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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

夏の名残の薔薇

タイトルは恩田陸の小説から。

 

 

 

今考えていることを、特に取り留めもなくつらつらと。

 

人の死が堪える、という話は以前からよくしている。人は死にに行く時、エネルギーを使う。自分自身のものも、他人のものも使って、死へと向かっていく。死へと邁進するには、自分自身の力だけでは足りないかのように。

 

 

 

もっと勉強しなくちゃなあといつも思っているけど、殊更今日も思った。

知っている用語もある、概念もある、だけど数分先や数時間先、数日先や数週間先の予測には役に立たない。予測というのは難しい。予測ができなければ、介入もできない。介入というのは実に難しい。...

 

明日すぐに役に立たない勉強を、こつこつしなきゃいけないんだ。本当は。100学んでも明日は0.01役に立つかどうかわからないことを、必死こいて学んで、でも余裕綽々でいないといけないのだ。

 

たまに絶望する。いや、毎日絶望する。

頑張っても頑張っても、命が両手から零れ落ちていく感覚に足が竦む。

敗北だとは思わない。失敗だとも思わない。だけどどす黒く胸の中に澱が溜まる感じがあって、苦しくなる。居た堪れなくなる。

 

手を貸すことも、必要なことをすることも、苦ではない。謝礼がなくとも、やるべきことはやる。だけど、やってもやっても'いいこと'が訪れないのは、つらい。

どうせ人間はみんないつか死ぬ。それで構わない。でも、期待もできず絶望にも浸れずに現実を受け止めなければならないことのなんと過酷なことか。

 

死にたい、と言われた時の答えは未だにわからない。

 

 

 

自分でも同一性過剰であるとはっきり自覚できる。これは余計な感傷なんだと。でも考えずにはいられない。

救うなんて驕ったことは考えないし、人生とはままならないものであることもよくわかっている。生きることはとてもつらいことだ。でも、自分以外の他人に苦しんで生きて欲しいと思ったことは一度もない。短くても、病気でも、動けなくても、幸福を感じていて欲しいといつでも願う。

 

生まれることは死ぬことの最大のリスク因子だ。

 

だからもう少し、その必ず訪れる死をもっと穏やかで気持ちのいいものにしたい。夏の夕暮れに訪れる気持ちのいい冷気のように。ああ十分に生きられたし、もう死んでもいいかなと思えるような。

 

全ての行為に白も黒もつけられない。あるのは限りなく広大なグレーゾーンで、それをできるだけ白くしようとしている。真っ白でなくても。

限りなく黒に近いグレーの中に浸って心を濁らせながら、ずっとそういう日を迎えるのを夢見ている。