたくさん読んで「博識になった」ことが、実際に自分が賢くなったと錯覚することをあまりおすすめしない。

200冊以上読んで言うことがそれか、という感じだけど、反対だ。
たくさん読み始める前から思っていたけれども、たくさん読んでみても変わらなかった事実について確信をもって述べているに過ぎない。

 

さいごに

読書が読書を呼び、最終的に得たものは「学びたい」という欲求だった。
いや、読書は勉強にはならないことは重々承知だったので、なにを学びたいのか、なにに興味があるのかというものを効率的に知りたくて読書した。

結局、読んでいた本は小説を除けば
公共哲学/都市論/建築デザイン/心理学(認知心理・神経科学)/宗教学/文化人類学/経済学(貧困に関する経済学・社会学・哲学を含む)・意思決定理論/記号学・論理学
くらいに分類できる。
数百冊読んでまだ変わらなかったということは興味があるということだ。あとは行動に移すだけだ。

というわけで4月から放送大学の学生になります。
半年前は書類不備とかいうまさかの「「「放送大学に落ちる」」」という案件をやらかしましたが、今回は大丈夫でした。おめでとうございました。