毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

京都中毒

京都に中てられた。

 

 

 

急性京都中毒

いっとき鳴りを潜めていた京都中毒症状が芽を出した。京都を多量に摂取しすぎたのである。

とかいうどうでもいい話はよして、京都京都京都と京都について考えすぎた或る日常についてゲロみたいに吐き出しておこうと思う。とどめておくと体によくない。

 

京都には実に学生が多い。そして、学生が喜びそうなイベントが多い。街を歩きたくなるのだ。歩いて歩いて、無駄を摂取し無駄を吐き出してその時期体に必要な有益な何かを生み出していくのだ。学生以外には有害だ。まあ全部嘘なんだけど。

 

若いアーティストにとって京都は魅力的な街であると思う。同時に夢を食い荒らす街でもあると思う。ここは若者の生き血を啜る場所だ。

奈良に長年暮らしたけれど、20前後の若者は奈良にはいなかった。正確には、昼間は奈良にいないのだ。大学生でも社会人でも、奈良以外の場所に通学したり通勤してしまう。その間、奈良は静まり返る。若くない人びとが観光客を迎え入れる。勿論若者もいるのだが京都の比ではない。

 

京都はどうだ。若者が朝から晩までいて、勉強したり遊んだり遊びとも勉強ともつかないことをしている。結構変わった土地だと思う。学部だけなら4年、院まで行けば+2年、まあその先は考えないとして、限られた期間土地をしゃぶりつくそうにも京都はしゃぶりつくせないほど豊かな土地だ。文化も季節も豊かで、奈良という鄙びた田舎から京都という拓けた田舎(褒め言葉です)に出てきた私はいつも圧倒される。そうして京都という町の明るさと暗さを知る。

なんとなくずしっとくるのだ。

 

 

 

未来が明るくないやつら

別に京都という街に限った話ではないのだ。奈良にも勿論ある話だ。

しかしたまに後ろめたい気持ちになるのだ、観測している事柄について。

誰もが才覚に溢れる人間ではない。それが絶対評価であったとしても相対評価であったとしてもその事実は変わらない。足切りポイントに引っかかる割合の差でしかない。

 

京都はメインカルチャーとしてもサブカルチャーとしても実に発達した町で、奈良にいた身としては住んでいて本当に楽しい。私のような引きこもりがこれだけ楽しいのだから、外に出る習慣のある人はもっと楽しいと思う。

四季折々の祭りと景色を楽しめて、イベントがいつでもそこかしこで開かれる。そんな中を学生として過ごすのは最高だろうな、とも感じる。

 

ただ時々その先に絶望してしまう。楽しく過ごすだけならだれでもできるのだ。

なんとなく想像してしまうのだ。

所謂大学生という身分になって、その若いあいだの時間と自分のキャパシティを考えながらその次の一手を打つために学生生活を過ごせる人間がどれくらいいるのだろう、と。うーん言いたいことがいまいちうまく言えない。

そもそも私は大学生という身分になったことがないので、大学生を語るには少々情報不足であるのかも知れない。ただ、まるで桜みたいに4年間を散らす人間がそう少なくもないことはちょっとだけ知っている。

進学するのだけど、何かが身につくことはなく、或いは身についたとしてもそれを活かせるような場所にはいけず、故郷へ帰ったり、帰る場所もなくなりあてどなく彷徨ったりする人たちのことを時々思う。それは帰る家のことではなく、納得のいく社会的な帰属のことだ。

 

学生の間に京都にいるべきだった、と思うとともに、きっと自分は街のエネルギーに食い荒らされてしまっただろうな、とも思う。街は甘い汁だけを吸わせてはくれない。

 

ただ町で暮らすだけのことなのにここまで色々考えさせてくるのはきっと京都だからだと思う。他の町であったら、特にそこまで何か考えたりしないだろう。奈良にいるころ、奈良は不便だけどいいところだなあくらいにしか思わなかった。

京都は違う。京都ぎらい、という本がよく書店に並んでいて(私は手に取ったことがないのだけれども)この街への様々な執着を感じざるを得ない。森見登美彦のように。