毒素感傷文

院生生活とか、読書の感想とかその他とか

感傷を鑑賞する -mixi日記から

まともに日記書いてないな最近。

 

忙しい合間にもぼちぼち人とは会う。
むしろ人と会わないときはずっとひとりで歩いたり写真撮ったりしていたから、やっぱり基本的にいつもひとりなのだと思う。仕事のとき以外はほとんどしゃべらない。
いつも黙って何か考えているけど、最近それがよいことなのかわからなくなってきた。
ある程度人に何か話したり愚痴を言ったりするのも才能のひとつなんだろう。
私にはなかなかもう、できない。勿論前からそうなのだけど、愚痴や弱音を言うことが本当にできない。何か疑問に思うことや不満があっても、真っ先に自分の訂正部分が目に入るので自分のことを棚に上げて何かいうことができないんだ。

それとこれとは独立した事象であるとしてもだ。

 

仕事は楽しい。いや、楽しんでいるのかよくわからないけど、毎日いろんな人と接するわけだし強制的に情報が状況が目に入ってくる。耳にも入ってくる。さすがに16時間とか働いているともうそれも嫌だなと思うわけだけど、身体が疲れるだけだし、それなりに気に入っているんだろう。

 


ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んでいる。面白い。
ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んだときや、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』のときにも思ったけど、こういう本を読むとニュースの見方や社会の斜め読みができるようになる気がする。
うつがしんどくてニュースも見られない時期が続いたから、未だに感情的な疲弊はついて回る。その疲弊を避けるために自分の考え方と異なるシステム(しかし自分がそのシステムについて感情的に納得できることを前提とする)を導入するのは非常に理に適っている気がする。

そういえば、冬頃受けたカウンセリングでの心理検査も結構この理解には役に立った。
結局私は考えることから逃れられないし、自己を中心とした注察妄想のようなものも消えることがない。だからその性質をもってなお精神的に疲弊せずに済む方法で働いたり情報を摂取したりすると、少し今までより感情の浪費を避けることができるようになる。よって情報の摂取効率が向上するし感情のロスも減る。

損得勘定で生きているので感情のロスすらも耐えられない。

 

春が春過ぎた。写真を撮りまくった。
mixiには最近写真をあげることがないけど、flickerinstagram、そしていつものtwitterにはごそごそとupした。暇があったらみてくれい。

 

▼何故かここから丁寧語になっているが気にしない

あと細見美術館春画展をやっていたので観に行きました。ここには書かなかった気がする。
春画なのでまあアレです卑猥なあれこれがあるんですけど私が好きだったのは画像にあげた月岡雪鼎、明治の画家の手によるものです。

これはなんというかほわほわしていてあったかい感じの絵ですが、鳥獣戯画みたいな絵柄で武士がちんこのサイズを競い合っているのとか屁のこきあいをしているのとかもありました。それは時代も結構前で、室町時代とかだった気がする...小学生っぽい性的な事柄への興味津々な感じが全面に出ていて面白かったです。

日本画といえば雪舟展に行って以来ですし、絵に素養もなく美術館などにも(好きだというわりには)そこまで足繁く通うわけでもないのですが、春画というと日本の風俗・世俗文化とかかわりが深いのでとてもよかった。なんというか、美術的・版画技術的に優れているかどうかだけでなく当時の文化や倫理観・世界観に触れるのが楽しかったのです。

結局江戸時代には春画そのものも規制されるわけですが、そののちも豆本になったりパロディが売られたりして(この月岡雪鼎も『女子教養読本』みたいな内容のをえげつない四十八手の本に改竄したりしてました)いたようです。
エロへの興味は時代共通。

で、なんとなく見て回りながら考えていたのですが、性的なことはいつから後ろめたいことになってしまったんですかね。後ろめたい、というより後ろ暗いこと?
勿論、大っぴらに昼間から叫べとは言いませんよ。ただなんでこんなに後ろめたいんだ?と思ってね。夫婦間・恋人間の出来事でもいいですし単純に個人がもつ性欲そのものについてでもいいですが、抑圧すればするほど歪んでいきません?いっそオープンでいいんじゃないですか?
性欲をこんなに抑圧しなければ、支配欲や征服欲・或いは社会への帰属欲求や隷属への忌避のような副産物との結合はそこまで深くならないのではないですか。

と思ったんですが、真相は闇の中。いや閨の中か、まあいいや。

 

春が半分過ぎようとしていて驚いています。もう初夏やん。
仕事?しんどいです。まあまあ死にそう。