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毒素感傷文

どうしようもなく感銘を受けてしまう日々のあれこれについて。

夜のピクニック(mixi:20160427)

夜勤明けの昨日、おかずを作っていって河原でご飯を食べておりました。
天気が良くて、夜10風も暖かかった。今日は雨。

 

恩田陸の『夜のピクニック』は、男女のグループがひとつずつ暴露話をするという彼女らしい作風です。修学旅行がさる出来事から中止になり、夜通し歩く行事になった学校での物語。


まあ、それはいいとして、私が思い出す学校にはあまりいい出来事がありません。
いや、楽しかったのですが、もちろん必要不可欠で今の私を育てたきっかけにもなり好きな場所でもあるのですが、それでもいい思い出の数とつらい思い出の数を較べるととんとんになってしまうなあとよく思うのです。
それは、学校でなくてはならないことだったのか?と。

姉2人からはいつも、大学に行けば楽になるし私たちは大学向きの人間だねえなんて話をされてきました。結局私は行けなかったけれど。
悩んだ末に気を病んでしまって、10代後半-20台前半の若い時期を大学で過ごさなかったことが、あとでどう差になるか(いい意味でも悪い意味でも)私は楽しみです。

 

大学の多い地域で過ごしていることと、周囲の人間がほとんどみな大学(学部ないし大学院)の経験者であるため、考えることは色々と多くあります。

まず一般的な条件として、そもそも学部卒していなければ手に入らない就職への切符が挙げられます。さらに自分の周囲を見ていると、所謂一部上場であるとか、より安定した大企業への就職となるとほぼ学部卒では大学そのもののレベルが上位校でないと難しい。
だからごく一部の専門学部を有する大学以外は、ほとんどが就職予備校としての側面を備えざるを得なくなります。

学問とはなにか。
学問をするとはどういうことか。
勿論その片鱗を知るに学部生活というのは悪くないと思います。自学自習するというのも身につくでしょう。何より、各専修の教授から直接、系統的にものを教わることができるというのは他に替え難い魅力であると思います。

ただ自立した生活をはじめるとき、学問というのは専修してかつ生計の途とならない限りはほとんどが『教養』に収斂するのだなあとひしひしと今感じます。

予てより私は学士という称号は現在その『教養』を担保するものだと思ってきました。
高校卒業ないし専門学校卒では、もちろんある人にはあるのかも知れませんが、『最低限の保証』がなされていないのだろうなと。そしてその教養を前提として仕事が割り振られる職場であれば、確かにそのような学歴の足切りもなるほど然るべきものかも知れないと。

もちろん、それを是とするわけでは決してないのですが。

 

自分が、周囲のみなが学生生活を大学で過ごしていた間飢えた目で専門学校で過ごしたことは、意外と悪くなかったのかも知れないと思うようになりました。
それは安易に終生の指針となる学問領域を決められなかったことも含めて。
働きはじめる前も働きはじめた後も、知りたいことがいまだにずっとあって、満足はまったくしたことがありません。

当然こういう考え方でいると生きているのがわりと疲れるんですが、疲れるのもまあ悪くはないかなと思えるようになりました。結構長くかかりました。
「その時期に」大学に行かなかったことの意味について、ようやく決着がつきつつあるような気がします。私の場合はそれでよかったんです。

まあこんなビッグマウスで、先に何もなかったら笑うしかないんですけどね。