毒素感傷文

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二階堂奥歯『八本脚の蝶』:生命への言祝ぎについてのあれこれ

こわがりでよわいのはかまわない(仕方がない)が、楽になろうと力任せに何かを定義してはいけない。ー二階堂奥歯『八本脚の蝶』p100

 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

Twitterで読書評を書きまくっていたら、とあるひとが勧めてくださって、読みました。本当にありがとうございます。いい本でした。

本書はブログ記事の再編です。編集者として短い生を生き、そして25歳で自殺した彼女のウェブ上の生を、自分が25歳であるうちに読みたいなと思って読みました。

 

今回は完全に感想なので、徐々に自分の話したいことだけになっていくことも、医療者としては多少不適切な思考が混じることもお赦しいただきたいなと思います。

 

先ず目につくのは他の人も書評で述べていたその圧倒的な読書量、そして引用の多さ。特に哲学(主に言語哲学系、神学批判的なものが多かったです)と耽美的世界観は彼女の生きていた世界の知覚を思わせます。

どうしても最期に自殺をしたというその一点が目に付きますが、生きていた彼女は身体感覚に、ジェンダーに苦しんでいました。私は私以外の人間がそれに苦しむさまを見ることで、それから逃れることができましたが、彼女は真向から向き合っていたのでそれはそれは苦しかったろうと思います。

 

自分は小さい頃、あまり本をそうたくさんは読みませんでした。そして耽美や身体への歪んだイメージはあくまで歪みとして捉えて、生育的、健康的な生命について考えるために医療職になりました。まあ楽に安く学べたからというのも大きいですが。

 

自分が勝手に思う彼女からは、完璧主義者的性質、奔放で天衣無縫で天邪鬼、そして目に余る衝動性の高さが伺えました。
岡崎京子への多大なる共感、服飾や化粧品への興味などから、ストイックなまでの美と身体の制御への志向性もみられます。恐ろしいほどに。その感覚は『わかる』のです。わかるというと語弊があるでしょうが、まあそうとしか表現できぬものなのです。

 

彼女は同じく読書家であるひとと出会いますが、最期のほうにメールのやりとりをしていました。自分が好きであったものをひとつ。

正面から雄々しく戦ってはならない。負けろ。

(中略)

じぶんの魂に誠実であってはならない。

魂を売り渡して生きろ。

醜くだ。

逃げ道はある。

逃げなければならないものから逃げ出すんだ。

立ち直るな。

退却しろ。

 

あなたは敗北したのだから。

退路を探すんだ。

 

ーp369

 

 

逃げて負けて生きる。生活する。

鮮烈なまでの生命であったな、と自分自身の往時を思い出すことができます。今でも。

ここからは書評や感想よりも自分の考えがメインになります。

 

自分は17歳のとき、自分の魂を売りました。

負けました。見事に、ぽっきりと折れて。

生きるのがつらく、耐えかねて、自殺しようと何度も考えました。懐かしいことです。いま自分は25歳まで、なんとかかんとか生きています。すごく嬉しいことに、希死念慮を抱くことはもうほとんどありません。さらに嬉しいことに、手堅い職があり、職場に恵まれたので仕事も楽しく、知己とも楽しい交流があり、生きていくことができています。もうすぐ26歳です。あと数日で。

 

8、9年前、そんなことに思いが及んだでしょうか。

 

己の生命を肯定することさえできずに、魂から否定されて、肉体を潰してしまおうとずっと考えていました。死にたいというよりは、己を殺してやろうと、文字通り自殺しようと毎日思いましたし、その思いは社会生活をままならなくさせましたし、当然心の病気になり、そのあと数年の療養を必要としました。

 

この本を読んでいると、勿論自分とは違いますし、むしろ自分の周りにいる人間に似ているなあと思うこともままありました。

でも、今も生きている自分がいくつか、考えたことがあります。

『負ける』(逃げる)こと。

『生活する』こと。

『生命を肯定する』こと。

 

負けること

メールの文面にもありましたが、負ける(逃げる)ことは大切なことです。

私は(彼女も、かもしれませんが)己の意志によって己を否定してしまったがために病気になってしまったと今でも思っています。それは自分のせいとか、弱さとか、そういった問題ではありません。物事の考え方、捉え方、心の反応が、すでに外界に対してそのようにできているのです。それをマインドフルネスだの、カウンセリングだので根本的にどうこうすることは今やまったく望んでいません。適切ではないからです。

魂がそのようであることは、良いことでも悪いことでもありません。他人は自分より生きやすく、たいそうまともで、立派かも知れません。でも、それで構わないのです。自分の体は、知覚は、他人にどうこう言われても言われなくても自分だけのものでよいのです。他者からの肯定など必要せずして既にそれで一個の完璧な個体なのです。だから、瞬間的に完璧でなくてもよいのです。彼女の言葉を借りるに、『私という物語』は勿論本人の手で終わらせてもよいのですが、潔さだけが生命ではありません。それは文脈であり文学です。文学は、決して、目の前で活動したりはしない。個体は個体を維持するあいだ、汚くても醜くても、そこに完璧なものとしてあることができます。

 

生活すること

逃げた先にあるのは、ただ生活です。生きるというそれだけの営為です。

彼女の文面からは、あまり生活が出てこない。なぜなんだろう、と思います。

綺麗なものしか綺麗じゃない、なんてことはないのに。

 

療養する2-3年の間、最初の1年はほとんど寝たきりで過ごしました。食事も殆ど喉を通らず、うまく眠ることもできず、自分の人生に負けてしまったことがつらく、将来が怖く、ほとんど毎日泣いて過ごしたことを覚えています。引きこもっていたわけではありませんが、外に出るのがつらくて単純な用事をする以外は家で引きこもって過ごしました。それが生活。

次の1年、少し働いたりするようになりました。ほんとうに少しですが。やはりそれ以外の時間は寝たきりで、つらさを抱えたままで、食も細く生活は不規則でした。ただ、美味しいものを少しだけ美味しく食べられるようになりました。この頃になっても相変わらず涙もろく、なにかつらいことがあるとすぐに涙が出てきましたし、希死念慮は止むことがなかった。ただ、そういう毎日を繰り返すことができるようにはなりました。

 

この『なんでもない毎日の繰り返し』が大変になったら、休んで逃げるべきだな、と自分は思います。反対に、生活ができなくなったとき、最初に取り戻すのは可能な範囲での『なんでもない毎日の繰り返し』だと思います。それはただ、最低限流動食でもいいからエネルギーをとり、できたら歯を磨いたり風呂に入り、あとは眠ることです。それができたら、かなり上出来だと思います。他人に頼ってもいいし、ジャンクフードでもいい。1日3食なんてどうでもいい。喉を通ったら、素晴らしい。

 

私はいまは人の生活をそうやってマネジメントし、介入することを生業にしていますが、それは偶然であり必然だとも思っています。当たり前のことを行うのはそれ自体が既に奇跡に近い。

 

生命を肯定すること

精神分析学、実存主義哲学の方面で有名なV.E.フランクルの自殺に対する見方は結構峻厳です。それはキリスト教的世界観からの自殺を罰する見方ではなく、生命の否定を否定するというものです。

私も実は同じ考えをもっていて、しかしその考えは自分の自殺を否定するためにしか用いません。いまを生きることがつらく、いつか自ら死ぬことをなんとか心の支えにしている人間の命綱を切ってはいけないからです。

 

ただでも、彼女にしろ、すべての自殺した人にも、すべての自殺しようとしてできない人にしろ、死ぬことについて考えたことのない人にしろ、病気やほかの理由で今にも死にそうな人にしろ、『死』というその瞬間までの生命を(そしてその物語を)自分は言祝ぎたいなあと思うのです。それは倫理的な観点からではなく、個体が生命を伴い生きているというその営為がそれだけで既にうつくしいからです。

 

自分は二階堂女史ほど、物語を好みません。耽美に傾倒することもなく、むしろ物語は日々の生活や労働の片隅に潜んでいます。それを読み取るのが密やかな日々の楽しみです。

 

終わった物語を惜しむのは性に合いません。終わったにしろ終わらなかったにしろ、現在進行形にしろ過去形にしろ、生命は生命なのです。終わりが自殺にしろそうでないにしろ言祝ぎたい。そして自分自身は、いつか死ぬその瞬間まで生きていたいなあと思う。

 

この本、とてもよかったです。