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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

暴力の人類史:内省・自律・希求

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

 

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

読みました・・・なんかノリで読み切ってしまって大変疲れました。

ぶっちゃけ今苦しんでいる問題を下巻でかなり抉られまして、自分としては予想外の打撃で今SAN値がピンチです。

 

本の概説

前半を読んだのが半年前なのでちょっと記憶が薄れてしまったりしているのですが、大まかなところとしてはマシュー・ホワイトの『殺戮の世界史』をより統計的に多方向から(そして分析的に)詳らかにしていく感じです。前者については読みやすくはありますし、世界史概観的によいので楽しいのですが、暴力の人類史は結構本としては読みづらいです。話があちこちに飛びますしいろんな概念を必要とします。

 

ダメージの内容

下巻で自分はなぜこんなにダメージをくらってしまったのか?と、ちょっと自分でもびっくりしました。突然、統計的・世界史的な観点から心理学的(特に実存的)観点に飛び火したからでしょうか。

殺人は数です。テロにしろ、戦争にしろ内紛にしろ、毎日目の中に飛び込んでくるニュースは数と、隔たりのある距離を伴ってしか報道されません。それでも自分は昔結構、傷つきました。なにに? どこかで傷ついている「誰か」そのものの存在に、です。

 

本書下巻では「共感」について触れられている章があります。

中盤は飛ばしますが、途中に「共感はすべての問題を解決しない」とあって(まあその文脈は諸々あるのですが)膝を打つと同時に、あの絶え間なく降ってくる「共感の連鎖」みたいな苦しみを思い出しました。

共感(の前段階のミス、同一性の過剰と言い換えてもよいのですが)することは問題解決の手法としてあくまで能動的に選択するものであって、無意識に起こると面倒以外の何物でもないのです。共感性の向上が一時的な暴力の(総数の)減数に寄与したとしても、それはゼロではなく、むしろ『暴力の矛先の選別』にしかなりえないのだと思うのです。つまり『こいつなら殴ってもいい』という。実際に拳が振るわれるとは限りません。社会的な迫害かもしれないし、迫害に至らないまでも疎外かもしれません。あるいは問題の軽視、無視、軽侮かもしれません。

 

自分はどうしても共感(あるいは接続)過剰な職場にいますから、結構意図しない感情の伝播に日々疲れています。空気を読みすぎたり、読まれすぎたり、いっそ読まなくてもいい文脈を読んでしまったり読まれてしまったり。それは対象との間でなくとも、同業者間でも行われます。自分はときどき、空間的に分断されたい気持ちに襲われます。まあそんなことかなり前からなのですが。

 

それはいいとして

で結局暴力の出どころはどこなのよみたいな話にも言及していくのですが、それそのものの話題じゃなくて自分は『自制』のくだりでぶん殴られてしまったのです。

自制すること、自律・節制をよしとしてきましたがその実この1年ほど自分の身に降りかかってきたのはその2項によってもたらされる心身の安寧からは程遠くてですね、つらくてつらくて本ばかり読んでいたわけです。そしたら読んでる本に殴られた。

自制というものは抑圧とは違うんですよね、当たり前のことながら。

自分は抑圧することは上手にやりますが自制(セルフコントロール)に関しては本当に上手じゃない。だから時々爆発するし、以前においては病気になったりすったもんだしたので、抑圧は極力避けようとしてきたのですが。

これは個人に関する話のことで、世界的にみたときの暴力の減数を自制心の向上(個人レベルではそうで、社会的には公正とか道徳の向上ですが)とするならば、自分はまったく社会に寄与してないじゃないかとなんとなく曲解してしまいまして自分のメンタルが突然ダメージをくらったのです。

共感過剰な人間が社会における暴力の問題を必ずしも解決するわけではないということに同意しておいて、自制のきかない同一性過剰(過共感とでも呼べばいいですかね)を振りかざしてしまうとやはり自分自身も暴力装置たりえてしまうのではないかという不安がぬぐえないわけです。

それは正義の押し付けであったり他者に自己の抑圧を強制することであったり。今も自分が恐れていることなのですが(もっともそんなに力を持っていないので特になんの意味ももちませんけど)

 

そんなわけでちょっとした自分の長年の根源的な不安に触れてしまいちょっとつらかったというお話。

 

平和(安寧)への希求について

本書中ではベンサムとかミルとか功利主義に深く触れていますが、それはあくまで『暴力の調停』を目的としたときのことであると思います。つまり社会制度とかにおいて優れているとかそういう話でないと前書きしておいて。

自分は結構気に入ったのですが、暴力が行使される場合とそうでない場合において「そうでない場合のほうが長期的に考えると価値(利益)がある」という見方がとても好きです。正しいとかいつもそうされるべきかどうかはまた別にして(できたらそうあって欲しいですが)、短期的な利益よりもできたら長期的な利益を、たとえば公益性を希求するほうにシフトしていきたいのです。そして、長期的な価値の観点を外さずに、短期的な利益のなさゆえに誰かが自分自身を傷つけることがなければいいなと思ったりもします。まあ最後のひとつについては本書の内容からは大きく逸れるので本当にただ読みながらぼんやり思っただけなんですけどね。

 

自分の存在の存続に関する大きな指針は『銃・病原菌・鉄』『利己的な遺伝子』に代表されるのですが、『暴力の人類史』もよかったです、死にたい人におすすめです(どんな宣伝なんだ)。