毒素感傷文

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不登校を振り返る

昨日居酒屋で、不登校の次男と大学生の長男を抱えるおっちゃんと飲んでいたので、ふとその時期のことを思い出した。主観的なつらさと客観的なつらさの両方があり、また家族との関係についても大いに悩んだ時期だったから、ちょっと振り返ってみようと思う。

 

 

 

 

そもそも不登校はひとりひとり理由が違う

不登校とひとくちに言っても、それぞれ事情が違う。

全体的な背景として、学校というシステムからの逸脱というポイントは一緒であろうから、そこをおさえておこうと思う。

 

あと、不登校と引きこもりも違う。

不登校は学校に馴染まず通わなければそれだけで不登校だが、プラスして引きこもり、となると引きこもりのベン図の外側には不登校という外円があることがわかる。そして不登校であり引きこもりではない、というカテゴリには活発な不登校児・者(精神的に問題はなさそうだが学校社会に問題があったかも知れないひとたち)が分類されるのだと思う。

 

 

 

引きこもりの原因となったもの

自分の場合は、『不登校であり、引きこもりでもある』場合であった。

けどそれは歪な不登校、歪な引きこもりであったとも思う。

私が不登校になったのは高校2年の冬で、それもある日突然訪れた。それまでにも勿論予兆はあったし、体調もずっと優れなかった。多分精神的にも落ち込んでいたし、いつも憂鬱だった。でも学校には行き続けることができていたし、事実そのまま逃れきることができる人もいるんだろう。私にはできなかったが。

 

引きこもりの要素には、『不安の具体化』ができないことからくる慢性的な憂鬱が背景にあった。

まあ私の場合は引きこもりという現象自体が、心身の不調をきたしたことにより家から長時間出ることができなくなり休んでいないといけなくなった、というだけのことなので、いわゆる部屋の中に閉じこもるようなタイプとはまた違うのだと思う。

 

①将来への不安

②社交不安

このふたつが、当時の自分にとっていちばんのストレスであったように思う。

将来への不安は、進路を定めきれないことやその先の計画が具体的でないこと。大体大学~社会へ出て、という流れが自分の中でチャートになっていなかったことにある。今になればもちろんある程度わかるが、当時は進学校にいたこともあり、大学に行くことはほぼ当然だった。しかし学部は?と考えたとき、自分には興味がない学部というよりも「その先の社会」が見えないゆえにおいそれと次の一歩を踏み込めなかったのだ。それもそのはず、今は大学全入時代で「とりあえず大学(それもそれなりに名の通ったところ)を出ていればその先がなんとかなる」ことの多い世代だからだ。

けど自分の不安は、所謂有名大学に入ったところでその先のビジョンがないことだった。ので、専門職であるデザイン系の専門学校に行きたかったが、それは両親と折り合いが悪かった。高校生の自分は自分自身に対して悩むと共に他者関係に関しても当然悩んでいた。

 

②社交不安

所謂専門用語としての社交不安とはおそらくちょっと外れると思うけど、高校生のとき話し相手があまりいなかった。特に教室というか、部活以外の目的を共有することができなかった。ほかにコミュニティを持っていればまた違ったのかも知れないけど、家か教室か部活動しかない生活を送っていたので(部活にほとんど休みがなかった)、それも原因かも知れない。なお部活はとても楽しかった。のちに病んだけど。

 

家では多少家族に気を遣うこともできるようになったし、愚痴や弱音をいうのが嫌で言わなかった。そうすると段々と病んでしまい、結果、人と関わることにさえ体力気力を要する状態になり、不眠と食思不振と慢性的な注意力の欠如、憂鬱を抱え毎日夜になると自傷行為を繰り返し、不登校と引きこもりと気分障害という状態を招いてしまった。なかなか地獄だった。今ではもう思い出すことも難しいけれど。

 

 

引きこもることのメリットとデメリット

さて、図らずも引きこもることになってしまうと、そうでないときとはやはり違いがあるわけだ。ではどういうことが起こるか考えよう。

引きこもることの最大の利点は、「休める」ことだ。すべての人生の計画を一度中断し、休息することができる。ただしそれはじゅうぶんな休息とは限らない。休む場所の環境によって、ストップする人生の段階によって、持続的な消耗をどの程度に抑えられるかが変わってくる。

 

では持続的な消耗とはなにか。

①休む場所の環境に対するジレンマ

②休んでいる時間の経過に対するジレンマ

③社交・勉学・トレーニングの中断に対する身体的なストレス

ぱっと思いついたのはこれくらい。

①休む場所の環境に対するジレンマ

環境に対するジレンマは、不登校児の場合なら家族に対する気兼ね・気遣いである。やはりどんな状態であっても人間なので、相互作用が存在する。不登校児を抱える家族のストレスというものは計り知れない。ひとりの人間という存在が放つエネルギーも消耗するエネルギーもたいそうなものなので、それを匿う人間のストレスも大きくなる。典拠の文献はここに引っ張ってきてはいないが、体験談なり客観的数値なりいくらでも持ってはこれるだろう。そしてその「環境」に対して、休んでいる自分自身がストレスをこうむるのである。

具体的にいえば、家族が働きに出るのに自分が日中休んでいるため、家事に起き上がるのもつらいほどでも気遣いたくて家事をしたりするなどのこと。もちろん適度なストレスならば、休んでいる間でも必要だと思う。ただ、その匙加減が当事者でも見守っている家族でも難しいので、ストレスをかけすぎたら調子を崩す。調子を崩したことに、本人も家族も落胆しがちになってしまう。大切なことは大きく一喜一憂しないことだ。勿論評価は大切だが、長期的な見通しのためには、たとえば1回外に出たから1週間調子が悪くなったことはそんなに落ち込むほどのことではない。そのように本人も家族も思えることが大切なんだろうとは思う。

②休んでいる時間の経過に対するジレンマ

これは生きている以上逃れえないジレンマである。

休んでいると時間が過ぎる。1週間、2週間休むなら長期休暇でも病休でもあることだが、数か月・数年単位ともなると本人も家族も疲弊していく。休んでいる本人は自分の生きる時間を使って活動を最小限に抑えることで生命活動を維持しているので、他人からしたらもったいない時間であると思う。何かやればと言ってみたり、強引になにか任されたり。けれどそれ自体がストレスとなり結果的に休暇時間を延長せざるを得なくなるケースもあると思われる。

 

③社交・勉学・トレーニングの中断に対する身体的なストレス

体のストレスは結構心にも影響を与える。ゆっくりペース配分しながら、子供であれば通信制の学校なんかでもよいので、自分のペース配分をある程度外注してしまった方が楽だ。もちろんこれは精神的な疾患が背景にあるならばそれを解決してからの話になる。超急性期でたとえば幻覚・妄想があったり希死念慮がある人間に「勉強しろ」とは私もなかなか言えない。

継続できる身体的なトレーニングがあるなら、続けておいたほうがいい。できたら、それが社会との最小限の繋がりとなるようなものが望ましい。

 

 

 

不登校、ないし引きこもりの展望

という経過を経て、「今」の意見。

 

自分の病気が平癒というか寛解しているからいえることなのですが、人と違う道を辿ることにそんなに負い目を感じる必要はありません。ただし、それは人と違う道を辿ることに対する覚悟ができているかどうかが前提にはなります。

特に病のためにその生活を余儀なくされるくらいであれば、病んでしまう前に外れるというのもありです。何故ならやまいのレベルに至ってしまうと、正常な判断力を取り戻すにも時間がかかるからです。

 

不登校であったり引きこもりでなかったとしても、自分が時間経過や選択に対して能動的であるかどうかは人生の満足度に大きく関与するだろうという認識はぼんやりとあります。

そして不登校という社会的デメリットを負ってでも(あるいはそれを負わざるを得なくなっても)、挽回することはじゅうぶんに可能です。というか、じゅうぶんに可能ということを自分が証明し続けなければいかんなあとはたまに思います。

 

飲み屋で不登校の子をもつ親父さんの話を引き出して、不安を和らげるくらいのネタになればそれでじゅうぶん。