毒素感傷文

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構造をほどいていく-緩和ケアについてのあれこれ

良い本でした。

最早なんのきっかけで見つけて、読もうと思ったのかわかりませんが。

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか

 

結構考えていることは根源的なことなのでまとまりなくなることをお許しください。

 

批判的とはいいませんが、身につまされることが多すぎて、本当に毎日何やってんだろうと読んでいて地獄のように苦しい本でした。

あまり臨床のことを多くは書けませんが、老いも若きもいつかは死にます。死に方を選べないなあ、死ぬまでの生を選べないなあ、選ぶにしても選ぶための助言を得たりするのがとても難しいなあ・・・と、いつも思っていました。多分学生のころから。

 

この本は米国での緩和ケア・ないしナーシングホーム(介護・看護つき高齢者施設のようなものですね)のシステムの構築とその全体像の解釈・文脈と考察をケースごとに描いています。

高齢者医療というものが確かにあまり見えてこないのです。少なくとも私がいまいる場所では。そもそも健康保険というシステムがそうできているから(=生産年齢人口のためのものだから)というのもあるのですが、生産年齢にあっても労働に従事できないほど脆弱(フレイル)の状況にあるひとたちを、私は毎日相手にしているのです。

彼らの何割かは治療によってなんとか健康を維持し、何割かは致命的なほどに生活を侵され、そして何割かはそのまま亡くなってしまいます。治療の甲斐なく、というのは今ここでは不適切な言葉のようにも思えます。

 

「今ここ」での、姑息的な治療とケアプランの再考(姑息という言葉はもともと否定的な意味合いは含んでいないので、まさしく本来の意味で)という概念が、自分にはまだきれいにインストールされていないなと思うのです。生活の場所の再考、生活するために必要な知識と技術の再獲得、人生の編みなおし。落ちていく人生を受け入れながら、それをまっとうするだけのエネルギーを全員が持ちうるように計らうこと。

まったくできないんです。2年働いてみましたが、まったく身につかないのです。

私自身は積極的治療や、完治というものをまったく念頭におかずして臨床にいるのですが、それでも(むしろそれだからこそ)毎日苦しいのです。本当に苦しいです。「今ここ」が、明日も同じ状況で続くのか、それとももっと悪くなっていくのか知りたがっている人たちに対してできることは本当にわずかです。それを毎日受け入れざるを得ず、毎日打ちひしがれているのです。そういう事実を思い出すような本でした。

 

だからどうしろとか、これは間違っているとか、そういうことはいいたくありません。

ただ今の文脈において欠けている要素はぼんやり見えているのです。

自己効力感を奪うシステムではあるな、とよく思いますし、何より生産性に欠けるシステムだと思います。ただ、よく検討された緩和ケアはある種の積極的治療よりよほど時間も人間の手もかけなければならないもので、コストとして妥当かどうかはわかりません(そういう根拠ありそうですけど)。

けどもう人間は死ぬ前提で生きなければなりませんし、それを支えるに「誰か」を恃むこともできませんし、結局自分たちの背中に重くのしかかってくるであろうことを思うと、今のままが適切だとも決して思えないのですよね。自分が能動的になにかできるかどうかは別にして、このことに関して豊富な知識と、そして判断力と、介入するための手法をもっていなくてはならないといつも思います。かつ、それは積極的治療による弊害に対する対処法の何にも勝り必要なことに思えます。

 

緩和ケアとはたぶん、がんに限らず(そして終末期にもまったく限らず)、「生きることそのもの」に常について回る概念のように思えます。

苦痛のあるところにそれを緩和する手があって欲しいと思いますし、そんなのは一対一の営為なんかではなく、数字にすることによって、既存の構造を変える力になって欲しい。あーまとまりない。

 

普通に読み物としてもいい本です。非医療職の方にも、医療職の方にも、どちらにもお楽しみいただけると思います。そして読みやすいです。