毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

気が付けば1年半 -18か月振り返り

ここ半年はロクなことがなかった。大変に忙しかったです。

その忙しさの中にもやっぱりあれこれ考えていたので、その過程について書いておこうと思います。

 

 

自分が新人のときはどうだったのだろうと新人を見て考える

どうだったのでしょう?

今年の新人を見る暇は正直私にはなく(当然私の先輩もそうでした)、いつの間にか成長していっていたという感が強いです。育て方が若干異なるというか、生育環境も実は少し違うので正確な比較というわけにもいかないのが苦しいところでもあります。

 

私が1年目の新人だったときには、業務量を限界まで積まれなかったこともあり、2年目の先輩をつぶさに見る余裕がありました。今の新人がどれくらい2年目を見る余裕があったかはわかりませんが。2年目になってしまうと、むしろ1年目を見る余裕はあまりなかった気がします。

 

 

手と目を養うにはどちらが先か

とはいえ私も新人の部類です。業務量としては1人前の量を負担していますが、その質が下がってしまうのは当然といえば当然です。もちろん甘んじているわけではありません。結果としてのことです。

 

では、その「最低限の1人前」のなり方、というかプロトコルはどうなっていたのでしょう。もちろんすべての要素は相互に影響しあっていますし、ひとつが育ち切るなどということはありえないのですが、これが最低限育たないと次が育たないぞという要素順に並べてみました。

 

1)目が動くこと=観察が的確であること

この観察は、対対象だけではなく対環境、対医療者への観察もすべて含みます。

 職場で最初に始めたことは、”1人受け持ちまたは先輩のシャドーイング”でした。シャドーイングは文字通り後ろをついて回ること。でも、ついて回るにしろ目が必要です。相手の目を追う、思考を追うにはやはり自分の目を養うことが必要だったように思います。おそらく今シャドーイングをしたらまったく違ったものが見えるでしょう。

 そして次に、対象とその環境を観察すること。それが正常範囲なのか異常なのか、という観察ももちろん必要ですし、安全とされるか危険とされるか、も。その判断は後述の 4)頭を動かす に任せるとしましょう。

 

2)手(体)が動くこと=実際に適時性のある介入を行うこと

 私が学生のとき苦手だったのはこれなんですが、手が動くというのはすなわち対象や環境に影響を与えるということです。1)の段階ではまだ行われていないことです。1)で観察しえた情報に対して適宜必要なことを実施すること。

 新人のとき、1人2人受け持ち(もちろん軽症です)ではそれほど問われなかったタイムスケジュールの組み立て能力と予測判断について、4人を超えたあたりから一気に難しくなったのをよく覚えています。これも後のことに必要になってくるのですけれども、複数名のスケジュールを自分の中で組み立てながらどのスケジュールのどの瞬間に自分の体がそこにいなければならないか、という考え方はあまり他の職業ではそこまで厳密ではない気がします。狭い空間の中で分刻みでそれが行われる必要があるというのはなかなか面白い出来事です。この仕事の醍醐味でもありますし悩みどころでもあるとは思います。受け持ち制のケア職全般にいえることかもしれません。

 

3)口が動くこと=専門職者としての見解を述べることができること

 当たり前ですけど自分の観察・行為の内容を説明できること。最初はわりとこれが苦手でした。考えることはできるのですがそれを観察内容に反映したり、まして行為の内容に反映できるかというとまた別です。この口を動かすのを1番にもってきてもよかったのですが、1番に口が動くというのは「GOサインが出るだけ」というスタート地点に過ぎないので3番目にもってきました。

 報告・連絡・相談なんてよくいいますが(そしてあれは上司がすべきものだともいいますが)私のいる場所は上司がよくそれをできる部門だったために自分がいかにそれをできないかというのは結構苦痛でした。自分が職業人として最低限の1人前でさえないときは、その仕事内容を信用されていないのがもちろんありありとこちらにも伝わってくるのでそれもなかなかつらいものがありました。幾分乗り越えたからこそ「今ここ」があるわけですが。

 あと言語表現というのは、つまりバーバルコミュニケーションとはコミュニケーション全体の1割に過ぎないということは意外と知られていないというか、忘れられている気がします。それは私たちの分野においては対対象ではなく対スタッフ、そしてほかの職業職種の方におかれましては社内の人、とでもしておきましょうか。

 そのあたりに詳しい本をひとつおいておきます。

正直シグナル―― 非言語コミュニケーションの科学

正直シグナル―― 非言語コミュニケーションの科学

 

  別にビジネス本でも自己啓発本でもない真面目な認知心理学系の本なのですが、ことコミュニケーションにおいて自分が発しているサインと相手から受け取るサイン、そして自分や相手がそのサインに対して受け取る印象というのはとても重要な位置を占めるなあとよく思います。

 自分自身が普段あまり感情を表に出さないためか、実習のころからこの辺は非常に訓練したような気がします。今も身についたわけではありませんが、スタッフ間は常に同じ空間にいますので結構相手のことがよくわかります。不機嫌なシグナルや怠惰さではなくて、たとえば勤勉さや実直な動きがそうと伝わるようにふるまうのはなかなか楽しかったです。人間はみな社会的な役割を演じているのだなあとよく思います。

 

4)頭が動くこと=最終判断できること

 結論を出すということは結構大変なことです。1~3を繰り返し、あいまいな4を出しそれを反省しながらまた1~3を繰り返すというのがどの職業・業種においてもあるように思われます。結論を出すことは結構難しいです。その結論に自分が責を負うわけですから。もちろん自分ひとりで負えるものかそうでないかの違いもありますが、組織の判断の一部を任されるまでには結構長い時間がかかります。その一部区域を拡大するものが的確な判断を積み重ねた結果であったり地位や経験であったりするのでしょう。

 

 

 

勉強したりない

 1年半、18か月かけて働いてみて思うのは「自分には知らないことがたくさんある」ということです。というか、浅いのです。ではそれがどういう意味をもつのか、そこからどういう結果が導き出され得るか、とか、まったくわからないのです。まったくわからないことがあるということがわかるのです。

 

 勉強を続けていますけれども、1年半働いた者として適切であるとはちっとも思えません。そしてそれが前項の1~4のすべてに影響を与えているであろうことがよくわかります。自信はむしろなくなっていっているといっても過言ではありません。ぺーぺーだったときと違って(今もぺーぺーですが)、求められる知識量というものがありますけれども、果たして妥当であるかを判断する基準があまりないのです。国家試験を受けられるような身分は楽であったなとよく思います。自分の求める自分への際限なさの責め苦を受けなければならない状態であったりするわけです。

 

そんなわけで最初の18か月が過ぎようとしています。いま数えたらまだ17か月でした。嘘つきました。すみませんでした。